第8話 きみのことは知っている

 名前を呼ばれた気がした。

 ごうと風が吹いて、サビついて今にも壊れそうな手すりががたがたと鳴った。わたしはビルの屋上に立って、くもり空の下に広がる街並みを見ていた。雲は部屋にたまったホコリみたいな色をしていて、ゆるく吹いた湿っぽい風の中でせきが出た。街の道路には車も人も何もいなくて、ただしいんと静かだった。くもりのせいか、景色自体灰色っぽく見える。わたしはいつまでも変わらない様子の街から目をそらして、ビルを降りようとくるりと振り返る。足のうらで、かわいたコンクリートのタイルがぱきりとわれる。

 屋上のだだっ広い景色の中で、ひとつだけ空に向かってでっぱった四角形が目についた。上には、タンクのようなものがついている。四角形の一面には、重たそうな金属のドアがはめられていて、そこから降りられるかな、と考えて近寄る。そうしてドアノブに手をかけたところでまた声がした。私は屋上を見回す。

 やっぱり誰もいない。

 あちらこちらのひび割れた床からはたくさんの植物や花が生えていて、ちょっとした公園みたいになっていた。ただ、だれかが整えてきれいにしているわけではなくて、何年も放っておかれたような荒れた場所だった。どれも薄茶色で枯れている。

 ぼうぼうに生えた草たちがゆれる。その中で、がさり、と何かが動く音がした。わたしはぴたりと動きをとめる。

 しばらく待ってみたけれど、それきり音はしなくて、じりじりと時間がすぎていった。やっぱり気のせいだ、と思っていたら、ドアのついた壁の上、タンクの所に毛むくじゃらの生き物がいたのでわたしはひゃあ、と声を出してしまった。あわてて口をふさいだけれど、その生き物はゆっくりと動きはじめた。たてに長いだ円みたいな形をしていて、わたしより少し背が高い。全身には植物の葉っぱがついていて、ところどころ名前も知らない花が咲いている。黄色やオレンジの花はそれだけで見ればきれいだったけれど、葉っぱと花で固められた、よく分からない生き物は怖いものでしかなかった。それは人みたいに2本の足をハシゴにかけて、わたしへとゆっくり向かって降りてくる。

 まずい、逃げなきゃ、とわたしはようやく頭をはたらかせて、ドアノブをしっかりとつかんで回した。見回したかぎり、ここしか出入り口はない。けれど、がちゃがちゃとうるさい音を立てるだけで、開いてはくれない。

 ぎし、ぎしとハシゴを降りる足音が聞こえる。

 おねがい、開いて、とわたしは心の中で何度もとなえる。

 やがて真後ろに気配を感じて、肩ごしに何かの息がかかる。なまあたたかい。心臓がばくばく鳴ってしょうがなくて、ぴりぴりと手がふるえだす。そして、急にドアノブにかけた私の手の上に、手が重ねられた。それは桃色の爪がついた、女の子の手だった。

 ばっと後ろを振り向く。

 顔の左半分が植物におおわれた女の子が目の前にいて、

「たすけて」

 そう言ったのを聞いた。


***


 わたしはがばっと体を起こして、目が覚めた。まだ暗い部屋の中で、カーテンからのびたほそくてよわい光が、私の手の上に線をひいていた。そっと窓の外を見てみると、まだお日さまものぼっていなかった。ほかのベッドの子たちはすやすやと眠っている。まだ起きるには早すぎるかな、と思って、わたしはまっしろな布団を頭までかぶる。

 まださっき見た夢が忘れられなくて、体がばくばくと鳴っている。だいじょうぶ、だいじょうぶと、わたしは言い聞かせてぎゅっと目を閉じた。


 お昼を食べたあと、ひまになったので病院内を散歩することにした。いっしょの部屋の子たちは目をそらしてわたしと話をしてくれないし、年上の人と話す方が好きだ。

 お気に入りの本を片手にぷらぷらとガラス張りのろう下を歩いていると、ふと中庭にいる女の子が目に入った。気になって、鼻が窓ガラスにつかないよう注意してのぞき込む。その女の子は、左腕を包帯で固定して、肩でしばって吊っていた。骨折したんだろうか。特に行くところもなかったので、わたしは中庭に向かうことにした。エレベーターの矢印ボタンを押すと、オレンジガムの色にぺかりと光った。

 中庭の中央、大きな木の下のベンチにその子は座っていた。三つ編みをした赤っぽい茶髪に、木もれ日のまるい光がゆれている。きらきらひかる優しげな光とはちがって、女の子は不機嫌そうな顔でガラスの向こうの受付をじっとにらんでいる。

 その子の斜め前から、そっと近づいてみる。すぐさま女の子はきっとこちらを見て、

「何か用?」

 とがった声でそう言った。なわばりに入られたけものみたいに、鋭い眼をひからせる。勢いに押されそうになったけれど、初めて見た子で好奇心の方が強かった。私は小さな口を開く。

「今日、はじめて来たの?」

「そーよ」

 ふんと鼻を鳴らして、そっぽを向いてしまう。おそいかかってくることはなさそう。

「となり、座ってもいい?」

「別にいーけど」

 となりに座ると、ちらりと目だけでわたしの方を見て、また受付の方に視線をもどす。

 うながしたわけじゃないけど、自然と女の子は話しはじめる。

「体育の時間に、クラスの子とケンカになって。ムキになってやってたら、変な風に手をついて、痛めちゃったの。病院に来てみたらしばらく入院だって。あの子はなんにもケガしてないのよ。向こうからふっかけてきたケンカなのに」

 ひと息でそこまで言うと、はあっとため息をつく。

「バカばっかりで本当にイヤになる」

 ふうんとわたしは答える。

 ぴくりとまゆげを動かして、こちらをじっと見つめて聞いてくる。

「あんた、名前は」

「藤沢花乃」

「あたしは、幡 有紗」

 はきすてるみたいにして言った。

「初めて会ったのにグチを聞いてくれるなんて、あんた変わってるわね」

「そうかな」

「そうよ。ふつー、なんだこいつって、変な顔するもんよ」

「聞いてくれそうだからって、そっちが思ったんなら言ってもいいんじゃないの。べつにわたしは気にしない」

 へえ、と感心したような、けれど、うわべだけの返事をする。


 幡は私と近いところの病室だったので、途中までいっしょに行くことにした。

 中央ロビーからエレベーターで上がって、病室のある3階に着く。ピンポーンと軽い音が鳴って、重たそうな銀色の扉がひらく。出ようとした所で、幡はわたしの左腕をつかんだ。

「どうしたの?」

 振り返ってみると、幡の顔は青かった。何も言わずにぷるぷると首を横に振る。

「ダメ」

「部屋、ここでしょ?降りようよ」

「ダメ、無理」

 扉がひらいた先の廊下には誰もいない。

 力強くつかまれた手を振りほどけなくて、やがて扉は閉まってしまった。

 下の階からの呼び出しに答えて、エレベーターは下に降りていく。

「いったいどうしたの」

「………」

 幡はやっとつかむ力をゆるめてくれた。

 うつむいて、どんな顔をしているのかは見えない。


 しょうがないので、階段を使って上ることにする。ぺたぺたとふたりのスリッパの足音がひびく。2階をすぎた辺りで、幡は話しはじめた。

「何言ってんだって思うかもしれないけど」

 わたしは幡の背中を見ている。

 振り向かないで話はつづく。

「でっかいクマがね、いたの。ろう下に」

 とつぜん出てきた言葉に、わたしはあっけに取られてしまう。

「ほんとよ。エレベーターの扉を出てすぐの所。床から天井までの高さの大きい真っ黒なクマ」

 すかさず幡は言葉をつなげる。

 わたしは、そう、だとか、なんで、だとかどう返したらいいのか分からなかった。返事につまってしまって、不自然な間ができる。

「変なやつって思ったでしょ」

 おどり場を過ぎて、まだ上っている私を見下ろすようにしてこちらを見る。

 きりりとしたまゆげとは逆に、目はなんだかこわがっていた。口のはしっこが少しふるえている。

 病院内の話し声がとおくなる。わたしはじっと見つめる。返事は待たずに、幡はまた上りはじめる。

「わたしもね」

 背中をおされたように話しだす。

「夢をね、見るの。花が体に咲いた人が出てくる夢」

 幡の足がぴたりと止まる。

「変なの」

 そう言い残し、はじかれるみたいに幡はかけ上がって、ろう下を走っていってしまった。

 わたしは取り残されて、しばらくの間ぽつんと立っていた。


 しょんぼりとした様子で病室に戻ると、

「にげろ、しにがみだ!」

 と、同じ病室の子たちがきゃーきゃー言っている。

 わたしはそっちを見もしないで自分のベッドに戻ると、頭まで布団をかぶってぎゅっと目を閉じる。何人かの足音と声が遠ざかる。


 あのおばさんの具合は良くならないままだそうだ。

 仲良くなった人が死ぬのは、もう見たくはなかった。



 それから数日後。

 わたしは、看護師さんたちには入っちゃいけないと言われている、病院の屋上に来ていた。なんでも、柵がさびてぼろぼろになっていて危ないから、という理由で立ち入り禁止になっている。けれどもこうしてたまに来ているのは、誰もいない所にふと行きたくなるからだった。はがされたテープの跡がこびりついたドアを開けると、びゅうと風が吹きこんできた。かたかた壊れたフェンスがゆれる。

 わたしはドアから出てすぐのかべにある、でっぱった部分に座り込む。自販機で買ったヨーグルト味ジュースの紙パックを手に取って、小さな穴にストローをさす。パックの水色より空の色はうすくて、ジュースはほのかにあまくて水っぽい味がした。

 宙にういた足をぷらぷら動かしていると、ふいにガチャンとドアのひらく音がした。びっくりしてふり向くと、そこに幡がいた。

「は、何であんたがいんの」

「そっちこそ」

「話したくないわ」

 幡はあらっぽくドアを閉めると、ずかずか歩いてどかっとわたしのとなりに座った。

「のむ?」

 ちらりとわたしを見て、無言で手を伸ばしてくる。手に取って一口のむと、

「まずっ」

 べえと舌を出してわたしに戻した。

「よくこんなんのめるわね」

「正直わたしもおいしくないと思った」

「じゃあすすめんな」

「すすめてのんでくれた子いなかったし」

 しょんぼりした感じが出ていたのか、幡はむっとした顔をして、

「じゃあちょっとおいしかった」

「いまさら言われても」

「うっさい素直に受けとれっ」

 気に入らなかったのか、わたしとは逆の方向を向いてしまう。

「ね、もしかして、部屋の子とけんかした?」

 ばっと振り向いて、なんで、という顔をする。口がぱくぱくと金魚みたいに動いてる。分かりやすい反応に、わたしはぷっと笑い出してしまう。

「笑うなよっ」

「だって、話し方がらんぼうなんだもの。小さい子だったら泣いちゃうよ」

「昔っからこうなの。周りの子がやわすぎるのよ」

「そっちが強すぎるのよ」

「やっぱあんたそうとう変」

「お互いさま」

 はあー、とため息をついて、幡は片手で赤毛の髪をいじる。飛行機がゆっくりとわたしたちの上を飛んでいき、白い雲が線をひく。

「そういえば、あんたは何でここに来てんの?」

「わたし、同じ部屋の子たちに嫌われてて。つまんないから、たまにここに来てるの。ほかにだれも来なくて気が楽なの」

「ふーん」

「…わたしのうわさ、聞いてない?」

 流れにまかせて聞いてみた。

「聞いたかも」

 わたしはごくりとつばを飲みこむ。

「バカみたいって思った。あんたと話したら死ぬって?それくらいであたしが死ぬわけないじゃん」

 幡はほおづえついて、街並みを見ながらそう言った。


***


 天井の照明に虫が止まっている。

 視界の上の方に翔太がひょっこり顔を出して、

「ねーちゃん、だらけすぎ」

 と私に言う。

「うっさい」

 両腕を伸ばして、ひとつ伸びをする。そのまま下ろした手をまぶたにやって、人差し指で擦る。

「ずっと寝てたの?」

「まーね」

 考え事をしていたら、いつの間にか寝ていたらしい。

 昨日のことが心のどこかに引っかかっていて、気になってしょうがなかった。

 女の子のこと、水瀬と上町のこと。

 あの後バスを降りるまで、水瀬からいくつか幼馴染の話を聞いた。「ミサキ」という名前で、水瀬と同い年だったそうだ。ミサキと水瀬は仲が良く、途中上町と知り合ってよく一緒に遊んだこと、そして事故に遭い亡くなったこと、それから上町とは疎遠になったことを話してくれた。

「事故の後、上町君が引っ越して、僕も親の都合で引っ越したんです。この辺りの大学に通っていることは、母伝いには聞いていました。けれど倉阪先輩と知り合いだったとは」

「私はお店で知り合ってね、それからちょいちょい会うんだ」

「そうなんですね」

 水瀬くんはにこりと笑う。笑顔に纏う雰囲気は、大学時代の時より幾分か柔らかくなった気がする。

 バスはゆっくりと、ある停留所に着く。じゃあまた、と手を振る水瀬くんを見送って、ドアは閉まって走り出す。

 信号を待つ水瀬くんの後ろ姿を眺めながら、上町の夢のことは知っているのだろうかと、ぼんやりと思った。


 私は手を宙に伸ばして、勢いをつけて起き上がる。

「よしっ」

「お、なんかやる気になったの?」

「そーよ」

 私は、翔太に笑いかけた。


 ドアを開けると、高梨さんが顔を上げた。にっこりと笑顔になる。

「今日も来てくれたんだ。嬉しいなあ」

「何読んでるんですか?」


 まずは、あの女の子の元を訪ねてみよう。

 そう勢いよく出てきたはいいものの、そういえば名前も部屋番号も分からないことに、病院に着いた所で気づいたのだ。我ながらばかだなあと思う。受付に直に聞いていいものか少しためらい、とりあえず高梨さんの様子を見てみることにしたのだ。


 私が聞くと、高梨さんは目を輝かせて雑誌の表紙を見せてくれた。超常現象やUMAの特集雑誌らしい。

 世の中にはそんなものがあるのか、と私はへえと相づちを打つ。

「啓が買ってきてくれてね」

「ケイ?」

「弟。今大学生なんだけど、身の回りの荷物とか持ってきてくれて。助かってるよ」

 水瀬くんと同じ名前かあ、と頭の隅で思う。

「そうなんですね」

「あ、そうだ。この間病院内で面白い噂聞いてさ」

「噂?」

「何でも、死神がいるとか」

「何ですかそれ」

 病院で死神とは、物騒な話だなと思う。ふふんと得意げな顔をして、高梨さんは話し出す。

「入院してる子なんだけれど、その子と話すと呪われるとかなんとか。仲良くなった人達が次々に具合が悪くなったり、亡くなったりしているらしい」

「どんな子なんですか?」

「女の子で、小学2〜3年生くらいかな。黒髪で、2つ結びにしてるらしい。あ、そうそう、その子のいる病室も昨日聞いて」

 私は饒舌な高梨さんの肩をしっかりと掴んで聞く。

「その子の事、教えてくれますか」

 へ、と高梨さんは間抜けな声を出した。


 私は、メモをした番号の付いた病室へと向かう。小児病棟の透明なドアをくぐり、目的の場所にたどり着く。

 高梨さんの情報によると、「藤沢花乃」という名前らしい。名前プレートを確認し、開け放しになっていた部屋へと入る。

 しかし訪れたはいいものの、その子はいなかった。

 6人くらいの相部屋で、それぞれのベッド周りにはおもちゃなどが置いてある。花乃ちゃんのベッドの所を見てみると、他の子よりも整えられていて、児童書が何冊か積まれ、花の写真やマスキングテープを入れたクリアケースが棚の上に置かれていた。高梨さんから容姿の特徴を詳しく聞いたところ、この間会った女の子と似ていたため気になって来てみたのだが…。

 何処へ行ったのだろうと、辺りを見回す。そうして向かい側のベッドにいた子と目が合う。

「ね、かのちゃんってどこに行ったか知ってるかな?」

「しらない」

 と首をぷるぷる横に振り、そっぽを向いてしまった。

 仕方なく、出直そうと思い部屋を出る。帰ろうと思いエレベーターへ向かおうとした所で、廊下の向こうから看護師さんの叱る声が聞こえてきた。何事かと思い見ると、看護師さんに連れられて歩いて来るーーー花乃ちゃんがいた。

「また勝手なことして…」

 花乃ちゃんは側を歩く看護師さんの言うことには聞く耳持たずといった感じで、ぷいと横を向いている。

「こんにちは」

 私が挨拶をすると、看護師さんは見舞いの方かと思ったのか、ぺこりとお辞儀をした。花乃ちゃんは立ち止まって、少し驚いたように私を見る。


 看護師さんが行った後、花乃ちゃんはベッドの上でそわそわとしていた。

「あの、聞きたいことがあるんだけども」

「あのね」

 私が話を切り出すと同時に、花乃ちゃんも話し出そうとして被る。いいよ、と先を促す。それでもしばらく迷ったようで、視線を彷徨わせる。小さな指先に掴まれて、白いシーツは皺を作る。ついに決心したように、おそるおそる私の顔を見て言う。

「おねえさんに、頼みたい事があるの。わたしだけじゃ、だめだったの」

「頼みごと?」

「友だち…と、呼んでいいのか、まだ分かんないけど。助けたいの」

 まつ毛に縁取られた、大きな目を瞬かせる。


 花乃ちゃんの話によると、同じ病院にいる有紗ちゃんという女の子は、幻が見えるらしい。

 幻は、不意に現れる。

 街中や、家や、病院や。時と場所は選ばない。おとぎ話に出てくるような人や動物が多いそうで、最近はクマが多い。天井まで届くような大きさで、真っ黒な体毛、ギラギラと光る眼を持っている。また、それは消えるのも突然だという。

 何故見えるのかは有紗ちゃんも分からない。


 私はこの話を聞きながら、時折遭遇するあの名前の分からない人の事を思い出していた。同じ現象なのかは知らない。

 クマと人では随分違うが、白昼堂々と現れては、唐突に消える所が似ているとは思った。

 気まぐれに現れては見せる微笑が、頭を掠めた。


 花乃ちゃん曰く、今日、有紗ちゃんが血相を変えて早歩きしていたのを見たらしい。顔は青ざめていて、前にエレベーターで幻のクマを見た顔色と同じだったという。なんだか胸騒ぎがして、病院中を探し回っているところで立ち入り禁止の場所に入ってしまい、看護師さんに連れ戻されたらしい。

 まだ有紗ちゃんは、見つけられていない。


「探してほしい」

 私は花乃ちゃんの頼み事を、任せて、と受け入れた。

 病院内の心当たりがあるところは、大抵探したという。病室、中庭、休憩室、ロビー…

「あと、屋上が見れてないの。立ち入り禁止だけど…もしかしたら」

「じゃあ、そこを見てみると良い訳ね」

「たぶん」

「わかった。じゃあ、行ってみるわ」

 私が出ようとしたところで、ぐいと袖が引っ張られた。

「わたしも行く」

「え、また看護師さんに見つかったら…」

「気になるから。お願い」

 深い紫色の瞳に、小さな私の姿が映る。振りほどこうとする私の動きを見据えたように、しっかりと袖を掴んで離さない。

 しばらくお互い見つめあったままにしていたが、やがて私は折れる。

「わかったわよ」

 それでぱっと顔を輝かせるものだから、やれやれと私は軽くため息をつく。


 立て付けの悪いドアを開け放つと、乱暴な風が吹き込んできた。耳元で風の音が鳴る。

 視界を遮る前髪をどかして、辺りを見回す。物干し竿の名残の置き石、ベンチがあった足場の跡。フェンスは破れて錆び付いている。細く黒い線が目の前に現れては手でかき上げる。有紗ちゃんの姿はない。

 何処にいるのかと視線を彷徨わせる私の目の前で、花乃ちゃんは一点を見た後、立ち止まってしまった。見上げてはっと息を呑む様子につられて、私も上を見る。


 有紗ちゃんは給水塔の上にいた。そして私は、信じがたいものを見た。

 有紗ちゃんのすぐ脇、黒く影のようなものが居た。話で聞いたようなクマにも、人の形にも見えた。

「なによ、あれ」

 花乃ちゃんは私を振り返る。

「黒い、何かが給水塔の上に…え、見えるわよね?」

 花乃ちゃんは戸惑って、力なく首を左右に振る。私は、え、と行き場のない声を出す。

 有紗ちゃんは驚いた様子で、花乃ちゃんと私に目を向ける。

「来んなよ!」

 給水塔の上から声が降る。力強い調子で言うも、ぼろぼろ涙が溢れて、体は震えている。

「今、目の前に居るの、あれが。でも、これはまぼろしだってあたしも分かってるの。分かってるはずなのに…」

 じりじりと、塔の端に後ずさる。あと一歩動いたら、踏み外して落ちてしまう。黒い何かはゆっくりと有紗ちゃんに近づく。

 得体の知れない何かに、私は背筋が凍ってしまう。

 その間に花乃ちゃんは、すばやく給水塔への梯子を上りはじめる。金属の、鈍く軋む音が鳴る。

「だから、来んなって言ってんでしょ!?これはあたしの問題なの!」

「ほっとけないから来てるのよ!」

「あんたほんとにお節介ね!」

 ぎゃーぎゃー言いながらも花乃ちゃんは近づいていく。

 手にこびり付く錆は気にもせず、華奢な腕を懸命に伸ばし、掴んで上がっていく。パジャマの裾がひらめいて、花乃ちゃんのおさげにした髪がゆるく解けかかっている。あと数段でたどり着く。

 黒い何かは気配を感じ取ったのか、手のようなものを伸ばして、有紗ちゃんに触れようとしている。

 彼女はばっと片腕を上げて防ぐような仕草をする。

 と、その途端、短い悲鳴が上がった。


 ぐらり、バランスを崩しーー有紗ちゃんの上半身が空中に投げ出された。


「有紗!!」


 花乃ちゃんの叫ぶような声が響いた。

 危ない、と思い私は咄嗟に手を伸ばす。


 高梨さんが崖から落ちた時の場面が蘇る。

 ゆっくりと髪の毛、頭、腕、胴体、脚、つま先が順に私に向かって落ちてくる。

 有紗ちゃんの赤い髪が日に当たってきらりと光り、眩しく白い筋になって目に焼き付く。淡いピンク色のカーディガンが風を受けてはためき、ふわりと宙に浮く。

 私は足をぐんと踏みしめて、両腕を目一杯前に広げる。そうして、仰向けに落ちてきた有紗ちゃんを、しっかりと受けとめる。腕、足にぐっと力がかかって、予想以上の勢いに押され、留めることが出来ずに尻もちをついてしまう。

 カエルみたいな鈍い声が喉をついて出てしまい、痛みにじわりと涙が滲む。尻や腕が痺れて痛かったが、どうにか受け止めきれたようだった。

 胸元で縮こまるようにしていた有紗ちゃんが、ううん、と呻き声を上げる。

「大丈夫?」

「はい…」

 掠れた声で答えた。

「あいつは」

 ばっと体を起こして給水塔の上を見る。数秒後、ほっとした顔つきになる。長くため息をつく。

「よかった…消えてる」

 私もつられて見てみる。確かに、給水塔の上にあった黒い影は居なくなっていて、安心した様子の花乃ちゃんがこちらを見ていた。

「バカばっかり」

 有紗ちゃんは吐き捨てるようにそう言った。そう言う彼女の手は微かに震えていて、私はぎゅっと握りしめた。


「そういえば、この人は誰なの?」

 有紗ちゃんは落ち着いたようで、花乃ちゃんと私と一緒に歩いて病室へと歩いていた。花乃ちゃんはうーんと迷って、

「この間知り合った人」と答えた。

 へえ、と頷く。すると有紗ちゃんは向き直って、

「ありがとうございます。おかげで助かりました」

 とぺこりと頭を下げた。

「どういたしまして」

 私もお辞儀を返す。

「私は、倉阪葵。助けられてよかった」

「幡有紗といいます。藤……花乃とは、一応友だちです」

 その言葉を聞いて、花乃ちゃんはぱっと私たちを見る。有紗ちゃんは照れたように、

「こっち見んなよ」

 と毒づいたが、花乃ちゃんは朗らかに笑った。


 有紗ちゃんを病室へと送り、花乃ちゃんの病室に戻ると、見知らぬ白髪のおじいさんが居た。

 茶色のスーツに中折れ帽子、杖をついてすらりとした姿勢で立っていて、ふわふわとした白髭を顎の下にたっぷりと付けている。

 優しい目をした人だった。

「花乃」

「おじいちゃん!」

 花乃ちゃんはぱたぱたと走っていき、おじいさんの腰あたりに飛びついて、ぎゅっとくっついた。

 皺だらけの手が愛おしそうに花乃ちゃんの頭を撫でる。私は軽くお辞儀をする。

「孫がお世話になっております」

 帽子を取り、丁寧なお辞儀を返される。

「いえ、こちらこそ…初めまして」

「初めまして、ではないですね」

「え?」

「実は、貴女を探していたのです。倉阪葵さん」

 突然自分の名前を言われて、私はたじろぐ。


「私はラバージと申します。夢について調べておりまして……あなた方の話をお伺いしたい」


 申し出に戸惑う私をよそに、ラバージさんはにこりと笑った。

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