第7話 花は落ちず
聞き慣れない地名のアナウンスが流れる。久しぶりに感じる車の振動の中、座席の右手前にあるボタンを押すと、車内のランプが一斉に点灯した。緩急をつけながらスピードは変化する。住宅街から少し離れた、通りに面する一角に目的地はあった。長らく定期券の機能しか果たしていなかったカードをかざして、運転手にお礼を言いバスを降りる。
中小企業の事務所や、昔ながらの商店が入ったビルがいくつか並ぶ通りだった。白い四角形のコンクリートには、無数の窓が等間隔に並んでいる。年季の入った建物のようで、所々壁の汚れが目立つ。僕はお見舞い用の菓子が入った紙袋を提げ、その建物を目指して木漏れ日の中を歩き出す。
***
音もなく、するりとドアが開く。消毒液の清潔な匂いが出迎えて、白っぽい室内が目に入る。どこかひんやりとした心地の無機質な白色だ。6人ほどの相部屋、思い思いに時間を過ごしている昼下がりの午後。開け放した窓からは時折少し強めの風が吹き込んで、部屋にあるいくつもの薄黄色のカーテンをはためかせた。
窓側のベッドの上、紺色のくせっ毛頭で細身の男性を見つける。少しだけ猫背の後ろ姿は見慣れたものだった。男性は私の気配に気付いたのか、不意に振り返る。そして、笑う。
「倉ちゃん、こっちこっち」
嬉しそうに手招きしてそう言う。
ここは一般病棟の3階。窓の外には清々しいくらいの青い空が広がる。ぷかりと浮かぶ綿のような雲。中庭の樹、鮮やかな葉の色が翻って黄緑色の波がうねる。
高梨さんは、夢と同じ位置でそこに居た。
私はそれに気付き、一瞬びくりと身体を震わせる。けれど数秒後には何でもないように装って、一歩踏み出す。大丈夫、きっと気のせい、と言い聞かせて。
「怪我の具合はどうですか?」
「全治2週間だって。じっとしてなさいって看護師さんに言われたけど、退屈だよねぇ」
高梨さんは口をへの字にして、包帯で固定された脚をぺちぺちと叩く。事故の後、高梨さんは崖下の木々に引っかかっているのが救助隊により発見された。左脚は骨折してしまったが、ほかに目立った外傷はなく、切り傷や擦り傷はあったが軽度なものだったという。あの高さから落ちて助かった事に、私は、良かったと安堵した。そして、歯がゆさを感じていた。ベッドの脇にある小ぶりな丸椅子に腰掛けると、金属の軋む音が鳴った。私は膝の上で、ぎゅっと手を握りしめて言う。高梨さんの目を見ようとしたが、視線は首元あたりで上げるのを止めてしまった。
「…すみません、私があの時、手を掴んでいれば」
「そんな、倉ちゃんが気にすることじゃないよ!崖から落ちたのは俺の不注意だし」
気落ちした様子の私を気遣ってか、ぶんぶん手を振って高梨さんはそう言った。私の顔は情けない事になっていたに違いない。鏡で見た訳ではなかったが、高梨さんの様子を見るにそうだったのだろう。涙こそ出はしなかったけれど、じりじりと体の奥からせり上がってくるような、悔しさとも悲しさとも取れない感情があって、私は唇を噛み締めて耐えていた。予め分かっていた事柄を変えられなかった無力さに、やるせなさを感じる。心配させないように、私はその時作れる精一杯の笑顔で、ありがとうございます、と返した。
廊下に出ると、上町が向かいの壁の手すりに寄りかかっていた。どこでもなく見ていた視線を私に合わせ、部屋から出てきたのを確認すると、組んでいた腕を解く。そうして何も言わず、立ち上がって歩き始める。私は何か言いかけて、言葉の形にすら成れない空気を飲み込む。
上町は*から事情を聞いたらしい。
らしい、というのは、向こうから珍しく電話を寄越してきたからだった。私から上町に伝えた覚えはない。消去法で考えてすぐに見当はついた。高梨さんの事故後、慌てていた私はろくに連絡が出来なかった。やっとの思いで家に帰り、しばらく自分の部屋でぼんやりとしていた夜、何度目かの着信で私は出た。
「あんたの上司。どこに入院している?」
静かな声で聞かれたのは、必要最低限の問いだった。
いつの日か私がやったみたいに、上町は病院の前で私を待っていて、律儀にもお見舞いの品を持ってきたみたいだった。カラフルな色の服にシンプルな百貨店の白の紙袋が、なんだかちぐはぐな印象を受けた。私は上町に向かって手を振る。少し面倒そうな顔を向けたが、肩くらいの高さまでは片手を上げて答えてくれた。
けれど、それ以降今日は目を合わせてはくれない。
自分から聞いてやって来たくせに、上町は今日会ってから今まで殆ど話していない。お見舞いの品を私に手渡した時も「これ」としか言わなかった。
スニーカーと、私のヒールの低いパンプスの足音が続く。何度か看護師さん、医者に会い、軽く会釈をする。足元の床は微かな人影と、室内の蛍光灯の光を映す。そして時々、窓から届くひし形に切り取られた日の光。連なっては切れて、また続く。
私は上町の背中をそっと見てみる。どんな表情をしているかは分からない。ゆらゆらと一定のリズムで揺れながら進む背中。端々のなんともないような、けれど答えてはくれる姿勢に、私はふわりとした心地で考えを探る。
彼なりに気を遣っているのだろうか。
ぼんやりと考え事をしていたからか、不意に横道から出てきた人影を避けきれなくて、ぶつかってしまった。
その拍子に、相手の持っていた草花が足元に落ちる。
「わ、ごめん!…怪我はない?」
私はぶつかってしまった相手…女の子に優しく聞いてみる。
うずくまっていた女の子は、黒目がちの大きな瞳を私に向ける。長いまつ毛を瞬かせて、ばちりと目が合う。年は翔太と同じくらいだろうか。髪は紫がかった黒色で、耳の脇あたりで白いリボンを使い、おさげにしている。まとめられてはいるが腰くらいの長さまである髪をふるりと振って、だいじょうぶです、と小さな口を微かに動かして女の子は答える。それから急いで足元に散らばった花を拾い集め始めた。幾分か体より大きいパジャマの袖口からは小さな手が出ていて、せっせと落ちた花を拾っていく。私も花をいくつか拾い上げて渡す。タンポポやナズナ、オオイヌノフグリなど。小さい頃によく見た草花たちだ。小ぶりの花達で手をいっぱいにした女の子は、すみませんでした、とぺこりとお辞儀をすると、また忙しく走り出して廊下の向こうに消えてしまった。
スリッパを履いているのに、器用に走るなあと思った。嵐のように過ぎてしまった女の子を見届けた後、ふと辺りを見回してみると、先に歩いていたはずの上町の姿はなくなっていた。
あれ、何処に行ったんだ?
私は困って、一歩踏み出す。すると。
何か黄色いものが視界の端に入った。視線を落とすと、そこにあったのは小さなタンポポの花だった。
さっきの女の子の落とし物だろうか。
私は花を拾い上げる。足は自然と女の子の消えた先に向かっていた。
広い病院は、まるで迷路のようだった。
ここは2つの棟が繋がった形の大きな病院で、部屋の数も相当あった。私は今まで大きな病気にかかったことがないし、家族や友達も入院する程の事故に遭ったこともなかったので、身近ながらも少し慣れない場所だった。女の子が消えた先にずんずん進んでいくも、どこも同じような部屋が続く。それぞれの部屋の中では、見舞いの人もいれば、看護師さんと話している人もいる。穏やかな時間が流れていて、ここでは忙しいことは何もないように感じた。一度突き当たりに来てしまい、引き返して別の道に。いくつもの、番号の振られた部屋の前を通る。そろそろフロア内を一周するかという頃、もう諦めようかと思った矢先。
さらりと揺れる黒髪の人影を見つけ、立ち止まる。
先程会った女の子が、こちらに向かって走って来ている。私の姿に気付くと、あ、と空気のような声が出る。
「これ、あなたの落としものかな」
廊下で拾ったタンポポの花を差し出す。
女の子は慌てて、着ているパジャマ、羽織っている薄手のカーディガンのポケットを探る。どうやらたった今気づいたようで、おそるおそるといった様子で顔を上げる。
「ありがとうございます」
俯きがちながらも、柔らかな声で答えて、花を両手で受け取った。私が小学生の時は、こんな落ち着いた声色は出せなかったなあと思った。
「今慌ててたけど、何か探してた?」
私は女の子の背に合わせて、姿勢をやや屈ませる。女の子はううん、と少し迷ってから、
「さっき持ってた花、花びんに入れたくて。でも、普通のだと大きすぎてダメなの。ちょうどいい大きさのがないかなと探していたの」
「そうだなあ…あ、ペットボトルはどうかな?」
私は肩に掛けていた鞄から、飲みきってしまい空になった、背の低いペットボトルを取り出す。
女の子は首を傾げたが、何か納得がいったようで、ぱっとペットボトルを受け取ると、試してみると呟いて走り出した。私は後をついていく。
何度か曲がり角を行き、ある部屋の前で立ち止まる。脇のプレートには一人だけの名前。そこは個室の部屋だった。女の子は慣れた手つきで、ドアを引く。
白い室内の中、比較的広めの部屋だった。整えられた室内には、物が少なく感じられた。中央に置かれた木目調のベッドには、痩せ型で小柄な身体のおばさんが、清潔なシーツに横たわっている。近寄ってみると、目は閉じられている。体の上に置いた手には、女の子が先ほど持っていた草花の束が握り締められていた。女の子はねえ、と話しかける。
返事はない。寝ているのだろうか。
女の子は脇のテーブルにペットボトルとタンポポを置いて、軽くおばさんの肩を揺り動かしてみる。反応はない。
テーブルの上の置き時計が、かちかちと秒針を響かせる。
ねえ、どうしたの、と続けて話しかける。いくら呼びかけても返事はない。女の子の声が不安げに震える。
何かがおかしい。
風が吹いて、窓枠をガタリと鳴らす。
ちょっといいかな、と女の子に言って、位置を変わる。
「もしもし、おばさん?」
やはり返事はない。
嫌な予感がして、口元に耳を近付ける。
息をしていない?
すかさず、私はナースコールを押した。
取り乱しそうになった私は、泣きじゃくる声に顔を上げた。
女の子は、
「また?」
ぼろぼろと涙を流してそう言った。
おばさんはその後、別の部屋に運ばれていった。泣き続ける女の子を放っておけず、しばらく落ち着くまで一緒にいた。女の子は、看護師さんが病室まで連れて行ってくれた。
おばさんの容態は、私にははっきりとは分からなかった。
上町から何度か連絡があったが返答が出来ず、タイミングを見計らって電話をしてみたが、コール音が切れることはなく、繋がらなかった。諦めて着信を切ったところで、ショートメッセージで「帰ってる」とそっけない返事が来た。私は「わかった」と返信し、スマートフォンをズボンのポケットにねじ込むと、一人で一階のロビーへと向かった。
女の子の、また、という言葉が気になっていた。以前にも、似たようなことがあったのだろうか。
病院という場所を、今更ながら感じた気がした。昨日、今日と人の生死に関わることに遭遇してしまって、軽くため息をつく。髪を片手でかきあげるも、乱暴に上げられたためか、はらりと鼻筋に落ちてきた。堪らず首を横に振り、手で避ける。
ロビーは淡い黄色の壁で囲まれていて、吹き抜けの天井には暖かな色の灯りが点いている。夢で見た構造と同じで、エレベーターを使うのはなんとなく躊躇われた。フロアの奥にある階段を早足で降りる。
長椅子の並ぶ総合受付の前を横切ろうとした時、
「あれ、倉阪先輩」
不意に声をかけられた。夕陽の射す景色の中、銀色の髪がきらめいた。
「水瀬くん」
「お久しぶりです。公園以来ですね」
座っていた椅子から立ち上がり、水瀬くんは答える。柔らかい笑みに私はちょっと安心して、聞いてみる。
「誰かのお見舞い?」
「ええ、兄が入院していましてね。そのお見舞いに来てました。少し休憩して、そろそろ帰ろうとしていたところです」
「それは大変だね…」
「先輩もお見舞いに?」
「うん。バイト先の先輩が事故に遭って…」
「そうですか…お大事にしてくださいね」
ありがとう、と私は返す。
なんとなく一緒に帰ることになり、大きな透明の自動ドアをくぐり、外に出る。風が顔に吹き付けてくる。行き先を聞いてみると、方面は同じようだった。近くのバス停まで連れ立って歩きながら、私は気になっていたことを聞いてみる。
「水瀬くん。上町、て人知ってる?」
水瀬くんは少し目を見開く。けれどそれは一瞬で、歩く速さも歩幅も変わりはしなかった。
「ええ。知り合いに一人います」
「黄色い髪に赤縁眼鏡をかけていて、美大に通ってる?」
「話ではそう聞いていますが…先輩、上町君の知り合いですか?」
疑問を疑問で返される。
「まあ、ね。最近知り合った」
「不思議な繋がりですね。上町君は、小学生の頃の幼馴染ですよ」
やっぱり、と私は一人納得する。
「今日、見舞いに一緒に来てたんだけどね。勝手に帰っちゃって」
「上町君も見舞いに?」
「そんなとこ。何だかんだあってね」
まさか夢で見たから、なんて事は言えるはずもなく、私はぼやかして伝える。そうですか、と水瀬くんは探ることはせず話は続いく。
「上町とはよく会ってたの?」
目的のバス停にたどり着き、立ち止まる。時刻表を見ると、次のバスはしばらく先だった。
「ええ。仲が良かった子がもう一人居たんですが、その子と一緒によく遊んでましたね」
「そうなんだ」
「けれど、今はほとんど連絡を取れていません。上町君が引っ越してしまってからは」
水瀬くんは、遠くを見て言う。ゆっくりと雲が流れて、夕陽が遮られる。辺りが薄暗くなる。
目の前の道路では、数台の車が通り過ぎていく。エンジンの音が近づいては、遠ざかる。
「転校?」
「はい。小学3年生になる前に。ある事故があってから、僕と上町君は殆ど話さなくなりました」
「事故って」
「…亡くなったんです。仲が良かった、共通の友人が」
私は反射的に、水瀬くんの顔を見る。
眩しい程に輝く橙色の太陽を背にしながら、懐かしむように細めた眼は揺らぐことなく私を真っ直ぐに見返していた。淡い色はかき消えてもおかしくはないのに、私は目を離すことが出来なかった。透き通るような青みがかった銀色の瞳は、暗い中でもどうしてか光って見えたのだった。
***
鈍く反射する床を歩きながら、僕は目的の病室に到着した。プレートを確認し、見知った名前を見つける。
やけに静かなスライド式のドアを開けると、
「お、来た来た」
ふわふわとした柔らかな黒髪を揺らして、その人は僕に話しかけてきた。ずいぶんと能天気な様子に、拍子抜けしてしまう。
「なんか、元気そうだね」
「足の怪我だけだからね。身体自体はぴんぴんしてるよ」
「それは良かった」
僕は持っていた紙袋を置き、ベッドの脇の丸椅子に腰掛ける。きい、と軋む音が鳴る。ふと机の上を見ると、綺麗な切り花が瓶に生けられていて、百貨店の紙袋が置かれていた。
「誰か、お見舞いに来たの?」
「ああ、バイト先の人だよ。ちょうど俺が崖から落ちた時に居合わせた人で…なんだか責任感じてたみたいだった。悪いことしたな」
からりとした調子で言う。
「そうなんだ」
言葉の端に感じた違和感は気にせず、話を続ける。
「崖には、未確認飛行物体が確認された!って口コミで見たから行ってみたけど、期待はずれだったな。いくら呼んでみても全然来やしない」
おもむろに、ベッド脇のテーブルの引き出しから、ぴらりと一枚の写真を取り出して見せてくれる。山の木々が映り込む淡い青空に、黒く楕円形のぼやけた影。写真の端は、ところどころ破れかかっていて、よく見てみると表面にも無数の傷が付いていた。
「どうしてこんなに傷付いているの」
「落ちた時に持ってたから」
でももういいな、と写真を放り投げる。興味は全く失ったかのような扱いだった。
吸い込まれるようにゴミ箱へと落ちて、見えなくなる。
「でも、わざわざ来てくれるとはなー」
話題をころりと変えて言う。
「……崖から落ちたって聞いたから、急いで来たんだよ」
僕はゴミ箱から視線を外す。
「ちょっとした不注意でね」
はは、と笑ってその人は言う。骨折するほどの事故だったのに、怖いとか、痛いだとかは全然言わない。ネガティブな考えはしない。それはいつもの事だった。
「兄さんらしい」
僕が言うと、兄さんは、そうかな、と答えた。
「来てくれてありがとな、啓」
無邪気な笑顔で言われて、僕も笑って返した。
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