第6話 食卓と信頼

 「今度の土曜日、うちに来ない?」

 薄いグレーの受話器越しに伝わる、おおらかな声がそう言った。洗い物などの家事も一通り終わり、うとうととまどろむ中で受け取った話だった。つけっぱなしのテレビからは、最近都内でオープンした商業施設の紹介が流れていて、開けられた窓からは、どこかの家で作る香ばしい炒め物の匂いが入ってくる。私は受話器を持ち替えて答える。

「いいんですか?」

「ええ。お店がしばらく休みだからね、なんだか皆の顔が見たくなっちゃって」

 私はぱっと顔を輝かせる。

「ぜひ!行きたいです」

「あらぁ、嬉しいわ。はりきってご飯を作るわね。そういえば、葵ちゃん、何か食べたいものはある?」

「うーん、じゃあ、唐揚げで!」

「分かったわ!そしたら、うちの場所は前来た事があるから分かるわよね。12時ごろ来てちょうだいな」

 私は、にまにましながら通話を切る。

 丁度、ただいまー、と言って翔太が帰って来た。被っていた黄色い帽子とランドセルをソファーの脇に置く。

 私はすかさず聞いてみた。

「翔太!今週の土曜日、暇?」

「え、べつになんもないけど……どうしたの?」

 翔太は目をぱちぱちさせて聞いてきた。私はふふん、と得意げに、両手を腰に当てて言う。

「岡本おばちゃんの家にお呼ばれしたんだけど、一緒に行く?」

 翔太は、だれ?と疑問に首を傾げる。

「美味しいご飯が食べられるよ」

 私は楽しみでしょうがなかった。


***


 ぽた、と、始めに橙色の雫が落ちてきた。


 街の一点が、鮮明な色に染まる。続けざまに2、3滴と落ちてきて、たちまち雨となって降り出した。ただし、自分がその中に巻き込まれているのではなくて、目の前にある、机上の街並みの一部が雨に打たれていた。1人で使うには大きすぎる白木のダイニングテーブル、その上に広がる街は全てが白くて小さい。作りものの箱庭のようだった。

 自分は、ただ一点へと雨が降る様子を眺めている。風や音はなくて、自分の頭の中でだけ雨音が鳴っていた。色は橙だけではなく、赤や青や緑や多くの色が混ざって流れて、歪な水溜まりを作った。濁る事はなく円形に広がって、ある山の一箇所を取り囲んだ。やがて雨は止んで、色の侵食も止まる。自分は近寄って、どの場所かを確認する。見てみると山の中腹辺りで、その場所だけ木が少なくなっており、開けていた。

 近くに、成人男性と思しき人もいる。建築模型に置かれるような簡素な作りのものだが、繰り返し出てくるその姿に今では見慣れて、性別や大まかな年齢は背格好から予測がついた。その人も街並みと同じく服装が真っ白だったが、例の絵の具に塗れて色付いている。腕に何かを抱いているが、小さすぎてよく見えない。

「そこ」

 少し離れた場所で、見守るようにして立っていた*が不意に言う。砂地を踏みしめてこちらにやって来て、自分の傍らに立ち覗き込むようにして言う。

「どうやら事故が起きるようですね」

 何故知っている?と思い、自分は*の様子を窺う。視線が合うと、薄く笑った。プラスの感情が感じ取れない笑みは、どこか意思が伴っていないように感じた。泣くだとか怒るだとか、心から滲み出た表情を見たことがなかった。それは、ある時期から。いつからだったか。大切な事なのに思い出せなかった。代わりに出てきたのは、様々な事を*が知っていて話すのは昔からだということだった。

 感情や考えが読めないまま、持て余した視線を街へと戻す。

「なあ」

 *がこちらを見た、ような気がした。しかし今度は顔を上げずに話し続ける。水溜まりに走る色の線は流動的で、刻々と形を変える。得体の知れない生き物のようだった。

「水瀬と会ったら、どうする」

 何が聞きたいんだ?と疑問が浮かぶ。*に投げるようで、自分自身に問いかけていた。そもそも質問自体が抽象的すぎる。

 けれど答えは返ってきた。どんな表情で言ったかは分からないが、


「元気でしたか、と聞きますかね」


 自分は反射的に顔を上げる。けれど、姿は忽然と消えていた。砂地には足跡もない。幾分か穏やかな声に感じたのは、気のせいだったか。そんな心地がした。


 瞬きをしたら、目が覚めた。


***


 待ちに待った土曜日。晴れやかな青空の下を2人で歩く。綿のような雲はゆっくりと流されていき、先週のお休みの日に買った真っ白なスニーカーは履き心地が良く、足取りは軽い。暑くも寒くもなく、過ごしやすい陽気だった。脇を一緒に歩く翔太が、私を見上げて言う。

「ねーちゃん、楽しそうだな」

 私はぱっと顔を輝かせて言う。

「美味しいご飯が食べられるってんだから、そりゃ嬉しいですよ」

 なんで敬語、と言った翔太は、怪訝そうな顔をしながらも、ちょっとそわそわしていた。私はお店で聞いた流行りの曲を鼻歌混じりで歩いて、ごちゃついた住宅地の中を突っ切っていった。

 薄茶色の外壁の、玄関前に小さな花の植わったプランターが並べられた一軒家に到着する。表札には「岡本」と書いてある。私は黒くこじんまりとしたインターホンのボタンを押す。こんにちは、と言うと、「いらっしゃい、どうぞー」とくぐもってはいるが晴れやかな声が答える。格子状の磨りガラスが嵌め込まれた、金属製の玄関のドアを開けると、賑やかな声が私達を迎えた。

「おじゃましまーす」

 廊下奥の、リビングに向かって呼びかける。違う家の匂いが漂っていて、少しわくわくした。脱いだ靴を揃えて、つやつやとしたキャラメル色の床板を踏みしめて歩く。

「お!きたきた!」

 と、真っ先に反応したのは店長だった。

「いらっしゃい」

「倉阪さぁん、こんにちはぁ」

「こんにちは」

 と、次々挨拶された。店長の奥さんの良恵さんと、佐藤さんと、先輩の高梨さん。ほかにも、バイトの人が何人か。顔馴染みの、お店のメンバーが集まっていてなんだかほっとした。「こんにちは」と返事をする。岡本店長と良恵さんは、よく人を家に招くらしく、2人暮らしだが家の中はよく整っていた。いろんな人からお土産でもらったよく分からないものとかが、テレビの周りに飾ってある。皆が集まるリビングの壁には、良恵さん手作りのパッチワークが飾ってある。

「今日は張り切ってたくさん作ったから、どんどん食べてってね」

 良恵さんはコンロの所で何か料理を作りながら、嬉しそうに笑ってそう言った。

 ダイニングテーブルには色々なおかずが置いてあって、リビングのローテーブルや奥の和室に座って、思い思いに食事を楽しんでいた。佐藤ちゃんは良恵さんの手伝いをしていて、皆にご飯や味噌汁を渡している。荷物を置き、私も手伝おうかな、と振り返ると、

「倉ちゃん!お久しぶり~」

 と、高梨さんが無邪気な笑顔を向けてきた。

「元気にしてた?みんなと会うの久々だから嬉しいよ」

 そう言って、はにかんで笑った。高梨さんは、私の数年前に店に入った男性だ。人当たりが良く、誰に対しても親切で人を悪く言っているところを見た事がない。見た目もすらりとしていて目鼻立ちははっきりとしていて、背が高い。不真面目な感じはしなくて、いわゆる『好青年』というやつだ。ただ、一点を除いては。

 高梨さんは、この料理美味しいよー、と自家製のソースがかかったポークソテーを勧めてくれた。木目の綺麗なダイニングテーブルに並べられた料理は、和洋折衷様々なものが揃っていた。私がリクエストした唐揚げに、麻婆茄子、豆腐とワカメの和風サラダ、お刺身の盛り合わせ、トマトと茄子のミートソースパスタ、ポテトサラダ、ほうれん草の胡麻和え、エビとアスパラガスのにんにく炒め、かぼちゃコロッケ……などなど。ご飯はつやつやとした白米で、味噌汁は豚汁だった。

 想像以上の品揃えに、私は驚いた。これだけの量と種類を作る気合いがすごい、と尊敬してしまう。良恵さんは、人と一緒にご飯を食べるのが大好きみたいだ。こうやって何回か、家にお邪魔させてもらっていて美味しい料理をご馳走してくれている。私自身、食事は充実していることはこの上なく嬉しいので、つい好意に甘えてしまう。感謝の気持ちが少しでも伝わればと思い、私は丁寧に手を合わせて「いただきます」と言った。翔太も何となく感じたのか、手を合わせる。

 料理は、期待通り、というか、それ以上に美味しかった。唐揚げは衣がカラッと揚がっているからかサクサクした食感で、鶏肉は肉厚で身がぎっしり詰まっていて、食べ応えがあった。肉屋さんから買ってきたと言っていたから、新鮮なんだろうと思った。お刺身も身が透き通っていて脂がよくのっていたし、味付けはどれもしょっぱかったり濃かったりしていなくて、素朴で落ち着く味だった。サラダのドレッシングは酢がベースになっていたが、酸っぱくなくまろやかな味わいだった。自家製だと聞いたので、気になった私は良恵さんから作り方のレシピを聞いてメモさせてもらった。ついでにそれに合う野菜の組み合わせも聞いた。今度家でも作ってみようと思う。

 食事をしながら、話題はそれぞれの近況報告になっていた。佐藤さんは最近彼氏とデートしたけれども、キスしようとしたら、お互いなんだか恥ずかしくなってしまい出来なかったとか、店長と良恵さんは今度の休みに温泉旅行に行くそうだとか。わいわいと話してるうちに、あっという間に時間は過ぎていった。


***


「美味しかったねー。さすが、良恵さんだ」

 高梨さんと、私達は途中まで帰り道が一緒なので連れ立って歩く。夕方の気配は少しずつやって来ていて、自転車で友達と一緒に走り抜ける小学生が何人か隣を横切る。

「そうですね。あれくらい料理が作れたら、楽しいだろうなあ」

「外食しなくても美味しいもの食べられるんだから、店長幸せ者だよね」

「久し振りにみんなに会えたし、元気そうで良かったです。あ、そういえば。高梨さんは最近何処か行ったりしたんですか?」

 私がそう話しかけると、待ってましたと言わんばかりに、きらきらとした目をこちらに向けてきた。

 これは。

 しまった、と思うがもう既に遅い。

「実はね!最近河童が出るっていう地域に行ってきたんだよ。道がもう大変で、途中までは車で向かったんだけど、山道はもう通れないくらい狭い道だから歩くしかなくってね。獣道みたいな所をずーっと探し歩いて、水の音が聞こえる方に向かったんだ。そしたら、薄汚れた石碑を見つけてね、手で擦り落として文字を見てみたら、話に聞いてた所だと分かって。やっぱり合ってたってなって嬉しくて。1人だったけどもう舞い上がっちゃったよね。周辺の写真を何枚も撮って、わくわくして池の周りを歩き回ったよね。草がたくさん生えていて、虫も多かったんだけど、会えるかもしれないって思ったら全然気にならなかったよ。何ヶ所か刺されたけどね」

 息もつかせず一気に話すので、わかってはいたが私はたじろいでしまった。

 高梨さんは無類の超常現象、未確認生物が大好きな人なのだ。それ系の話題をする機会が訪れると、目を輝かせて楽しそうに話す、というより、語る。こちらが知識を持っていなくても丁寧に解説してくれるので、圧をかけては来ないが調子によっては延々と話し続ける。

 翔太の様子をちらりと見ると、高梨さんをそっと見つつ、私の服の端を掴んだまま固まってしまっている。後で事情を説明しようと心に決める。

「それで、河童はいたかっていうとね、見つけられなかったんだよね。でも、そこにたまたま来ていたおじさんから、何回か見たことがあるって話を聞いて!持ってた写真を見せてもらったら、池に、影が」

「高梨さん、そろそろ家が近いので、失礼します!」

 私が話を無理矢理遮ると、あ、そっか、と気付いた様子でぱたりと話をやめた。

「じゃあ、また今度ね」

 にっこり笑って手を振った。

 高梨さんと私達は、別々の方向に向かって歩いていく。別れてしばらくして、翔太が恐る恐る口を開いた。

「ねーちゃん……あの人、ちょっと怖い」

「まあねえ、スイッチ入るとああなっちゃうんだけども。普段は良い人なんだよ」

「そうなのかなあ。ぼく、苦手だ」

 私は不安がる翔太の頭を、わしゃわしゃと撫でる。やめろよ、とむっとした顔をこちらに向ける。

「料理、美味しかった?」

「……うん」

「そりゃよかった」

 にーっと私は笑った。つられて翔太もへらりと笑った。


***


 どこかの街の道に立っている。


 自分の顔が揺らいで映る、地面を覆う水面から顔を上げると、真っ白で巨大な建物が目の前にあった。◯◯病院と書いてあるのを見つけたが、何処の病院なのかは読めない。

 足元を浸す水は、わずかに流れを伴っている。その源流を辿っていくと、病院の出入り口から流れ出ていると分かった。中から呼ばれているような心地がした。頭上の空はやけに真っ青で、周りの住宅はひっそりと静まりかえっている。インターホンを鳴らしてみようとは全く思わず、真っ直ぐに病院の出入り口へと向かった。確かめなければいけない心地がしていて、回りくどい行動は省きたいと思っていた。誰かに呼ばれて答えることは当然の行動だと、何故だか分からないが、揺らがない意思があった。

 開けっ放しになっているエントランスの透明な自動ドアをくぐると、床一面は外と同じように水で浸されていた。水の透明度は高く、くすんだ色合いの床が透けて見える。明かりは点いているが、外と同じく人の気配はない。

 上へと向かう手段を探して見回すと、エレベーターが目に入る。しかし、水攻めにでも遭ったら怖い。案内板を見つけ、奥にあった階段を登る。もっとも、上の階から常に水が流れ出ているので、水流に逆らって進むのは苦労した。飛び散った水を、着ているワンピースが吸って重くなるので、時折服の端を絞りながら向かった。

 流れ出る水は、上に行くにつれて勢いを増していた。どうやら、3階のある一室が原因のようだった。先程から何故か水の音はしない。フロアに入ると、下の階よりも水位の増した廊下に出た。ガーゼや誰かの時計、ぬいぐるみなどが水面に浮いている。私は恐る恐る歩いていく。看護師や患者はいない。人が多くいるはずの建物に誰もいないというのは、正直言って不気味だった。水流に負けないように、壁づたいにゆっくりと進む。この先に何があるのか予想もつかないが、知らなければならない使命感と、好奇心と、戻りたい怖さが入り混じって、ただただ突き進んだ。

 そうして目的の場所、病室の前へやっとの思いでたどり着いた。壁に設置された手すりを掴みながら、病室のプレートを仰ぎ見る。外の看板と同じく、名前はぼやけて溶けてしまい読むことは出来ない。息は上がっていて、予想以上に体力を取られていた。額の汗を手の甲で拭い、張り付く髪の毛が鬱陶しくて、片手でかき上げる。私は意を決して、勢いを付け力一杯引き戸を開けた。

 室内を見ると、窓際のベッドに誰かが座っている。その人は、窓の外の景色を眺めていてこちらに背を向けている。紺色の髪に、細身の身体。どこかで見た人のような気がした。白い室内に、四角く切り取られた外の青色がやけに眩しい。私が一歩踏み出すと、やけに大きく水音が鳴った。この不可解な世界に来てから初めて聞こえたその音に、私はたじろぐ。音を聞いてか、その人はこちらをゆっくりと振り向いた。スローモーション映像を見ているみたいに、ひどくゆっくりと、こちらを見た。

 瞬間。その人は、にっこりと笑った。


 高梨さんは笑った。


***


 がばりと身を起こすと、暑くもないのに身体中に汗をかいていた。嫌な予感しかしなかった。杞憂に終わればいいと、朝の早い時間だったが高梨さんに電話をかける。何コール目かにぷつりと音がして、留守番電話のメッセージが流れる。

 朝で忙しい時間だったからだろうと自分に言い聞かせる。今回は具体的に何が起きるかはわからなかった。ただ。高梨さんが入院するという夢が現実になるのではないかと、胸騒ぎがした。

 私はスマートフォンの待ち受け画面をじっと見つめていた。


***


「嫌です」

 何か察知したのか、電話が繋がって開口一番、上町は言葉を投げつけてきた。

 薄曇りの午前中。弱々しい日が窓から差し込み、視界の端で庭の洗濯物がゆるりとはためく。

 私は誰もいない家の中で、ソファーに座りながら声を荒げる。

「まだ何も言ってないんだけど!」

「協力してほしい、とまた言うんでしょう」

 ぐ、と私は押し黙ってしまう。図星だ。時折、風の吹きつける音が電話口から聞こえる。上町は今は外にいるらしかった。周りの人の話し声が、聞こえては遠ざかる。どこかの街中だろうか。信号機の歩行者用メロディーが微かに流れる。私はスマートフォンをもう片方の手に持ち替えて、気を取り直す。気になっていたことを質問でぶつけてみる。

「この間、翔太が迷子になった時。場所の特徴を色々教えてくれたでしょう。どれも当たってた」

「それが?」

「どうしてそんな細かい所まで、夢の中の事を覚えているのか、ちょっと疑問なのよ。私は大抵目覚めたら忘れてるわ。覚えてるのは衝撃的に感じたところだけ。事故とか事件だと、その人が傷付く場面だけ……。けれど上町は正確に教えてくれた。記憶力がいいだけか、もしくは、そうして覚えておこうとした事が、今までにあるんじゃないかと思うの」

「前者ですね」

「記憶力がいい?」

「そういうことですね」

 ぶっきらぼうな返答、自分の事を他人事のように話す。取り合おうとしていないことが分かりやすい。私は畳みかける。

「この様子だと、きっと後者ね。私と同じように、誰かを助けようとしてた事があるってことよね?」

「一緒にしないで貰えますか」

 いらついた声。いや、大抵そうだけれども。


 今日の朝に見た夢。

 翔太の時や紀国ちゃんのように、具体的な事故や事件の一部が見られた訳ではなかった。佐藤さんの時のように、「何かが本人に起こる」という曖昧な情報しかない。水没した病室で、やけに青い空を背にして笑いかけた高梨さん。病院も見覚えのない所だ。そもそも、昨日元気な様子だった高梨さんが、病室にいる時点で「何か」が終わった後の場面である可能性が高い。終えた後の状況を「見た」所でなんにもならない。私の心をざわつかせる効果しかなさそうだった。手掛かりはほぼないと言えた。でも、それでも。私は放っておくことは出来なかった。身近な人に何かが起こるかもしれないと思うと、いてもたってもいられなかった。この一端を理解してくれる人が居るとしたら、と考えた所で、私は電話をかけていた。


「お願い」

 はあ、と露骨に大きいため息を上町はつく。

「自分も、暇じゃないんですが。そもそも、今回はどんな事が起こるか知ってるんですか?」

「……知らないわ」

「じゃあどう動くつもりですか?何も分からない状態じゃ、対策のしようがない。いつ起きるかも問題ですよ」

 上町の言うことは正論だ。結果が見えていて、具体的な策が建てられるならまだしも、何が起こるかはまるで見当が付いていない。私は唇を噛む。


 諦めろ。


 そう言われているような気がする。

「対策は、これから考えるわ。バイト先の上司の高梨さんが、事故に遭う。夢で、見たの。けれどどんな事故で、いつ、何処で遭うのかは分からない」

「他に手掛かりは?」

「後は……思いつかないわ。身体のどの部分を怪我していたかすらも記憶が曖昧だし…居た病院の名前も分からない。真っ青な空が印象的だったくらい」

「あの。失礼ですが、情報が足りなさすぎます。今回は協力出来ない」

「待ってよ」

「じゃあ、家の前にでもずっと張ってるつもりですか?」

 聞く耳を持たない上町に、私は少し苛立つ。

「分かったわよ!今回は、私一人で動く」

 つい、そう言ってしまった。雑踏が電話口から鳴る。今まで話の中でずっと聞こえていたのに、急に表に出てきた。

 何も返事はない。多分了解したという事だと思う。話を切られる前に、滑り込ませるように投げかける。

「最後に、ひとつだけ。上町は、何か気になる夢は見てない?」

 一瞬の間。

「見てない」

 通話は切られた。


 頼みの綱を失って、私はスマートフォンを持った手を力なく降ろす。勢いよくクッションに着地して、手がわずかに弾む。途方に暮れ、あー、と意味のない声を上げながらソファーの背もたれに寄りかかる。柔らかな感触に少しだけ安心する。穏やかな陽気の中、レースのカーテンが吹き込む風にふわりと揺れる。

「どうするかなあ…」

 薄明るいクリーム色の天井に向かって、ぽつり、ひとり言を呟く。


 数回の瞬き、その後に。


「知りたいですか?」


 中性的な声が答える。

 私は反射的に身体を起こす。あまり広くはないリビングを見回す。

 どこかで聞いたことのある声。

 疑問が沸き起こる中、食卓の前に立つ声の主を見つける。

 すらりと立つ、姿勢の良い青年。

「お久しぶりです」

 *は丁寧にお辞儀をして、そう言った。


 とりあえず席を勧め、お茶を用意する。私はテレビ前のソファー席、*は庭を眺める席にそれぞれ座る。目の前にある、膝くらいの高さのテーブルに湯のみを置くと、ありがとうございますとお礼を言われる。何処から入ってきたんだとか、家族が誰もいない時間帯で良かったとか、色々な考えがごちゃついて頭の中で暴れ出しそう。

 時折近所のおばさんの話し声や、バイクの通り過ぎる走行音が外から聞こえる。日常の音が聞こえるのに、家の中だけか違う場所になってしまったみたいだった。以前喫茶店でも話をしたが、家の中にいる*の姿は異質でしかなかった。何というか、浮いて見える。上手く周りの風景と馴染まないような、そんな気がした。自分の家に突然現れたから、そう感じるのかもしれないけれど……。

 そんな考えを巡らせる私をよそに、涼しい顔で*は話しかけてきた。

「先程、話していた件。電話の相手は上町君ですね」

「なんで知ってるの」

「貴方にとって、夢の話が通じる相手は限られるでしょう?」

 *はお茶を一口飲む。私はばつの悪い顔をする。

 少なくとも通話の内容は聞かれていたらしい。

 いけない、ペースに乗せられては。頭の中で言い聞かせて、私は質問を投げかける。

「さっき、あなたは知りたいか、と聞いたわね。それはどういう事?」

 *は手に持っていた湯のみを置いて、こちらに向き直る。

「私の知る限りですがーーー貴方の上司である高梨さん。ここから程近い山中で事故に遭い、入院するほどの怪我を負う」

 私は目を見開く。


 なぜ、高梨さんが事故に遭う場所を知っている?

 驚きと共に、疑問が渦を巻く。


「……私が見た、夢の中の病室。あなたも見ていたの?」

 探るように言葉を選ぶ。あの部屋、いや、病院の何処にも。

 私と、高梨さん以外は居なかったように思えた。

「いいえ、それは見ていません」

 真っ黒な瞳には揺らぎがない。

 本当か、嘘か。駆け引きのような会話が続く。

「どうして、あなたは高梨さんが事故に遭うと言い切れるの?」

 疑いを持つ一方、納得する自分もいて、自分自身に戸惑う。あの夢はやはり何かが起こる事の暗示だった、と思いつつも、そうであってほしくないという思いもあった。そもそも、*の言う事が確実に当たっているという保証もない。私は多分、自分が思うよりも動揺している。*は両手を膝の上で組み、返答する。

「今回は傍らで見届けていましてね。断片的な情報ではありますが、彼が何がしかの事態に巻き込まれると示唆する夢を見ました。これまでの経験上、ほぼ事故は起きると言っても良いでしょう」

「今までにも、見た事があるの」

「ええ、何回かは。当事者ではありませんが」

「当事者じゃない?」

「私の夢で見たものではないので」

 私の、夢ではない?どこか距離を置いた返答の違和感に引っかかる。思い当たる人物は、あいつしかいない。

「まさか、上町の」

 そう、と短めの了承が返ってくる。

 *は湯のみを脇に寄せて、何処からか持ってきたこの地域周辺の地図をテーブル上に広げる。ぴんと伸ばされた、細長い人差し指はある場所を指す。そこには「矢白山(やしろやま)」と書いてある。昔中学校の校外学習で行ったことのある、馴染み深い山だった。

「山の規模は大きくありません。観光地として季節の花々や紅葉の様子が見られると、沿線の広告等で紹介されているそうですね。見る限り標高も高くないですし、ハイキングに行く程度の格好で良いでしょう」

「あなた、今回やけに協力的なのね」

「以前からそうだったでしょう?」

 *はにこりと笑う。わずかに上げられる口角、細められる瞳。相変わらず笑っているのに、それが好意から来るものなのか確信が持てない。どこか他所から借りてきたような、絵に描いたような笑顔なのだ。私は*を信頼出来ずにいた。第一、初めて会った時に言われた事が衝撃的であったし、丁寧な物腰で伝えられた割に乱暴な出来事だった。

 けれど現状、手掛かりはこれしかない。悔しいがそれは事実だった。

「日は明日、時間帯は、恐らくは午後。昼過ぎから夕方くらいまでの間ですね。木々が開けた山の中腹辺りにいて、高梨さんは何かを守っている様子でした」

 半信半疑のまま私は頷く。

「その、守っている何かって何」

「さあ。それは私にも分かりません。残念ながら」

 *は微笑を崩さない。

「まあ、本来は上町君から伝えるべき事柄ですし、こうして私がここに来るべきでもないでしょう」

「じゃあ、何故」

「ただの気まぐれです」

 首をゆらりと傾げ、おどけた様子でそう言う。

 演技なのか、本心なのか。芝居がかった動きはどちらなのか見当がつかない。

 *は広げていた地図を丁寧に畳み、ベスト裏のポケットに仕舞う。さて、と立ち上がる。

「じゃあ、私はそろそろ」

「待って」

 私は引き止める。*は何も言わずに視線をこちらに寄越す。長い睫毛が瞬く。

「あなたに、聞きたいことがあるの」

「何でしょう」

「前に、上町と知り合いだって言ってたわよね。でも、本人に聞いてみたら知らない、と言っていたのよ。どういうこと?」

「上町君に、私の事をどう伝えましたか」

「え、そのままよ。黒髪で、後ろで一つ結びにしていて、白シャツの上にベストを着て……」

 私は上町に伝えた、彼自身の外見の特徴を挙げていく。ふむ、と*は頷きながら聞いている。私が言い終えると、ひと息ついて返答が来る。

「教えていただき感謝致します。確かに、私と上町君は知り合いです。しかし、貴方との認識が違うようですね」

 私が言葉の意味を測りかねていると、

「貴方も、上町君も。間違っていない」

 重ねて言う。そうである事を、自分にも言い聞かせるかのように。けれど、発言の意味がまるで分からない。

 加えて、どうしてだか。少し寂しそうな目をして言ったのが気がかりだった。幾分か柔らかく笑んで続ける。

「分かりますよ。いつか、きっと」

 どこか確信めいた言い方。

「それは、」

 と聞き返す所で。


 何かが落ちる音がした。


 振り向くと、庭の洗濯物が一着、地面にあった。緑色の芝生に一点、赤いトレーナー。くしゃくしゃになってしまっている。風に吹かれてしまったのだろうか。

 一拍遅れて、前と同じ事があった気がしてリビングに顔を向ける。やはり*はいなくなっていた。冷めたお茶が入った湯のみが、テーブルの上にあるだけだった。お茶の量は減っていない。リビングから廊下に通じるドアの音はせず、足音は何もしなかった。数秒の間を置いてまたしても消え、翻弄されて終わってしまった。夢でも見たみたいだと思った。ため息をつきながらも、私は教えてもらった山の名前を頭に思い浮かべた。忘れないよう電話機の脇のメモ帳に書き留めた。


***


 快晴のお天気。踏みしめた小枝が、ぱきりと音を立てて割れる。

 歩き慣れない山道の中、私は登っていく。ちらちらと木漏れ日が地面を照らして、時折葉の隙間から白い光が視界の端を刺す。後ろでひとつにまとめた髪が、歩くリズムに合わせて揺れる。登り始めてからずっと歩き通しだったので、道端にあった少し大きめの岩に腰掛けて少しの間休憩する。

 ペットボトルの水をぐいと飲み、身体に水分が染みていく。お母さんから借りた登山用の靴は大仰かと思ったが、疲れにくく正解だったと思った。*から山の中腹、開けた場所と聞いていたが、詳しい位置は聞いていなかった。途中すれ違った男性に尋ねたところ、見晴らしの良い場所があると教えてくれた。ひと息ついて、立ち上がってまた歩き出す。山道を登り、途中からやや勾配のきつい坂道を歩くルートを選ぶ。

 木の根っこがうねりながらも飛び出している所が多く、何度かつまづきそうになりながらも進む。腕時計を見て、時間を確認する。12時過ぎ。額の汗を拭って私は突き進む。事故が起きる時間帯は、はっきりとは分からない。だから一刻も早く目的地に着きたかった。

 やがて、左右から伸びる枝が少なくなっていく。眩しい日差しに目を細めると、青い空が視界いっぱいに広がった。


 そこは少し開けた崖だった。見晴らしが良く、麓の街並みが眼下に広がる。手前には住宅地が広がり、少し遠くの方に高層ビル群が見える。線路は奥から左手へ、私が居る山とは違う方へと伸びている。おもちゃみたいな大きさの電車や車が走る。

 景色の良い場所であるのに、あまり人気はない。ハイキングのルートからは少し外れており、穴場のようだ。あたりを見回してみると、崖の縁に立つ人影を見つけた。どこか見覚えのある、癖のある黒髪に、背の高い男性。期待と否定を半分ずつ持っていた私は、嬉しさと人違いである期待を織り交ぜた気持ちのまま話しかける。


「高梨さん?」


 反応がない。

 聞こえなかったのだろうかと思い、もう一度呼びかけようとした所でーーー何やら空を見上げながら、しきりに手を動かしている。

 おそるおそる近付いてみると、何か呟いているのが聞こえる。

 私は、肩を軽く叩いてみる。相手は勢いよく振り返る。

「おわっ⁉︎く、倉ちゃん‼︎」

「ど、どうも。こんにちは」

 驚きすぎて、危うくよろめきそうになった。私もつられて驚いてしまう。高梨さんは目をぱちぱちさせて言う。

「倉ちゃん、どうしてここに?」

「どこか自然の多い所に行きたいなと前々から思ってて。思い立ってハイキングに来てみたんです。のんびり登ってたら、道に迷ってしまって…どこかで休憩しようと思って歩いていたら、ここに辿り着いて」

 とりあえず不信がられないよう、適当な話にしておく。そうなんだ、偶然だなあと高梨さんは頷く。

「高梨さんはどうしてここに?」

「ああ、実はね。ここで何度か、UFOを見たって話を聞いてね!それで、見られたらいいなあと思って来たわけ。しっかり双眼鏡もカメラも用意してきたんだけど、全然来る気配がなくて。この間交流会で会った人に聞いた、新しい型の交信で呼べないかなーと試してた所だったんだ」

「ああ、そうだったんですね」

 UFOがさっきのジェスチャーとやらで呼べるのかはさておき、高梨さんが事故に遭っておらず、私はひとまず安心した。

「俺はしばらくここに居るけど、休憩するんだったら、あそこの少し大きな切り株にでも座ると良いよ」

 と、私たちのいる崖からやや離れた位置にある、木陰になった部分を指差す。

「ありがとうございます」

「そうだ、俺もちょっと休憩しようかな」

 そう言って、高梨さんが傍らの柵に手を掛ける。風雨にさらされ傷んで古くなった、ささくれだらけの柵。私は何だか嫌な予感がした、その数秒後。

 柵は軋んで、バキリと派手な音を立ててあっけなく割れた。支えを失った高梨さんは、体重をかけた方向へ、ふわりと宙に浮かんだ。それが当然だとでも言うように。その先の地面はなく、鬱蒼とした森が数メートル下の地面に広がる。へ、と気のぬけた声が、高梨さんの開けっ放しの口から溢れる。

 私は弾かれるように、夢中で右手を伸ばす。手、服、足、どこだって良い。高梨さんの体重を私一人で支えきれるのかどうかなんて頭になかった。ただ、手を取れれば。

 その後はどうにでもなる。そう思ったのに。


 指は空中を掻いただけで、何も掴めはしなかった。


「高梨さん‼︎」


 頭の中で思った叫びは、今更口を突いて出た。落ちていく。

 重力はどうしてあるんだろうと思った。

 私の視界から外れようとする高梨さんの姿を追って、崖から身を乗り出す。

  枝葉を折る音が崖下から続く。鳥が飛び立つ。落下したはずの場所へ視線を移す。

 姿は見えない、なんで見えない。吸い込まれてしまったように消えてしまった。見回してみても、見つからない。

 先ほどまで会話をしていた事実が嘘のように。

 手をついた地面のざらついた感触、土が爪の間に入り込む。じわりと汗が背中を伝う。風が髪を乱して、草木の青臭さが鼻を掠める。心臓が冷えていく心地がする。   


 私は耐えかねて、あぁ、と絞り出されるように嗚咽を漏らす。

 掴めなかったやり切れなさと、不甲斐なさが混じって、私は泣いた。

 ぼろぼろ涙が溢れて止まらない。

 手の甲に雫が落ち、見える景色が潤んで歪む。


 やけに真っ青な空の日の事だった。

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