第2章 新米の試練

 ──あれは六さいになったばかりの冬のことだった。

「遠い遠い昔。この地に、いつぴきじやあくドラゴンがやってきました」

 やわらかい声が部屋の中に広がる。セラフィーネは本を読んでもらうことが好きなオフィのために、時間を見つけてはこうしておはなし会を開いてくれていた。

 始まりは毎度同じ。レーヌグランの子供のあこがれ、きゆうこくえいゆうシギスマンドの神話からだ。

「竜のき出すほのおによって、町や山はくされてしまいました。人々は武器を手に竜にいどみましたが、傷一つ付けることはできません。竜は『王のむすめいけにえに差し出せ。さもなくば国をほろぼす』と言いました。心優しき王女は国民を守るため、みずからの身をささげるべく、竜の住む湖へと向かいます」

 セラフィーネは手元の本をぱらりとめくる。

「しかし王女の前に一人のが現れました。神の加護を受けし聖なる騎士の名はシギスマンド。王女から竜の話を聞いたシギスマンドは、がねいろかがやじゆうけんを手に、たった一人できよだいな竜に立ち向かい、竜をたおしました。王国と王女を救ったシギスマンドは、やがて王女とけつこんし、困っている人を救い続けました」

 めでたしめでたしと、セラフィーネは読み終えた本を閉じる。

 しんだいの上に身を起こして聞き入っていたオフィは、じやたずねた。

「おねえさま、竜ってほんとうにいるの?」

「竜は空をじゆうおうじんはしつばさに、天をく巨大できようじん、大地をかぎつめするどきばを持つとか。人間なんて頭からぺろりと食べられちゃうのよ」

 ひゃあ! オフィは身体からだばして、まくらもとこしかけるセラフィーネにきつく。

「シギスマンドが竜をやっつけてくれなかったら、たいへんだったのね!」

「そうね。……彼がいなければ国は滅んでいたかもしれないわ」

 オフィの背をさするセラフィーネが同調する。その表情がいやにしんみようなことに、抱きついているオフィはてんとして気づかない。

(おねえさまの手、あったかいな)

 やさしくて、ときどき厳しい家族の手──それ以外を自分は知らない。

「……ねえ、おねえさま。どうしてオフィはお外に出ちゃいけないのかしら?」

 おくにすらない幼いころのオフィは、それこそうわさたがわぬたぐいまれきよじやくだったらしい。

 しかしそれもこのとしになると、きゆうの小庭園内を散歩するくらいなら問題ないまでに回復していた。だが女王である母は、オフィをがんとして離宮から出そうとしなかったのだ。

 ──フェルディナントおにいさまや、ハロルドおにいさまに会って、お話ししたいな。

 自分のおもいと裏腹に、母はけつえん関係にある者にすら、オフィとの面会を謝絶していた。

 オフィはき父を除けば母と姉、それから専任の医師に、離宮で従事する専属の使用人しか会うことができなかったのである。

「おかあさまはオフィがきらいだから、お外に出してくれないの?」

 身体をはなしたセラフィーネは、なみだぐむオフィのほお綿わたで包むように優しくさわる。

「泣かないでオフィ。お母さまはね、あなたが大切だからこうしているのよ」

「ほんとう……?」

「本当よ。そうね、あなたも六歳になったことだし……〝秘密〟を教えてあげるわ」

 秘密。子供心をくすぐるそのひびきに、オフィのうれいを帯びていたひとみらんらんと輝きだす。

「ひみつってなあに?」

「代々王位をぐ者にだけでんされている秘密なの。に伝えるために、ね。今から話すことは、他の人には絶対にないしよよ?」

「オフィはないしょにできます!」

 元気でい返事ね。セラフィーネは身をかがめて、オフィの耳に小さく声を吹き込む。

「それはね──」

 言葉のちゆうで、オフィの意識は何かに引っ張られるように遠のいた。


「おはようございますひめさま。お目覚めの時間でございます」

 じよの声と、カーテンの開く音でオフィは目を覚ました。

 まぶたを上げ下げしながら身を起こすと、そこに本を読んでくれていた、まだ幼さの残る姉の姿はない。どうやら自分は過去の夢を見ていたらしい。

「姫様、お身体の具合はいかがですか?」

 オフィ付きであるみようれいの侍女は毎朝こう訊ねてくる。十余年前から仕えている侍女も、今のオフィは健康そのものと理解しているが、それでも身体を案じてくれているのだ。

「すこぶる快調よ。えたらすぐ朝食にするから、先に準備してもらえる?」

「かしこまりました」

 侍女が部屋を後にすると、オフィは夜着から制服に着替える。シャツのボタンを閉めていると、左胸の生まれついてのあざ──はっきりとわかる、金十字のもんようが目に映った。

(『秘密のひめぎみ』、か)

 始まりは虚弱になった理由を秘すため。それをまだ幼いオフィが、知らず知らずのうちに口外してしまわないよう、母は第二王女の情報をしやだんし、外部とのせつしよくいつさいったのだ。

 そしてある程度のりよふんべつができるようになった六歳の頃、〝秘密〟を打ち明けられた。

 これを機に晴れて秘される立場を返上するはずだったが、オフィは騎士になるために、『秘密の姫君』のままでいることを選んだ。

(長いレーヌグラン王家の歴史の中でも、王女で騎士になったのはわたしだけだし)

 ただでさえぜんだいもん。それもよりによって、一般人の五歩は後ろの立ち位置にいた自分が騎士をこころざしたのだ。

 ──すべては、弱い自分への決別と、守りたい者のため。

 そのために王女の身分をかくし、たんれんを重ね、ようやく《セント・クロワ》の騎士への一歩をみ出した。後戻りもこうかいもしているひまはない。

「上官に目のかたきにされたってかまうもんですか。行けるところまで突っ走ってやる」

 おくられたネックレスを首に引っかけ、オフィは静かな私室から明るいろうへ飛び出した。


 出勤してみると、五番館のげんかん前にハロルドが門番よろしく待ち構えていた。

「おっはよフローラ! アレクが隊長会議に出席してる間にせつ案内するぞ~」

 朝っぱらから明るく元気な副隊長のいんそつで、オフィは館内を見学することになった。初日はというと、提出する大量の書類の記入に終始し、それどころではなかったのだ。

「──で、あっちの部屋が正装用のそうな。あとは事務所のおくにある渡り廊下と宿舎はつながってるから」

殿とのがたそうくつに自ら飛び込むなんてこうおかしません」

「よしっけんめい。ま、だいたいこんなとこかな。なんか質問ある?」

だいじようです」

 じゃあもどるかときびすを返すハロルドのややななめ後ろをオフィは歩く。

「フローラは入宿せずに通うんだっけ?」

「ええ、城下に住む知り合いが下宿させてくれるので」

 まさか離宮から出勤していますとは口が裂けても言えない。うそも方便というやつだ。

「ここ野郎ばっかだし、その方が断然安全だよな」

 騎士団、特に君主のだまに位置づけられる《セント・クロワ》は元々、女子が入団することを前提とせずに創設された。

 それゆえ入団が認められた昨今でも、女子宿舎などの設備はまだまだ整っていない。

「ずば抜けて美しいわたしが一つ屋根の下にいたら、殿方は心のへいおんを保てませんからね」

「まじですがすがしいなお前。昨日のたんといい、その図太さは《セント・クロワ》で五指に入るぜ。オレが保証する」

「──そんな保証をするなほう

 割り込んできたのはうなるような低い声。後方に視線を移せば、相も変わらずけんしわを寄せたアレクの姿があった。その視線は昨日と同じくオフィからずれている。

「おはようございます隊長。ごげんうるわしく……はなさそうですね」

だれかさんのおかげでな」

 かんぺきあいわらいを浮かべるオフィとぶつちようづらのアレク。

 二人を包む絶対れいの空気にえられなくなったのは、間にはさまれたハロルドだ。

「そこのお二人さ~ん、春うららの朝を底冷えさせんのやめて~」

「ハル、隊員を訓練場に集めろ。アレをやる」

「お、さっそくやっちゃう?」

新人こいつの手並みを見るのにちょうどいいだろ」

 アレクの言葉にオフィは目を丸くする。退団しろとしてきた男が、昨日の今日でどういった風の吹き回しだ。

「……まさかどこかに頭をぶつけて昨日の記憶が一部飛んだとか?」

「飛んでねえよ。──お前を部下にするのが心の底から不本意でも職務だからな、訓練はまっとうに受けさせる」

 オフィはアレクの弁に、なるほどとすんなりなつとくする。

 アレクは職務に忠実だとセラフィーネは言っていたし、彼は仮にも隊長だ。

 私情だけで、総隊長(アレクの言ではジジバカ)の顔にどろはしない。

「──と頭ではわかっているが、その顔を見ると吐き気がする。極力視界に入れたくない、できればその顔をさらしてくれるな。なんならめてくれ」

「人が大人の対応に感心した数秒後に、本音をぶちまけないでください!」

「いや~アレクとまともに言い合える女を三番隊長以外で初めて見たわ。オレちょい感動」

 感動するところがおかしい! とつっこみを入れる寸前にハロルドが走り出した。

「訓練場に行くぞフローラ! 五分で準備するからアレクも急いで来いよ~」

「ちょ、副隊長待ってください!」

 もうあんなに遠いっ、とうそうするリスですかあなたは! とにかく見失わないよう、オフィは急いでハロルドを追いかける。

 するとすれちがいざまアレクが吐き捨てる。

をしないようせいぜい気をつけろ」

 何が始まるのかオフィの知るところではない。ただ、告げられた言葉がみくびっているがゆえのものであるのはわかる。

 オフィは広い背中に忠告してやった。

「王国最強のを、あまりめないでいただけますか?」


 つめしよごとに設置されている屋外の訓練場に、隊員が整列する。

 隊長・副隊長と向かい合う形態で、最前列をじんるのは新人であるオフィ。

《セント・クロワ》は欠員が出ない限り入団できない。しかし毎年新人をむかえる。

 理由は単純明快、せいえいを精鋭たらしめる訓練が厳しく、ついていけないだつらくしやが出るからだ。新人ぜんめつもさしてめずらしくはないという。

「集まったな。ハル」

 アレクに名指しされたハロルドが「はいよ~」と手を挙げる。

「《セント・クロワ》名物の〝〟。フローラは聞いたことある?」

 その単語、オースティンから聞いた覚えが。脳みそのどの引き出しにしまったっけ!?

「……たしか、一対一のき戦、でしたか?」

「当たり。それをおっぱじめるから、武器は公平を期すため、重さと形が同一のもつけんね」

 これこれと、ハロルドが手にした木剣を左右にってみせる。

「目つぶしとみつく以外は何でもありで、相手に参ったと言わせるか、ひざもしくは身体の背面を地面につかせれば勝ち。十分で決着がつかない場合は引き分けな。ちなみに」

 名所の案内でもするように、ハロルドは指をそろえた手で横を指す。

「隊長はくそ強いから不参加。でも横からじっくり観察してっから気い抜くなよ~」

 いつせいに後ろの騎士たちの空気がこおった。顔色が青くなっているのは想像にかたくない。

 そのあつかんで騎士たちをおののかせたアレクは「ふざけてないで仕事をしろ」と、ハロルドを軽くにらむ。

 睨まれたハロルドに反省の色は見られないが、彼の口は「はいはい」の形に動く。

「どんなもんか、まずは若手に実演してもらうかな。うし、二年目コンビ準備しろ」

「「はいっ!」」

 ハロルドから指名を受けた二人の少年従騎士が、前方に置かれた木剣を取りに向かう。

「じゃあ始めるか。オレがしんぱんするから、他は場外に出ろ~」

 試合のない騎士たちがぞろぞろ移動し、試合会場には少年らだけが残った。

 木剣を構える二人をこうに見やったハロルドが、「始め!」と試合開始を合図する。

 直後、木剣が打ち交わされるにぶい音が響く。

 たけが変わらず力もきつこうしていたせいか、決着に時間がかかった。途中でたがいの木剣がはじかれたため、最後はなぐいでの勝負になっていたが。

「そこまで。こんな感じでにくだんせんに移行することもままあるから」

りようかいです。なら次はわたしが行きます」

いさぎよいな。よっしゃ行ってこい」

 木剣を手にオフィは試合会場に入る。

 先ほどハロルドは二年目コンビと言っていた。

 王立騎士学院を卒業して、入団するのは十三歳。計算すると自分より年下だが、勝者は身体こそまだ細いものの、背はオフィより断然高い。

たのむから怪我をさせるなよ!」

「当然です! 同じ従騎士とはいえ、レディを傷つけるなんて騎士の名折れですから!」

 舐めてるわね。腹の中でオフィはくさった。

 とはいえ騎士たちの反応もやむなし。周りから見た自分はうら若き乙女おとめでしかなく、守るべき対象ではあっても、戦う対象には見られていない。

 ────上等よ。

「一つ言っておくけど」

「えっ、な、なにっ!?」

 何を期待したのか頰を染める相手に、オフィは構えながらよくようのない声で言う。

「人を見かけで判断すると痛い目にうわよ」

 開始の合図と同時にオフィは動いた。

 とつ、過去の教訓が脳内をよぎる。

『剣が接触したら、相手の武器より伝わる圧力からその意図を読み取るのです』

(わかってるわよオースティン。相手がごうで押し込んできたらていこうせずじゆうで受け流す。やわらかいときはそのまま一気に押し込んでぼうぎよをこじ開ける、でしょ)

 しかし今回必要なのは安全な勝利ではなく、意識を変えさせるためのあつとうてき勝利。

(そのためにはしゆんに仕留める!)

 風を切るような速度で間合いをめたオフィは、つかねらって木剣をひらめかせる。

 相手が木剣を手放し、無防備となったところで、ガラ空きのみぞおちをつかがしらで思い切り突く。

 急所へのこうげきをもろにらった少年は、腹をかかえてくずちた。

「勝者、フローラ・アシュレイ!」

 ハロルドの高らかな勝利宣言に外野がどよめいた。「なんだあの動き」「すじが見えなかった」──隊員たちの声に表れていたのは、予想だにしていなかったしようげき

「ったく、でたらめなスピードしてんな」

 参ったとかたを上下させるハロルド。オフィは応じる。「め言葉としてちようだいします」

「〝判断〟を知ることにより〝きよ〟を保ち、距離が〝時間〟を決定する。時間を知ることにより、確実に敵の〝位置〟を取ることができる」

「騎士学院で教わる勝利の四原則? そっか、フローラはじいさんみだっけ」

 同じ教えであれば、女の自分は男にはとうていかなわない。身体のつくりや筋肉の質が違う。

「どうすれば力でまさる男と渡り合えるのか考えました。──相手がける前に仕留めれば、力もへったくれもないんじゃないかって」

 答えが出たならあとは進むだけ。オフィはてつていてきに速度と技術をみがいた。

「騎士学院の教練がどんなものかは知りませんが、少なくともわたしは、総隊長との鍛錬で何度も死にかけました」

 そう言い残してオフィは次の相手とたいする。

 後ろからは、「さらっと言うことか~?」と、ハロルドののんびりした声が追いかけてきた。


「なるほど、そのスピードはたいしたもんだ」

 二戦目。熟練隊員はオフィのざんげきあやうげなくかわしながら告げる。

「だが、まだまだあまいぜおじようちゃん!!」

 様子見とばかりにオフィの攻撃をけ続けていた相手は、守りからめに転じた。

 その右手から振り上げられた鋭いいつせんなまりのように重く、オフィの木剣は雲一つない青い空へと放物線を描いて吹っ飛んだ。

「──────っ、参り、ました」

 息も切れ切れに敗北をせんするオフィに、三十代前半とおぼしき隊員はろくに息も乱さず木剣を肩にかつぐ。

せんとうにおいて速度は大事だ。けどな、最後にモノを言うのはたいりよくと経験なんだぜ」

 まあ相手が悪かったながっはっは、と軽口をたたゆうまでかます熟練隊員。彼は外野に向かってちようせんしやつのり、オフィの視界から消えた。

 次戦のさまたげにならないよう、オフィは肩で息をしながら場外に腰を下ろす。

(……負けた。たったの、二戦目で……)

 一戦目は上出来だった。それで気がゆるんだ? 違う、それはただの言い訳だ。

 オフィのけいの相手は王国最強のオースティン。彼が本気の百分の一も出していなくても、負けて当然。それが当たり前で、勝とうなどという考えがそもそもなかった。

 けれど今は違う。オフィは相手を負かすつもりで挑んだ。

 油断も手加減もしていない。それでも熟練隊員に、自分の全力を軽くあしらわれたのだ。

(手も足も出ないだなんてっ……!)

 いつしゆんで間合いに踏み込むしゆんぱつりよく、正確かつばやい剣技。加えてじゆうなんせいのある身軽な身体。それが力でおとるオフィの強み。

 その長所を生かして少年従騎士にうまいこと勝てた。──だからなんだ。

 相手は年下で、体格差もそれほどなかった。それもこれから第二次せいちようで、上にも横にも伸びしろのある男子には、あと二、三年とたぬ間に形勢をひっくり返されるだろう。

(基礎体力作りをおろそかにしていたつもりはないけど……)

 ちようぜつ虚弱体質をこくふくし、女子の平均以上の体力をつけた。それからは剣技や瞬発力など、けんさんを積むことに多くの時間をいていたのは事実。

 その結果がこれだ。

 序盤で決めさせてもらえなかったオフィはしようもうし、対して相手はこちらをためすほどの余力があった。

 アレクに舐めるなとおおを切っておきながら、なんとみっともないザマであることか。

『まだまだ甘いぜお嬢ちゃん』

 熟練隊員の言葉が、いだのようにオフィの胸に深くさる。

 甘い、の一言に、いったいどれだけの事案が含まれているのか。戦場に立ったことのない経験不足? あらゆる相手に対しての臨機応変さ? 挙げだしたらキリがない。

(……意識を変えさせるなんて、甘かった)

 ほんの少しは変わったかもしれないが、ここは街の子供たちが通う稽古場とは訳が違う。

(忘れちゃいけない。わたしがいるのは……国民がせんぼうする《セント・クロワ》)

 その精鋭部隊の洗礼はよわい十六の、多少うでに覚えのあるむすめの鼻をへし折るには十分すぎた。

 くやしさや情けなさで気持ちはぐちゃぐちゃだ。

 心情のままに行動していいのなら、オフィは大声でさけぶことを選ぶ。

 だが公衆の面前、騎士のはしくれとしての意地と、仮にも王女としてのきようがそれを許さない。

「っ、何が、王国最強の弟子よ……」

 この場で許されるちようを吐いたオフィは、暗い気持ちをつぶすようにこぶしを強くにぎりしめた。

 ──一方、試合の一部始終をとらえ、オフィの独白も耳に挟んでいたアレクはぽつりと。

「……始まりのかべ、いかに挑む?」

 しかしそのつぶやきはオフィに届くことなく、騎士のかまびすしいヤジにさらわれた。


 仮入団から六日目の、詰所がよいやみしずんだ頃のこと。

「フローラ、お前しんどいんじゃねえの?」

 オフィが書類を整理していると、ハロルドがふいにいてきた。

「顔が青いっつーか白いし、目の下にクマがうっすら浮かんでるぜ」

「顔が白いのは元々なのと、ちょっとそくなだけでたいしたことありません」

 オフィは明るいがおを作る。づかいへの感謝とへいこうして、追及をけんせいする狙いもあった。

「大丈夫ならいいけど……」

「ご心配いただきありがとうございます。わたしなら大丈夫ですから」

 言ってオフィは残りの書類をい、しつづくえちんするアレクの前でを正す。

「書類の整理、完了しました」

「そうか。今日はもう上がっていいぞ」

「はい、お先に失礼します」

 視線をわずかに上向かせながらも、やはりアレクはいつかんしてオフィを正視しない。目くらい合わせなさいよと腹の中で吐きつつ、オフィは執務室を辞した。

 もう終業時刻を過ぎているので、隊員たちは宿舎に引き上げている。オフィはひとのなくなった館内を抜け、訓練場のすみに植わった大木の後ろに身をひそめた。

(誰もいないわね……)

 小動物が巣穴から出るときのように、オフィはきょろきょろと周囲を注意深くうかがう。

 人の気配はなく、あいつコソコソ何やってんだといぶかられる心配はなさそうだ。

(さて、今日も始めますか)

 身体をほぐし、一つ大きく呼吸をしたオフィは地をった。初めはゆっくりと風が頰をでる程度で。そしてじよじよに速度を上げていく。

 終業後にオフィはこうして、人目をしのんで走り込みを行っている。

 先日の一騎打ちで、自分の立ち回りがいかにぜいじやくであったかを思い知らされた。

 その夜は気落ちしたし、まくらで声を殺して泣きもしたが──

(……めそめそしたって、時間は待ってくれないもの)

 仮入団期間はふた月。たとえ脱落せずに期間をまんりようしようとも、《セント・クロワ》の名を背負うにあたいすると判断されなければ、正式入団できないのだ。

 ゆうは短い。オフィが今成すべきは打ちひしがれることではなく、りきを上げること。

『騎士を騎士たらしめるものは日々の努力に、わずかな素養を磨き上げるにんたいですぞ』

 鍛錬中のふとしたしゆんかんに、師の言葉を思い出す。

 元虚弱体質には、残念なことに素養はない。だからってあきらめてなんかいられない。

 諦めて、げるくらいなら。初めからオフィはを目指したりしていない。

 目の前の課題、ずばり基礎体力の向上を目標にかかげて今日で五日目。

 ──正直、ハロルドが「しんどいんじゃねえの」と言ったことは当たっていた。

 ただでさえ訓練でこく使した身体を、さらに持久走でいじめ抜いている。筋肉痛とろうで身体の内側はまんしんそう状態だ。

 おまけにすいみん時間をけずっている上につかれすぎているためか、目をつむった次の瞬間に朝を迎えるような感覚で、たのだか寝ないのだかわからない夜が続いていた。

(走り込みが終わったら、帰ってりでしょ、あと剣の手入れもしてそれから……)

 このあとの予定を頭に並べていたら、くらっと眩暈めまいがした。ここ何日かで、何度か同じような現象が起こっている。

 それも目を閉じればすぐに治まっていたのに。今日は、視界が絵具えのぐを混ぜるようにゆがむ。

 みような感覚に、オフィはたまらずその場にうずくまった。

「なにっ、これ、気持ち悪い……」

 ぞうじかすられるような、不快な感覚がせり上がってきたせつ

 一気に天地がわからなくなり──オフィの世界は真っ黒に染まった。


(…………あれ?)

 なぜか、目線の先に、ぼんやりとしたあかりの浮かぶてんじようがある。

 外にいたはずなのに。まどろみに片足をつっこんだままの頭で考えるオフィの頭上がかげった。──人が上からのぞき込んでいる。

「あ、目ぇ覚めた?」

「ふく、たいちょう? …………えっ、なんで副隊長!?」

 じようきようは理解できないままだが、意識はかくせいする。

 そこで初めて、オフィは自分がながの上で寝ていることを知った。うわけと、ごていねいに頭の下には折りたたんだ布まで。

(ちょっと待って。ということは、ここはもしかしなくても!?)

 飛び起きると、そこは案の定、見慣れた執務室だった。

「三時間くらい寝てたぜ。のどかわいたろ、なんか飲みモン取ってくるな」

「そんなに……? ありがとうございます、副隊長」

「いきなり飛び出してって、意識のないお前をここに運んだのはアレクだかんな。礼はあいつに言っとけ」

 ────え、隊長が?

 そしてハロルドとは別に、もう一つ感じる気配。

 気配を辿たどって視線を動かすと、執務机にはアレクがいた。安定の仏頂面を晒しているが、その眉間の皺がみるみるうちに深くなっていく。

「ハルっ、お前なあ!」

「あ~悪ぃ、つい口からぽろっと」

 いきり立つアレクに、ハロルドは空気のように軽い謝罪をはなった。そして逃げるが勝ちとばかりにそそくさとびらを閉める。あの様子だと、どうやら口止めされていたようだ。

「……この五日間、訓練のあとに走り込んでいたようだな」

 はなすような冷たさはないが厳しいそのこわに、オフィはごくりと息をむ。

「は、い。自主練を……」

「その自主練によって疲労が極限に達し、睡眠不足もたたって倒れたわけか」

 あらしの前のようないやな静けさが下りたさんぱく後、オフィめがけて特大のかみなりが落とされた。

「身体が資本の騎士にとって、健康管理も仕事のうちだろうが! おのれの体調をないがしろにし、無理を重ねてぶっ倒れるなんてほんまつてんとうもいいところだこのドほう!」

 ガラスが割れるのではないかと思われるほどのごうが室内にひびき渡る。アレクにはこれまで何度もしかられたが、ここまでのこもった声を浴びせられたことはなかった。

 加減されていないそのはくりよくされてしまい、オフィはかめのように首をすくめる。

「も、申し訳ありません! ……でもどうして、隊長がそのことをご存じなんですか?」

一昨々日さきおとといにたまたま窓の外を見たら、ちょうどお前が走っていたんだ。それからはたまに目を向けるようにしていた」

 そういえば終業後にオフィが走っている最中も、引き上げる際も、執務室の窓からは明かりがれていた。その執務室、まどぎわのアレクの席からは、訓練場を一望できる。

(隊長が陰で気にしてくれてたから、寒空の下に放置されずに済んだのね)

 きよぜつ反応をおして運んでくれたことへの感謝と同時に、健康管理をおこたったせいでめいわくをかけたことをもうせいする。

「俺が知っていたから運よく発見できたものの、下手をすれば危険だったかもしれん。走り込みはもうやめておけ」

「それはだめです! わたしは努力して、力をつけないといけないのに」

「努力ってのをはき違えるな」

 ぴしゃりと言いきられてしまい、オフィは押し黙る。

「しゃにむにがんばりぶっ倒れて、得られるものがあると思うのか」

「っ、だって同じことしてちゃ追いつけないもの!」

 自分の瞳がにわかにうるんでいくのがわかる。オフィは咄嗟に顔をせた。

 絶対に泣くもんか。あふれたが最後、せきを切ったようにいろんなものが止まらなくなる。

「わかってますよ己の性能くらい! けど二カ月の間に認められなきゃいけないから!」

 騎士学院を出ていなくても、戦場に立っていなくても、自分はオースティンに教授された身。そこそこやれるという自負はあった。

 なのに──

 熟練隊員にはまるで歯が立たなかった。少年従騎士は倒せたが、消耗戦になったらおそらくもたないだろう。瞬発力や技術ではれても、女子であるオフィは体力やたいきゆうせいで劣る。

 わたしはやれるだなんてとんだかんちがいだ。いざ現場に立ったら、経験も強度も足りない自分はうすっぺらくてもろかった。

 身も心も、嵐の去った大地のようにズタズタだ。

 それでも折れない。心に突き立てたちかいを、折るわけにはいかない。

「──なるの、わたしは。《セント・クロワ》の騎士に、絶対」

 上掛けをぎゅっと握りしめると、頭に何かがコツンと当たった。たんおうしよくのキャンディだ。

 顔を上げると、アレクが同じものを口に放り込んでいた。

(投げてよこしたってことは、くれたのよね? ……あの隊長が、わたしに?)

「自らの弱点を克服しようともがく向上心を否定はしない。むしろ壁を前に、くじけて前進を諦めるようなやつはいらんからな」

 キャンディの食べ方としてはちがいの典型、がりがりとくだくアレクが言葉を継ぐ。

「だが忘れるな、お前はまだ記章すらないひよっこだ。追いつく以前の問題で、同じ場所に立っていると考える時点でずうずうしいわ鹿め」

「あのっ、さっきから阿呆とか馬鹿とか、少し失礼じゃありませんか!?」

「ここは血気さかんなとう派の集まるところだぞ。ぞうごんあいさつ、自主規制用語も平然と飛び交う。阿呆や馬鹿なんて序の口も序の口、おれいな部類だ」

 罵詈雑言はまだわかるけど、自主規制用語ってなんなの!?

「今日は帰ってすぐ寝ろ、隊長命令だ。もし逆らったらクビにしてやる」

「それって職権らんようじゃない! 最ッ低!」

「てめぇこの小娘、隊長への口のきき方がなってねーなこら」

「なんか口悪くなったわねこの暴君っ、最低馬鹿仏頂面!!」

 感情の高ぶりに任せて、罵詈雑言のを使い果たしたオフィが立ち上がると、ふいにアレクと視線が交わる。

 鋭く厳しいそのまなざしにはけんより、見定めんとするしんさがあった。

「今は訓練に一点集中しろ。慣れたら走り込みでもしやしゆぎようでも勝手にやれ」

「──わかりました。このくつじよくは必ず晴らしてみせますので」

 台詞ぜりふとも宣戦布告ともつかない言葉をアレクめがけて投げた。そのときだ。

「おまちどぉ~。《セント・クロワ》の裏名物、味は『苦い』『からい』『すっぱい』の三重苦、でも疲労回復に効果てきめんの特製ジュース持ってきたぜ~」

 能天気な声を差し込ませ、ふんも何もおかまいなしとばかりに押し入ってきたハロルドに、オフィはこけかけた。

「なんだぁ、このなんとも言えない空気? 二人ともどした?」

「……副隊長ってたまに最強ですよね。主に精神面で」

 それどういう意味? 首をかしげるハロルドからオフィはゴブレットを受け取る。

 中身は食べ物で出来ているというが、やけにとろみがある上に色は完璧にどろみず。味の三重苦に、『不快』を付け足したくなる見た目の特製ジュースを、オフィは潔くあおった。

「苦ッ、辛ッ、すっぱ! ものすッッッごくいけど、ごちそうさまでした! あとかいほうしてくれてありがとうございました! 失礼します!」

 まくしたてるように言って、オフィは執務室を飛び出した。あわただしく走り去りながら、もらったキャンディを口に放り込む。

(……キャンディを食べるのは、初めてじゃないのに)

 すぐに食べてしまうのはなぜかもったいない気がして、オフィはみ込むような甘さをゆっくりと時間をかけて味わった。


 従騎士(まだ仮入団中)となって、二度目の公休日。

 ひとばらいした私室で、オフィはせいこんいろのワンピースに着替える。かみはレースのリボンで結び、足元は動きやすいブーツ。

 王女としては地味でも、いつもの男装まがいの制服姿を考えれば女の子らしいよそおいだ。

(よし行こう、やっぱり疲れたときの特効薬はアレよね)

 町娘風の姿を取ったオフィは窓から木に飛び移った。そのまま枝を伝って難なく着地。少し離れたじようへきまで歩き、ひとがないことを確認しまた木に登って城壁をえる。

 子供の頃から使っているだつしゆつ経路。彼女は供も連れずこうして忍ぶのがしゆなのだ。

「誰もいない……と」

 城下に下りたオフィは、慣れた足取りでにぎやかな市場へと向かう。

 声をかけてくる男どもをいなしつつ、オフィはこの辺りでは珍しい、深い緑の木骨と白い壁がおとぎの国の家のように可愛かわいらしい店に堂々と入る。名前と虚弱体質しか知られていないからこそ可能なことだ。

「おや、フローラちゃんいらっしゃい」

 中にいたのは店主の奥さんだ。今日も今日とてはだつやかつぷくが良い。

「こんにちは。女将おかみさん、今日のおすすめはなんですか?」

「レーズンとナッツのフルーツケーキかね。甘く味付けしてあっておいしいよー」

 パンと焼きを売っているこの店は、オフィの今一番のお気に入りの店だ。

 初めての公休日でこの辺りを歩いていたとき、オフィはごろつき同士のけんそうぐうした。

『喧嘩ならよそでやんな! 商売のじやだよ!』

 店から出てきた女将が、ごろつきの頭をめん棒で力いっぱい殴ったかと思えば、

『おうわけえの、イラつくのは糖分不足だ。オレの菓子食ってみな、ほっぺが落ちるぞ』

 と、店主は焼き菓子をごろつきの口にめいっぱいつっこんだという。

 そのあとふうは通りがかった王立騎士にごろつきを突き出し、事を自力で解決。お菓子の味は無論のこと、オフィは店主夫妻のきもたまひとがらがすっかり気に入ってしまったのだ。

「じゃあそれをください」

「はいよ。あとこれは店主の自信作なんだけどね」

 オフィが甘いものに目がないことを承知している女将は、他にも数種類のお菓子をすすめてくれた。しかし今日はたなに並んでいるパンとお菓子がいつもより少ない。

 オフィの考えを察したのか、女将は申し訳なさそうにまゆじりを下げる。

「ごめんよ、今は材料が手に入りにくいせいで数も種類も少なくて」

「えっ何かあったの?」

「ここのところとうぞくが商人の馬車をおそっているせいで、材料不足気味でね。早くとうばつしてもらいたいもんさ」

「……そっか」

 盗賊シメる。女将に自分が従騎士であることを伝えていないオフィは、心の中で固く誓った。

 きゆう殿でんの料理人が作るお菓子はもちろん絶品だが、おしどり夫婦のぼくで優しい味わいのお菓子はオフィの元気の素。食べられなくなっては困る。

「それとついさっき、チーズケーキが全部売れちゃったんだよ」

「えぇぇぇぇぇぇ!?」

「いつも大量に買ってく子が来てね。ぱっと見こわいけど男前でれいただしくてさ。フローラちゃんといい、うちのお客さんは美男美女率が高い気がするねぇ」

 男前はどうでもいい、色気より目先の食い気! 楽しみにしていた目当ての品がないとわかったオフィはその場にへたり込む。

 オフィがこの店で何より好きなのがチーズケーキだ。ほのかなレモンのかおりがさわやかで、のうこうなのにくどくなくそのなめらかなしたざわりときたら!

(ああ食べたかったなチーズケーキ……ひとめしていった奴、腹でも下してしまえ)

 どこの誰とも知れない人物をじんな理由でのろったとき。扉に付いたベルが鳴った。

「すまない、さっきのフルーツケーキをあと三つ追加で──」

「た、隊長っ!?」

「……アシュレイ?」

 入店したのは、大きなかみぶくろを抱えた仏頂面の上官だった。


(……なんでこんなことに?)

 店ののきさきもうけられたテラス席。

 日よけのパラソルの下で、ここよい風を感じながらいこいのひとときを過ごすための場所だが、なぜか向かいには先ほど店内で遭遇したアレクがいる。

 彼は仕立ての良い白シャツにグレーのベスト、黒いズボンといったシンプルな格好をしていた。

 顔とスタイルはに良いので、これがまたなんとも決まっている。

「おやまあ知り合いかい? さあ座った座った」と、この状況をごういんに作り出した女将はお茶を運び終えるなりそう言い残して、店内へいそいそ引っ込んだ。

 気をきかせたつもりのようだが、女将さーん、この人ただの上官なんですけどー。

 耳が痛いちんもくが落ちる中、アレクはガサガサと紙袋をあさり始めた。そして。

「やる」

「…………え?」

 差し出されたのはふくらんでいる紙袋。開けてみると、中には売り切れたはずのチーズケーキが二つ入っていた。

「扉を開ける前に『チーズケーキが売り切れた』って声が聞こえた。まさかゆかにしゃがんでうなだれるほどもうれつに落ち込んでいるのがお前とは思わなかったが」

「わたしもお菓子を大量に購入していったのが隊長とは……」

 オフィが疲労で倒れた折にキャンディを食べてはいたが。この仏頂面がケーキをほおる姿……いかに想像力をき集めても、脳内キャンバスには描けそうもない。

「今日はまだ少ない方だ。これだと二日分ってとこか」

「その量で二日っ!? どれだけあまとうなんですか!?」

「三度の飯より甘いものが好きなだけだ」

 言うが早いか、アレクはお茶にどばどばとじんじようではないはちみつを落とす。

 そのままスプーンで何度かかき混ぜ、赤いげきあますいと化した液体を何食わぬ顔、もとい仏頂面のまま飲みきった。

「……威圧感満点のふうぼうに似合わないこうをしているのはわかりましたけど。それなら、わたしにケーキをくれるのはどうしてですか?」

「食べたかったんじゃないのか?」

「そうですけど、自分のぶんがなくなりますよ」

「まだ残ってるからいい」

「何より隊長、わたしのこと嫌いでしょう? そんな相手にゆずっていいんですか?」

「お前の顔は天敵でも、別にお前自身を敵視してはいない」

「………………へ?」

 とんきような声が出た。毎日のように『胃のかいしや』だの『視界の暴力』だのと暴言を吐いてくる人が、何を言っているの?

 かいき出すオフィに、アレクは仏頂面のままたんたんと話す。

「俺はお前に騎士の厳しさを教えて、《セント・クロワ》から叩き出す気満々だった」

「満々って、どれだけわたしを追い出したかったんですか!?」

「ところがお前は口先だけのこんじようなしでも、生半可な気持ちでもなかった」

 こんちくしょうめ。用意していたおとしごろの娘らしからぬとうの言葉は、アレクの不意打ちによる高評のせいで、喉の奥にうずくまったまま出てこなくなってしまった。

「だから最近俺はお前に対して、退団しろとは口にしてないだろうが」

「い、言われてみればそうですけど。わたしの顔に対する暴言は相変わらずですよね」

「俺は拒絶反応をこらえて、そのじようだんみたいに綺麗な顔を拝むよう努めているんだ。暴言の一つや二つ大目に見ろ」

 たしかにここ二週間の間、アレクと目が合うことがたびたびあった。

ぐうぜんじゃなかったのね。隊長なりに、歩み寄ろうと行動に移してくれたんだ)

 仏頂面の下に隠れた努力を思うと、かんがいぶかいものはあるのだが。

「……上官の八つ当たりを受けることには、どうにも納得がいきません」

「なら無理やり納得しろ」

 こうも悪びれずにいつしゆうされると、はんげきする気ががれることはなはだしい。

「隊長くらいですよ、こんな美人を前にそんな悪態つくのは」

「残念だったな、まんの顔によろめかない上官で」

「うわいやっ。言っときますけどこの顔にもそれなりの苦労はあるんですぅ」

「腹立つやめろ。苦労ってのはどうせ男受けがいいとかだろ」

「簡単に言ってくれますが、これが結構大変なんですからね」

 オフィも純度満点の女子だ、異性からちやほやされてうれしくないわけじゃない。

 ただ、

「昼夜を問わず、日常的に言い寄られたらどう思います?」

 自分の立場にえているらしく、アレクが腕を組んでもつこうする。そのうちに、

「……地味にわずらわしいなそれ」

「ね?」

 それに輪をかけて煩わしいこともある。

「女は美人に対して厳しいんですよ。口では『お綺麗ですね』って褒めといて、こっちが『いえいえそんな』ってけんそんすると、お腹の中ではそんなこと思ってないでしょうが、って敵認定する寸法なわけです」

 これががみきゆうのセラフィーネだと、人はねたみやひがみをいだこうとすらしない。

 美を追求して造られたせつこうぞうしつしないのと同じで、相手との間に絶望的な差がある場合はかくたいしようとみなさないからだ。

(わたしくらいの美人は、攻撃対象になっちゃうのよね)

 王女であることを秘密にしている以上、オフィは身分という武器で相手を退けられない。

 したがって女の世界──特に社交界では、レディたちから妬みの視線のいつせいそうしやを浴びせられ、散々嫌味ったらしい言葉と態度をぶつけられてきた。

 そんな楽しいとはいえない実体験のおかげで、己のぼう(変装時込み)が異性・同性にどの程度のえいきようりよくおよぼすのかにんしきするに至ったわけだが。

「男はそういうのはあまりなさそうですよね」

「まあ女みたいにいん湿しつなものはないな」

 顔のことをねちねち言う男なんて、うつわが小さいと思われるだけだしね。

「かくいう隊長も、仏頂面でもれっきとした美形ですし。あ、もしかしてしつこく女性に言い寄られたせいで美女嫌いになったとかですか?」

「ほとんどの女は、俺と目が合うと身を竦めるか後退する」

 言外に否定された。アレクの美女嫌いは女性のつきまといなどがほつたんではないようだ。

(でも理由をはっきり言わなかったのは、言いたくないからよねきっと)

 ならば追及すべきではない。人間誰しも、れられたくない私的な部分はある。

 オフィはアレクが口にしていたクッキーを指さして、話を変えた。

「隊長、仏頂面のせいでせっかくのクッキーが、砂を嚙んでいるみたいに見えますよ」

「ちゃんとうまいぞ。お前も食うか?」

「えっ、と。じゃあ、いただきます」

 おすそわけは想定外だったがせっかくだ。オフィはクッキーに手を伸ばした。

 ──うわっこれおいしい!

 鼻に抜けるあらめに砕いたアーモンドのこうばしさ、バターのちょうど良いあま

 口の中においしい幸せが広がればおのずと手が進み、気づいたときにはクッキーのふくろはカラ。やってしまった。

「……すみません、おいしくてつい」

「菓子と酒、どっちが好きだ?」

 せいせいが飛んでくると思いきや、アレクが発したのはどちらでもない質問。

「? わたしは甘いものが好物なので、断然お菓子ですけど……」

「お前を評価できる点ができた。《セント・クロワ》は酒派が過半数をめるからな」

「そんな騎士の本分とまったく関係ないところで評価されても嬉しくないです!」

 テーブルを叩いてたけるオフィに、アレクは腹が立つほど尊大に言い放つ。

「騎士として評価して欲しいなら、俺にそうさせるだけのものを見せてみろ。言うまでもないが俺は嗜好以外甘くないぞ」

「仏頂面スイーツ将軍には、今に目にモノ見せて差し上げますから!」

「その意気やよし。……いや待て、その仏頂面スイーツ将軍ってのはなんだ」

「隊長のあだに決まっていますっ」

「ふざけるな! どうせならもっとうまそうな呼び名にしろ!」

 つっこむトコそこなの!?

 ぎゃいぎゃいと内容に重みのないぜつせんでやり合っていると。

 さわぎを聞きつけたのか、店内に引っ込んでいた女将がひょっこり顔を出す。

「盛り上がってるようだねぇご両人。今日はもう店を閉めちまおうか」

 この生ぬるい視線。十中八九、あらぬ誤解をされている。

 弁明したところで肝っ玉女将にはそうかいそうかい、と相手にされないのがセキノヤマ。『てつ退たいあるのみ』、二人の意見は珍しくいつした。

 オフィとアレクがいとまを告げると、女将は「毎度~、二人でまたどうぞ!」と全力で誤解した見送りをしてくれた。次に訪ねた際になれそめは、と訊かれること必至だ。

「隊長が《セント・クロワ》のげんえき隊長だって、女将さんは知ってるんですか?」

「いや、下手にきようしゆくされたくないからな。よほどのみの店にしか言ってない」

「……ですよね」

 いかに肝っ玉女将とは言え、泣く子も黙る大騎士様と知りながらあの態度は取れまい。

「──あれ? 隊長、悪かったでしたっけ?」

 となりを歩くアレクは、店を出るなりふところから取り出した、ふちがほとんどない眼鏡をかけた。

 品の良いそれを人差し指で持ち上げつつ、アレクは「違う」と。

「視力に問題はない。これはただのガラスだ」

「じゃあなんでわざわざ?」

「俺にめんえきのある人間の他は俺を直視すると恐がるからな。私生活でまで不必要に一般市民をおびえさせるのは本意じゃない」

「ならその仏頂面に、愛想をしつらえたらいいのでは?」

「……無理やり笑うとよけい恐がられる」

 これは過去にやって失敗したな。

「なんかすみません。……でも眼鏡は正解ですね」

 眼鏡でへだてることで、騎士をもひるませる眼光の鋭い角が取れたように感じる。独特の威圧感は健在だが、だんの三割ほどは軽減されているようだ。

「隊長ってうわぜいはありますけど、あからさまにきんこつりゆうりゆうな大男ではないので。顔立ちも整ってますし、その姿だととても《セント・クロワ》の隊長格には見えません」

「喜んでいいものかみようだな」

「美人を連れて歩く男前かぁ、野郎のやっかみを買う典型的図式ですね」

「不本意にもほどがある」

 アレクが、にべもしゃしゃりもない言いようでてた直後。彼の肩の下に、違う肩がぶつかる。

 肩の持ち主は男四人組みのうちの一人。全員、素行に難がありそうだ。

「ってえなぁ、どこ見て歩いてんだてめえ!」

べつぴん連れ歩いて浮かれちゃってんじゃねえのー、なあ色男?」

 アレクが低くぼやく。

「言ったそばからか。お前いっそ仮面でもつけて生活したらどうだ?」

「そんなふくめん生活、まっぴらごめんです」

 あごを上げてそっぽを向くオフィに、アレクは無言で自らの荷物を押しつける。

「持ってろ、すぐ終わる」

「肩書きひけらかして追い払う方が手っ取り早いんじゃ?」

「それだと他にがいが及ぶだろ。血の気が多いわかぞうには教育的指導をしておく」

 非番でも悪漢を放っておかないあたり、アレクはなかなかどうして仕事熱心である。

(向こうの男たちと隊長、たいして歳は違わないと思うんだけど)

 若僧呼ばわりの男四人組は、「女の前ではじをかかせてやるぜ」とんでいる様子だ。

 ちんぴらが数人がかりだろうと、おくれを取るようなアレクではない。帯刀はしていないが、懐にナイフかダガーは忍ばせているはずだ。出番があるかはあやしいが。

 もくを決め込んだオフィは邪魔にならないよう、アレクから距離を取る。

「あとはご自由に。行き過ぎた指導で、仮にも一般人の命を攫わないでくださいね」

「ぬかせ、俺がそんな下手を打つわけあるか」

 アレクのゆうようせまらぬ態度がかんさわったらしく、息巻いた男たちが襲いかかる。

「自らのバランスを保つための筋力がまずなってない。手と足の間合いも悪い、次」

 一歩たりとも動くことなく、アレクは二人を地面に転がす。

「親指を拳の中に入れたまま殴るやつがあるか。打った衝撃で折れるぞ」

(……なんかもう、指導というより……)

 かんしやくを起こした子供とそれをしつける親の様相をていしている。要は喧嘩にすらなっていない。

「戦場じゃないんだ、突っかかる前に相手の力量を計れ。命をまつにするな」

 最後は説教まで垂れたアレクは男らを片腕、それも手首から先だけでかんぷうした。

 約束されたも同然の結末。しかしこうも一方的だと、のされた四人がびんでならない。

 あせの一筋も流さず事を収めたアレクは男らをゆうぜんと担ぎ、通行の妨げにならないようみちの端に移動させる。後始末も抜かりない男だ。

「あとは王立騎士にきつくしぼってもらえば、素行もきようせいされるだろう」

「それってほぼとどめですよね……」

「俺はこいつらを引き渡すまで戻らんが、お前はどうする?」

「帰って大人しく戦利品をたんのうします」

 オフィの返答にアレクは「大丈夫か?」と聞いてくる。一人になったオフィが、男に言い寄られることを気にしたゆえに出た質問だろう。

 思いがけず心配されてめんらったが、おくれてふんわりとした温かさが胸を満たす。

「大丈夫です。まとわりつく男をさばくのは慣れてますから」

「…………まあ、道中気をつけろ」

 了解ですと敬礼し、オフィはその場を後にする。

(初めて隊長とこんなに話したわ。……隊長、人のことをしっかり見てるのね)

 ──大の苦手である顔のわたしでさえ、ちゃんと。

 上官との関係に好転のきざしが見えたことを喜ぶ一方で、少しおもゆいと感じたオフィであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

秘密の姫君はじゃじゃ馬につき かわせ秋/ビーズログ文庫 @bslog

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ