ぼくの旅はあなたと共に ~エロかわ先輩と一夜の過ち!?~

〈金森 璋〉

沖縄旅行にレッツ☆GO!

「ねーねーねー、田之上くんっ」

「なんですか吉川先輩」

 今日もまた、ぼくは騒がしい先輩研究員と日々を過ごしていた。

 吉川美奈。ぼくの先輩。科学者のくせに妙に歴史や雑学に詳しい。そして、エロい。

 柔らかく滑らかな香りの香水……なのか、シャンプーの香りなのか。どちらにせよ、そういった類の、ぼくたち男性にとってはある場所がいきり立ってしまいそうな『そそる』香りをまとっている。

 それが直接的にエロい、という表現に繋がるわけではない。

 つまり、見た目にしてもエロいのだ。

 つややかな、腰まである長い黒髪。ぼくよりも年上なのに、高校生あたりと間違ってしまいそうな童顔。そして、どう考えても身体に不釣り合いなほど大きい、バスト。

 この女性はフィクションか?

 毎日、朝に顔を合わせるたびそう思わせる破壊力。

 当然のことながら、彼女は男性研究員の視線をくぎ付けにしている。

 だが最近は、何故かぼくのことがお気に入りらしく、ときどきちょっかいをかけては逃げていく、というのを繰り返していた。

 今回もその一環なのだろう。ぼくはおざなりに吉川先輩のことをあしらう。

「私ねぇ、ゴールデンウィークは沖縄旅行に行きたいな!」

「…………は?」

「沖縄旅行にヨーソロー!」

「いや、ぼくの予定も考えてくださいよ」

 というか、男性と二人で旅行に行くということがどういうことなのかわかっているのか、このエロ研究員は。

「だめ?」

「だめも何も」

 歓迎だけれども。

「ぼくなんかと行っても面白いことなんかないですよ。ていうか、吉川先輩、この間ブランドもののバッグを衝動買いして」

「バッグじゃないもん財布だもん!」

「……財布を衝動買いしてお金が無いって言っていたじゃないですか」

「そうだけどぉ」

「そんな子供みたいな反応されても無駄です」

「ちぇっ」

 そう言葉で突き放すと、吉川先輩はぼくの背中のほうにある自分の机のほうへワーキングチェアーで滑走し、戻った。

「あーあ。行きたかったなぁ沖縄。ラフテー。テビチ。ソーキそば。ミミガー」

「よりにもよって何でそんな男飯チョイスなんですか」

「いいじゃない。ちんこすうとか子供の食べ物よっ」

「よりにもよって何でそんなところを間違うんですかっ!」

「え? 違ったかしら?」

「ちんすこう、ですよ。そんな子供みたいな間違いしないでください」

「ええー。だってわかんなかったんだもの。私、国語の成績が特別悪かったわけじゃないんだけれどなぁ」

「しらばっくれたって無駄です。ていうか、沖縄旅行だなんて、どうしてぼくに話を持ち掛けるんですか。吉川先輩、あんたならよりどりみどりでしょうに」

「だからこそ、田之上くんをチョイスするんじゃない」

「はい?」

 ぼくは耳を疑った。

 だからこそ、ぼくを指名する。

 その意味がわからなくて、ぼくはフリーズする。

「だって。この研究所で一番モテない田之上くんなら、ゴールデンウィークも暇なのかなって思っちゃってさ」

「そういう吉川先輩の方こそ、誰かと予定、立ててないんですか?」

「それが、みーんな先客、先客よ。私ばっかり出遅れちゃったってわけ」

 ぐ、と背伸びして、吉川先輩は続ける。

「あーっ! ゴールデンウィーク暇なんて嫌だよー!」

 いやまぁ、ぼくだって吉川先輩を連れて逃避行して一夜の過ちを犯すくらいの気概は持っているんだよ。

 でも気概だけで飛行機が空を行くならこんな葛藤なんてしない。

 お金がないのだ。そう。お金が無いのだ。

 結果、僕は吉川先輩とのラブラブ(に、なるかどうかはわからないが)沖縄旅行を諦めざるをえなか


「当たったーっ!!」


 ……った?

「田之上くん、田之上くんっ、当たったよ当たっちゃったわよ!」

「何がですか、ちょ、そんなぐいぐいスマホ突き付けられちゃ画面見えませんって」

「ほら、見て、ほら」

「はいはいわかりましたから。えっと、沖縄旅行ペアチケット、二泊三日、ゴールデンウィークにご招待」

「っていうチケットが当たっちゃいました~」

「え、ええー……」

「やっだー私ったら本当、ツイてるっていうか神ってるってか、神様に愛されてるっていうか~?」

「俺は、いったいどうすればいいんですか?」

「もちろん、ペアチケットなんだから一緒についてきてよね」

「え、な、はいぃ!?」

 こうして、ぼくは晴れて捕らわれの身となり、吉川先輩との沖縄旅行に連れ出されることになった。



「おーいしーい」

「確かに」

 そしてぼくたちは、沖縄を満喫するためにあちらこちらを歩き回っている。

 抽選券にはツアーがついておらず、観光自体は自分たちの足で行う仕組みになっていた。

 そのため、ぼくは吉川先輩の気に入りそうなスポット(主にグルメ系)を探して連れまわすことにしたのである。

「やっぱりパンケーキは女の子の鉄板よね。こんなお店、どこで知ったの?」

「ある漫画で。その漫画での描写がすっごく美味そうだったんで」

「へぇ、意外だわ。田之上くんって漫画とか読むのね」

「割と好きですよ。小説とかより漫画の方が絵が付属してる分、イメージしやすいですし」

「あはは、理由が田之上くんっぽかった」

 二泊三日の二日目。真ん中の日のお昼ご飯にこのパンケーキショップを選んだ。

 運ばれてきたパンケーキはボリュームたっぷりで、小柄な吉川先輩には多いのではないかと思われた。

「本当に全部食べ切れるんですか」

「ふぇ? ふぁんれふって?」

「食べきれそうですね」

 要らぬ心配だったようだ。

「ん、っく。それで、田之上くん。今後の予定はどうするつもりなのかしら」

「この後ですね。まあ、こんな風に沖縄まで来たのに海とか砂浜とかそんなのに触れないっていうのももったいないので」

「水着なら大歓迎よ」

「…………」

 どうしてそう身体の露出にこだわるのだろうか。

 そう言っている今も、腹部がちらちらと見える黒地のチューブトップにパステルイエローの薄地のシャツを前開きにして、下半身はごくごく短いデニムパンツといういでたちだ。

「いえ、まぁ、海に入りたいならそれもいいと思います。でもとりあえず、船に乗ってみようかなと思ってまして」

「船かぁ。いいじゃない」

「それも、ガラスボートです」

「ガラスボート……って何? 初めて聞いたわ」

「その辺は乗ってからのお楽しみということで」

「ふうん。なら楽しみにしておこうかなっ」

 そう言って、吉川先輩はナイフでパンケーキを大きめに切り出して、生クリームをたっぷりとつけて大きく口を開けて口に含んだ。

 とってつけたようなプログラムのこの旅行だが、嬉しいことに吉川先輩は満喫してくれているようだ。

 どのスポットに連れて行ってもミミガーが出れば美味しそうに食べ、チャンプルーが出ればそれを美味しそうに食べ、小腹がすいたからと言ったので買ったポークおにぎりを美味しそうに食べ……。

 食べてばっかりだな、この人。

「どこにそんな質量がおさまるんだろう……」

「何の話?」

「いえ。ちょっと生命の神秘について考えていたところです」

 そして、ぼくもパンケーキをひとくち食べようとうつむいた。

「ふふ。楽しみだなぁ。沖縄って楽しいわね」

「そうですね。ぼくも来れて良かったです」

 ポークソーセージをナイフで切る。あらかじめ一口大に切っておいたパンケーキと重ねてフォークで刺し、口の中に入れた。

 シロップの甘味と、染み出してくる塩気の強い肉汁。それらを包み込む柔らかな感触。鼻腔に抜けるメープル独特の風味とスパイスの香りが心地良い。何回か噛み、味わい、そして、それらの魅力をしっかりと受け止めながら飲み込んだ。

「あー、それにしても楽しみね。どんな素敵な場所に連れて行ってくれるのかしら」

「生物学的にはとても面白い場所ですよ。何せ、希少生物がたくさんいますから」

「やだー、そんなお堅い言い方しないでよ。今の私たちはさ」

 ワンテンポ置いて、先輩はわざわざ椅子から身体を浮かせて、ぎゅ、っと。

 ぼくの右手をとって、吉川先輩の……胸に。胸部にやわらかくてふわふわでたゆたゆなあの部分に。

「こ・い・び・と、なんだから」

「お、……う、お」

 思考、フリーズ。

 頭にがんがん血液が昇っていくのがわかる。ていうか、やばい。やばい。やばいとこにも。

「なんてねっ」

「ちょ、か、かぁらかわないでください」

「やだ、本当に冗談よ」

 手を放して、吉川先輩は椅子に戻り、笑った。

「冗談でもやっていいこととやってはいけないことがありましてですね」

「すいませーん、チョコバナナパンケーキプレート追加で」

「ってまだ食べるんですか」

「だって美味しいんだもの。田之上くんも食べない?」

「ぼくは遠慮しておきます」

「そう。おっけー。じゃあ私は美味しくいただきます」

 ほどなくして、新しい皿が運ばれてくる。

「わーお、これもまた美味しそう!」

 吉川先輩は、運ばれてきたパンケーキのきつね色に、ざっくりとナイフを入れて大きく切り取った。アイスを乗せ、口に運ぶ。

「んぅ、おーいしっ」

「はは、良かったですねぇ……」

 にこやかにパンケーキを食べるその姿に、屈託はない。無邪気で、可愛らしくて、華がある。

 ぼくは吉川先輩のことを横目で見ながら、残っているパンケーキに手を付ける。コーヒーをすすり、一息ついて。

 ほんの少し、口にしたい、と思った言葉を口にしようとして。

「……ぼくには、不釣り合いかな」

「ふぇ? ふぁんれすって?」

「いえ、何でもありません」

 口を塞ぐように、パンケーキを口に詰め込んだ。



 波の音深く、澄み渡る空と海に白い砂浜。

 東京の海や浜と違い、潮の香りも、砂も違う。

「すごいわねぇ。この砂って、サンゴのかけらなんでしょ。生命の神秘だわ」

「そうですね」

 生命の神秘という言葉は吉川先輩にもあてはまりそうだが。

 砂浜に着いてすぐ、吉川先輩はサンダルをぽいと投げ捨てて、冷たい水に足を浸して遊び始めた。

「ほら、そろそろおしまいにしないと船、出ちゃいますよ」

「はぁい」

 子供みたいな人だな。本当に、無邪気という言葉が似合う人だ。

 エロいとか、体をさらすことに抵抗が無いとか、そういう変なところに魅力を感じる人間は多い。ぼくも、昔はそうだった。

 当然のことながら、人間というものは生殖機能がある。そのために、生殖機能が優れていそうな人間に対して好意を抱く。

 だが、段々と。この人は、そんな意地汚いものとは関係ない、人間性としての魅力があるということに気が付き始めた。

 だから、ぼくは。この沖縄旅行に来たんだろう。

 押し倒して一夜の過ちを犯す気概がどうのこうの、と心の中で宣ったが、実際そんなことをするのは抵抗がある。

 まるで、子供に酷いことをするようなもんじゃないか。

「さ、行きましょう田之上くん」

「はい」

 吉川先輩は足の裏についた砂をはらってサンダルに足を入れる。

「うえー、ざらざらする」

「あはは。まあそうでしょうね。歩いてるうちに落ちますよ」

「そうね。船着き場はこの近くなの?」

「ええ。あそこです」

 ぼくは、砂浜の西の方にある入江のそば、平たい小屋を指さした。

 船着き場にはいくつかの船が並んでいる。

「よーし、あそこまで競争よっ」

「え、な、はいぃっ!?」

「ほーらほらほら、よーいどん!」

「ま、待ってくださいよ!」

 そうしてぼくは、白い砂をまき散らしながら、吉川先輩の後姿を追いかけた。



 船底に、海が広がっていた。

 エメラルドのような碧。

 その中に、宝石のごとく色とりどりの魚が泳いでいる。

「綺麗ね……」

 ガラスボートというのは、その名の通り、船底の一部がガラスでできているボートのことだ。それなりに大きい船の底、そのガラス面から、足元に広がっている水底を見られる。

 見たこともない景色。絵にも描けぬ美しさ、という言葉が似合う景色に、吉川先輩は見とれていた。

「あ、ほらあそこに大きな魚がいるわよ! なんて名前なのかしら」

「ブダイの一種ですかね。ぼくも野生のものは初めて見ましたよ」

「鮮やかな青色ね。こんなに水が澄んでいるなんて、不思議」

「本当ですね。来てよかった」

 二重の意味が込められた、来てよかった。

 この景色を見られてよかった。

 この景色を吉川先輩に見せられてよかった。

 二つ目の意味は、吉川先輩には伝わらないだろう。でも、ぼくの心の中は二つ目の理由でいっぱいだった。

 きらきらとした目で皆底をずっと見つめている吉川先輩に、ぼくはつい、見とれてしまっていた。

 水底よりも、吉川先輩の瞳のほうがずっと綺麗だ。

 そんなことを、思いながら。

「さぁ、これからもう少し深い海に行きますよ~。運が良ければ、ウミガメやマンタを見ることができま~す」

「わぁ、楽しみ」

 ガイドの言葉に、吉川先輩はさらに目を輝かせる。

「ああ、エビがいた。田之上くんもこっちこっち」

「え、わっ」

 吉川先輩はテンションのままにぼくの腕に抱きつき、右腕に、ぎゅっと。

「あう、あ」

 胸が。胸部が。

「ねね、見て、見て」

「ちょちょちょ離れてくださ、見えますから」

「えー、だめ? 恋人ごっこ」

 だめじゃないけど。

「くっつかなくても見えますよ」

「あ、あっあっー、隠れちゃった。あ、でも見てあのサンゴ、きれい」

「…………」

 吉川先輩の喘ぎ声。貴重だ。

「いやそうじゃなくて」

「へ? なんですって?」

「いえ、なんでもありません」

「ふーん。あ、あれなんだろっ!」

 ぼくのへんてこな独り言に少し反応をしたものの、吉川先輩はすぐにガラスボートの船底へと目をやった。

 徐々に、碧が蒼に、蒼が藍にと色が移り、海底にあるサンゴ礁が透けて見えるかどうか、というあたりまで船が進んだ。

 波に邪魔をされない、ガラスでできた船底は……彩にあふれていた。

 赤が、黄が、橙が、翠が、あちこちで揺れ、跳ね、見え隠れ。好き勝手に動くその様は、言葉を失わせる。

 吉川先輩は、それに見とれていた。

 言葉も発しない。ただ、きらきらとした瞳をじっと海面に向け、ちっ、ちっ、と動く小さな魚や大型ののんびりした魚の動きに合わせ、自分の体でリズムをとるようにしながら目で追いかけるのだった。

 ぼくは。

 ぼくは、魚たちに見とれることができないでいた。

 吉川先輩の姿を見ることに、必死になっていたから。

 彼女とぼくは、釣り合わない。

 キャリアも違う。学歴も違う。家柄も容姿も、たぶんだけれど趣味も違う。きっと、魅力の天秤にかけたのならば吉川先輩の方へぐっと傾くことだろう。

 一晩の過ち、という言葉は、結局それだけの言葉でしかないのだ。

 それ以上が無いという意味でもある。

 彼女とぼくは、釣り合わない。

 この旅行が終わったら、ぼくと吉川先輩は恋人ごっこをおしまいにして、いつもの研究所での仕事に戻るのだ。

 寂しい。感情がぼくを支配する。

 けれど仕方のないことなのだ。

 だからぼくは――吉川先輩の姿を、必死になって追いかける。

 こんな姿を、再び見ることができるかどうかわからないから。

「きれい……」

 ぽつり、と吉川先輩は言葉をこぼした。

 ぼくはそれを拾い上げ、吉川先輩の無邪気な瞳にあてはめた。

 なんだか、ぎゅっと胸が締め付けられる。

「本当、ですね」

 ぼくの声に覇気が無いことに、気が付いてほしくなかった。

 でも、締め付けられた胸からはぼんやりとした、か細い声しか出なかった。



「はーあ」

 ぼくは大きくため息をついて、ソファにどっかりと座り込んだ。

 昨日はよく眠れていない。

 それというのも、もちろん吉川先輩のせい、と言ってしまっては罰があたるだろうか。

 しかし、そう言うしかない。

 ペア旅行券に充てられた部屋はもちろん、ダブルベッドだった。

 仕方があるまい、と覚悟をしてダブルベッドにもぐりこんだぼくだったが。

 日ごろぬいぐるみを抱いて寝ているという吉川先輩は、ぼくのことを「むーたん、こっちおいでー」とか言いながら抱きしめようとしたり、色っぽい寝息を立てたりなんかして、とてもじゃないが安眠というわけにはいかなかった。

 そして、夜は明けて今日になり、観光をしこたまして、ホテルの大浴場から帰ってきたぼくは大きなため息をつきながら、眠れなかった昨夜を思い出しつつ脱力しているというわけである。

「明日は、帰るのか……」

 それを実感できないでいる。否、したくないでいる。

 明日には砂漠だかジャングルだかよくわからない東京に文字通り飛んで帰る。そして、余したゴールデンウィークを適当に過ごしたら、何事もなく、職業に戻る。

 一夜の過ち。

「犯しても、いいのかなぁ」

 自分でも阿呆みたいな考え事をしている、と自覚している。

 ぼんやり、思って、思って、思って。

 自分が道を誤った先に何があるのかを考えて。

 どうにも答えが出ないでいる。


こん、こん。


「ふぁ、はぁいいっ!?」

「田之上くん、ただいま」

「は、はい、今開けます!」

「どうしたの? すっとんきょうな声出して」

「いえ、何でも……」

「ま、いいわ。あのね、話があるの」

「話、ですか」

「そう。大事なお話」

 大事な話。心当たりがなかった。

 もしかして、部署の変更か急な引っ越しか、何かしらの理由でぼくから離れなければならなくなったとか、そういう――

「わぷ」

 などと思いを巡らせていると、吉川先輩はタオルをぼくの顔に絡めてきた。

「ちょ、よしかわせんぱい」

「着替えるから待ってて」

「きがえる」

 オウム返しにぼくは返事をして、待つ。

 はて、何故、着替える必要があるのだろう。

 こんな時間に開いているなんて、最上階にある高そうなバーラウンジくらいなもんだが。

「はい、もういいわよ」

 ぱさ、と軽い音を立てて、肌触りの良いタオルがぼくの顔からはがれた。

 見えたのは、セクシーなミニのドレスを着た、吉川先輩。

「は、な、あ……」

「さ、田之上くんもこれに着替えて」

 言葉を出せないほど驚いていると、吉川先輩はぼくにハンガー付きのケースを手渡した。中には、ぼくのサイズに合わせたスーツが入っている。

「行くわよ、呑みに」

 言われるがままに、ぼくは着替えて部屋を出る。

「あの、吉川せんぱ」

「いいの。話はバーに行ってから」

「はぁ」

 吉川先輩の顔は、びしりと澄ました表情だ。緊張でもしているのだろうか。

 片手には小さな紙袋、いわゆるショッピングバックが下がっている。ぼくですら見たことのあるような高いブランドのロゴが上品に袋を飾っている。中身は、わからない。

 ほどなくして、ぼくたちはエレベーターに乗り込む。それはすぐ最上階に到達し、バーに通じるドアが現れた。

 ちょっとだけ、ビビる。

 ドアを開けると、静かなにぎやかさと言ったらいいのだろうか。小さな会話があちこちで交わされ、それらを邪魔しない程度に音楽が混じって、独特の雰囲気を作り上げていた。

「こういうのは、レディーファーストですね。どうぞ」

 ぼくは、吉川先輩をドアの向こうへ導いた。

「どうも」

 見知らぬ場所ではあるが、吉川先輩は堂々とした態度でドアをくぐる。さすが、何度も学会をこなしてきただけある。

 ぼくもあとに続いて、ドアを抜けた。

 緋色のカーペットが足元に敷かれている。複雑な、そして暗すぎない光がバーラウンジを彩っている。

 吉川先輩は窓際のカウンターを選び、背の高い椅子に腰かけた。

 あれ、でも。

「…………」

「どうしたんですか」

「メニューがない……」

「あ、はぁ」

 さてはこの人、バーの作法を知らないと見える。

「ぼくが飲み物、用意しますよ。どんなのがいいですか」

「んー、何があるのかしら」

「バーテンに言えばたいていのものは作ってもらえますよ。そうじゃなきゃ、ぼくが選んできますけど」

「じゃあ、田之上くんに任せようかな」

「はい」

 ぼくはカウンターに向かいながら、なんとなく今日のことや吉川先輩のことを思い出す。

 果物が好き。甘い物はもっと好き。アルコールにはあんまり強くない。いっつも飲み会でへべれけになっているもんな。きっと、この先は長い話になるだろう。

 それなら。

「カンパリオレンジと、モヒートをアルコール強めで」

 こういうセレクトにした。

 手際よくバーテンは二つのグラスにそれぞれの飲みものを用意し、すっと出してきた。カンパリオレンジには飾り切りのオレンジがついていて、吉川先輩が喜びそうなヴィジュアルだ。

 ぼくの頼んだモヒートも、沖縄を反映してか青色のラズール・モヒートだった。これも、吉川先輩が喜びそうだ。

 ぼくはバーテンに一礼してグラスを手に取り、吉川先輩のもとへ戻った。

「わ、かわいい」

「そう言うと思いました」

「そっちのもきれいね。……って葉っぱ入ってるよ!?」

「いいんですよ、これで。モヒートっていうミントのカクテルなので」

「えー、居酒屋さんのはこんなんじゃないよ」

「そりゃ居酒屋と本格的なバーじゃ話は違いますからね」

「へぇー」

 まじまじと、グラスを見つめる吉川先輩。恐る恐る、吉川先輩は手渡されたグラスを傾け、口に運んだ。

「ん!」

 すると、目を見開いて。

「おいっしーこれ」

「そうですか、選んで良かったです」

「バーテンさんに頼んだんじゃなかったの?」

「いえ、僕が頼みましたよ。吉川先輩の好みなら、なんとなくわかってたので」

「……やっぱり」

「はい?」

「なんでもないの。ん、じゃ。田之上くん」

 ぼくが吉川先輩の隣の椅子に座り、窓の外をみようとしたらだ。

 急に、真面目な口調で吉川先輩はぼくに向き直った。

「え、なんですか」

「あのね。あの、ね」

「ゆ、ゆっくりでいいですよ、落ち着いて」

 ぼくの頭には先ほど通り過ぎていった、吉川先輩がいなくなる疑惑が再来していた。

 ちょっと泣きそうな、明らかにアルコール以外の理由で顔を赤く染めた、吉川先輩。

 何度か口をぱくぱくとさせて、やっと、ことばを出した。

「わ、私、と」

「はい」

「……あって」

「え、は」

 ぼくは、耳を疑った。疑い過ぎたからか、幻聴に聞こえた。

 だが、その次ははっきりと聞き取った。


「私と、つき、あって――ください」


 ぼく、が。吉川先輩と?

「い、いや?」

「とんでもない! でも、どうしてぼくなんかが」

「なんか、なんて言わないで。私はね、田之上くんのことがずっと前から好きだったの」

 一息置いて、吉川先輩はぼくについての思いをたくさん、伝えてくれた。

「私ね、田之上くんのぼけっとしてるところが好き。なんにもしがらみが無くて、でも協調性が無いわけじゃなくて、私がはっちゃけても必ず受け止めてくれて。そんな、ところが、好き」

 一言、一言、並べるたびに吉川先輩は顔を赤く染めていって、可愛いことこの上ない。

 だが、まだ信じられなかった。

 ぼくが吉川先輩と。

「こ、これっ!」

 あまり顔を見られたくなかったからか、吉川先輩は顔をそむけて、例のブランドロゴが入った袋をぼくの方に突き出した。

 受け取って、中身を確かめる。両手で支えられるくらいの白い箱の中に、ビロードの箱。そして、それを開くと。

「指輪だ。ペアリング、ですね」

「それ、着けてほしいから」

「用意してくれたんですね」

「……うん」

 これは、証拠みたいなものだ。

 ぼくは環の小さな方を箱から出して、右手で支えた。

「吉川、先輩」

 まだ呼び方さえぎこちないけれど。

 それでも、ぼくを好きだと言ってくれるならば。

「先輩の気持ちに、応えようと思います」

 吉川先輩の左手をとって、その細い指に、ゆっくりと指輪をはめた。

 緊張の糸が張り詰めていた吉川先輩の顔が、驚きと笑みでぱっと明るくなった。だがすぐに、目の端に涙をにじませた。安心したのだろうな。

「よ、よかった、断られるんじゃないかって、思って……」

「な、泣かないでください、どうどう」

「私は馬じゃないわよっ」

「あわわわ」

 ぼくの行動の方が裏目に出てしまったようだ。

「えへへ、でも、嬉しい」

 吉川先輩は嬉しそうに笑う。手を表に、裏に、と何度も返しながら僕がはめた指輪を眺めている。

「じゃ、私からも」

 手を伸ばしてきて、吉川先輩の手の中にぼくの分の指輪がおさまった。

「はい、どうぞ」

 ぼくの指に、吉川先輩からの贈り物が宿る。

「ありがとう……」

 しげしげと、ぼくもその指輪を眺めた。

「ふふ、うふふふっ」

「どうしたんです」

「やっと、私に敬語じゃない言葉で話してくれた」

「え、あ」

 ございます、を言う前だっただけなのだが。

「どうせ『ございます』を言ってないだけでしょ」

「何でわかるんですか!」

「だって。田之上くんだもの」

「……もしかして、ぼくがこの旅行に来ることってあらかじめ仕組まれていました?」

「あれくらいの画面、素材があれば私にだって簡単にできちゃうわよ」

「うわー……」

 どうりでなんだかおかしいと思った。

「なるほど、ですね」

「そういうことよ」

「無邪気なばっかりだと思っていたのに、中々やりますね」

「ふっふっふ、私は意外とあくどいのよ」

「もしかしてブランドものって」

「そう、あの指輪」

 はぁ。今日の昼間の子供みたいな表情はどこへやら。

 波間で遊んでいるときに海に落っことしてきたのだろうか。

「で、このあとどうします?」

「決まってるでしょ」



「一夜の過ちを犯すのよ」




 その一夜が、ぼくたちにとっての初めてで――しかも、ぼくにとって、初めてのものだった。

 意外にも、吉川先輩も……いや、これ以上は何も、言うまい。

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