三國奏太 1 邂逅

 いつから人は何のために生きていくのかを考え始めるのだろうか。

 いつから俺は惰性で生きるようになってしまったのだろうか。

 いつから俺は昔のことばかり思い出すようになってしまったのだろうか。

 いつから俺は未来に希望を抱くことがなくなったのだろうか。

 いつから俺は自分を失ったのだろうか。

 答えなんて分からない。

 ただあるのは、必然と訪れる今日と明日だけだ。




 夏休み。

 ひどく蒸し暑い夏の朝。

 僅かに濡れた枕は涙ではなく、汗のせいだ。

 部屋の置時計に目をやったが、どうも予定していた時間よりも一時間は起きるのが遅れているらしい。

 シャワーを浴びたいという気持ちを抑え、俺は白シャツに袖を通した。

 成り行きとは言え、学級委員長に選出されてしまった以上、クラスや学園全体の行事には進んで顔を出していく必要がある。

 学園祭で行うクラスの出し物の準備。もちろん義務ではないし、やる気がある人だけが毎回、有志として集まっている。

 ただ、委員長の俺が全く手伝わないというわけにはいかないだろう。

 だからこそ、いくら寝過ごしたって、遅刻ということにはならない。

 まぁ、遅くにいったところで気まずいだけだから、なるべく早く行けるに越したことないと思う。

 玄関の戸を開けると、暑い空気がムワッと襲い掛かってきた。

 これだから夏は……。

 

 俺はいつも通り、アパートの最寄りのバス停でバスに乗った。

 バスの車内には人が混雑している。冷房が利いていても汗を掻いている乗客もいるほどだ。

「犯人、まだ捕まってないんだね……」

 電光掲示板には、先日の親殺しのニュースが流れ、車内にはその話題で会話している人もいた。

 親殺し……。

 あまり深く考えたくない話題だ。

 俺は電光掲示板から背を向けた。

 こんなに人が多く混み合っているというのに、立っている乗客は皆スマートホンをいじっている。

 生憎、俺はそれを所持していない。

 登校までの時間は潰せなくても、そんなものはなくても生きていける。

 今時の高校生としては珍しいとは自分でも思うが、不便に感じたことはない。


 ん?

 あれは、痴漢か。

 40代後半ぐらいだろうか、眼鏡を掛けた細身の男の片方の手が隣に立つ女子高生の下半身に触れているのが分かった。

 目に入ってしまったのはしょうがない。

 というか、気付いている人間は俺以外にもいるように見えるが、誰も厄介ごとに首を突っ込む気はないみたいだ。

 そろり、そろりと、乗客の合間を抜けて、女子高生のスカートに手を伸ばしている男に近付く。

 パシッ。

 驚いた男が俺の顔を見て睨む。

「なんだよ」

 男は低い声で威圧するように言った。しかし、声は少し震えていた。

「…………」

 俺は無言で男の視線と対峙した。

「離せよ! 離せっ!」


 キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!

 急に耳を劈くような音が響く。

「「「うわぁっ」」」

「「きゃぁっ」」」

 物凄い急ブレーキがかかり、車内が大きく右に傾いた。

 何か不測の事態が起きたのだ。

 俺は咄嗟とっさにポールを掴んだが、身体が横に引っ張られる力と、隣の乗客に押されるせいで、手を離してしまいそうになる。

「「「うわぁーーーーーー」」」

 乗客の悲鳴が飛び交う車内、すぐに次の衝撃が車内を襲った。

 ドォオン!!

 凄まじい音を立てて、バスの動きが止まった。

 車体の左側が何かの建造物に衝突したのだろう。

 乗客全員が、左に偏った状態で今度は右側に身体を吹き飛ばされる。

 身体をぶつけ流血したり、手足を痛めたり、悲鳴と怒号と慟哭どうこくが混じり、車内は阿鼻叫喚 《あびきょうかん》の地獄のような状態だった。

 そこに追い打ちをかけるように、バス全体を包むように火の手が上がった。

 まずい、このままじゃ、乗客皆閉じ込められてしまう!!


 いや、もう駄目だ。

 周りを見渡しても誰もが混乱し、絶望の淵に立っている。

「痛い、いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたい!!」

 誰もが苦痛に顔を歪める。俺もその中の一人に過ぎない。

「あ、ぶない。にげ、なくちゃ……」

 バァァン!!

 火が漏れ出したガソリンに引火し、バスは爆発した。

 車内は一気に業火に包まれ、外側の乗客から火の海に飲み込まれていく。

 くそっ。

 俺ももう駄目だ。

 逃げようにも至る所にぶつけたせいで身体は言うことを聞かないし、既に気を失った人の山で思うように進めやしないだろう。しかも、出口になるようなドアや窓は全て火の中だ。

 熱い、痛い。

 俺の人生もこれまでか。

 こんな、急に、あっけなく死ぬんだな、人っていうのは。

 そうだな。響子きょうこの所に行けるのなら、悪くはない。いや、むしろ……。

 待たせてごめんな。

 俺も今から、そっちへ、行く、よ。



 うっ。

 重い瞼が自然と開いていくのが分かった。

 暗い。

 暗いということは、ここは天国ってわけじゃないのか。

 地獄か? まさか、死んでないわけじゃないよな。

 あれだけのことがあって、死なないわけがない。

 誰か教えてくれ、ここはどこなんだ。

 俺は死んだ妹に会いたいだけなんだよ。

 この生を全うした先に響子がいないなら、今まで生きて来たことに意味なんて何もなかったことになる。

 誰か教えてくれ、俺が生まれた意味を。

 今までの人生、その全てが良かったなんて言えやしない。

 何度も頭を抱え、何度も自分を見失って、それでも俺は生きて来た、進んで来た。

 答えが分からないんだ。

 響子、お兄ちゃんはお前に会いたいんだ、誰よりも俺を信じてくれた、優しい大切な妹よ。




「どうした、なんだその涙は」

「誰だ」

 どこからか声がした。

 横たわる俺に、無愛想に声を掛ける輩がいる。

「絶望、って感じの顔をしてるな。ふふ、笑えるな」

「……」

 全く、その通りだよ。

 誰だか分からない奴が、哀れな死人に対して、優しさを微塵も感じさせない言葉を掛けてくる

 変に優しくされるよりましだ。

「なぁ。俺は死んだんだよな」

「あぁ。死んだよ」

「じゃあ、ここは地獄か」

「いや、東京のど真ん中だよ」

「そうか。死んですぐに、成仏できるわけじゃないんだよな、確か」

 俺は声のする方へ顔を向けることなく、天を仰いだまま会話を続けた。

「天国やら、地獄やら、成仏なんて言葉、どれもがナンセンスだ」

「……。悪かったな」

 先入観の問題だろうか、死後にこんな奴に会わなくちゃならないってのは予想外だった。

 あぁ。よく見れば、普通に都会の夜空だな。

 天文の知識がとぼしいから、月くらいしか分からないが、普段見てる夜空と何ら変わりはない。


「なぁ。俺は死んだんだよな」

 死んだことに疑問が生じ、そこにいる奴が何なのかを手掛かりにしようとした俺は、立ち上がり、声のする方へ視線をやった。

「!?」

「あぁ、死んだよ。三國奏太みくにそうたくん」

 そこにはニタァと嫌な笑みを浮かべる、悪魔がいた。

「ふふふ。そう、怖い顔するなって」

 暗闇の中だというのに、そいつの姿はどうしてかはっきり見えた。

 小学生の高学年男子くらいの背丈に、不釣合いな黒く大きな翼を背中に生やした少年の姿をした悪魔がそこにいた。

 声の低さから、中身は成人男性なのだろうと予測された。しかし見た目が幼いせいで、とても気味が悪い。

「お前は、何なんだ」

「その顔、分かってるくせに。俺が天からの使者に見えるかい? あぁ、見えないだろうよ。俺は、お前が思っている通りの悪魔だよ」

 目の前の悪魔は、見た目に不相応で、一層気味の悪い笑みを浮かべた。

「悪魔が俺に何のようだ」

 俺は、自分の声がいつもより大きくなっていることに気付いた。

 突飛な状況に我を失っているのかもしれない。

「そう、イライラするな。答えをく奴にはろくな結果しか手に入れられないぞ」

 俺を苛立たせる存在が、余裕な態度で諭してくる。これほどしゃくさわることはない。


「なぁ。お前の願いを聞かせてくれよ」

 悪魔はニヤついた顔でこちらへゆっくりと歩き始めた。

「このまま死……!?」

 瞬きの隙間に悪魔は瞬間移動でもしたのか、俺の目の前に立ち、指で口を塞いできた。

「死にたい。それ以外だ」

「くっ」

 さらに悪魔は、鋭く伸びた指の爪で、人質でも取るかのように俺の首を差した。

 少しでも動けば刺す。

 そう訴えてくるような眼つきで悪魔は俺を睨んだ。

「お前の願い、欲望を聞かせてくれよ。お前が嫌ったこの世界への恨みを。反逆の意志を」

「何を、何を言ってるんだ、お前は」

 目の前で俺を見据える悪魔の言動が俺には理解できなかった。

「ふふ、ははは! 分かる、分かるんだよ。お前は、この世界を、人間を嫌っている、お前はもう悪魔なんだよ!」

 じりじりとにじり寄ってくる悪魔に、俺はゆっくりと後ずさることしかできなかった。

「俺は……」

 !?

 後ろを警戒してなかった。あと一歩、足を踏み出していれば俺は真っ逆さまに、大通りに転落していたところだった。


「いいか、教えてやる。お前には世界を変えるほどの大きな力を持つ偉大なる悪魔になれる素質がある。力ある悪魔はどんな願いだって叶えられるようになる。あぁ、もちろん。お前が望んでいる、死んだ妹にだって会うことができる」

「!?」

 悪魔はまた、初めに目にした時のようにニヤッと顔を歪ませた。

「さぁ。新たな悪魔の誕生だ。愛しい妹の為にもがけ、そして、俺を喜ばせてくれ、奏太」

 爪を引っ込めた悪魔は俺の左胸をゆっくり押した。

「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」

 宙に投げ出された俺の身体は当然のように落下していく。

 今までになく異常な速さで過ぎてゆく景色に眩暈めまいがする。

 俺は全身に感じる見えない重さに抗うように手を伸ばした。

 それは単なる生まれ持っての生存本能なのか、それとも俺自身、三國奏太自身としての死にたくないという願いなのか、俺には判別できなかった。

「俺は、俺はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 バサッ。

 淀んだ空気を切り裂き続ける音と身体に掛かる重力のせいか、背中に違和感はなかった。

 空中に投げ出された俺の身体は地面に触れる前に、落下運動が停止していた。

 俺は今、宙に浮いている状態にあった。

「どういう、ことだ」

 訳が分からなかった。

「生きてる?」

 俺はまた、横たわっていた。

 身体のあちこちに襲る襲る触れる。

 何の外傷もない、不思議だ。

 ドン。

 何かが俺の身体に当たった。

「おい、兄ちゃん。こんなところに寝っ転がってどうした? 大丈夫か?」

 目をやると、そこには酔っ払いのおじさん二人が赤く染まった顔で立っていた。

「あ。す、すみません。大丈夫です」

 俺はすぐに立ち上がって、お辞儀した。

 何だったんだ……。

 あいつは!?

 俺は俺が落ちて来たビルの屋上を見た。

 しかし、この角度と高さでは何も分からなかった。

 そして、辺りを見回してみても、そこには当たり前の世界が広がっているだけだった。

 ただ、俺の頭の中は、得体のしれない何かで満ち溢れ、混濁こんだくしていた。

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悪魔の願い事 入川軽衣 @DolphinIsLight

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