22 8月の雪は降りやまない 【後編】

 少年の笑顔がアップになると、かすみは空気に溶け込むようにふわりと夏空に吸い込まれた。眼下に大きな梅の木と、綺麗に手入れされた庭が広がる。


 そしてまた、悪戯好きな誰かがチャンネルをいじるように画面が切り替わる。


 あの火事の後、救急車の中で何度も話しかけられたこと。

 病院で医者や看護師や、警察から何度も同じ質問をされたこと。


 そして、言葉を失っていたかすみを……

 叔父が優しく抱きしめてくれたこと。


 未だにハッキリと、かすみは病院にどれほど居たのか覚えていない。

 何年にも渡る長い年月のような感覚もあれば、数日のような気もする。


 叔父や祖父の助けもあり、やっと退院した頃。


 坂の上の洋館が気になり、ひとりで祖父の家を抜け出した記憶がある。

 かすみは祖父の家に引き取られたから、とても五歳児の能力ではたどり着けない場所だが……さ迷う最中、マルコとロレンの二人に出会っている。


 ――これは本当の記憶なのだろうか?


 大気に溶け込んだかすみは……大切な何かを聞き取ろうと、細心の注意を払った。



「雪が降ってるね」

 少年は何かを受け取るように手を差し出し、青すぎる空を仰いだ。


 かすみがおどろいて隣のロレンを見ると。

「EOが悪化してね……マルコは幻想の世界を行ったり来たりしてる。でも今日は調子がいい、かすみに会えてよかったよ」


「いーおう?」

「神様は悪戯が好きなのかな、素敵な贈り物と同時に悲劇的な贈り物をする。その良くない方のギフトをEOって呼んでる」


 ロレンが首を傾げるかすみを、優しく撫ぜる。


「あの夜から、なかなか止まないね」

 それが火事で舞い上がった炎が散らす灰だと気付いて、少年の言葉にかすみは一瞬身をすくめたが。


 その表情に、かすみは少年を抱きしめた。

「雪なんか振ってないわ」


「寒くない?」

「暑いぐらいよ」

「……そっか」


「かすみちゃん、本当はもう少し落ち着いてから会いに来たかったけど、僕たちは明日からアメリカに行くことになって」

 ロレンがマルコの頭を撫ぜる。


「こっちも急がなきゃいけなさそうだから」

 かすみはその言葉を聞きながら、もう一度少年の顔を見つめた。


「ねえ、また会えるよね」

 かすみの言葉にマルコは頷いたが、その表情に涙があふれそうになる。


 ロレンが白衣のポケットから紐の付いたコインを取り出し、かすみの前でゆっくりと揺らし始めた。


「かすみちゃんごめんね。でもこれは、八剱先生と決めたことだから」

 ロレンはそう言うと、パチンと指を鳴らす。



 すると、しゃがみこんだロレンの胸元から夏風が揺らす胸毛が見え、そこで初めて、青年の顔がはっきりと見える。


 それは最近よく見た男とまったく瓜二つだった。


「ロォーレンンンツォー!」

 大気に溶け込んでいたかすみが、巻き舌で叫びながら慌てて手を伸ばすと。



 そこは見覚えのある天井が広がる……

 自分のアパートだ。



 かすみは伸ばした手をゆっくりと握りしめ、胸元に戻すと。


「この無動寺かすみを欺いたことを、後悔させてやるわ」

 流れ落ちる涙を無視して、そう呟いた。


 部屋を見回しても特に変わった様子もない。

 着ている服も、フェイカーの別荘のような家にいた頃のままだ。


 ベッドサイドに置かれていた鞄を探っても、特に失われた物も無ければ、手紙のようなメッセージもない。


 念の為発信機や盗聴器がないかも探したが……

「バレるようなことはしないか」


 それっぽい物は存在しなかった。


 スマートフォンもちゃんと鞄にあったので、かすみはそれを取り出し、しばらく悩んだ後……以前もらった大野の連絡先を登録したSNSを立ち上げ。


<至急、連絡求む>


 メッセージを入力し、初めて時間を確かめる。

 スマートフォンの時刻も、部屋の目覚ましも……ちょうど深夜の二時を指していた。


 ――どうしよう、こんな時間じゃ。


 かすみが落胆すると、スマートフォンが『ピコッ』と、着信音を鳴らす。

 恐る恐る画面を確認すると、大野からの返信だ。


<どうした>


 いてもたってもいられなかったかすみは、慌てて通話ボタンを押した。




 ¬ ¬ ¬




 さらわれたが無事解放され、今自分のアパートにいる。

 とにかく安全のために保護してほしい。


 今後のことも考え具体的なことは一切話さず、ただそれだけの通話だったが。

「アパートだな。今行くから鍵を閉めて、俺達がつくまで誰も通すな」

 大野はそれだけを話すと、通話を切る。


 これが正しい判断かどうか、徐々に自信がなくなってきた頃。

 アパートの呼び鈴が鳴る。……時間にして三十分も経っていない。


 ドアスコープを覗くと、どこかで見たことがあるような、美しい女性がひとりで立っている。


「大野の相棒で、今枝亞里亞って言うの」

 フェイカーみたいな作られた美しい笑顔に、かすみはドアから無意識に一歩下がったが。


 警察に助けを求めたのは自分だし。

 内部に裏切り者がいるとしても、もうここにしか突破口はない。


 かすみは手を握りしめると、なぜ大野が直接来ないか質問するとか、身分証明を求めようかとか……いろいろ考えたが。


「巨乳はもう見つかった?」

 ドアに向かって、そう言った。


「しっぽはつかんだから安心して、巨乳じゃなくてラクダだったけど」

 スコープの向こうの女性が楽しそうに笑ったから、かすみはもう一度確認のために。


「大野先輩は、相変わらずキャメルを吸ってるの」

 最後に会った時、ワイシャツの胸ポケットに有ったタバコの銘柄を思い出しながらそう聞いた。


「彼はラクダキャメルじゃなくて、短い希望ショートホープよ」

 その言葉に、かすみがドアを開けると。


 女性はかすみに近付き、聞き取れないほどの小声で。

「頭の回転の速い女は好きよ。それから玄関灯になんか仕込んであるみたいだから、急いで移動しましょう」


 そう言うと、体を離して……

 またフェイカーみたいな笑顔を見せる。



 アパートの駐車場には、エンジンがかかったままのワンボックスタイプのパトカーが止まっていた。

 亞里亞の案内で後部座席に座ると、運転席にいた大野がぶっきらぼうに「おう」と、声をかけてくる。


 亞里亞はかすみの横に座ると、小型無線のような物をかすみにかざして一通りチェックすると、ジャケットの後ろ襟に手を伸ばし。


「お姫様には鈴を付けたままなのね」


 発信機を探り当てると小さなアルミケースに放り込み、しっかり蓋をする。

「アルミと鉛の防電波ケースよ、原始的だけど一番確実なの」


 そして大野からパトカーの無線機を受け取り。

「二時三十六分、被疑者無動寺かすみ、確保」

 そう伝えて、無線を大野に返した。


 かすみが緊張すると。

「手続き上の問題だから気にしないで、もし何かあっても自主的な出頭の方が後々あなたにとって有利だし」

 亞里亞はそう言ってウインクする。


「何があったか話してくれるか?」

 大野は寝起きなのだろうか……あくびをかみしめるような感じで、そう聞いてきた。


「ねえ、こいつって昔からツンデレなの? あなたから連絡があったって、さっきまでパニックだったから、わざわざあたしが迎えに行ったのに」

 亞里亞の言葉に、眠そうな態度をとっていた大野がうろたえるように咳き込む。


 かすみがついつい笑いを堪えると。


「まずは状況確認ね。ねえかすみさん、これは知ってる?」

 亞里亞がタブレットを向けてきたので、かすみはそれを受け取った。


 どこかの動画サイトの映像だろうか。

 そのニュースは今日の夕方の放送で、今晩フェイカーが麻薬組織『ジグザグ』を襲撃して、自分の無実を証明すると……マスコミ各社に挑戦状を送ったというものだった。


「まさか」

 かすみがそれを見て息をのむと、大野と亞里亞が顔を見合わせて頷いた。


「今はこんな感じよ」

 亞里亞がそう言って大野に指示を出すと、社内に警察無線の声が響く。


「対象は〇〇ビルに侵入! 警備班は周辺施設に各自移動」「国道〇〇線と、県道〇〇線に検問設置」「交通機動隊は、〇〇方面へ移動」


「どうなってるの?」


「フェイカーの襲撃は成功したみたいね。今、県警上げて追走してるみたいだけど……生活安全課が追ってた麻薬組織はこれで壊滅だわ」


「じゃあ、事件は」

 既に解決したのだろうか? かすみがそう問いかけようとしたら。


「パーティーは始まったばかりよ、あたしたちの考えでは本番はこれから」

 亞里亞は大きな旅行鞄を後部の荷台から引き上げると。


「あなたの選択肢は三つ」

 かすみの前で指を三本立てた。


 一つはこのまま県警に移動して保護され、安全な場所で事件の顛末を見る。

 二つ目は、このパトカーで移動してフェイカー逮捕の協力をする。


 そして三つめは……

「あなたの手で、この一連の事件を幕引きさせることね」


「二と三の違いは?」

 かすみが亞里亞の目を見つめると。

 旅行鞄を開けて、メイド服を取り出した。


「麻薬組織、八剱病院の動き、警察内の違和感。すべてがつながるラインでフェイカーは謎を公にする気はないのよ。じゃなきゃ、最初に麻薬組織を潰したりしない。ひょっとしたらあなたを気遣ってるのかもしれないけど……それでもあなたは真実を知りたい?」


 メイド服と真実の関連性が理解できなかったが。

 かすみは亞里亞の作り物じゃない表情を信じて、深く頷いた。


 ――もう、8月の雪は降り止まないといけない。


「ありがとう、捜査協力に感謝するわ」

 亞里亞はそう言って、二着ある同じデザインのメイド服の一枚をかすみに渡してきた。


「覗いちゃダメよ!」

 亞里亞は戸惑うかすみを無視して、運転席の後ろのカーテンを閉める。

「調査協力にしては、逸脱しすぎるだろう」

 大野の叫びに。


「報告書の言い訳は、あなたに任せるから」

 亞里亞はメイド服に着替えながら、メイク道具を取り出し、かすみの顔を眺める。


「背格好も近いし、運よく顔のつくりも似てるから。かなりのレベルでいけそうね」

 そして、メイクが進むたびに……亞里亞の顔が変貌して行った。

「パーティー会場に急いで!」

 亞里亞の声に、大野はため息をつきながら車をスタートさせる。


「ねえ、どこに向かうの?」

 かすみもおっかなびっくり、メイド服に着替え始めると。

「もちろん八剱病院よ」

 まるで血を分けた姉妹のような、かすみそっくりの女性が。



 メイド服を着て……

 かすみに、とても楽しそうな笑顔を向けてきた。

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