03 その紳士は「カルーアミルク、生クリームたっぷりでダブル」とクールに呟いた
かすみはほろ酔いで、看板の無いこぢんまりとしたバーの扉をくぐった。
店内にはスタンダード・ジャズが静かな音量で流れ、わずかなテーブル席にはスーツ姿のカップルが一組いただけだ。
少し悩んでから人のいないカウンターに座り、メニュー表からモスコミュールを選ぶ。
五十代と思える品のよさそうなマスターがシェイカーを振る音が心地よかった。
社に戻ってから警察の公式発表を、ぶら下がりの記者から伝え聞いた。
殺害されたのは
――かすみの叔父だ。
死因は背後からの発砲による即死、犯人は一発で心臓を打ち抜いた。死亡推定時刻は深夜の二時~三時の間。第一発見者は唯一の同居人である娘の八剱静香、十七歳。
朝食の準備が終わったので、いつものように父親を呼びに行った時だという。
かすみはその話を聞き……
叔父が苦しまずに亡くなったのが、せめてもの救いだと思った。
――静香ちゃんも大変だろうな。
幼い頃に母を亡くした従妹の静香は、かすみを実の姉のように慕っていたから、小さな頃は一緒によく遊んだ。
母の弟であった叔父の隆志も、かすみのことを自分の子供のようにかわいがってくれたが。かすみの両親の死が一部週刊誌やワイドショーで取り上げられ始めたら……
大病院を経営する母の実家がそれを嫌い、疎遠になってしまった。
叔父はそれでも、親族に隠れるように時折声をかけてくれたが。
「まあ、思春期のあたしもそれなりに多感だったからなあ……」
意地を張ったかすみがそれを拒否していた。
「今思えば、子供っぽいことをしてしまったな」
相変わらず母の実家は世間体を気にしているようで、叔父の葬儀は明日家族葬で簡単に済ますそうだ。
通夜は今日行われているそうだが、叔父の遺体はまだ司法解剖から帰ってきていない。
従妹の静香も病院で保護されているようで、通夜にも葬儀にも出席しないとか。
「そうなると通夜とは名ばかりの、遺産がどうとか言う変な会議になっちゃうのかな」
かすみにも一応案内が来たがそれを断り、叔父を偲び……仕事終わりにひとり飲み歩いているのだが。
――ぼんやりとそんなことを考えていたら。
かすみの前に、紙のコースターとライムが乗ったトールグラスがコトンと置かれた。
何気なくそれに手を伸ばすと、酔っているせいか……
一瞬グラスが揺れたような気がして、取り損なってしまう。
「大丈夫ですか?」
斜めになったグラスを、右隣の客がギリギリのところで受け取る。
なみなみと注がれていたモスコミュールはかすみにかかることはなかったが、受け取ってくれた隣の客の手はびっしょりと濡れていた。
「ごめんなさい!」
慌てて振り向くと、四十代と思える口ひげを生やしたダンディな紳士がニコリと微笑んだ。
身長は浜生と変わらないだろうか、百八十センチを少し超えたぐらい。ガッチリとした体格だったが脂肪が少ないのだろう、どこか痩せた印象を受ける。
少し日本人離れした高い鼻と、栗色の髪。よく見ると瞳も少しブラウンに近い。
――ハーフなんだろうか?
かすみはその日本人離れした美しい顔に一瞬見入ってしまう。
言葉もどこか、イントネーションが違う。
「いえいえ、貴女に被害がなくてよかった」
おしぼりで手をふきながら笑う姿は、貫禄があり。
「その、それ……申し訳ありません。クリーニング代出しますので」
しかし高級そうなスーツの袖が台無しだった。
チラリと見えた左腕には
しかもそのブランド品を着こなしているせいか下品さの欠片もなく、とても落ち着いて見える。
「このぐらい問題ないですよ。それより美しい女性が、ひとりで深酔いするのは好ましくない」
「でもそれじゃあ」
かすみはこの紳士の好意に甘えるかどうか悩んだ。
「じゃあこうしましょう、どうも貴女は悩があるような気がします。その話を聞かせてください。私は素敵な女性とお酒を飲むことができるし、貴方は危険から身を守ることができる」
その紳士が、カウンターの反対側に座っている若い男二人組に視線を向ける。
どうやらかすみが悩んでいるうちに、客が三人増えていたようだ。
男たちは値踏みするようにかすみを見ていたが、紳士の視線に気づくと目をそらす。
「あたしは助かりますが……」
いくら色気のない女でも、ひとり飲みは確かに危険だ。
それに、高級シャツやジャケットのクリーニング代を払わなくても済むのは助かるが。
――この紳士には何のメリットもないような?
これだけのイケメンおじ様だから、女に不自由してなさそうだし……
かすみが首を捻っていると。
「彼女に同じものをひとつ。それから私はいつもの」
紳士がマスターに話しかけた。
そこまではとても決まっていたが、マスターは紳士の顔を見ると「あんた誰?」的な表情で固まってしまった。
「ああ、すまない。行きつけの店と間違えたようだな」
苦笑いすると。
その紳士は「カルーアミルク、生クリームをたっぷりでダブル」とクールに呟いた。
カルーアは、サトウキビをベースにしたコーヒー風味の甘いお酒だ。
それにミルクを混ぜて、お酒の弱い女性でも飲みやすくしたのがカルーアミルクと言うカクテルだが。
「生クリームたっぷりでダブルですか?」
目を見開くマスターに。
「ああ、頼むよ」
まるで何かの決め台詞みたいに、ダンディに紳士は答える。
一連のやり取りを見ていたかすみは、その紳士の陰に同僚の残念イケメンを思い出し。――照明が暗くて良く見えないけど、この人何となく浜生に似ているな。
なんだか少し安心してしまう。
そしてマスターが苦笑いしながら運んできた、山盛りの生クリームが乗ったグラスを受け取ると。
その紳士は優雅な手つきで器用にマドラーを使って……
とても美味しそうに、生クリームを食べだした。
¬ ¬ ¬
「叔父さんはね、近所の子供同士でヒーローごっこをしていたあたしに『正義』について教えてくれたの」
「かすみさんはそのガキ大将をタコ殴りに?」
「だって年下の子や女の子ばかり狙っていじめるから……卑怯じゃない」
結局かすみは紳士の申し入れを受け、話を始める。
聞き上手なのだろう。話始めると不思議なことに次から次へとかすみは言葉があふれた。
「貴女らしい、目に浮かびます」
その柔和な笑みは、どこか温かく包み込むような優しさがあったが。
「しかもね……あたしが踏みつけてやったら、そいつ嬉しそうにスカートの中を覗いていたのよ」
「大変良くわかります、その少年の気持ちが」
凄く共感する頷きを見せた紳士に、かすみは微妙な不安を覚えた。
「ま、まあそれで。その時叔父さんがこう言ったの『正義とは一方的で小さなものじゃいけない。本物の正義は広く大きなものだ』ってね」
そうじゃないとテロリストにも殺人犯にも正義を認めてしまうことになる。彼らにも、信じる正義があるからね。
――まだ子供だった自分に、真面目な顔でそう言った叔父。
優しく、穏やかで。勤務していた大学病院では仕事熱心で評判だったとか。
「本物の正義ですか、それは難しい話だ」
紳士はその時何度目かの、温かく……でもどこか作られたような柔和な笑みをもらす。
かすみは結局、その紳士と朝まで語り合った。
叔父の死の痛みが和らぐと、かすみは仕事の愚痴などこぼしていたが。紳士は最後までかすみの話を聞いてくれた。
スーツを着たまま化粧も落とさずベッドに転がったようで、朝の目覚ましの音に、二日酔いのかすみは頭を抱える。
とりあえず酒臭い体にシャワーを浴びせ、浴室の鏡に映る女を睨むと。
――色気が無いのは自覚しているが、まだ若く。胸は小さいが、すらりと伸びた手足は標準よりスタイルが良い気もしないでもない。顔も……ひいき目に見れば、愛嬌がるような。
そんな考えが頭に浮かび。
「どうしてあの男は、何もしないであたしをアパートまで送ったの?」
鏡の前で首を捻った。
もちろん何かあっては困るのだが。
無ければ無いで、何か寂しいような気がする。
なので、あの紳士は変態甘党のホモセクシュアルだと勝手に結論付け。
かすみは複雑な乙女心と、まだかすかに疼く胸の痛みを……
――熱湯で洗い流した。
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