笑う豹

三津凛

第1話

郷に豹がでた。

立派な大きな豹である。真っ黒な身体は陽に当たると透かし彫りのようにして斑らが浮かび上がる。恐ろしさはともかくとして、それは美しい豹である。豹は腹を空かせて郷を歩き回る。まず物乞いの女が食べられた。女の首は枯れ枝のように容易く折れて、豹には物足りないようだった。そして骨ばかりで美味い脂がなかったと見えて、豹は女の髑髏(しゃれこうべ)をひと舐めした後で棄てた。

今度豹が食べたのは丸っこい赤ん坊である。柔らかな肉は美味かったと見えて豹は丸呑みした後満足気にげっぷをした。

私はその様子を黄金色の稲穂の隙間からじいっと眺めていた。豹はまだ獲物を探しているようだった。私は稲穂の間で笑わない豹の眼(まなこ)と出会ったような気がした。

そのまま地べたを這うようにして、稲穂を倒しながら私は民家を探した。間近で豹の生臭い吐息が聞こえる。

私は一目散に駆けて、真っ先に見えた民家の戸を叩いて入れてもらった。

そこには私と同じように逃げて来た何人かが額を寄せ合ってる囲炉裏の火を囲んでいた。火はいかにも頼りなく、豹に追い詰められる私たちのようだった。

豹が戸を叩く。初めは人語で私たちを誘う。誰も出てこないと悟ると今度は獣を隠さず吼えたてた。私は恐ろしくなって囲炉裏の火さえとどかない暗がりに身を潜めた。

豹の大きな影が怒ったように膨れていく。

気がつくとみんなが私を憐れむように見ていた。陽は暮れたようだ。外の闇は豹と見分けがつかない。私はますます恐ろしくなって小さくなった。しばらくすると大釜が運ばれて来て囲炉裏の火にかけられる。

味噌のいい匂いがする。豚汁だった。みんなが車座になって周りを囲む。そのうちの1人が優しい顔をして私を誘う。そして何人かがぱらぱらとこちらを振り返った。

その中にあの恐ろしい豹の顔があった。笑わない眼がこちらを見ていた。真っ黒な毛並みの中に金色の眼が2つあった。

こんな目を一度見たことがあるような気がした。

「腹が減れば火に寄ってくる。その時たんとついでやれ」

1人が優しい声色で呟くと、何人かと豹はまた火の方に向き直った。

豹は他のみんなと同じように囲炉裏の火を囲んでいる。滑らかな毛並みが漣のように輝いている。その身体は恰も夜の海のようであった。

夜は静かに更けていく。年寄りが昔語りをし始めた。銅鑼の音のような厳かな語りに私も暗がりから聞き入った。



あの落武者どもが村に出て何年前になるだろう。都で何があったかは我らには知る由もなかった。だが何か大きな戦でもあったのだろう。

折しも稲穂の重くよく実る美しい秋のことであったな。何人かの落武者どもがこの村まで落ち延びて来たのだ。優しい村人どもから手にかけられていった。飯を散々食べた後落武者どもは男は殺し、女を犯し、赤ん坊はまだ赤々と燃える囲炉裏にくべられた。そして家や畑まで奴らは焼いたのだ。

奴らも恐ろしかったのだろう。そして、ここまで逃げて来たからには命も惜しくなったのだろう。

獣のように……まるで舶来ものの恐ろしい豹のような落武者どもはまた山を越えていなくなった。奴らがどうなったかは知らん。ただ、山の向こうへ商いに行って帰って来た与助が獣か人か……何か生き物の生皮が木の枝に干されているところを見たと言っていた。山には我ら人間よりも恐ろしき神か化物かがいるということだな。

ただ、親を殺された子どもと逃げ延びた僅かな老人だけで我らは細々と村をまた作りなおしたのだ。

奴らは鬼よりも恐ろしかった。さながら豹だ。

可哀想に豹が見えるのだろう、あの子にも。



大きな豹の背は次第に猫背になるようだった。酒が配られ始めた頃だった。

私は無言でその隣に座ると、出されるまま豚汁を飲んで冷えた身体を温めた。みんな酔っ払っていい気持ちである。私にはまだ酒が出されないまま、豚汁だけがつぎ足されていく。大きな豚肉が碗の中に積み上がっていく。その中にひときわ大きな噛みきれない肉片があったのでよく見ると、それは丸ごと煮られた豚の耳であった。

私は気味が悪くなって恐る恐る碗を豹の方へと滑らせた。豹は舌舐めずりをすると、美味そうにそれを平らげた。

そこでようやく私にも酒が出された。私はそれを注がれるまま、めいっぱい呑んだ。もう豹が怖くなくなってきた。



それからまた気がつくと、豹は踊り狂う酔っ払いどもの間で笑っていた。

そうしてよく見てみると、豹とはただの酔っ払いの1人……その揺れる影になってしまっていた。

私は力を抜いてしばらくぼうっとしていた。

豹はもういない。

立ち上がって、踊る酔っ払いの輪の中に私は自分から入っていった。


豹は私の前に現れることは二度となかった。

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笑う豹 三津凛 @mitsurin12

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