「くだらない」

都姫

第1章

「おい!篠田!」

シンバルを思い切りぶちつけたような声が耳元で鳴り響く。普段はこの声に心底うんざりしているが、今だけはこのシンバル男のお陰で昨晩の甘ったるい余韻から現実になんとか引き戻されたのだった。

「アッ…はい」

「はいじゃねえよ、ボケっとすんな!」

今日のシンバル男ならぬ、店長はかなり機嫌が悪い。原因は分かっている。肉まんの保温器を穴が空くほど見つめてただ突っ立っているだけの俺のせいだ。でも、俺だってこの余韻からどうやって抜け出したらいいか分からないのだ。今でもはっきりと脳裏に思い浮かぶ。-首元に顔をすり寄せた時に鼻をかすめた甘ったるい香り、仔猫のような鳴き声、陶器ように透き通った素肌、絡ませた足先の柔らかな感触、そして、窓の外から漏れる街灯に照らされて覗いた微かに歪められる整った顔立ち-

いつもは生ビール3杯ほどでだいたいの記憶は吹っ飛んでいくが、ウイスキーをロックで食らった昨晩の激しく踊るような心地はなぜか鮮明に俺の身体を突き抜ける。しかし、いくら俺があの女とのセックスを数秒前の出来事のように思い出せても、なんの意味もなさない。あの女の名前も歳も何も知らないし、向こうだって金も名誉もなさそうな冴えない男の名前も歳も興味はないだろう。もう、会うことはないのだ。女には、昼頃バイトへ出掛ける前に、午後六時までには家を出て鍵はポストに入れておくように告げた。-時計の短針が六を少し回ったのを確認して、蒸気で少し曇っている保温器のガラスから外の景色が映る窓ガラスに目線を移すと、俺の脳内に繰り広げられている艶かしい光景とは裏腹に、住宅街を抜けて、広い路地を少し入った場所にあるこのコンビニからは街灯に照らされた人影以外、全てが闇に覆われた、見ているだけで冷気が通るような景色が広がっていた。

…女は、今頃この寒々しい闇の中を歩いているのだろうか。

「お疲れさまです!」

俺より先に着替えを終えた横山くんが、こちらに笑顔を見せてから至る所が擦れてすっかり汚れた学生カバンを引っ掴んで更衣室から去っていった。あの子は店長のお気に入りだ。愛想もあるし、素直に何でも聞くし、何より豚まんの保温器をみて8時間をやり過ごすようなことなんてしない。勉強が出来るタイプではなさそうだが、あれは女からも男からも好かれてるだろうな。家族からの愛情を真っ正面に受け取って、女子からの黄色い歓声をことごとく背中で感じながら生きてきたようなタイプだ。俺は自分とは真反対の横山くんを見るたびに、劣等感がフツフツと沸いてきて、横山くんと同じだった日の夜はいつも眠れなくなる。きっと今日も。

一人になった更衣室で、横山くんの先程の笑顔を脳内再生しながら、劣等感を吐き出すようにひとつ大きなため息をついて、鉛を引きずっているかのように重い腰をやっとこさ起こして、静かに電気を消した。

コンビニの扉を押して外に出ると、痛いほどに冷たい風が体をすり抜けて行った。俺は背中を小さく屈めて、大きく息を吸い込みながら、足早に歩を進めた。家へ帰るには抜けてきた住宅街をもう一度通らなければならない。この時期、夜になってここを通るのが俺は何より一番苦痛だ。今日はクリスマスの二十日前、もう既に家々の窓ガラスや庭の木々には鬱陶しいくらい眩い色とりどりのイルミネーションが飾られ始めていた。暖かい光が俺の顔を照らすたびに寒気を感じて、薄ら寒い幸せを感じ取らないように、さっきよりも足早に気味が悪いほど明るい通りを抜けた。

煌びやかなクリスマスツリーも、 二十四日の夜に来るはずの赤い帽子を被った白いヒゲのお爺さんも、子供の頃の俺にとっては蚊帳の外から眺めるだけの存在で、決して白いヒゲから歯を覗かせてこちらに微笑みかけてくれることはなかったのだ。

-サンタさんも、プレゼントあげる子を選んでるのよ-

俺は、選ばれなかった子、だった。

すっかり錆びたアパートの階段に乱暴に足を踏み出すと、カンッカンッと安上がりな音が聞こえてくる。それを聴くと、今更になって昨晩のことは幻だったのではないかと本気で思えてきた。寒さでぼんやりとしたまま、自分の部屋がある階を見上げると、一番右端の二◯一号室から微かに光が漏れているのが見える。その光を見て、俺のぼんやりとした頭は、一瞬で起き上がった。淡い期待が胸をかすめる。残りの四段を急いで駆け上がり、ポストも確認せずに、ドアノブを右に回して引くと、ドアは期待通りに動いた。中に入り、扉を閉めると、奥からパタパタと軽い足音がして、壁から見覚えのある顔がチラッとこちらを覗いている。

「おかえりなさい」

女は当たり前のようにそこに立ち、柔らかな笑みを浮かべていた。

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「くだらない」 都姫 @doremimimi

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