レーギュ=ゾットアストの造反
執務室には午後の薄暗がりが差し込んでいる。
今までずっと明るかったのに、急に我に返って、自分はなんて愚かしくも浅ましい生き方をしてきたのかと後悔する男のように、
部下――というより助手――は指先で図面上の輝点を数えている。どうやらそれは地図のよう――大陸のどこかの俯瞰図が都市3つ分ほど収まる程度の縮尺にまとめられている。
「例の村か」
司令官が尋ねた。
軍帽も被らず、襟元も崩し、面倒臭そうに首筋をかいている。よく見れば勲章もさほど無く、所詮は地方部隊の分隊長クラスでしかないのかもしれない。前任者が死亡するか逃走するかで、お飾りに階級を与えられる戦士も少なくはない。
助手は振り返り、肩をすくめた。
くりくりとした目が彼の幼さを教えてくれる。学校を出たての少年でしかないが、どこか堂々とした風貌だった。おそらくまだ、人が死ぬ瞬間を見たことがないのだろう。その死体の後始末も、誰かにしてもらってきたのだろう。
「ええ。吸血鬼に占拠されてた、古城の麓の村です。ほら、領主が昨年失踪したとかいう」
「やつは男爵という地位よりも、王の一族に入門する方が値打ちがあると気づいた。それだけだろうよ。で、その輝点はなんだ。それは死体の記号のはずだ」
「ですね」助手はあっさりと答えた。
「ですから、どうも村人が全滅したようです。――討伐に向かわせたハンターは失敗したようですね」
「失敗?」
司令官は机の上のやすりで爪を磨く。その表面は湖のように澄んでいた。不思議な気分でそれを眺める。こんなに薄汚れた魂でも、擦れば爪は輝くのか、と。
その青白く生臭い視線を、彼はそのまま弟のように若い少年に向ける。
「ありえない。レーギュがしくじるはずがない。やつはどこにいる?」
「えっと……」助手が結晶図を背伸びして観察する。
「あ、いました。近くの都市にいますね。これは……酒場? なんてこった、司令官、やつは飲んだくれてサボってるようです。おかげで村人が犠牲になってしまった。悲しいことです」
それを聞いた司令官が、深々と椅子に身体を預ける。その圧力で椅子にため息を吐かせたがっているように。
「レーギュが生きてるのなら、よくその地図を探してみろ。獲物の死体があるはずだ」
「……どれでしたっけ?」
「黒く煤けた点だよ。もともとは金色だったはずだ」
「あ、これですね。……ええ、死んでます。森の奥地で。彼が仕留めたのでしょうか?」
「ほかにいない」
「吸血鬼が人質に取った村人を救出せよ……と、命令したはずなんですが……」
助手は手元の書類をめくって、しきりに頷いている。自分の記憶違いではなく、指令書の写しにもその記述があったと確認したのだろう。
「しくじったようですね」
「しくじっていないよ」
「でも……」
「ハンターの仕事は吸血鬼を狩ること。やつはそれをやってのけた。そして一仕事終わって、一杯引っ掛けてるってわけだ。何もおかしくない」
司令官のその覇気のない返答は、助手を困惑させたらしい。何か言いたげに口をぱくぱく酸欠させていたが、不満げに地図に向き直った。
「なんだ、気に入らないのか?」
「人間を守るのもハンターの仕事でしょう。彼はそれを怠った。気づいてますか、この村、皆殺しにされてますよ。いくらなんでも一人も救出できなかったのはひどい。この地方の農民は忍耐強く頑丈で、とても根気よく田畑を耕すので有名なんです。むざむざ食い殺させるのは惜しい」
「学者一家のお坊ちゃんらしい回答だな」
「いえ……そういうつもりでは」
「でもな、小僧」
司令官は面白そうな表情を浮かべて、わざわざ席を立ち、結晶図の前に立った。封印した光の粒子の焼いた香草じみた匂いが鼻をつく。
「この土地を見てみろ……この村の配置を見て何か感じないか?」
「はあ……」
「一つひとつ、潰していくとわかる。この村は、まるで要塞だ。村へ入るには一本の大通りしかなく、そしてどこの村にも大抵ある抜け道だの獣道だのが一切ない。どこも断崖か、土砂崩れで潰されてるか、厄介な魔獣どもの巣窟か。――俺がハンターだったらこう考える。この状況で、犠牲者を出さずに吸血鬼を狩れと言われれば、自分を囮にした突撃作戦しか立案できない。空を飛んでも無理だ……そばの丘陵に防護用の養い鷹でも撒いておけば急襲と同時に迎撃される。地下でも掘るか? 吸血鬼は必ず、地下水を堰き止める。水源を握れば、農民は必ず従うからな。血も生贄も吸い放題だ。昼の光を恐れる敵を相手に、自分から墓穴に入っていくやつもいないわな」
「……なるほど。では、レーギュが村人を救えなかったのは、やむをえない失敗だったと?」
そもそもその命令を発したのはあなたでしょう――と助手の顔に書いてある。司令官は苦笑した。
「いや?」
「え……」
「レーギュなら、やれただろう。単騎突撃で、生きるか死ぬかの神がかりをやってのけて、あそこに巣食ったアンティークみたいに古ぼけた吸血鬼のじいさんを葬る。際どい仕事だが、やつなら狩れる。少なくとも、ただの負け戦じゃない」
「なら……いったい、なぜ?」
司令官は微笑んでいる。それは、ようやく見つけた妹の死体を燃やした兄のように、悲しい満足感に満ちた笑み皺だった。
「メッセージだよ」
「メッセージ……? 吸血鬼からの?」
「レーギュからの、だ」
愛おしいものに触れるように、司令の指が結晶図を撫でる。おそらくきっと、彼が従属させていたハンターが辿ったのと、同じ道程。
「俺があいつなら、こう考える。――司令部はハンターを道具として考えている。この状況での救出命令、しかも本当に救う気があるなら、補佐にあと三人はハンターが必要だ。それを与えない――つまり死を覚悟して任務に当たれ。そういうことか、と」
「……そういうことでは?」
「いいか、小僧。死ぬために産まれてきたやつなんていないんだよ。みんな誰かにそのババを喰らわすために生きているんだ。誰だって、仕方ないから死んでくれ、本腰を入れて救援するのも面倒だ――そんなふざけたこと吐かされて怒らないやつはいない」
「でも、それが仕事でしょう。それこそ、ハンターの」
「ああ、そうだよ。ハンターは誰もが、俺だって現役の頃は、我慢してやってた。俺たちはニンゲンを守るんだ。ニンゲンを食い殺す悪魔を狩るために戦うんだ。そう思わないとやってられなかったからな。バカバカしすぎてよ……
でも、真実は違う。
そんなお題目があろうとも、ハンターをゲームの駒みたいに使っていいわけがない。誰の助けも来ない土壇の修羅場で、死を賭けて狩る戦士を。……この任務は、試金石にするつもりだった」
「……」
助手はしばらく黙っていた。司令も、助手が辿り着くと知っていた。
助手は言った。
「試したんですか、レーギュを?」
「もし、これで自分を犠牲にしてでも民を守ろうとするなら、やつは高級官僚だよ。アレックスと同じ、真の意味で為政者足り得る人格者だ。だが、やつはそうしなかった。……人質にされた村人を犠牲にして、全滅するのを待って、絶対の要塞に構えていたはずの吸血鬼を、袋小路に追い込まれたネズミに変えた。人質がいない、それだけで、この村の砂時計はひっくり返る。レーギュを嘲笑う砂山から、吸血鬼が吸い切れなかった永遠の残滓にな」
「司令……どうします? それってつまり、レーギュは人類を見捨てたってことですよね」
助手は冷たい表情をしている。
「どうするって?」
「追手を出しますか。そんな人格じゃ、いずれ我々に反旗を翻す可能性もあるのでは」
「ふふふ……おいおい小僧、おまえ正気か? 見ろ、レーギュの輝点はどこにある? ――やつは獲物を葬り、近くの酒場で一杯ひっかけている。実にハンターらしい生活ぶりじゃないか、え? どこにやつを罰する理由がある」
「しかし……」
「この世界は、鬼を狩れるやつが維持してる。俺たちが吸血鬼どもの作った柵の中に放り込まれ、太った女と番わされるだけの血の詰まった肉袋にされないでいられるのは、俺たちニンゲンが狩る側だからだ。あのな、ハンターをそんな簡単に粛清なんてできないんだよ。そんなことしてたら、あっという間に俺たちが狩られる側になる」
「……ですが」
「だから、やつを一等粛清官に昇格する。今まで二等だったのがおかしいくらいなんだ。階級にふさわしい力をやつは証明してみせた……それから、各地の基地に通達しろ。レーギュ=ゾットアストには、今後パートナーをつけない。ハンター同士が協力するような任務には就けるな。これは最優先事項としてレーギュの個人戦記の第一頁に刻印する。修正はない」
「それは……殺す、よりも残酷な処置かもしれませんね。仲間なしで死ぬまで吸血鬼狩りをさせると……?」
「狩るのは俺たちの本能だ。やめはしない。――ただ、あいつは今日、人間を狩った。見殺しにするという形でな。知ってるか、その方が辛いんだ。自分の手で殺すなら、身を守るためだったとか、手が滑ったとか、いろいろ言い訳がつくれる。だが、助けようと思えば助けられた人間がじわじわ死んでいくのをただ眺めている――これにはどんな理論武装も剥げた塗り絵だ。どんなに飾ろうとも嘘にできない。見殺しだけはな」
司令官は、徐々に沈んでいく日を窓から眺めた。田園都市の落日が、石造りの街に不安と心細さの黒い手を生やしている、それは神の腕のように多い。
「あいつにもう、人質は通用しない。死ぬ人間がいるから無理して戦え、そんな戯言が利く相手じゃなくなった。人間の命を盾にして、自分に犠牲を強いるような命令にはもう絶対に従わないだろう。やつはこれからも大勢の吸血鬼を狩る。だが、もう人間を守ってくれるとは思えない」
「……司令、これはあなたにとって失敗ですか。それとも、成功ですか。レーギュの造反は?」
「感情の問題だよ」
「え?」
「俺は嬉しい」
司令は窓に身を乗り出して、この世界に吹きすさぶ、悪と埃の匂いのする風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「もう、仲間が悩まなくて済む」
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