白繭
キジノメ
白繭
僕と真由が初めて出会ったのは、古びた神社の境内でだった。
その日は昨日とは打って変わって気温が下がり、雪が降っていた。この地元では雪が降ることが滅多にない。小学生は駆け回りながら学校へ向かい、散歩をする犬は白くなり始めた地面を踏みしめ、はっはと息を吐いていた。
その中、僕は神社へと向かっていた。
傘も差さずに、コートを羽織っただけという軽い装備で、神社を目指していた。向かいを歩く人は、鼻が赤くなった僕を不審そうに見て、通り過ぎていく。
確かに、寒い。
しかし寒いどころではない。そんなことに余裕をかけている場合ではないのだ。
僕は、小説家である。と言っても、どこぞの文学賞をいただいたわけでもない。三文小説家として、数多くの雑誌に散文を載せさせていただいている者だ。
その数多くの雑誌に載せる原稿のうち、来週〆切のものがある。
その雑誌には、一年ほど連載をさせていただいていた。ちょうどその連載が今月で終わり、次は短編を何か書いてくれ、と頼まれている。今まで一年も懇意にしていただいたのだ。もちろんその要望に応えて、僕は短編を書こうと思っていた。
しかしだ。
思いつかない。
一切短編が思いつかないのだ。
一週間前まで(つまり〆切から二週間前のことだが)、短編のことは頭の片隅にあったが、そこまで思い詰めていなかった。どうせ何か思いつくだろう、と楽観的に高を括っていたのだ。
そして特段思いつかず、一週間前から真剣に考え始めた。
しかし、だ。
思いつかない。
本当に、思いつかないのだ。
飢えた獣のように、小説やら映画やら音楽やらを鑑賞して、何か創作のヒントを得ようとはしているが、そしてポケットの中のメモ帳にはいくつかネタが書かれているが、どれもいまいちピンと来ない。
〆切は来週である。
何度も言おう。来週なのだ。
流石に楽観的な僕でも、この時点で短編を書きだしていないというのが、恐ろしくて堪らない。
家で書いては消し、喫茶店でも書いては消し、また家で書いては消し。
いい加減、どうにかしたいのである。
今日もほとんど徹夜で考えていたわけだが、何も思いつかない。こんなにも考え続けていては、ポケットに入れたままのカイロのように、脳が笑えるほど熱くなってしまって、思いつくものも思いつかない。オーバーヒートして倒れる。それだけはどうしても避けたい。
ああ、こんな例えですら、支離滅裂である。情けないことだ。
冗談すらも上手くいかないこんな脳ではいけないと思い、僕は外に出た。どうせ、数日暖冬が続いてたのだ。そこまで着こまなくても大丈夫だろう。そう思ってコートだけを羽織り、ドアを開けた。
そこが災いした。
外は知らぬ間に雪が降り始め、空気はキンキンに冷えていたのである。
一瞬寒さに絶句しそうになったが、まあいい。沸騰した脳を冷やすには、これが十分であろう。そう思い直して、僕はコートのポケットに手を突っ込み、往来を歩き始めた。
その古びた神社は、借りているアパートから歩いて、十分ほどの所にある。大通りを左手に曲がり、住宅街を抜け、伸び放題になった雑草地帯を歩く。歩くと、しゃりしゃりと冬の音がした。僕の足跡が、雪の上にくっきりと残っていく。
しばらく歩くと、神社が見えてきた。昔は赤かったのだろう、今ではぼろぼろになってしまった鳥居。そこを一礼して通り抜ける。
今思えば、僕は何かあるたびにこの神社を訪れていた。今住んでいるアパートには大学時代から住んでいるが(もう五年住んでいるのか)、大学時代も何度もここには訪れた。
例えば、後期試験の合格のために、お願いをしにいった。これは留年がかかった大問題であった。どうにか留年は防ぐことは出来たものの、結果として試験は不合格であった。
また、交際を始めた時にもお願いをしにいった。末永く続くように、だ。しかしその彼女とは、一か月後に破綻した。
……ここの神に、僕は嫌われているのかもしれない。
少しばかり感傷に浸りながらも、境内を進む。砂利の上には、雪が降り積もっている。これでは、普段でさえ少ない参拝客が、さらに減ってしまうだろう。
どれだけ前に建築されたのだろうか。本殿を作っている木は、白黒フィルムを通したように黒ずんでいる。その横には狛犬が控えている。右にいる狛犬は、くわっと口を開けていて、左の奴は気難しそうに口を閉じている。いかにも気が合わなそうな二体だ。
その本殿の隣には、立派な松の木が植えられている。人一人では抱き着けないほどに幹は太く、枝も人がぶら下がるくらいでは折れそうにない。その上にしんしんと雪が降り積もっているのだが……。
その松の足元に、一人の少女が座っていた。
真っ直ぐな長い黒髪は、視線を下に向けているために、だらりと垂れ下がり、顔を隠している。上は薄手のブラウス、下は女子大生が履いていそうなフレアスカート。そしてくるぶしまでのブーツ。
もしも少女が、松の下で傘を差し、寒そうに手を合わせながら立っているなら、僕はこんなにも注目しなかった。
しかし彼女は、首をがくりと折って、意識が抜け落ちたように座り込んでいるのだ。その、なんだ。言っては悪いが、まるでこれでは、少女が襲われた後のようなのだ。
大丈夫なのだろうか。
参拝をすることなど、頭からきれいさっぱり抜け落ちて、僕はその松の方へと近づいた。手足はほっそりとしていて、スタイルがいい。こんなところで倒れていては、誰かが騒ぎ出す。
少女の近くに膝を下ろし、僕は声をかけた。
「君、大丈夫か」
気絶か、寝ているのか、返事がない。
見も知らぬ男性がいきなり肩に触れては、少女は怒りだすだろうか。しかし、このまま返事がないからといって、無視するわけにもいかぬ。
少し迷ったが、僕は少女の肩を揺さぶった。
「ここで寝ていては、風邪をひく」
ゆさゆさと揺さぶる。どれだけの間、外にいたのだろうか? ブラウスから伝わる肌の体温は、ひどく冷たい。
本当に、何か事件に巻き込まれているのではないか。
眉をひそめながら思っていると、ようやく彼女の頭が持ち上がった。
「おお、君、大丈夫か」
慌てて肩から手を離し、少し身を離した。少女――高校生くらいだろうか――は、ゆっくりと目を開けて、僕を見る。
整った顔立ちの子である。黒髪に似合う、丸い鳶色の目。ふっくらとした、桃色の唇。肌は、寒いせいか青白い。
……何か言ってほしい。
こちらから弁明しては、怪しすぎるではないか。
見つめ合いながら、十分に黙り込んだ後、ぽつりと彼女は聞いた。
「……おじさん、誰」
誰と言われても困るが、何度も言うように、僕に怪しい所は何もない。だから正直に答えることにした。
「僕は、朔月。朔月壮太さくづきそうた。ちなみに二十三歳だから、まだおじさんと言われる筋合いはない」
「私は、今、十七よ。それならあなたはおじさんだわ」
「それならば、君の中で五十代の男性は、どういう扱いなんだ」
「それはもう、おおじさんね」
「初めて聞いた、そんな単語」
「当たり前よ。今、私が作ったもの」
少女は、そこでくすくすと笑った。
「君、」
「私の名前は、安永やすなが真由まゆ。名字は嫌いだから、名前で読んでください」
楽しそうに微笑みながら、彼女、真由は言った。
「じゃあ、真由、ちゃん? こんな寒い所で座り込んで、何かあったのか」
僕の質問に、真由は笑いを消して、下を向いた。
「何かはありましたけど」
どうやら理由を言いたくないらしい。
「それは、警察を呼ばなくても平気なことか?」
そう聞くと、彼女ははっきりと頷いた。その目は、脅されている様な涙目ではない。それならば、まあ、無理をして聞くこともない。僕はそう判断して、頷いた。
「それなら、ちょっと待っていてくれ」
「え?」
こんな寒い中、あんな薄着じゃ寒かろう。僕は境内を出て、すぐ傍にある自販機に向かった。いつ誰が補充しているのやら。一年中商品の代わり映えはない。
一番下の段には、昭和チックなラベルのおしるこがある。僕はそれを二つ買った。
境内に戻った僕を、ぽかんと真由は見ていた。
「はい、これ。寒いだろ」
缶のおしるこを差し出すと、彼女は驚いた顔で僕を見た。
「どうして二本も買ってきたの?」
「いや、僕も飲みたいから」
「それなら一本でいいじゃない」
「ん?」
どうやら、彼女は「私の分だけでいいでしょ」という意味で言ったのではなく、「あなたの分だけでいいでしょ」という意味で言ったらしかったのだ。その謙虚さに、僕は内心首を捻った。
「いいんだよ、あげる」
「見知らぬ人にお金、使っていいの?」
「逆に、真由は見知らぬ人から、物を受け取れないか?」
「私は別に、どうも思わないわ。けれど、朔月さん」
「僕は構わないから。こんなの安いものだ」
ほら、と差し出すと、真由はようやくしぶしぶと受け取った。
そして、
「……これ、どうやって開けるの?」
漫画のように、コケようかと思った。
「それ、本気で言ってる?」
「え、ええ」
真由は、僕を馬鹿にしている様子がない。どうやら本当に、開け方が分からないようだ。
缶の飲み物を飲んだことがない。
さては、お嬢様か。
それにしては、寒い日にこんな神社(おまけに寂れていると、きたもんだ)にいることは、不思議でならない。
吹き出る疑問を抑えつつ、僕は缶の開け方を実践する。
「缶の上のところに、タブがついているだろ。それを、こう」
パカンッ。
「こうやって開けると、飲める」
「へぇ……」
彼女は真面目顔で頷き、開けようとする。真っ白な手がぶるぶると震えるだけで、タブは持ち上がらない。
こんなに寒い場所にいたら、手先の感覚などなくなって当然である。
「貸して」
自分の缶を地面に置いて、彼女の缶を受け取った。同じ要領で、パカン、と開ける。
「朔月さん、力あるのね」
「……」
ここで褒められても、鼻高々にはなれない。
苦笑して缶を渡すと、彼女は僕に一礼して、こくりとおしるこを飲んだ。一口で、おおっと目を見開く。
「甘いのね」
「おしるこだからね」
「ふぅん……」
まさか、おしるこも知らないのだろうか?
少し唖然として真由を見ていると、どうだろう、彼女の目がだんだんと潤み、肩が震え、
――なんと泣き出した。
「え、な、何かまずかった?」
情けないことに、僕は半歩後ろに下がった。思っていた以上に、泣き顔の女子高生とは怖いものである。敵知らずだ。
僕の反応を見て、真由は吹き出しながら、涙をぬぐった。
「ごめんなさい、思わず、嬉しくて。そんな逃げないでっ、ください」
笑いながら、ぼろぼろと涙を流している。
嬉しくて? 何がだ? 僕はただ、缶のおしるこを買って、それを開けただけである。泣くほどの要素はあっただろうか。
真由は、くすくすと笑いながら、涙をこぼしている。こうなってはどうにも弱い。僕は彼女から少し離れた場所に立って、おしるこを飲んだ。そして、気まずいのを紛らわすために、すぐそばにいた狛犬を指差した。
「狛犬も、寒そうだな」
真由は真っ赤になった目を上げて、僕の挙動不審な行動をじっと見る。
そして聞いてきたのは、
「朔月さん、どちらの像を指して、狛犬と言っています?」
「え、右も左も狛犬じゃないかの?」
真由は、おかしそうに、口元に手を当てて笑った。
「右側の、口を開けているのが『阿像』と言い、獅子です。反対側の『吽形』が、狛犬なんですよ」
「へぇ……」
今までどちらも狛犬と呼んでいた。僕は知らぬ間に、彼らを愚弄していたのか。
「すまなかったな」
僕は獅子に近づき、その頭を撫でた。もう間違えないからな。
しかし、獅子の頭など、一介の塵芥のような人間が撫でても良かったのだろうか……?
僕の行動を見て、真由はさらに笑い出した。もう涙は止まっている。
「朔月さんって、面白い人ですね」
「そうか?」
何がおかしいのだ?
しかし、真由はしっかりと頷く。納得いかん。
僕は憮然としたが、真由は無視して、ふわりと立ち上がった。
「おしるこ、おいしかったです。ありがとうございます」
「あ、ああ」
「それでは、私はこれで。そろそろ帰らないと、怒られますので」
「そうか」
「本当に、ありがとうございました」
彼女は、そう言って、神社を出て行った。
帰らないと怒られるとは、どういうことだろう。時間は、まだ朝の八時だが。
そこで、僕は気が付いた。
今日は平日である。学生は、学校があるはずである。
真由は、高校を休んでここにいたのか……?
次の日。午前七時。一時間だけ寝た後に、僕は、またもや神社へと向かっていた。
真由と話した後、おぼろげにではあるが、作品のプロットが出来たのだ。次の作品こそは、「書いては捨て」に当てはまらずに済みそうである。
そして、目を覚ますためにも、また神社へと行くことにしたのだ。
正直言うと、神社に行ったら、真由に会えるかもしれないという、淡い期待を抱いていた。彼女と話せば、また小説のネタが浮かぶかもしれない。それを抜きにしても、彼女との会話は楽しい。
というわけで寒空の下、またもや雑草を踏み分けて、進む先は件の神社。
昨日の重たそうな雲はどこへ行ったのか、今日はかんかんとした晴天である。一日かけて十センチ積もった雪が、太陽の強い光線に当てられて、じりじりと溶けようとしている。弱いものを応援したがる僕としては、雪に対して、そんな不可抗力になど膝をつくなと言いたくなる。
神社の境内は、地面が真っ白であった。本殿の屋根にも、松の木にも、雪が積もっている。狛犬と獅子にもだ。こちらを寒そうに見ている。空中にある水蒸気すら、凍っているようであった。空気がうっすらと白く染まり、霧のように神社の中を漂っている。
辺りを見渡すと、本殿の前に立ち尽くす真由を見つけた。
雪の上を歩くと、ざりざりと音が立ってしまう。夜の冷え切った外気で、雪が氷と化したせいであろう。その音に気付いて、真由は僕の方を振り返った。
昨日の服装と、スカート、ブーツは変わっていない。しかし、上にはコートを羽織っていた。今日は寒くなさそうである。
彼女が白い息を吐きながら、僕の名字を呼んだ。
「朔月さん」
「また会えた」
おどけてニヒルに笑うと、彼女は満面の笑みで答えてくれた。
「驚きました」
「今日は、おしるこ持ってないよ」
「それ目当てじゃありません」
ふふっと笑うごとに、白い息が上がる。太陽の光がそれを突き刺し、きらきら光らせる。
僕は彼女の隣に立った。
「何か、祈っていたのか?」
「いえ、この中には、神様がいるんだなぁと、実感しながら立っていました」
「でも、ここの神様は意地悪だぜ。僕が願うことは、大抵叶えてくれない」
「神様にお願いする時は、まず感謝の心からですよ。今日、このように参拝することが出来ました。ありがとうございます、と」
「そうなのか?」
「そうですよ。その後に、このような願いを叶えたいと思います。私も頑張りますので、お力をどうかお貸しください、ってお願いするんです」
「へぇ……」
となると、僕はかなり間違った参拝の方法をしていたということになる。なにしろ、「いいから叶えないと恨みますよ」という心意気で、半ばお願いしていたからだ。これではお願いではなく、脅迫である。
「教えてくれてありがとう。これからは正しく参拝できる」
「神様に脅迫など、してはダメですよ」
「どうしてそれを知っているんだ」
「していたんですか!」
「鎌掛けたのか!」
ぱっと目線が合う。それがなんだかおかしくて、二人して吹き出した。
「朔月さんって、なんだかおじさんじゃないみたいですね」
「まだ二十三だからな」
「同級生みたい」
「そんなに若く見えるか」
「見えはしませんけれど」
真由を見ていると、女の子の笑顔は花だ、という意味が分かる。野郎が集まって豪快に笑うのとはわけが違う。
「しかし、真由は物知りだね。そんなこと学校で習うのか?」
何気なくそう聞いて、彼女の顔を見る。
彼女は、曖昧に笑っていた。
その顔を見て、己の至らなさを怒鳴りつけたくなった。
彼女が平日のこの時間にここにいるのに、どうして僕は「学校」などという単語を口に出してしまったんだ。
「すまない」
思わず謝る。謝ってから、その方が失礼だろ、と思った。しかし思っても、今更言葉は取り消せない。あうあうと口を動かしていると、真由は僕の珍妙な動きに少し笑い、答えた。
「私、高校には行っていなくて。これは全部、図書館の知識です」
同情なんてしたくなかったので、代わりに彼女を褒めた。
「学校に行っていなくても、十分だな。それだけ知っていれば」
「神社のことについてしか、まだ言っていませんよ」
淋しい目をして自分を貶める彼女に、僕は胸を張ってそれを否定する。
「日本国に最初からある神道について、そこまでちゃんと知っているなら、他の知識などどうにかなる」
我ながら、変な否定の仕方だった。思った通り、ぷっと、彼女は吹き出した。
「そんなこと言われたの、初めてだわ」
今更照れ笑いするのも変で、真顔でいることにした。
「もっと言ってあげようか」
「朔月さん、お上手なのね」
「何が上手なものか。僕はただ、ありのままに褒めただけだ」
「ふふっ」
真由は楽しそうに笑い続け、本殿に礼をした。そして階段を降りていく。僕も見習って礼をし、階段を降りた。
「朔月さんこそ、どうしてこんな時間に神社にいらっしゃるの?」
「僕は、しがない小説家をしている。だから、朝の時間など、自分の思う通りなのさ」
「あら、小説家。なんという名前で?」
「その辺の雑誌に書き連ねているただの三文小説家だ。名前など聞いても、知らないだろう」
「あら、分からないわよ。私、本はたくさん読んでいるもの」
彼女の強気な目に負けて、正直に自分のペンネームを言うと、彼女は手を打った。
「あら、まさか、あの雑誌に掲載している方? 蝶が出てくるお話の……」
彼女が上げたのは、僕が一年間連載していたものだった。頷くと、嬉しそうに顔を輝かせる。
「私、あの作品、とても好きよ。少女と蝶の、ファンタジーな場面の描写がとても好き」
「好きだなんて、嬉しいね。僕にはもったいない」
「ううん、本当に好きだもの。またあの雑誌に書くのでしょう?」
「ああ」
今まさに、その雑誌の〆切に追われているとは、プライドが邪魔して言えなかった。ただ自慢げに胸を張るばかりである。
「私、新連載楽しみにしていますから! 頑張ってくださいね」
「あ、ああ」
これは責任重大ではないか。
内心、だらだらと冷汗が垂れている。まだプロット状態なのだ。間に合うのかと考えるだけで、胃がキリキリと痛くなる。
しかし、こんなにも、僕の小説を待ち望んでくれる人がいるのか。
そう思うだけで、絶壁を登っていた僕に、蜘蛛の糸が伸びてきたようなものだし、きっと書き上げられるという、根拠もない自信が浮かんできた。
「ありがとう、頑張るさ」
力弱い僕の言葉に、真由は、力強く頷いてくれた。
それから毎日のように、僕と真由は、神社で話した。二人の生活や、不安に触れることはなく、ただの世間話や、傍から聞けば阿呆な内容の会話ばかりをしていた。
話していて、真由は高校に行っていないせいか、かなり世間についての了見が狭いことが分かった。まるで、箱入り娘のようなのだ。
本を読んでいると豪語するだけあって、専門知識への造詣は深い。僕は神社をはじめ、仏教やキリスト教、それとは真反対といっていい、物理学、量子力学、また、心理学、文学、歴史学、様々なことを聞いた。聞けば聞くほど彼女の知識の深さに感嘆させられるし、高校へ通っていないのが疑問になってくる。こんな才女を放っておく高校が、どこにあるというのだ。
その反対に、世間について、何も知らないと言っても過言ではない。それくらい知らないことが多かった。
缶の開け方を知らないということが、その最たる例だが、彼女は外食すらしたことがなく、また、即席めんの存在を知らなかった。さらに、パソコンの使い方を知らないという。
そして、学問的には語るものの、家族や、良心や、常識という価値観を、自分の中には持っていなかった。
ある時、
「家庭の味って、真由なら何を浮かべる?」
と聞くと、首を捻って、
「家庭の味って何ですか?」
真剣に聞かれた。
「それは、ううん。例えば、食べると『ここは家だな』とか、『母が作った味だな』とか、思い出す味のこと……かな」
そう言うと、
「……そんな特別なもの、食べたことがありません」
と言われた。
「そんな特別なもの」? 家庭の味は、特別、なのか?
この答え方からも感じられたが、どうやら、彼女は家庭関係がよろしくなさそうなのだ。もしかしたら、暴力を受けているのではないか、と思ったこともあった。
そのことに感づいてから、どうにかしてあげたいという気持ちはあった。
あったものの、僕は行動を起こさなかった。
一つの原因は、〆切である。
遂に、〆切が三日後に迫っているのだ。
もしも今、彼女のことを慮って口を出していたら、自分の首を、これでもかというくらい絞める羽目になる。今はさすがに口を出そうとはなれなかった。
しかし、放っておくつもりはない。〆切が終われば、ちゃんと話そうと思っている。
思っているの、だが。
もう一つが、今のように躊躇った理由につながるのだが、彼女は家の話題を、頑なに避けるのである。絶対に話そうとはしないのだ。
それを見ていると、わざわざ話したくないことを掘り出すことはないだろう、と思ってしまう。何といっても、僕は神社で出会った、ただの話し相手である小説家なのだ。
所詮、他人。
他人の事情に、口を出していいものか?
いつも笑っている彼女を見ると、このまま世間話でもしていた方がいいのではないかと思うのだ。
〆切が二日後に迫ったその日。
毎日の日課となりつつあるなか神社へと向かうと、すでに真由がいた。
いや、大抵彼女は先にいるのだ。驚いたのは、そのことではなかった。
真由は、とっくに雪が溶けた地面に手をついて、嘔吐していたのである。
しかもそれには、遠目に見ても赤いものが混ざっていた。
「真由!」
慌てて彼女の傍に駆け寄って、背をさすった。ごほごほという水が混じったような音の咳に加えて、嗚咽が混じっている。
「どうしたんだ!」
「だ、大丈夫」
「大丈夫なわけあるか!」
怒鳴ると、さすがに彼女も口をつぐんだ。しばらく咳の音だけが聞こえ、時折、肩を揺らす振動が伝わってきた。
静かな朝である。
痛々しいほどに、空は晴れ渡った、静かな朝である。
少し落ち着いたようで、彼女が手をつくのを止めて、ぺたりと座り込んだ。僕はコートのポケットをまさぐって、ハンカチを出す。
「使って」
「……汚れる」
「構わないから」
言葉を遮って言うと、真由はこくりと頷き、丁寧に口の周りを拭いた。
僕は地面を睨みつける。固形物が入っていない。胃液ばかりで、更に少しばかり赤い。
これは、異常だ。
「真由、どうしたんだ」
「……」
「真由!」
肩を掴んで、こちらを振り向かせた。
頬がこけている。肌が青白い。目は充血している。
身体中から、SОSを発していた。
「真由、正直に言ってくれ。家で何があった」
彼女は、僕の言った「家で」という単語に、敏感に反応した。身体を震わせ、目線を落とす。
「言ってくれないと分からないし、動けないんだ。僕は他人だ、真っ赤な他人だ。だから言ってくれ――」
「……あ、あなたには関係ない!」
思わず、二の句が継げなくなってしまった。
言わないのか、言ってくれないのか。明らかに、明らかに何かあったというのに!
しかし、僕は冷たく言葉を続けるしかなかった。
関係ないと言われたのだ。
どうして、そこを踏み込むことが出来ようか?
「本当に、いいのか。言わないのか」
「……」
「確かに僕は関係ない。だから、言ってくれないとどうにも」
「いいんです!」
怒鳴って、真由は立ち上がった。途端に足元がふらつく。それを支えようとするも、彼女は僕から、すぐさま遠ざかった。
「今までたくさん、お話ししてくれてありがとうございました!」
そう叫んで、
彼女は境内から走り出ていってしまった。
あまりの展開に、僕の思考が止まる。立て膝をついたまま、動けなくなってしまった。
「ま……」
やっと我に返って名前を呼ぼうとした時には、既に彼女の姿は見えなくなっていた。
アパートに帰ってパソコンを立ち上げても、全く文章が進まない。
もう一度言うが、〆切は二日後である。しかも、場面はクライマックス。気分さえ乗れば、一瞬で書き上げることも可能な場面なのだ。
しかし、さっきから真由の顔が頭に浮かんで離れない……。
どうにもこうにも文章が進まず、僕はしょうがないから畳に寝そべった。
あそこで、無理やりにでも聞けばよかったのか。こんなものは〆切どころではない。少女一人の人生がかかっている。だから〆切なんか無視して、彼女を助ければ――。
ここで、〆切以上に自分の行動を制限していた理由を、僕は思い知った。
所詮、他人だから。
結局は、そこなのだ。
所詮他人、という思いが強く、僕は動けなかったのだ。
赤の他人が、人様の事情に口を出してもいいのか? 関わってもいいのか? それは、双方にとって、悪いことになるのではないか?
そう思って、動けなかったのだ。
しかし、真由は辛そうだった。僕の目の前で、泣いて、血を吐いて、叫んでいたのだ。
どうして他人だからと、助けなかったのだ。
やはり、助けるべきだったのでは?
しかし、どんなにあの時の行動を反省しても、もう真由は走り去った後なのである。人生で起こる出来事とは、ゲームではない。選択を失敗したからリセットすればいい、というものではないのだ。選択した行為には、後悔することしか出来ない。
あの時、どうして踏み込むことは出来なかったのか……。
どうして、あと一歩を……。
どうして、どうして、どうして……。
思考はまとまらなくなり、文字がまるで海のように……。
ふと気づくと、僕はドアの前に立っていた。
ドア、ドア、ドア? 僕はこんなドアを……、いや、知っている。僕はこのドアを知っている。どこで? なにで? 知っている……?
僕は当たり前のように、そのドアを開けた。
中は、四畳半の和室であった。家具も何もない部屋。畳の上に、埃が少し積もっている。
その中に、異質なもの。
白い白い繭が、ひとつ、部屋の中央にぶら下がっていた。
大きさは、蚕のそれではない。人間が入りそうなくらいに大きい。それが何本もの糸で、天井からぶら下げられている。
その繭は、目を見張るほどに美しかった。一本一本が、しっかりと光沢を放ち、外界から守る壁を形成している。その白さは、天から降る雪のごとく。その輝きは、太陽光線に反射する冷たい月のごとく。
こんな部屋にあるのが、異質である。
こんなに美しいものが、どうして、ただの、埃っぽい畳の部屋にあるのか?
僕はそれに近づいて、なんと、繭をほどき始めた!
自分でも驚きである。いや、驚いてはいない。この「僕」は、繭に魅入られている。こんな美しい物の中には何があるのだろうと、好奇心を抑えられずに、繭に手を突っ込んでいる。
当たり前なのだ。
気になったものは、開く。本能に従った、当たり前の行動であったのだ。
精密に巻かれている繭に、僕は乱暴に手を突っ込んで、手を突っ込んだ穴を押し広げようとしている。わくわく、わくわく、このきれいな繭の中からは、何が出てくるのだろう? この妖艶な美しさは、何を守っているのだろう?
ぱりぱりと、繭を作っていた糸が、一本ずつくすんでいく。僕はそれに気づいていない。わくわく、わくわく。繭に遠慮なく手を突っ込む。
そしてようやく、ばかりと繭が半分に割れた。
わくわくわくわくわくわく!
しかし中から出てきたものは、白でもない、黒でもない、濁った灰色の、人間大の蛾であった。
蝶じゃないんだ。
きれいな羽でもないんだ。
蛾なんだ。
しかも、その蛾は死んでいた。既に死んでからしばらく経っているのか、羽はしおれて、鼻をつく悪臭が漂っていた。
灰色、汚い灰色。ごちゃごちゃと混ざり合った、しおれた灰色。
人間大の蛾というのは、不気味である。細かいところまで、そのしおれた様子が見えて、なお一層の事、醜く見える。
僕は、どうしてこんな汚いものを暴いたんだろう、と思って顔をしかめた。
これならば、見なければ良かった。繭のままにしておけばよかった。
気付けば、その部屋には死臭が漂っていた。
どうして開けてしまったんだろう。
こんな汚いものに、興味はなかった。
僕は顔をしかめて、その蛾を見た。
――目が、覚めた。
覚めて、僕は飛び起きた。
今の夢は。
今の夢は、僕と、真由だ。
直感的にそう思って、僕は家を飛び出した。
繭は真由だ。中の蛾も真由だ。
僕は、所詮他人という意味だけで、彼女の事情に口を挟むのを拒んでいたわけではなかったのだ。
そこから見えてくる、彼女の家庭関係の醜さを見たくなくて、目を背けていたのだ。
なんということだ。
僕は、遠慮ではなく、自分の保身のために目を瞑っていたというのか!
僕は、彼女の可愛らしさに、その思慮深さに惹かれて、近づいていった。けれど、その奥を覗き込んだ途端どうだ? 関わるのを一瞬で拒んだ! そりゃ、彼女だって僕が関わるのを拒んできた、というのもあるだろう。しかしそれだけではない。僕自身も、関わるのを止めようとしていたのだ。
その醜さに眉を潜めて、死臭を嗅ぎつけて!
彼女と関わるのを、他人だからと、〆切だからと止していたのは、これを隠すためだったのではないかっ。
だとしたら――情けない。
自分という人間が、情けない。
拒んだところで、拒否したところで、彼女が苦しんでいるという事実は何も変わらないのに、彼女の荒んだ家庭環境は消えないというのに、僕は落し蓋をしてそれを無視しようとしたのだ。
それでは、駄目だ。
苦しんでいる人がすぐそこにいるのだ。手を伸ばさないなんてありえないだろう!
焦るように走って、辿り着いた先は、またもや神社だった。
ここに彼女がいるというのか?
そう思ったが、さっきの夢が、絡みついたように頭をめぐる。
蛾が繭の中で死んでいた、ということが、頭をめぐる。
嫌な想像が浮かんだ。
もしかして、もしかして彼女は、
もしかして――。
境内に、道場破りでもするような荒々しさで飛び込んで見渡した。く、暗い。何があるか分かったもんじゃない。果たして今は何時なんだ。ああもうっ、暗い、暗いったらありゃしない!
本殿のそばまでいく。はたして、彼女はここにいるのだろうか。もしここにいなかったら、どこを探せば――。
と、その時、右手からか細い声がした。
「さ、朔月さん……?」
右手には松の木。跳ねるようにしてそこに近づく。
そこには、真由が。
松の木に引っ掛けた縄に首をかけようとしている、真由が。
「――っ、何しようとしてんだっ!」
自分でも驚くほどの叫び声が出た。真由が、びくりと肩を揺らす。僕は彼女に近寄って、彼女が乗っていた段ボールから、引きずるようにして下ろした。
暗いから、ちゃんと分からない。
それでも、彼女が驚き、目を見開いているのは伝わってきた。
「死のうと、するなよ」
彼女の肩を掴む。思わず、ぎりぎりと力を込めてしまう。
「死ぬなよ、死のうとするなよっ、僕が相談に乗る。僕が嫌なら、知り合いの警察を紹介してやる、自分の家庭環境が変だということに、本を読む君なら気付いているだろう!」
「……気付いては、いたけれど」
「それじゃあ、言えよ」
「だって、他人」
「二週間毎日のように話して、しかも夜中に駆けつけに来る奴が他人のわけあるかぁっ!」
そうだよ、何が他人だ。
そんな言葉、逃げだ。
現実は、取った行動に後悔するだけじゃない、それを後から償うことも出来るんだっ。
今更じゃないだろ、遅くないだろう!
僕の必死の叫びに、真由はくすっと笑った。
笑って、笑って、――わんわんと泣き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――!」
泣きながら、僕にしがみついてくる。
僕はその背中を、叩き続けた。
白繭 キジノメ @kizinome
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