第5話 高楼

 ところで、世は乱れていた。その大乱に比して考えれば、石崇の猟奇的な放蕩も、さして目立つものではなかった。


 全体、皇帝が愚昧であったために乱行甚だしき皇后とその甥が権力を握り、石崇もこれについしょうしてきたが、その皇后と甥が、皇帝の叔父や異母弟によって殺されたのである。混乱する朝廷でひとまず権力を握ることに成功したのは、皇帝の大叔父であった。


 ときに、その大叔父の右腕は、そんしゅうといった。おもねる以外に能がなく性どんらんたるこの男は、一躍権力を握れたので、とりあえず使いたくなったらしい。使者を金谷邸に送り、石崇にこう要求してきた。


「緑珠をいただきたい、とのことです」


 使者の言葉に、石崇は呻いうめた。呻いて、ぞんざいに手を振り、奥から婢女を、ひとまず三十人ばかり呼びつけると、


「どれでも好きなものを連れていきたまえ」


 使者は、


「はあ」


 と目を丸くし、


「どなたも美しくあらせられる」


 と婢女たちを眺めて言い、


「それで、どちらが緑珠様であらせられるか」


(この人、馬鹿なんじゃないかしら)


 いつも通り石崇にへばりつきながら、緑珠は思った。明らかに田舎びた使者は、実直さと頭の鈍さを取り柄として派遣されてきたようだった。緑珠は呆れながらも石崇の額に青筋を見たので、ぱっと離れた。


 途端、


「誰がくれてやるか!」


 石崇の怒声である。けつとして立ち上がった石崇は使者へ叩きつけて、


「緑珠は私の愛している女だぞ!」


(ああ、もう大丈夫)


 緑珠は我知らず微笑んだ。安堵の笑みだった。びりびりと空気を震わす大音声と怒気に、使者はやっとことを悟ったらしく、あたふたと逃げ出していった。


 それから数日の間、石崇は忙しくしていた。殺された皇后の甥を擁護者としていた石崇のことであるから、皇后・こうごうせいの誅殺以来かつてないほど慌ただしくしていたものの、この数日はさらに緊迫としていた。緑珠もよく知る潘岳を始め、石崇と懇意の高位高官が金谷邸に出入りし何事かを謀っているようだった。


 そんな情勢にあって、緑珠はしかし、自若としていた。


(大丈夫よ)


 と緑珠は思っていた。


(ご主人様は、私を手放す気はないらしいもの)


 緑珠にとって最大の危機は、それであった。金谷邸に養われて、はや地干も一回り以上した。この年月の中にあって緑珠にとっての最高の権力者は石崇であり、石崇以外に脅威はなかったので、こんな考えでいたのである。


 しかし石崇の理想世界である金谷邸の外にも広い世界があり、そこには石崇以上に強力な権力者という者が、そして脅威が、もちろんあった。


 石崇が、ろうじょうで涼みの宴をしていたときである。孫秀、緑珠の献上をに断られたこの男は、怒り狂って兵を石崇へ差し向けた。怒り狂うだけでなく、ちゃんと偽のしょうちょくも用意させて、石崇を捕らえんと迫っていたのである。


 孫秀の兵たれりと、顔が紫色になった宦官から報を受けた石崇は、席を立って楼から屋敷の門を自ら遠望した。小指の先ほどの大きさの、黒豆のような兵士たちが、確かに門に集まっていた。のみならず、門を押し入り、道を走り、砂埃をあげ猛然とした速さで、この楼閣へ向かってきていた。


 石崇は、席を振り返り、


「緑珠」


 驚きに打たれて動けない緑珠へ、


「罪を得たぞ、私は」


 楼のらんかんに寄りかかり、腕を組みながら、ゆっくりと言った。


「お前のせいで」


 緑珠は、泣いた。


(もうだめだ)


 と思った。石崇が今、緑珠へ向けているのは、飽きだと緑珠には思われた。もう十分だ、もういらないと、石崇は言ったようなものだと、緑珠には理解された。そしてそれは、死の宣告であった。石崇にそう言われて生きていられた者を、緑珠はついぞ見てこなかった。


 するべきことは決まっていた。


「御前で、死んでみせましょう」


 げん、緑珠は突進した。石崇のもと、そこから人間一人ぶん横の欄干へ賭け寄り、欄干を乗り越え、石崇の顔をちらりと見てから、身を投げた。


(あれ?)


 身を投げてから、緑珠は不思議に思った。


(死ぬの? なぜ)


 緑珠には分からなかった。自分は、確かに石崇の興を買ったではないか。ちらりと一瞥して見えた石崇の顔には、無上の悦楽があった。ああこれで大丈夫と、緑珠は安心した。こんなにも喜んでくれたのだ、あのとき向けられた飽きはこれで帳消しにちがいない、ならば大丈夫だろうと、緑珠は安心して身を投げたのである。石崇はまだ自分を愛している、生かしてくれるだろう、まだ飽きていないのならばと、緑珠は思っていた。いくら興を買っても、楼から身投げすれば人は死ぬのだと、石崇が与える死を見過ぎた緑珠は、すっかり忘れていた。また緑珠は、石崇の美学を理解してもいなかった。


 緑珠は楼上を見た。石崇はこちらをじっと見るばかりである。






「美しい」


 石崇は落ちていく緑珠を見て、言った。


 緑珠が無惨につぶれてから顔を上げ、鼻息荒く駆け込んできた兵をやっと認めると、


「美しかったよ」


 と問わず語りにうっとりと語り、


「それで、流されるのは交州かい、それとも広州かい?」


 そう兵士たちへ軽口を叩いた。緑珠ごときを献じなかった罪など、どこか辺境への流罪程度だろうと、高をくくっていたのである。行き先が刑場であることを、無論石崇はまだ知らなかった。






 石崇の賞賛は緑珠へ届かなかった。何も聞こえず、何も見えなかった。無音と暗黒の中に、緑珠は、やわらかな白い光の奔流を、奔流というよりも、もはや一面に広がる真珠の大きなとばりを、見ていた。


(あの三斛の真珠だ)


 と緑珠にはわかった。


(きれい)


 緑珠はこうこつとして、下へ下へと、どこまでも続くような真珠の帳に、見惚れた。


 とばりが終わった。そのすぐ先には、地面があった。

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三斛の真珠 久志木梓 @katei-no-tsuru

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