第3話

~1937年5月15日AM11:32

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


 あまりにあり得ない光景に笑いそうになった。

 想像だにしない状況だ。

 今、源は紗琥耶の回復を護っている。

 まさか紗琥耶の護衛をする時が来るとは思わなかった。

 思いの外広範囲に散っていた彼女のナノマシンは、もはや彼女自身の回収不可能な範囲にまでおよんだ。

 加えて、敵のチャフが一部のナノマシンを静電気で吸着しており、それらを回収して回るよりは自己生成させた方が遥かに効率的かつ安全性も高いと判断した。

 紗琥耶の身体を構築しているナノマシンは、ほぼすべてが彼女の細胞を再現しており、癌化した彼女自前の細胞の暴走を抑制する役割も担っている。

 この技術自体は2176年では一般化した医療技術であり、もはや癌は人類を脅かす病たりえない存在となっていた。

 それならば、多少の時間的ロスには目を瞑って、一般的な細胞増殖の要領で自力回復することにした、と言う訳だ。


「辱めてくれるわね。アンタに護衛されるなんて」


 苦々しく吐き捨てるように紗琥耶はこぼす。

 源は聞こえていないふりをしながら煙草に火を点けた。


「いつ終わんだ?」

「あと10分前後」


「かかんなぁ」


 ウンザリした口調で伸びをしていると、かつて同じように彼女の回復を待っていた記憶が蘇る。


『そぉだ、前はもっとぐったりしてたなコイツ』




~2172年9月30日PM1:30 東京~


 全スタッフが慌ただしく行き交っていた。

 無理もない話だ。人類史上初の、時空を股にかけた警察行為が行われるのだ。

 世界線を矛盾パラドックスという犯罪から護るためには、多くの制約を掻い潜って任務を完遂しなくてはならない。

 そのためには、万全の準備のがいる。


「あの、なにかお手伝い出来ることありませんか?」

「いえ、予備人員ですから待機していて下されば結構ですので」


 おずおずとボブヘアを傾けては突っ撥ねられるばかりの絵美を、呑気な声が繋ぎ止めた。


「いぃ加減こっちで大人しく待ってたらどぉだ?」


 同じく予備人員のかなはじめ源の言葉も、意味は理解出来るが溜飲が下りない。

 むしろ、その落ち着きっぷりに嫌悪感すら。

 振り返った先のくわえ煙草に皮肉の一つも投げたくなる。


「随分と冷静ね、いいご身分で結構だこと」

「んなこたねぇさ、俺ぁ悲観してんだよ。極致にいたるくらい悲観してんだ」


「極致?」

「そぉさ、悲観の極致。つまり楽観だ」


 悲観も極まれば諦観となり、諦観はやがて楽観にいたる。覆水盆に返らず、山河を下りて大海にいたるというわけだ。

 自然の流れならば諦めもつく。後は野となれ山となれ。

 アイデンティティを証明する“らしさ”に満ちたお答えに、思わず賞賛の溜息が出た。

 なんとも見下げ果てた根性だが、管を巻く相手がいるだけでも幸いなのかもしれない、と開き直る気にはなった。

 着任者待機ロビーの穴倉に戻り、なんの気なしに源に尋ねる。


「ならご教授いただけます?どうやったらそんな極致にいたれるの?座禅でも組む?」


 スッとその手から煙草を一本差し出された。

 冗談じゃない。


「いらないわよ」

「んだよノリ悪ぃな。……じゃあなんだ、酒でも頼むか?」


『……ああもう、アンタそういうとこよ』


 こんな男に緊張を酌まれ、気まで使われた。

 とてもやっていられない。


「……ええそうね、スピリッツでも頼むことにする」


 生れて初めて現実逃避のために頼んだ酒を仰ぐと、確かに少し気が和らいだ。


「どぉだ?ちったぁ落ち着いたか?」

「うん、全然酔えないけどね」


「そぉかぃ。まぁ順番でもねぇのに張り切って出張ろぉとすんな。俺らの出番なんざねぇほぉがいぃんだからよ」

「……はーい」


 言われなくてもわかっていたはずの事実を指摘されると、無性に恥ずかしい。

 そんな絵美の屈託などどこ吹く風で、フッと主流煙を吐き出して源が呟いた。


「お出ましだ」


 視線を追って、思わず絵美は駆け出す。


「紗琥耶!エドワード!」

「あ、絵美たんだー」


「うぅちょっと紗琥耶~」


 麗しいと形容するにふさわしい一組の男女が歩いてきた。

 長く美しい金色のポニーテールを犬の尻尾のように揺らす紗琥耶が絵美に跳びつく。

 一方、紗琥耶と同じ髪色アシンメトリーの男が絵美と源に目で挨拶した。

 2人とも、さながらハイブランドの専属モデルのように装いが決まっている。


「正岡さん。わざわざ見送りに来てくれてどうもありがとう。源も待機任務お疲れ様」

「いえ、今出来ることなんてこれくらいしかないので」


 ピッと指で敬礼する仕草がモデルのように映える彼こそが、初代T.T.S.No.1、トマス・エドワード・ペンドラゴンだ。

 気品すら纏う端正な顔立ちは、同性であろうともハッとさせられるほど、奇抜なアシンメトリーの髪型すら美貌に組み敷く。

 紗琥耶は絵美の上からヒラヒラと源に手を振った。

 不愛想な源もこれには手を挙げて応え、吸い込んだ主流煙を吐き出す。


「さっさと終わらせろ。ずっと待たされんのもダリィんだ」


 着任者待機ロビーの狭い室内は、源が喫煙していたとは思えないほど匂いも煙もなく、あるのは絵美があおったスピリッツのショットグラスくらいだった。それすらも、テーブルの中に吸い込まれてすぐに消える。

 ガランとした着任者待機ロビーから出た源は、執事のように手を差し出した。


「ほんじゃまぁ、いってらっせぇませ」

「ありがとう。いってくるよ」


「じゃねー」


 絵美から離れるなり、今度は源に跳びついた紗琥耶は、口をすぼめて源とバードキスする。奔放すぎる振る舞いに、源も絵美も見ていることしかできなかった。

 壁際にピタリと背中を押しつけて、エドワードは表情を引き締める。


「もし」

「あぁ?」


「もし僕たちになにかあったら、その時は頼む」


 源と絵美は顔を見合わせた。


「縁起でもないこと言わないでよ」

「知るか」


 同時にまったく違う意味の言葉を返す二人を見て、愉快そうに笑ってエドワードは改めて指で敬礼した。


「じゃあいってくるよ……Put世界 up light終わる untilまで the worldを掲 endsげよ

「じゃあねー……Orgasmイけ keepsれば the doctor者い awayらず


 2人の姿が消え、また長い待機の時間が始まる。

 絵美の喉は、またカラカラに渇いていた。





 エドワードは、地下深くに降り立った。


『ここもか』

「みんな火照ってる」


「そうだね」


 一歩を踏み出した瞬間、今自分がいる場所が、紛れもなく前線基地なのだと確認する。

 すぐに背中に乗ってきた紗琥耶もその空気を理解したようだ。

 懐かしさすら感じるその雰囲気に、背筋が伸びる。

 平賀青洲を始め、その場にいる全員が、ピリピリとした緊張感とギチギチのストレスに雁字搦めにされ、隣に立つ者にすら視線が向いていなかった。

 ともすれば一瞬でバランスを崩してパニックに陥りかねない場の雰囲気を前に、エドワードはその気質と経験から、すべきことを自然と行う。


「平賀さん。今日はよろしくお願いします」

「任せておけ。俺が責任を持ってお前たちを送ってやる。だからお前たちも気をつけてな」


「あは、お爺ちゃんなにそのテンション!超ウケる!」

「紗琥耶、からかうんじゃない。僕たちの命を受け持ってくれるんだ。感謝こそすれ、侮辱するなんて僕が許さないぞ」


 紗琥耶が絶妙に緩めた雰囲気を、一気に修正してストレスと緊張の矛先を本懐に向ける。

 思えば、あの源でさえ緊張していた。あんなにはっきり意思表示する彼は珍しい。

 チシャ猫のようにニマニマと笑いながら引っ込む紗琥耶を遮って、エドワードは頭を下げた。


「すみません。どうぞ僕たちの時間跳躍をよろしくお願いします」

「いっそ頼もしいってなもんだ。まかせろ」


「お爺ちゃん、ツールアプリの復習しながら一緒にイコ♪」


 豪気に頷く青洲に頭を下げて、エドワードは奥へと歩を進める。

 背中にくっつく紗琥耶と青洲のやりとりをそれとなく聞いていると、前方に二人の人影が見えてきた。


「トマス・エドワード・ペンドラゴン。ジェーン・紗琥耶・アーク」

「お疲れ様ぁ」


「Mastert。おや、Vice-Masterまで」


 T.T.S.Masterアスマア・マフフーズとT.T.S.Vice-Master甘鈴蝶のコンビは、それぞれが潔癖と怠惰の見本のようで、これでよくコンビを組んでいられるものだとエドワードは感心する。


「まで、とは言ってくれるねーエド」

「失礼、ですが貴女にまで来ていただけるのは心強いです」


「それは私では心許ないという意味ですか?」

「い、いえMaster、決してそのような意味では」


「Master、イジメちゃかわいそうですよー」


 できるだけ触れないようにしていたのだが、本人が言い出してしまってはしかたがない。

 今日こうして初任務を迎えるまで、アスマアは様々な手続きに追われ、ほとんど本部におらず、代理でここを取り仕切った鈴蝶の方が、T.T.S.メンバーには馴染みの存在となっていた。

 そのことを、アスマアも気にしていたとまではエドワードも思いいたらない。


「Master、僕は」

「いいえ、おっしゃらずとも結構です。私なりの冗談だったんですが、ちょっと質が悪かったわね。失礼したわ」


 フッと表情を和らげて、アスマアは書類を差し出した。


「任務概要です。すでに把握済みとは思いますが、念のためこの場で再確認を。そちらの最終確認が済み次第、書類はすぐに回収させていただきます」

「アヌスさん相変わらずまじめー」


「私の!名前は!アスマアです!……まったく貴女は」

「紗琥耶!」


「はーい。アタシにも見せてー」


 もう何度も見直した書類を検め直す。


Operation Code:G-0023

概要

 本任務は2168.9.28 19:32にブルキナファソ共和国ワガドゥグー市のコトブキビルディング48Fにて発生した緋雅嵯紫音氏の誘拐とTLJ-4300SH設計データの強奪の阻止を主任務とし、その後の生還までも任務とする。

 跳躍先では主要任務にまつわるもの以外のあらゆる事象への干渉を禁ずる。

 TLJ-4300SHの折り返し便は任務対象日時の2168.9.28 19:32から90分後の2168.9.28 21:02に同フロア西側の男性用個室トイレの掃除ロボット充電スペースに展開。

 これに間に合わなかった場合、予備人員を投入。任務を続行する。

 本任務は人類史のみならず、この世界そのものの存亡を賭けたものであり、達成の重要度は極めて高いマストコンプリート


着任人員

 T.T.S.No.1 トマス・エドワード・ペンドラゴン

 T.T.S.No.3 ジェーン・紗琥耶・アーク


予備人員

 T.T.S.No.2 かなはじめ

 T.T.S.No.4 正岡絵美


 その後も長々と続く、すでに頭に入っている以上でも以下でもない情報に、それでもキッチリと確認して、エドワードは書類から顔を上げる。


「できれば源の支援が欲しいところなんですがね」

「まーた言ってる。あの中毒者ホント好きだよね」


「ご所望なら任務を長引かせることですね。決しておすすめしませんが」

「……了解しました」


「いやいや、やろうとしないでね!色々追加手続きなんかも大変なんだからさ!」


 ひとしきり笑って、アスマアは胸を撫で下ろした。


「わかっていましたが、安心しました。あなた達にすべてお任せします。どうか私達を、この世界を護ってください」


 深々と頭を下げるアスマアを見て、鈴蝶もまた頭を下げる。

 二人の大人の三跪九叩に、さすがの紗琥耶もエドワードの背から降りた。


「いって参ります」

「いってきまーす」


 書類をアスマアに返し、エドワードと紗琥耶は更に奥へと脚を向ける。

 もはや、誰の見送りもなく、後にも続かない。

 今と断絶した世界の入口が、紛れもなくそこにあった。




~2162年6月10日AM3:23

仏系左派集合地 キャバナック~


 その時のことを、紗琥耶は忘れない。


「なんだこれは……」


 八畳ほどのスペースを血と精液の臭いがプンと満たし、死体とハエが床を埋めつくす。

 生と死で彩られたモノクロの世界。

 紗琥耶にとってなんでもない日常にポツリと現れた男は、絶望的な顔で棒立ちしていた。


「だれ?また仕事?」


 そう問うてみるが、部屋を見回すばかりで特になにもしないので、紗琥耶は男を観察する。

 重装備だった。視界諸共顔を覆う真っ黒なフルガードメットに弾数無制限携帯型機関銃ULBMMG。ショック吸収型防弾防刃生地の軍服には、サイドアームの反動抑制型マグナムと硬質カーボンナイフが出番を待ち侘びて光っていた。


『ALVだ』


 国という自治形態が徐々に減少傾向にある世界では警察組織の需要は高く、中でも凶悪犯罪や武力蜂起を鎮圧する志願兵ボランティア警察組織SWSuppressible Waveは社会的にも重要な位置を占める。男の装備は、その中でも最大勢力のALVAfter Life Volunteerのものだった。


「キミは一体誰だ?」


 ようやく紗琥耶に関心を向けた男は、実につまらない疑問を投げかけてくる。

 だが、その言葉は紗琥耶の意志決定材料には充分だった。


「そっか、敵か。死神の聖女Un saint de la mortJ-紗琥耶-A任務を遂行します」


 いつも通り殺す。下知を受けた以上、迷うことなどなにもない。



~2172年9月30日PM1:42 東京~

 虹彩、掌紋、頸部静脈蔓状、あらゆるチェック項目が、二人を任務執行者と認めていく。

 その度に「なんとかしてくれ」という懇願する声なき声が聞こえる気がして、紗琥耶は鼻で笑い飛ばしてやりたくなった。


『衆愚の極みね』

「紗琥耶」


「んー?」

「引き返すなら今だぞ?」


 だから、エドワードの言葉には動揺した。

 応えるのに一拍の間を空けた上、初めて出会ったあの時のエドワードよりも益体のない言葉を吐いてしまう。


「は?」

「無理につき合うことはない」


 首を巡らせたエドワードの真っ直ぐな瞳に射抜かれて、紗琥耶の胸が詰まった。


「これは俺のやりたいことだ。もし今キミにやりたいことがあるのなら、



~2162年6月10日AM3:24

仏系左派集合地 キャバナック~


「なんなのよアンタ、なんで立ってられんの」


 訊かれた言葉をオウム返しするようだった。

 いつものように、紗琥耶は男の肝臓を潰した。

 肝臓は血中毒素の除去や古くなった赤血球の処理も司る、血袋ともいえる臓器だ。

 普通、ここを潰されたら急激な血圧低下でショック状態に陥り失神する。

 その後、運が良くてそのまま失血死、悪ければブクブクと内出血で膨れていく腹を見ながらの失血死の二択だ。

 だが目の前の男はよろめきもせず立っている。


「キミと似たようなものだよ」


 テラテラと紗琥耶の顔を映すフルガードメットの向こうで、男が笑った気がした。

 だが、そんなことは紗琥耶が一番理解している。


「へえ、

「そうだよ。よくわかったね」


 人としてあるべきものがごっそりない身体は、不気味な感触がある。

 だが、それ以上に笑えないのが、ことだ。

 背中には、自然と脂汗が浮かぶ。

 だが、それでもまだ攻勢の手は残っている。そんなことは、男にもわかっていたはずだ。にも拘らず、あろうことか男はフルガードメットを外して笑った。



~2172年9月30日PM1:42 東京~


「お前とコンビを組んでもう10年になる。長い関係だ。だから言っておく」


 迷わず進めていた歩を止め、エドワードは続けた。


「お前は優秀な相棒だ。でも今回はこれまでと違う。決して失敗の許されない勝つだけじゃない戦いだ。だから」


 聞きながら、紗琥耶は心の底から溜息を吐いた。

 まったくなにもわかっていない。



~2162年6月10日AM3:25

仏系左派集合地 キャバナック~


「なにしてんのアンタ?」


 紗琥耶は混乱していた。

 殺してくれと首を差し出す者はこれまでにもいた。

 だが、この男は違う。


「すでに外にいたキミの部隊を全滅させた。そして今、キミを勧誘スカウトしようとしている」

「すかうと?」


 耳慣れない言葉だった。

 任務キルでも食事ブランクでも休憩セックスでもない。

 すかうと、とは、一体なにをすればいいのかが、分からない。

 分からないのだから、殺すしかない。


「……っ」


 だが、いくらもがいても腕は動かなかった。

 それならば、と足を掛けて寝技に持ち込もうとするが、それも叶わない。

 ビクともしない足掛けに躍起になっていると、壁に押さえつけられた。



 無人ロボット同士の物量合戦No one deadの戦場に立つ人間が普通の人間のはずがないのだが、紗琥耶にはそれが分からない。


「だからなんなのよ!アンタ、なんか!」

「キミのナノマシンの出力じゃ絶対に逃れられないぞ。伝導電子制御式の拘束だからね。それから」


 首筋に腕を押しあてられて頸動脈を絞められながら、紗琥耶は最後の言葉を聞いた。


「僕の前はトマス・エドワード・ペンドラゴン。キミみたいな子を解放する仕事をしている」


 意識が落ちる直前、紗琥耶が今まで見たことのない種類の笑顔を男は浮かべた。



~2172年9月30日PM1:42 東京~


「しつこい」


 腕のナノマシンを霧散させて、紗琥耶はピョンと背中から飛び降りた。

 そのまま、紗琥耶はエドワードの背中に頭を預ける。


「また言うの?」

「またってお前」


「これで六回目だよ、今までで」

「……そんなに訊いてきたか」


 エドワードはグッと背中を縮めた。

 恥ずかしがる時肩をすぼめるのは、彼の癖だ。

 “優秀な相棒”として、自分も恥をかき捨てることにした。


「アタシね、エドが見せてくれる世界が好きだよ。“一番酷い場所に一番優しい場所を作る”凄く充実してて楽しい」

「……そうか」


 確認はもう充分だ。


「いこう」

「うん♪」





 エドワードと紗琥耶を見送った絵美と源の聴覚野にアスマア・マフフーズの声が響いた。


「お二人共待機任務お疲れ様です。No.1、No.2の両名がTLJ-4300SH-吽號にスタンバイ完了しました。よって、お二人も待機場所を変更してI.T.C.までお越しください」


 煙草を揉み消した源がおもむろに立ち上がる。

 その頃には、絵美は壁に背をつけていた。


「早く!」

「張り切ってんねぇ」


 源も背伸びしてから後に続く。


Va可能 ou tu限り peux進み,meurs然るべき ou tu dois死ぬ

Up,Down,Jack Ass上だ!下だ!この間抜け!


 下に降りてからも、絵美の気合は凄かった。

 妙に姿勢よく背筋の伸びた青洲への挨拶もそこそこに、足早にI.T.C.へ向かう背中からは緊張からくる力みが伝わってくる。


『こりゃちとマジィな』


 思うより早く、源は絵美の両脇腹に指を立てて掴みかかった。


「うっひゃ!なにすんのよ!」

「うぉ裏拳速ぇ!」


「なによ!?」

「落ち着け」


「エドも紗琥耶も頑張ってるの!私たちも」

「じゃあ今具体的になにできんだよ」


 グッと言葉に詰まった絵美に溜息を吐いて、源は煙草に火を点けた。


「スピリッツ効いてねぇなぁ。でもよ、気を回すより頭を回すのがお前のすべきことだろ?」

「……ごめん」


「頼むぜ相棒」

「ごめんなさい」


 絵美は自分の顔を思い切り叩く。

 パアン!と派手に響いた音を聞きるけ、青洲が顔を覗かせた。


「すみません平賀さん、私は大丈夫です」


 ペコリと頭を下げて、絵美は再び前を向く。

 今度は力まず淡々と歩み出したのを見て、源は青洲にウインクして後に続いた。


 兵器および時空間跳躍機管理部門脇から固いセキュリティを挟んだところに、TLJ-4300SHの阿號が存在した。通常T.T.S.のメンバーは誰一人として通行を許可されていないが、今日はT.T.S.Masterの許可が下りている。


《T.T.S.No.2およびNo.4を認識。一時認証コードを入力してください》

「Rat Vache व्याघ्रः 兎 Drache سانپ」


「лошадь Hipi Monyet Pták 개 野猪」


 静かに12単語並べた源と絵美の前で、気圧の変化を表すエアーの音が響いた。

 観音開きの扉の先では、喫茶スペースに腰掛けコーヒーカップを傾けるアスマアと鈴蝶の姿がある。


「お疲れ様です」

「うぃっす」


 呑気に手を挙げる二人にも、もはや絵美も苛立ったりはしなかった。


「お疲れ様です。こちらで待機していればよろしいでしょうか?」

「はい。有事の時はアラームが鳴りますので、それまではこちらで待機をお願いします」


「そぉさせてもらわぁ」


 入るなり一直線にカウンターのコップを二つ取った源は、ソファに腰掛け、ティーテーブルにコップを一つ置く。そして底から湧き上がったコーラをグイと煽って、もう一つのコップを絵美に投げた。


「ほれ、絵美もどっか座ってろ」

「隣空けて、初任務成功の乾杯を二人で待ちましょう」


「絵美さんはゆっくりなさってください。源は立ってろ!」

「エリ、お疲れ様」


「おぉおぉ、元気一杯やる気満々でなによりだぜエリちゃん」


 手厳しいコメントを鋭い口調で投げたのは紙園エリ。

 源の手で確保された元テロリストで、現在はI.T.C.の技師だ。

 彼女の顔つきはやつれきっていた。

 目は虚ろながらぎらついており、口元もせわしなくヒクついている。

 しかしながら、それは“初の時空間跳躍任務で緊張しているから”ではない。


「免罪を条件ダシに悪どい契約結ばせてよくいうわ!」

「喚くな、黙って仕事しろ」


「手前……」

「紙園さん。そろそろ始めます、所定の位置についてください」


「……了解しました」


 堪忍袋の緒が切れ掛かったエリをピシリと縫い留めたのは、TLJ-4300SH阿號調整部門の指揮官で、通称Conductor、アレッサンドラ・グレイス・ベルだった。

 “穴倉の雪の女王”と称されるアルビノ体質の彼女は、その透き通るような白く長い髪と白い肌で薄暗いオペレーションルームを神々しく照らし、深紅の瞳は周囲を鋭く猊下する。それを前にしては、元テロリストも形なしだ。噛みつかんばかりに源を睨むエリも戻るしかない。

 その様子をジッと見送り、アレッサンドラはアスマアに頭を下げる。


「Master、始めます。よろしいですね?」

「はい、よろしくお願いいたします」


 事務的なやり取りを終え、アレッサンドラは源に目を向けた。


「そこで大人しく座っていなさい。貴方のような存在に暴れられるのは大変迷惑です」

「ハッキリ言ってくれんじゃねぇか」


「止めて、お願いだからジッとしてて」

「よろしくお願いします」


 エリのお陰か悪し様に扱われる源を宥めつつ、絵美はアレッサンドラに頭を下げる。

 しかし、絵美の言葉には答えずに、アレッサンドラは踵を返した。

 ワザとらしく舌打ちした源の膝を叩いて、絵美はその膝を握る。


 いよいよ、その時が来た。


「では始めましょう。これより、T.T.S.No.1トマス・エドワード・ペンドラゴンおよびT.T.S.No.3ジェーン・紗琥耶・アークの時空間跳躍を行います。各位、状況開始」

「TLJ-4300SH吽號をスリープより解凍」


「通電圧を30ZeVまで上昇」

「跳躍先磁場確認。類似惑星候補より、総海面面積を元に70%カット」


「96%カット」

「CLHC内にてミニカー・ブラックホールの発生を確認」


「99%カット。跳躍先磁場を固定。並びに、該当地陽イオン濃度の変異を感知。固定完了」

「これより帰還跳躍用位相空間の先行跳躍を開始」


「帰還跳躍用位相空間の先行跳躍に合わせ、跳躍者のヒッグス粒子を検索並びにタキオン粒子への置換を開始」

「置換率45%」


「87%」

「100%。時空間跳躍、開始します」




~2172年9月30日PM1:42 東京~


「時間跳躍開始!」


 エリの状況報告が済むと同時に、指令室が赤く染まった。


「跳躍先磁場の位相に急激な変化アリ!」


 赤色灯がグルグルと部屋全体を明滅させ、甲高いアラートが場の雰囲気を張り詰める。


「なに?」


 傍らで立ち上がった絵美とは対照的に、源はその様子を冷静に見つめる。


「来やがったな」

「どういうこと?」


 源の言葉に引っ掛かった絵美が振り返った。

 源は目だけ向けて応じる。


薔薇乃棘エスピナス・デ・ロサスからすりゃ、この作戦は。なら、分かんだろ?」

「妨害」


「あるいは時空間跳躍の経路を使っての先制攻撃とかな」

「でもそれならI.T.C.ウチの技師が……」


「おぃおぃ、薔薇乃棘あっちにはTLJ-4300SHお宝の開発者がいんだぞ。しかも声明には挑発の意志が明確だ。バカでも罠だって分かりそぉなもんだが」


 視線の片隅でアスマアが硬直しているのを確認して、源は目を逸らす。


『危機感知も出来ねぇ上役につき合わされんのも可哀そぉなもんだ』



 時空間跳躍が始まって間もなく。

 目を潰すほどの閃光と耳障りな音の中にあったエドワードと紗琥耶の耳に、奇妙な雑音が混ざり出す。ピンと張った布をナイフで切るようなテンションを感じさせる鋭い音が、鼓膜を裂くようだ。


「なんだ!」


 発したはずの自分の声が骨伝導でしか聞こえない。

 跳躍前にいた位置を元に、大まかに紗琥耶のいると思われる場所に手を伸ばした。

 僅かに紗琥耶の手と思われるものに触れた、と同時に、彼女がなにか言っているのを感じ取る。


「……の……レ……」

「とにかく伏せろ!」


 精一杯声を張り上げながら、エドワードは触れたものを握りしめて腰を下ろした。

 そうしている間にも、音は増幅していき、白とびした世界が続く。


『どんな手を使った!』


 薔薇乃棘エスピナス・デ・ロサスによる先制攻撃の可能性は、エドワードも予期していた。

 武力による先制ならば、エドワードは即応出来るが、技術的な攻撃に関しては門外漢だ。

 I.T.C.を信じるしかない。


『だがそれとて無茶な話だ。相手には開発者本人という資源リソースがいるのだから』


 それでもエドワードが前に出たのは、正義感の強さと戦闘力の高さがあったからだ。

 しかしながら、エドワードは笑った。

 自分の身になにが起こるかは分からない。

 だが、信頼出来るバックアップがいる。

 その唯一の救いが、エドワードの表情を解れさせた。


『これはいよいよ本当になにが起こるか分からないな……源、なにかあったら頼むぞ』


 かつて、戦争犯罪を撲滅していた頃、エドワードも新人類組成計画Neuemenschheitherstellungplanの噂は小耳に挟んでいた。

 徹底的な痕跡洗浄により事実確認は叶わなかったが、その被験者とT.T.S.の選抜試験で対面した時は驚いたものだ。

 だが同時に、エドワードは安堵する。

 口も態度も悪いが、超人的な能力を得てなお、かなはじめ源はその両腕を、人を守るために振るいにきた。

 それだけで、彼の良心は充分に信頼出来る。


『キミと一度くらいは組んでみたいものだよ』


 これからの展望に、エドワードの胸は躍った。

 その時、ふと世界に闇が戻る。

 ホワイトアウトからブラックアウトへの転調は、視覚を完璧な混乱に叩き落とした。

 耳障りなノイズも一斉に凪いだが、こちらも残滓の耳鳴りが鼓膜にこびりついている。


「止まっ……た?」


 ぼんやり呆けた声を上げる紗琥耶の生存に安堵していると、パチンと証明がついた。

 エドワード達と共に時空間移動してきた亜実体物質のダイオードの明かりが、部屋の全貌をつまびらかにする。


「なんだここは」

「4年前……じゃないね、どう見ても違う」


 部屋の中は、驚くほど前時代的だった。

 電子機器といえば裸電球とラジオくらいのもの、あとはなにもかもがアナログだ。


「なにこれ」


 紗琥耶が拾い上げたのは菱形の木の弾が縦に横にと無数に連なり、振るとチャカチャカと音を立てる。

 彼女には意味不明な物のようだが、エドワードには見覚えがあった。

 最近では骨董品や収集物でしか目にしない、東洋の古典的な計算機だ。

 ふと、近くの卓袱台に載った新聞が目に入った。

 手に取って、エドワードは息を呑む。


『冗談だろ?』



「跳躍先はどこ!?」

生命兆候バイタルは確認出来てるの!?」


「跳躍先変更の原因はなに!?」


 緊急事態エマージェンシーに見舞われたI.T.C.は、混乱の渦に呑み込まれていた。

 先ほどとは比べ物にならない強い口調のアレッサンドラが、そこかしこに檄を飛ばす。

 返す局員の言葉も荒かった。

 慌ただしく苛烈なI.T.C.とは対照的に、T.T.S.の面々は棒立ちで立ちつくしている。

 そんな中、絶望的な面持ちで状況を見ていた絵美の手を取り、源は歩き出した。


「いくぞ、いぃな」

「……」


「よろしく」


 呆然と立ちつくすアスマアと、なんとか頷いた鈴蝶の背中を軽く叩いて、源はI.T.C.を出る。

 引き摺られるようについてくる絵美に構わず、源はTlJ-4300SH吽號に向けて黙々と足を運んだ。

 青い顔で俯きがちについてくる絵美の前で、源は立ち止まる。

 そのまま、顔も見ずにゆっくりと拳を絵美の腹にあてがった。


「おぃ相棒バディ、気合い入れんのは今だろ。腹に力入れろや」



 紗琥耶は日本語が読めない。

 だが、エドワードには読めた。

 広島新聞1945年8月6日 朝刊。

 人類が初めて地獄を目撃した、その日だった。


「マズい」

「なに?敵?」


「紗琥耶!」


 慌てて紗琥耶を抱き寄せた、次の瞬間。

 エドワードの世界は再び真白に染め上がる。

 ただし、今回の白い世界に音はなかった。





 TLJ-4300SH吽號の亜実体物質の床を踏み締め、源と絵美は変わらず待機していた。実動任務への移行が確定してもなお待つのには理由がある。

 いつどこに跳ぶのかが確定していないのだ。

 なんとか落ち着きを保つ絵美の聴覚野に、アスマアの感情を押し殺した声が響く。


《お二人、配置には着いていますね?》

「……はい」


 待望と不安の入り混じる複雑な心持ちで返事をしながら、絵美は相棒バディを盗み見た。


「で?俺らどっちに跳ばされんだ?」

《どっちとは?》


「任務続けんのか?それともエドワードと紗琥耶アイツら回収しに行くんか?」

『……あっさり訊いてくれるわ』


 いつも通り気のない返事ではあったが、裏腹に怜悧な表情はどんな刃物よりも鋭く研ぎ澄まされている。今の絵美に、その表情は頼もしいというより羨ましかった。命を張ることに対する場数と経験と決意の差が顕著に表れている。

 その差が、悔しさすら懐けないほど遠いものに感じた。


《……現状、私たちはトラブルの原因さえ満足に特定できていません。恐らく跳躍中のTLJの軌道修正をしたのでしょうが、そんな技術の持ち合わせもありません。そして薔薇乃棘相手はそれを易々と行ってきた。……任務継続は現実的な判断ではない、と私は考えます。よって最優先事項はT.T.S.No.1とNo.3の救命に更新。お二人にはそちらの実動にあたっていただきます。もう……傷つけさせません》


 アスマアの声に珍しく感情が乗って、絵美は驚く。


《下知なんてもう聞いていられない!アナタたちは私の大事な部下です!死なせない!絶対に!》

「Master」


「感情的になるのは結構だがなMaster、冷静さを欠かれちゃこっちも沈む。どこに跳んでなにすりゃいぃかだけ教えてくれ。後は俺らでどぉにかする」


 しばし間があったが、絵美にはその意味が分かった。

 彼女同様、アスマアも気を落ち着けている。

 そう共感出来るだけで、絵美の気持ちも上向いた。


『怖いけど、不安だけど、今出来ることをしよう』


 自分を鼓舞するために拳を胸にあてがうと、アスマアのアナウンスが再開される。


《二人の跳躍先が判明しまし……っ》

「どぉした?」


《……失礼、二人の生命兆候バイタルの発信源情報を共有しておきます。……跳躍先は、1945年8月6日8:14の広島……あなた方には安全面も考慮して28分後に、跳躍設定します》

「それって……」


「……」


 絶望的な言葉だった。

 最後の希望が断たれたような気さえした。


「……分かった。絵美、柄強度可変型泉下客服FAANBWに対放射線汚染地域用の装備と過熱地帯用装備を加えてから跳躍だ……アスマア、鈴蝶、まだなんともいえねぇが、マダムと、それと青洲のジジィに放射性物質除去手術と重被爆組織切除手術、重度欠損人体補完機器オートマタの準備とその取りつけ手術の準備、要請しておいてくれ。準備が完了し次第こっちから知らせっから、黙って俺達を跳ばせ」

《……》


《……任せて》


 言葉を失ったアスマアに代わり、鈴蝶が言葉を絞り出し、通信は途絶えた。

 自然と溢れた涙に気づきもせず、ただ深い絶望に呑まれて立ちつくすだけの絵美は、手を取られて初めて源がこちらを向いていることを知る。


「ほれ、準備しろ」

「紗琥耶と、エドが……」


「あぁそぉだな、だからとっとと準備しろ」

「でも、だって……」


「お前望んでここに来たんだろぉが簡単に決意揺らがすんじゃねぇよ」


 震える絵美の腕をそっと掴んで、源は防塵マスク機能と放射線相殺ナノマシン、暗視機能と呼気CO2転換機能をアクティブにした。


「最悪俺に全部投げろ、ただ逸れたら厄介だから背中だけは掴んでろ。いぃな?……アスマア、準備完了だ。跳ばしてくれ」


 TLJ-4300SHが起動をし始める音が、地獄の釜の蓋が開く音に感じて、絵美は歯を食い縛って震える身体を押さえつけた。



1945年8月6日8:18 大日本帝国 広島

 地獄が顕現していた。

 まず見えたのは、自身の瞼の裏側で周辺環境の危険を告げる真っ赤なオーロラのはためきだ。

 曰く。空気中には酸素がほとんどなく、致死量の放射線被曝の危険性が高い、気温地温共に超高温で、皮膚燃焼を始め、気管や口腔を通して内臓にダメージがいくことは必須であり、およそ生物の生存が見込める場所ではない。とのことだ。


『分かってるわよそんなこと』

《絵美、無事か?言われなくてもわかってんだろぉが、話は全部脳間無線こっちですんぞ》


《……わかった》


 ようやく四桁を下回ろうかという高気温下の部屋はもはや空間としての定義はないに等しい。壁も窓枠も溶け出し、“伽藍堂のよう”という形容すら過剰な脚色といえるボロボロのコンクリートの空間には、そこかしこに隙間が目立つ。

 加えて、太陽光の一切が遮られた真っ暗な爆煙の下では、およそ光源は皆無だ。

 さらに深刻なのは、数分前に30000~60000℃を叩き出した地熱と、それに温め続けられる気温、そしてその上昇気流に乗って舞い上がる放射性物質だ。今もなお、室内であろうと、2580℃前後の熱を持つ地面からは、塵となった放射性物質が常に舞い上がっていく。

 事前の警告通り、およそ生物が生存可能な環境ではなかったが、それでもなお、柄強度可変型泉下客服FAANBWを始めとするT.T.S.の装備は強かった。

 空気交換しては前述の通り深刻なダメージを負いかねない呼吸は、肺の空気を鼻腔や歯肉表面の葉緑体機能代行ナノマシンとの循環に切り替えることでカバーでき、暗視機能は部屋の様子をつぶさに拾う。短時間であればなんとか捜索をするくらいの余裕はありそうだ。

 だが、それでも人工地獄の脅威を完全には遮れない。

 靴底は今にも融け出しそうで、服の下で皮膚に塗られた外気温緩衝機能と放射線遮蔽機能を持つ無気化ローションでさえ蒸発しそうだ。暗視機能でさえ、地熱が生む気流で揺らいでいた。

 現在地は言われずとも分かる。

 今建物の形状を保っているものなど、数少ないのだから。

 後に原爆ドームと呼ばれる、広島県産業奨励館。

 間違いなく、絵美と源はそこにいた。


《絵美、こっちだ。手ぇ伸ばせ》

《……分かった》


 視界に広島のマップが展開され、マーカーが2つ落とされる。

 微弱ながらも反応する、大事な仲間の生命兆候バイタルだった。

 そうして初めてダウンロードされていると気づいた自身のデータを元に、絵美は源の背中を手で探り当てる。


《ありがとう。でも勝手に人のWITいじらないで》

《ちったぁ調子戻ってきてんじゃねぇか。ならいこぉか》


 源の言う通り、弱々しく明滅する点を見ている内に、絵美の中に正義の渇望が蘇っていた。

 あらゆる生物が滅亡した世界で、唯一動ける自分たちが動かずして、誰が助けるというのか。そう思うと自然と足が動き出していた。

 が、さすがに進行は慎重を期さねばならない。

 無理もない話だった。

 転倒すれば無事では済まない上、広島県産業奨励館は形が残っている分、障害物は壁や柱や瓦礫として無数にあり、かつ、原形を保ったまま炭化した瓦礫は、踏み締めれば簡単にその形を失う。

 パフォーマンスが充分に発揮できないもどかしさが、喫緊の事態とのギャップからフラストレーションを溜めていった。

 それでも文句も弱音も吐かずにいられたのは、変わらぬ使命感があったからだ。

 絵美の袖口が下に曳かれる。


《絵美、だ。

《……ええ、確認したわ。こっちは任せて源はエドのところに行って》


《了解した》


 そこは一見、瓦礫の山にしか見えなかった。

 だが、視覚に被せられたARエフェクトは、確かに瓦礫の下から波紋を発している。

 間違いなく、その瓦礫の下に紗琥耶が埋まっているのだ。

 源の気配が消えた方向を見る。

 僅か10mほどの距離だが、そこから届くごく微弱な生命兆候バイタル波紋は、間違いなくエドワードのものだった。


『紗琥耶、今助けるからね!』


 絵美は自身の柄強度可変型泉下客服FAANBWのパフォーマンスの一部を調整する。

 人工筋肉による膂力増強で、絵美の腕に重機並の出力能力が宿った。

 両足を肩幅に開いて踏ん張り、コンクリート資材と土壁の残骸がドロドロに混ざり合った超高熱の瓦礫の端に手を掛ける。力んで声を上げることは出来ないので、精一杯歯を食い縛った。

 僅かに浮き始めた瓦礫を確認して、脳間無線で紗琥耶に呼び掛ける。


《紗琥耶!意識があれば返事をして!》


 手応えはない。

 ならば、とさらに瓦礫を持ち上げた時、それを見た。


《紗琥耶!》


 一瞬、手を放し掛ける。

 紗琥耶がいた。奇跡的に人のカタチを保ち、どうやら柄強度可変型泉下客服FAANBWも形を留めているようだ。

 正直なところ、絵美は部位損傷も覚悟していた。

 少しだけ安心出来たが、余談を許さない状況は変わらない。


《紗琥耶答えて!紗琥耶!》


 瓦礫を紗琥耶の上から完全に除去しようと一層力を込めた、直後。


「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」


 突然、なんの前触れもなく、周辺大気を吹き飛ばさんばかりの勢いで紗琥耶が泣き喚く。

 慌てて瓦礫を脇にどけると、奇妙なことに、

 なおも喚き続ける紗琥耶の様子を見て、絵美は気づく。


『そんな……』


 その瞬間、顔は蒼褪め、身は縮こまった。


 柄強度可変型泉下客服FAANBWの一部、そして紗琥耶の脚の骨の一部が、瓦礫と癒着している。


 愕然としたが、棒立ちで見てもいられなかった。


《今、今傷を塞ぐから!》


 紗琥耶の柄強度可変型泉下客服FAANBWにアクセスして対放射線汚染地域用の装備と過熱地帯用装備を急いで展開させる。傷口に腿のポケットから出した生体フィルムを張りつけた。


『他に、他に出来ることはなに!?』


 やれることはやったはずなのに、なにかを見落としている気がして焦りばかりが身を焦がす。


《源!紗琥耶を見つけたわ!一時処置もした!そっちはどうなの!?》


 相棒に向けてがなるように叫ぶ彼女の肩に、黒い雫がポツリと落ちた。




1945年8月6日8:20 大日本帝国 広島


 冷たいが降ってきた。

 啜り泣く様な雨音が世界に響き渡る。

 すべてを汚し、悲しみで塗りたくっていく。

 黒い雨に頭を打たれた人々は、俯く頭に罪を被る。

 赦しは与えられず、贖うことも叶わず、粛々と悼むだけの。

 凍えるような雨が降っていた。


《やぁ……源…………来て、くれると……思ったよ》


 エドワードの声が、源の聴覚野に響く。

 瓦礫をどけたその時から、源は彼の生還を諦めた。

 エドワードは、もはや正常なヒトの形を留めてはいなかった。上半身と下半身は生き別れ、左腕も上体から離脱している。辛うじて残った右腕を上げ、頬を引き攣らせて見せるエドワードだが、その肘から先もなかった。


『最後の言葉だな』


 源は黙って煙草に火を点ける。

 最後に残す言葉の邪魔をしないのは、戦場の作法だ。


《頼み……が、ある……………僕……の身体……………無事、な部分…………彼女に…………せめて………一部……………細胞………でも……………》


 真っ黒な雨に打たれながら、男は遺す。

 本願を前に、上手く回らない言語野をフル回転させ、脳間無線に懸命に信号を送り続ける。

 叶うかどうかなんて、心配はしない。

 この男なら果たす、と確信しているから。


《どうか、彼女を……》


 消え入りそうな男の主張に、黒い長髪が寄りそう。


『ほら、やっぱりだ』


 悪態の裏に感じて来た温もりの正体を見た気がして、男は遺す言葉を結ぶ。

 頷かないことに、不満はなかった。


《任……せ、た》


 失われた肉体も、刈り取られていく意識にも、感謝しかない。

 死の意味さえも灰塵に帰した真っ暗な街で、そんな感情を懐けることすら奇蹟なのだと知っているから。

 彼ら以外のすべての人々は、皆シミになってしまったから。

 キノコ型の黒煙も、底から見ればただの雲にしか感じない。

 だから、モノクロに覆われたこんなにも不幸な景色が、状態が、最愛のものにすら感じる。


『ああ、やっとだ』


 ならば遠慮などせず、堂々と誇らしく、もう動かない微笑みを魅せつけてやろう。

 やっと誇れるものが出来たのだから。

 だからもう、心配せずに逝ける。

 戦場に立つ以上、常に片隅に置いていた遺言データを源に送り、真っ黒な雨に打たれながら、男は逝った。

 呆れるほど満足気な微笑みと、笑えるほど細やかな想いを遺して。


「なにが“任せた”だ……やだよ、馬ぁ鹿」


 咥えていたフィルターを吐き捨てつつ、拳を握る。

 気持ちのいい微笑みを刻んだ男の顔を、黒いグローブが潰した。



《なにを、しているの?》


 耳朶を叩く絵美の声は、穏やかなだが引き絞った弓のような緊張感のある声音で、真っ黒い雨音をスパリと切った。

 切られた源は地に向けた拳をどかそうともせず、目だけを絵美に向ける。


《なにがだ?》

「なにがだじゃないでしょ!なにしてんのよ!」


《馬鹿野郎、なに喋ってんだ。死にてぇのか》

《……エドは!》


《死んでたよ、とっくに》


 ピシリと固まる絵美の背中から、焼けつくような紗琥耶の視線を感じて、源は立ち上がった。


《だから痕跡抹消でエドワードコイツの灰砕いてんだ。邪魔すんじゃねぇ》


 そうして乱暴にエドワードの右腕を蹴り飛ばす。

 ボロボロと灰になって砕け散る腕を見もせず、源は絵美の元に戻った。


《下半分はどっか行っちまってっから、もぉ帰ろぉぜ》

「殺……して…………やる」


 怨嗟のこもった紗琥耶の声に、源は笑顔を向ける。


《なんだまだ生きてんのか?くたばり損ねたな。もっとも、テメェも時間の問題みてぇだが》

「殺……して…………」


 その言葉を最後に、紗琥耶は意識を失ったようだった。


《……どういうつもり?》

《戻ってからにしろ、マジで死ぬぞ紗琥耶この女


 それっきり、源は口を噤み、帰還するまで呼吸音すら感じさせないほど静かだった。



 帰還した三人を迎えたのは、悲壮な雰囲気ではなく、跳躍時以上の鬼気迫る緊張感と危機感だった。

 有無をいわさず柄強度可変型泉下客服FAANBWを引き剥がされ、放射性物質洗浄のため問答無用でマダムオースティンに運ばれる。

 高圧のシャワーで散々身体を洗われた源と絵美は、身震いしながら今度は気管と消化管の洗浄に回される。

 生理食塩水の匂いとしょっぱさで咽るのにも疲れた頃、ようやく二人は廊下で再開した。


「よぉ……」

「…………」


 心底気怠そうに咥え煙草で手を挙げた源を、絵美は虚ろな目で睨む。

 しばらく黙って睨んでいた絵美だが、開き掛けた口を閉じると、ドッカリと源の隣に座った。


「……なんであんなことしたの?」

「だから言ったろ、死んじまってたから処理したんだよ。あんだけ放射能汚染された死体もん、持ち帰る方が迷惑ってもんだろぉが」


「……そうじゃなくて」


 実際、エドワードの生死は自身の目で確認出来ていないので、絵美としては源の判断を信じるしかない。

 だが、源のあまりに道徳性のない行動に思う所がないわけではなかった。


「なんで紗琥耶の前で……あんなこと……」


 絵美がそう言い終えるより早く、源は煙草を握り潰して立ち上がる。


「温ぃこと抜かしてんなよプロフェッショナル。感情に流されんのは二流のすることだろ」

 絵美が言い返そうと口を開くより早く、源は紗琥耶の眠るICUの扉に消えた。




~1937年5月15日AM11:41

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


「ジロジロこっち見んじゃねえよキモイんだよ」


 もはや時間的遠近法の彼方にあった遠い過去を思い返している間に、紗琥耶の口に悪態が戻ってきていた。

 源は眉をひそめる。


「いけんのか?」

「アンタ以外の相手だったらいつでもイケるわよ」


「そぉかよ」


 紗琥耶が快復した以上、もはや二人に留まる意味はなかった。源は皇幸美、紗琥耶は先ほどの男と、互いに異なる目標ターゲットを追う。

 本来スタンドプレーを旨とする二人だが、ピアスゲッシュを通して絵美から監視されている状況下では、今一度擦り合わせはしておいた方が賢明だ。


「ただな、絵美の目もあっから、くっそ面倒臭ぇが状況共有しといた方がいぃ」

「ああ……そっか、視姦されてんだっけ……いいよ、チャンネル開けといてやるから挿入れたくなったら挿入れて」


 変わらずウンザリする受け答えだが、チャンネルを開いただけ、源からすれば大きな譲歩だ。

 絵美の誓約ゲッシュが実に効果的に行動を制約している証左だ。

 そして、実のところ、源はそんな状況が愉快になって来ていた。


「飽きねぇなぁ……まぁいぃ、終わらしたら適当に連絡すっからそっちもせいぜいバラバラにされねぇよぉに頑張んな」

「ちょっと待てアホ」


 言いたいことを言ってさっさと立ち去ろうとすると、目線がクルリと回る。


「なにすんだよ!」

「コレ、幸美ちゃんの身体に挿入れといた私のナノマシンの発信信号。終わったら返せ、そんで死ね」


「マジかよ」


 舌を巻いた。

 紗琥耶とて、伊達にT.T.S.No.1を張っているわけではない。

 さすがの仕事ぶりと褒めるしかなかった。


「糞ビッチにしちゃいぃ仕事すんじゃねぇか」


 これで追跡は一気に楽になる。

 しかも、それならば。


「さっきの野郎にも仕掛けたんだろ?」


 あからさまに紗琥耶の旗色が変わった。


「中出ししたけど剥がされたわよ」

「ボロ負けじゃねぇか」


 しかしながら、紗琥耶の追跡能力トレーススキルを前にすれば、さしたる問題もない。

 なにより。


「でもからまで全部独り占め出来んだから、それで呑んでゴックンしてあげる」

『おぉおぉ、盛り上がってんなぁ』


 紗琥耶の攻撃性ドSが大いに昂っていた。

 飢えた獣のような目はギラギラと熱を帯び、狂気的に吊り上げた口角を舌がなぞる。


「アンタこそアタシの邪魔すんじゃねえぞ。邪魔したら殺すからな」

「だろぉな、お前とだきゃ本気でやりたかねぇし、まぁせいぜい楽しめ」


 紗琥耶との衝突は本当に心底嫌だし、そもそも歩く厄災同士がぶつかっては、この場が無事では済まない。


「じゃぁもぉいぃな、俺行くぞ」

「流れ弾でファックされて勝手にイけ」


 互いに中指を突き出し合って、源と紗琥耶は真逆の方向に走り出す。

やがて二人は光学迷彩カメレオンで街の景色の中に消えた。




   10


『さて、どの元同僚ヤリ友がこんなハッキリ罠敷いてアタシと殺し合いしヤリたがってるのかなー?この感じじゃ、相当恨んでたまってるみたいだけど』


 素人でも残さない量の足跡フットプリントを追いながら、紗琥耶は最も黒ずんだ思い出の箱を、頭の中で引っ繰り返す。

 ジェーン・紗琥耶・アークという人間にとって、自身に向けられた怨嗟は好意と同義だった。、という僅かな共通点が、彼女の判別のすべてだ。

 恋慕と憎悪は酷似している、と彼女は考える。

 特定の対象のことを思い、ぶつけるべき感情を心の奥底でドロドロになるまで煮つめるという、感情というオプションを得た人間だけが示せる生物としての意志。この一転において、憎悪と恋慕に差はない。

 だから彼女は、。殺したい殺したいと願うほどに、源を愛していく自分にも気づけていた。

 そしてなにより、そんな自己矛盾を平然と呑み下し、受け入れている自分を嫌悪していた。


『……ホント、嫌ないいこと思い出したわ』


 源同様、紗琥耶もまた、あの日のことを思い出していた。

 当然だ。

 あの日は紗琥耶にとって、最も忌むべき日であり、新たな人生の始まりの日でもあるのだから。

 原子を融かす灼熱の暴風で消し飛んだと思っていた瞼を開け、ないはずの眼球を動かして、傍らで護衛をしている源を見た時の、あの屈辱。

 誰よりも自分を殺したくなったと同時に、この男を絶対に殺すと誓ったあの時から、紗琥耶の生きる目的は完全に切り替わったのだ。


「まあいいわ。これからもなら」


 いまだ変わらぬ誓いはあれど、今は別のお誘いで忙しい。

 ちょうどゴールも迫って来たし、感傷は決して目の前のことに集中するとしよう。


「ここでヤリたいんだ。なにか大乱交出来そうでゾクゾクしちゃう」


 そこは、一軒の酒場バルだった。

 どの町にも一軒はあるような、くたびれた汚い酒場バルは、町の労働者達が仕事終わりに一杯引っ掛けにくる場所なのだろう。飾り気も愛嬌もない武骨な木戸を鉄の鋲や板で補強して、ヨソ者の侵入を拒んでいた。


「いいわぁこの雰囲気。中に挿入ったらどんなことされちゃうのか想像しただけでエストロゲンがドバドバ出てくる」


 ゾクゾク疼いてしかたのない身体をギュッと抱き、紗琥耶は酒場バルの扉を開ける。

 だが、扉の向こう側は、もはや酒場バルとしての役割は終えていた。

 入口に暖簾のように吊るされた男の死体は、恐らく店主プロピエタリオのものだろう。額を撃たれて死亡した後、吊り上げられてからはサンドバッグ代わりも務めたようで、ところどころ左右のバランスが崩れるほど肉が伸びている。極めつけは、ぼろ切れに等しい服の背中に書かれた血文字だ。


Cerrado閉店中


 これだけで、中にいるのがロクでもない連中だと充分にわかった。

 紗琥耶は髪を手で、服装を肉眼視認化拡張現実ナナフシでぐしゃぐしゃに乱し、目のナノマシンを腫らして死体の影から中を覗く。


「ねえ、お酒はある?」


 案の定、この言葉に重火器で武装したむくつけき男達が振り向いた。


「見なかったのか、表のアレを、閉店中だよ」


 スペイン語の問いかけに返されたのは、流暢なチェコ語だ。


『チェコ語……スロバキアの義勇軍ね』


 翌1938年には一部地方を割譲し、さらに年が明けると保護国になるなど、親ドイツの風潮が強いスロバキアの兵士達だろう。

 いや、彼らは兵士などという立派な存在ではない。


「それとも仲間に入れて欲しいのか?」


 ラム酒ビンをラッパで仰いだ男が、後背位で犯す女の尻を叩いた。

 ずいぶん輪姦まわされたのか、女は弱々しく呻く。

 紗琥耶は髪をかき上げて笑った。


「ねえ、なにか勘違いしてるみたいだから言うけど、私のよ。チェコ語じゃないとわからない?」


 思った通りのクズぶりに、紗琥耶の高まりは頂点に達している。



 舌なめずりしながら淫蕩に笑う紗琥耶を、男達が取り囲む。

 彼女は今、まごうことなく幸福の中にいた。




11


『んでこんなことになってんだ』


 裸電球が一つぶら下がっているだけの狭い地下室だった。土とレンガの混成した壁は、地上で砲撃が上がる度にパラパラと崩れ、空気に不純物を混ぜ込んでいく。


「運が悪かったと諦めるんだな」


 流暢なスペイン語と共に指示されたテーブルには、見慣れた部品が並んでいた。組み合わせれば拳銃になるそれらを前に、源は対面の老人を伺った。この地区唯一の銃職人と紹介された彼は、不安そうに傍らに目線を送る。

 倣って視線を転じると、二人の少女がひざまずかされ、銃を突きつけられていた。


「クズ共め……」


 恨めしそうに呻く老人に、二等兵が銃把を振るう。

 米神を殴られた老人が呻くのを冷めた目で見つつ、源は取り囲む四人のナチス親衛隊員SSの階級を確かめた。


低階級ザコばっかだな』


 だが、それにしては場の空気の作り方が手慣れている。

 統率、とまではいかなくとも、この低階級のSS達には、全員がこのゲームを楽しめるよう懸念材料を極力取り除く手腕があった。この部屋の警護も二人一組ツーマンセルと念がいっている。


「なるほど、テメェら元突撃隊か。どぉりで。恐ぇえんだろぉな、さぞかしよ」


 ドイツ語で笑いながら言うと、背後の一等兵が側頭部を殴ってきた。


「図星か……さぞ怖かったんだろぉな、長いナイフの夜が。そんでSSの悪評を自作自演ってか?」


 長いナイフの夜事件。1934年にナチスが行った大規模な内部粛清だ。ナチスに反旗を翻した突撃隊の幕僚長エルンスト・レームなどを暗殺したこの事件で、100名以上の命が法的措置を経ずに奪われた。

 その生き残りか、あるいは亡命後に再入隊したのか、今では低階級で留め置かれたまま馬車馬のごとくこき使われているのだろう。

 再び同じ場所を殴られ、視界がぶれる中で、源は改めて思う。


『んでこんなことになってんだろぉな』



 紗琥耶と別れ、皇幸美の追跡を再開した源は、アッサリと彼女を探し出した。

 幸美は身の危険を感じたのか、自身の武装を決意したようで、その足取りは路地という路地を彷徨い、やがて一軒の鍛冶屋へと向いていた。中に娯楽に飢えたナチ軍人がいるとも知らずに。

 正面切って殴り込みに行ってもよかったのだが、乱戦のどさくさに紛れてまた幸美に逃げられるのも面倒くさい。

 だからこうして虜囚になる道を選んだのだが、どうにも相手が面倒だった。まあ、今更な話だが。



「しゃぁねぇ爺さん。互いに恨みっこなしでいこうぜ」


 ズキズキと痛む頭とそこからの出血は無視して、源は対面の老人に微笑みかけた。老人は怯える目を引き締めて頷く。


「乗ってやっからよ。テメェらの遊びのルール、説明しろ。とっとと終わらせっからよ」

「いい度胸だ。手前らの手元にある銃は両方ともクソッタレボニファシオ・エチェベリアのスターだ。それぞれパーツはすべて揃ってるが、弾丸はテーブル中央の9mmラルゴー一発だけだ。もうわかったな?」


 シンプルな話だ。


「相手よりも先にスターを組んで殺せ。勝った方を連れと一緒に助けてやる」


 シンプルで下世話で悪趣味極まるゲームだが、乗らない限りはこの場を切り抜けられない。

 だが、源はこの老銃職人オールドガンスミスの命を奪うことは出来なかった。一般人である彼の命が、今後どう世界に影響するかがわからないからだ。

 しかし、それならば、のこと。そのためにも、源はこの勝負に乗らなければならない。幸い、


「なら始めてもらおうか。まずは運試しからな」


 そう言って、SSはゴム製棍棒ビリー・クラブを取り出して老人に向けて振り被った。ハッとして振り返った源の米神にも、ゴム製棍棒ビリー・クラブが振り下ろされる。


Guteよーい Nachrichtenスタート!!」


 その言葉を最後に、源の意識は一時消失した。




12

~2176年9月30日AM8:58

廃国独自自治区バルセロナ~


「まもなく当便は廃国独自自治区バルセロナに到着いたします。お降りのお客様はお荷物をご準備の上、降車口までお進みください」


 ロサは超高速地下鉄道の国際線ホームで買った簡単なバゲッジパックを担いで立ち上がる。

 一時間ちょっとでバルセロナまで行ける超高速地下鉄道がある以上、ムダな荷物になるかもしれないが、相手が相手だけに捜査に時間がかかる可能性が高い。それを見越しての即席の旅支度だった。

 しかしながら、絵美の根回しはさすがの周到さをみせる。下車したロサを、一人の男が待っていた。

 まるで駅構内のオブジェクトのように佇む男は、存在が希薄で、声を掛けられなければロサは気づきもしなかっただろう。


「弓削田ロサさん、ですね。はじめまして、バルセロナ自治区警察組織個別の正義の意志リスタ・インディビドゥアルのマイクロフト・シメノンと申します。ミズ・絵美からの要請により、こちらでの活動の助手を務めさせていただきます。まずはこちらのキーを認証してください。こちらでの警察行動が司法部より保障されます」

「は、はい。ありがとうございます」


 自己紹介も手短に、電子キーのインストールを求められ、ロサは泡を喰って応じる。エリザベートの脅しを老獪に躱した鈴蝶との差に、ロサは自分に失望した。


『いけない!こんなことで動揺してどうするのよ!』


 自身の甘さを叱責しながら、差し出された手袋に覆われた手を握って、ロサはハッとする。

 人の手には決してない、硬さがあった。もしや、と思いマイクロフトの顔を覗き込むと、彼は穏やかにロサの目を見つめ返してくる。端正とまではいえないが、それでもスッキリした顔が僅かに微笑んだ。


「私は身体を半アンドロイド化しており、脳機能の一部も機械的に補完しています。ですが、もともと私は感情表現が豊かな方ではありません。ですのでどうか、遠慮はなさらないでください」

「は、はあ。そうですか」


 忌憚も起伏もない、まさに諸注意を告げるアナウンスに、ロサはただただ頷く。首肯するロサを確認して、マイクロフトは背を向けて歩き出した。


「では早速参りましょう。ニコラエ・ツェペシュの確保は我々個別の正義の意志リスタ・インディビドゥアルにとっても悲願です。Alternativeのみなさんのご協力がえられるこの機を逃したくない」

「はい!頑張りましょう!」


 気を取り直してマイクロフトに続こうとした。

 その時だった。


Bajar伏せろ!!」


 突如ロサは背後から首根っこを掴んで引き倒され、直後、彼女の眼前。丁度、首のあった場所を半月型の刃が一閃した。


『なに⁉』


 混乱の中、ロサはマイクロフトの背中から突き出したブレードを見る。すると、背中から倒れたその先に、前にいるはずのマイクロフトの顔があった。


「動かないで。すぐ済むから」


 マイクロフトがウインクする。

 先ほどとはまるで違う彼の行動に、ロサは疑問符を浮かべるしかなかった。

 マイクロフトは前を指して声を張る。


Dispararてい!!」


 途端、銃が吼えた。ガンッと硬い金属に喰い込む音が間を置かずに続いて、鎧兜でも崩れたような派手な音が地面を揺さぶる。

 後に残ったのは、痛いほどの沈黙と轟音の残響たる耳鳴りだけだった。

 瞬間に詰め込まれた情報量の多さに、ロサは事態がまるでのみ込めない。


「大丈夫ですか?」


 後から現れたもう一人のマイクロフトが手を差し出してくる。到底、その手を取る気にはならなかった。


「なにが……」

「ニコラエの罠ですよ。今のは半アンドロイドではなく、です。もちろん、アシモフが知ったら激昂するような、国際アンドロイド規定に触れる存在です。顔の部品パーツだけ取り換えられるようになっているようで、今回は大変不名誉ながら私の顔が選ばれてしまったようです」


『……信じられるわけないでしょう!』


 苦笑しながら、なおも差し出し続けるマイクロフトの手を払い除け、ロサは立ち上がる。


「色々と確認したいことが出来ました。ですので、申しわけありませんが、今はご一緒出来ません。後ほどこちらから伺い」

「そいつは困るな」


 マイクロフトの顔が、口調が、一変した。


『まずい』


 即座に踵を返す。気休めに、Alternativeのメンバー全員が携帯している閃光弾を一つだけ落として。

 下車して以降のすべての情報を絵美と鈴蝶に共有しつつ、ロサは構内を走った。急いで絵美にチャンネルを合わせる。


「絵美さん!私たちの動き、察知されて……」


 だが、そこから先は、音にならなかった。


『ああ、クソ、さっきの電子キーか……』


 頭の中で、アウトプットに制限がかけられている感覚がある。アウトプットの低下はパフォーマンスの低下に直結した。足首が、膝が、腿のつけ根が、関節が固まっていく。身体が凍結フリーズされていく。


『絵美さん……』


 やがて首も回らなくなった時、ロサの視界に絵美からのメッセージが届いた。


「今から行く」




13

~1937年5月15日AM12:32

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


 ズキズキする頭の痛みで目を覚ました。

 カチャリカチャリと金属を組む音に、左頬をテーブルから引き剥がす。音源に目を向けると、老銃職人オールドガンスミスが血眼になってスターを組んでいた。その必死さを見て、ようやく源は現状を再認識する。


「ようやっとお目覚めか。ほら、早くしねえと、爺さんはもう始めちまってるぜ」


 背後で兵士の言う通り、老銃職人オールドガンスミスは早くも銃把グリップを組み終え、撃鉄ハンマー周りに取り掛かっていた。


「なんだよ爺さん、随分飛ばすな……聞いてねぇか」


 ゴム製棍棒ビリー・クラブでパックリと裂けた米神から血が垂れらしつつ、源は首を回す。


「おぃ、二人どこ行った?」


 源の指摘の通り、SSの人数が減っていた。老銃職人オールドガンスミスの後ろと、彼の孫娘と思われる少女の背後にいたSSが消えている。


「手前には関係ねえ。さっさとやれ。……もっとも、このジジイ腕は確かみてえだ。ほぼお前は助からねえだろうがな」


 後頭部に押しつけられるルガーの感触には、正直なところ同意だった。老人の技術は早く、正確で、その進捗はすでに彼我の工数を絶望的に引き離している。

 普通の人間なら潔く諦めかねない状況を前に、源は自身に割り当てられた部品パーツに目を落とした。視線を察知したエララが、即座にスターの組み立て方をARで展開する。


『ありがとよ』


―対象の組み上げ予測はおよそ1分後です。可及的速やかに組み上げられることをご推奨します―


『わぁってる。とりあえず一通り組み方見せろ』


 エララに映像を流させつつ、源はSSたちの動向を推察する。

 人員を一気に半分にするのは、どう考えても懸命な判断ではない。それでも削減したということは、つまり、なんらかの理由で離れなければならなくなったということだ。


『門番の交代ってわけでもなさそぉだしなぁ』


 実際、外からは断続的な銃声と爆発音と悲鳴という、気絶する前となんら変わらない音情報しか得られない。


『っつぅことは。定時報告か、一部が先行帰還したか、だな』


 別段、武勲のでっち上げは珍しい話ではない。今回も恐らくそうだろう。

 ここに残っている兵士たちは先行帰還した連中とどこかで別れたことになり、なんとか本部に帰還しようとする道すがら、源に襲われた老銃職人オールドガンスミスを救出した。

 大まかなシナリオは、そんなところだろう。

 だからこそ、老銃職人オールドガンスミスとその孫娘からSSが外れたのだ。


『まぁ、なんにせよ、ここらが仕掛け時だな』


 源一人ならまだしも、今は皇幸美の身の安全が優先される。彼女に銃口が向く限り、行動に制限はかかる。

 完全にゼロには出来なかったが、狙うなら今だ。

 タイミングよく、エララが告げる。


―対象が銃口マズルの組みを終えます。スターを組み終わるまであと5秒―


『いぃ具合だぜ爺さん』


 老人は手を震わせ、泣き笑いを浮かべながらヒューヒューと喉を詰まらせて息を荒らげていた。もう少しで解放されるという事実が、嬉しくて仕方ないのだろう。

 いよいよ銃口マズルを組み終え、老銃職人オールドガンスミスはマガジンとラルゴー弾に手を伸ばす。


『っし、始めっか。エララ、凶運の掴み手ハードラックゲッターを展開しろ。肉眼視認化拡張現実ナナフシ貼るの忘れんなよ』


 瞬間的に、源は神資質Heiligeを使った。

 光速を捉えられる神罰を免れる目Charismavogelperspektiveと光速で動かせる手、神を掴む手Die Haendeum Gott zu fangenの組み合わせが、常人では叶わない速度でスター・モデルMを組み上げる。

 震える手で弾を込めた老銃職人オールドガンスミスがスライドを引いて銃を正眼に構えた時には、源も左手で構えた銃で老人を照準に収めていた。


「お前、今なにした」


 背後のSSが呆けたように呟く。

 源は相手にしなかった。


「撃て爺さん」


 自分の頭にカタカタと震える銃口を向け、トリガーに指を掛ける老人に、真っ直ぐに視線を送って離さない。

 フーフーと息を荒げた老人は答えない。ただその血走った目からボロボロと涙をこぼし、食い縛った歯から涎を垂らしている。


「俺を撃て」


 今一度、源は老人に促す。

 傍らで老人の孫娘がなにか喚いているが、構わない。


「早くしろジジイ!そいつを撃て!」

「るせぇ!黙ってろ三下!」


 幸美に銃を向けるSSが喚くのを一喝し、源は老人の向ける銃口に胸の位置を合わせた。

 茹だるような暑さを感じるほどに、場の空気は緊張していた。誰も彼もがじっとりと汗をかき、呼吸すら遠慮している。


「さあ、撃て。それで全部終わりだ」

「すまん……すまん……」


 ボロボロと泣きながら、絞り出すように繰り返す老人の指に、力を加わっていく。

 段々と、引き金トリガーから遊びがなくなる。

 老人が耐え切れず、目を瞑る。

 いよいよ撃鉄が落とされる。

 その瞬間。

 源は右手に隠していた9mmパラベラムを幸美の背後に射出した。それは、今もなお源の背後に立ち続けるSSからゴム製棍棒ビリー・クラブで殴られる寸前に掏っておいたルガーの弾だ。

 凶運の掴み手ハードラックゲッターで覆われた指が撃鉄代わりに雷管を叩く。

 同時に、老人の持つ銃の撃鉄も落ちた。

 雷管が弾け、薬莢の中の火薬が爆ぜる。

 折り重なる発砲音の中、源は自らに向かってくるラルゴー弾を右手で摘まむ。そのまま、背後のSSの眉間に軌道を逸らす。



 固く閉ざしていた目を開けて、老銃職人オールドガンスミスは大層驚いた。

 当然だ。目の前に、覚悟を決めて撃ち殺したはずの男がいるのだから。


「よぉ爺さん。命拾ったな」


 死んだはずの男が生きている代わりに、なぜか2人のSSが死んでいる。

 不可解な状況に首を捻るしかない老人は、力なく呟いた。


「一体、なにが?」

「ナイスショットだったぜ。お陰でアンタの娘も助かってる」


 呆ける老人に、源は気絶した孫娘を引き渡す。失神して意識こそないものの、幸いにも外傷は見られなかった。それに安堵したのか、泣きながら孫娘を抱く老人に、源は警鐘を鳴らす。


「悪ぃが無事を喜ぶのはヨソでやってくれ爺さん。さっさと逃げねぇとあいつら戻ってくんぞ」

「ありがとう。貴方は命の恩人だ」


「わぁったから、さっさと行け」


 老人の握手要求に応じた源は、その出立を見送って扉を閉めた。宥恕のない、緊張に満ちた空気は凍りつき、熱気の去った部屋は、SS2人の死体を安置する地下墓所カタコンベのように静まり返る。

 思わず、溜息が出た。

 時空跳躍先での当時の人との接触は、さすがの源も、とても緊張する。

 SSのような生殺可能な相手ならばまだしも、先ほどの老銃職人オールドガンスミスのような一般人には未来人と悟らせずに見逃してもらわなければならない。出来れば印象にも残りたくはなかったのだが、今回は状況が状況だけに、表沙汰にならない方に賭けた判断だった。


『それもこれも、全部このお荷物のせいだな』


 拘束されたまま項垂れる幸美を見下ろし、源は溜息を吐く。


「おぃ、クソガキ。無事か?」


 ぷいと顔を背けるだけでなにも言わないので、源は思い切り床を踏み鳴らした。ビクリと肩を震わせた幸美に、源は今一度嘆息する。


「んなビビっといて強がってんじゃねぇよ」

「……礼なんか言わないからね」


「いらねぇよ、んなもん。テメェが死んだら色々面倒臭ぇから訊いただけだ。とっとと立て、帰るぞ」

「じゃあこれ解いてよ、上手く立てないのよ」


 いよいよ面倒くさくなって、源は幸美の腰のベルトを掴んで持ち上げた。


「きゃああああ!ちょっと!なにすんのよ!」

「これで立てんだろ?立てるもんなら立ってみろよ」


 置物のように座った状態のままブラブラと揺れる幸美が源を睨む。


「ったく、どんだけ能天気なんだよ。戦場のど真ん中で腰抜かしといて強がるんじゃねぇ。まぁ、運び易くていぃけどな」


 不貞腐れる幸美を抱き上げ、源は次にすべきことを考える。


『あの糞ビッチちゃんと殺し終えてんだろぉなぁ?』


 若干嫌な予感がしつつも扉を出た。




14

~2176年9月30日PM4:48 東京~


「ダメよ!」

「ダメじゃ効かないんですよ!私が行かなきゃロサが!」


「今の貴女が行っても足手まといになるだけだって分からないの!?」


 まさに、絶叫の応酬だった。

 誰がなんと言おうと動こうとする女と、医療人として絶対に譲れない職責を果たそうとする女の激突に、誰も立ち入ることが出来ず見ているばかりだ。

 絵美とマダムの激突は、T.T.S.本部にはない珍しい熱を帯び、廊下に燃え上がっていた。

 だが、いよいよ1人の女性が、勇気を振り絞って口を挟んだ。


「あの、お二人とも落ち着いて下さい」


 クラーク・シュクロウブは、普段詰めるI.T.C.で騒ぎを聞きつけ、現場に飛び込んできた。

 絵美がワガママを言うという珍しい光景に、最初は驚いて見ていたが、いい加減火消し時だ。


「クリス。私の話を聞いて、捜査を要請した仲間が危ないの。私が行かなきゃダメだって思うでしょう?」

「クリスちゃん。貴女からも言ってあげてちょうだい!この子インフルエンザに罹っているのに無茶を言っているの!」


「いや、あの、お二人とも落ち着いて」


 だが、バックドラフトもかくやと押し寄せる2人の熱波に、クラークはあっという間に呑まれてしまった。

 だが、捨てる神あれば拾う神もあり。

 彼女の背後からジャズシンガーのようにハスキーな声が救い舟を出してくれた。


「口論はそこまでにして、代わりにアグネスに行ってもらったらどうですか?」


 場の空気を一瞬で呑み込み主導権イニシアチブを我物とした紙園エリは、堂々たる足取りで絵美とマダムの間に割って入る。

 だが、彼女が手を差し伸べたのは絵美でもマダムでもなく、その間にいたアグネス・リーだった。


「はい、アギースタンダップ」

「アギー⁉」


「いつからいたの⁉」


 アグネスは褐色の小さな手を摑まれて所在なさげに足元を見つめている。


「絵美さん。ヨーロッパ連合のP.T.T.S.に連絡はされたんですか?」

「そういえば、まだ……」


「マダム、絵美さんにはアグネスを通してP.T.T.S.の調整に回ってもらいます。No.1とNo.2のオペレーションは私が引き継ぎます。これなら絵美さんの身体の負担も減るし、感染拡大も防げます。どうでしょう?」


 適格だった。一部の隙もなく、どちらの意志も損なわず、上手く折衷した完璧な提案だった。


「ええまあ、それなら」


 ぼんやりとしたマダムの答えを最後に、場は水を打ったように静まり返り、さきほどまでとは別の意味で誰も口を開かない。

 だが、その沈黙が逆に絵美の頭を冷やしていた。


「差し当たっての問題はアギーをどうやってスペインまで急行させるかね」


 そしてもう1人、この場にいずとも誰より状況を冷静に見つめ、把握している人物が口を開く。


《心配ないよ》


 声はすれども姿は見せずに、鈴蝶は溜息を吐く。


《まったく、絵美ちゃんもマダムも、私がいないからってあまり舐めないでくれよ。T.T.S.Masterとしてエリちゃんの提案を受け入れます。っていうか、それで行こうとしてた。P.T.T.S.にはすでに連絡してある。アグネスちゃんにもさっき指令した。だから外には音速飛行可能な自動運転航空機が止めてある》


 さすがの準備の良さに、誰もが舌を巻いた。

 というか。


「マスター、アナタ一体どこにいるんです?」


 怪訝な表情のマダムが問いかける。

 同調してその顔を見る者たちの耳にも、鈴蝶の不敵な笑いが響いていた。


《まだ秘密。この件、かなりきな臭い予感がしてね、すぐに確認してみたんだが、思ったより事態は急を要するみたいだ。だが、今のところ我々の立ち回りは決して悪くはないみたいだね。状況も考えずにロサちゃんを連れ去ったのがいい証拠だ。P.T.T.S.のメンバーはロサちゃんを迎えに行っていたんだ。すぐに尾行をしているから、位置は今も正確にわかる。後はT.T.S.決定力を待っている。アグネスちゃん、後はよろしくね》


 コクリと頷いたアグネスが歩き出すと、集まった人垣がスーッと開いていく。イスラエル人を従えたモーセのような光景に、絵美は願うしかなかった。


『お願いね、思考指揮者マインドフレイヤー


 小さな体で千の敵を倒す戦い方から、薔薇乃棘エスピナス・デ・ロサスにそう呼称されるようになったアグネスの背中に、ロサの命運が託された。




15

~1937年5月15日PM1:45

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


「うっ……クソッ」


 酒場バルの扉を開けた途端、最悪な臭いがした。尿と精液と汗と血と、およそ生体の放つすべての臭いを集約した空気だ。これまで源はあらゆる状況の中で様々な臭いを嗅いできたが、ここまで酷い臭いはそうはなかった。

 ゲホゲホとむせ返っていると、傍らで腰のベルトを掴まれた幸美が顔を顰める。


「なにやってんの?」

「黙ってろ」


 生唾を飲み込みつつ、源は幸美を引き摺って酒場バルの裏手に回った。


『あの糞ビッチ、ハメ倒してただけじゃねぇか』


 どうやら源と別れてからこっち、紗琥耶はズッとここで。紗琥耶が追っていた男が仕掛けたのだろう手榴弾グレネード釣り糸デグスを使った罠が、薪束の影でジッと出番を待っていた。ワザとらしい張り方をされた罠は等間隔で路地裏に伸びていく。

 どう見ても誘導だ。


『野郎どぉしても紗琥耶に一杯喰わせてぇらしぃな』


 だが、今回に限って、それは福音だ。源は手早く手榴弾グレネードを手で抑えて釣り糸デグスを引き抜き、荷馬車を係留するための酒場バルの壁につけられた金輪と幸美の手を縛る縄とを釣り糸デグスで結ぶ。


「ちょっと、なにすんのよ!」

「うるせぇ黙ってここで待ってろ。すぐ戻る」


 ピシャリと幸美を黙らせ、源は酒場バルの勝手口のドアを開けた。

 倉庫は表より幾分か臭いも収まっているが、こちらもこちらで別の悪臭で満ち満ちていた。

 どうやら元々ここにいた連中は 酒場バル中の容器を空にするつもりだったらしい。飲んでは吐いてを繰り返す内に、トイレに駆け込むのも億劫になったのだろう。吐瀉物に塗れた床はヌルヌルとよく滑った。

 不快指数の急上昇にストレス値もうなぎ登りだが、なんとか客間へ続く扉にたどり着く。

 そっと中を覗くと、後背位と口姦を同時に楽しむ紗琥耶が見えた。美しい顔立ちを陶然と蕩けさせ、どこまでも快感に従順に行為に耽る姿からは、ある種の神々しさすら感じる。

 だが、源はそんな神々しさに興味はない。

 注目すべきは相手の方。

 ハメているようでハメられている男たちの方だ。恍惚とした表情で、涎すら垂らしながら目を血走らせて腰を振る哀れな男と、口での奉仕にうっとりと酔いしれる男を確認して、源は胸を撫で下ろす。


『仕込みは終わってるみてぇだな』


 源からすれば、よほど奇を衒った奇襲でもない限り、この時代の兵士たちなど脅威ではない。

 問題なのは、源同様兵士たちをもてあそぶ紗琥耶の、だ。

 そのが終わっているのは、源にとって幸運だった。


「おい糞ビッチ。行くぞ」


 扉を開け、男達の前にその身を曝す。

 だが、全員がボーっと源を見詰めるだけで、決して臨戦態勢に映らない。


『相当こりゃ』


 紗琥耶のナノマシンは、男たちの神経中枢に深く入り込んでいるようだ。源が恐れていたのは、なによりその散布だった。

 紗琥耶は顔を顰めて男たちを引き離す。だが、男たちは腰を振ることを止めもせず、僅かに残る精液を男性器から垂らしたまま呆けるばかりだ。


「空気も読めねえのかよ。楽しんでるとこだろ。……醒めたわ」

「だったらとっとと片づけろ。対象パッケージが外にいる」


「うるせえな。だったらそこの間抜けでも潰してろよ」


 紗琥耶の言葉に視線を転じると、扉のすぐ横に兵士がつっ立っていた。涎を垂らし、顔を緩ませ、視線は虚空を漂っている。快感の坩堝に呑まれて忘我しているのは明らかだ。ここで死んでも本望だろう。


「ってことだ。まぁせいぜい気持ちよく逝けよ」


 言うが早く、源の拳が兵士の頭を一閃する。それだけで、兵士の頭は身体と別れを告げ、壁のに変わった。

 それを見て、紗琥耶も衣服を拾いながら首を横にクイッと傾げる。彼女がしたのは、ただそれだけ。それだけで、5人ほどいた兵士たちの頭がドロドロと融けていく。

 丸呑みファゴサイトシスと絵美が呼ぶこの手法は、厳しい脳内血管の脳潜入選別を擦り抜かせてナノマシンを侵入させ、快楽中枢を強く刺激し、忘我の彼方から胃酸ペプシンで融かすという、おぞましい手法だった。


「あー気持ちよかった」


 自らに挿入していた男の頭部だったゲルを指で掬い、舐めながら紗琥耶は伸びをする。

 さすがの源も気持ち悪くなったが、感づかれるのも癪なので、腕を組んでグッと飲み込む。


「ところでアンタ気づいてる?」

「なんにだ?」


「絵美ちゃんたちの方、ビックトラブルになってる」


 その瞬間、源の頭は切り替わる。


「どぉいうことだ」


 腕を解き語気を強めて問い質す源を、紗琥耶は嘲笑った。


「さあね。外のお嬢様問い質言葉責めしてみれば分かるでしょ。、どう考えてもただ巻き込まれたって感じじゃなさそうだし」

「確認出来たのか?」


「小皺までクッキリ。なんにせよ、こっちも向こうもタイミングが良すぎる」


 さすが、腐ってもT.T.S.No.1といったところだろうか。

 どうやら行為におよびながらも兵士たちの記憶覗いたらしい。


「名前とかはもう思い出せないし、多分顔もだけど、この素人童貞っぽい顔、確かに見たことある。あと、のも」

『……なるほどな』


 源の脳内で、があった。これまで振り回されるばかりだった状況から得た情報が、整然と整えらソートされていく。

 皇幸美の企て、彼女とともに現れた紗琥耶を知る男、絵美たちの巻き込まれた事件、そしてスペイン、カタルーニャ。

 大まかで朧げだが、全体像の端が見えた。

 頼れる参謀である絵美がいない以上、せめて代理を果たさなければならない。ものすごくノらないが、仕方ない。


「おぃ糞ビッチ。提案がある」


 出来る限りポーカーフェイスを決めてはみたが、口調はどこまでも苦々しくなってしまった。

 源のテンションが下がれば、シーソーのように紗琥耶のテンションが上がる。

 情事に耽っていた時とは違う、猟奇的な笑顔を浮かべて、紗琥耶は謳う。


「条件つきでなら騎乗ってあげる」


 源の背中を、冷たい汗が流れた。




16

~2176年9月30日PM5:28 東京~


「絵美さん。ヤバいです」


 ヴァーチャルロビーに戻ったばかりの絵美を、エリが強張った表情で呼び止めた。すぐに、時間跳躍中のT.T.S.2名の生命兆候データが眼前に提示される。


「……なによこれ」

「恐らく、No.1が暴走してるんじゃないかと」


 その推測も納得の生命兆候データだった。

 2人の心拍が異常に速い。にも係わらず、源の脳は強いストレスを感じる一方、紗琥耶の脳細胞代用ナノマシンは強い快感を得ていた。リアルタイムで送られてくる肺内に仕掛けられたナノマシンのデータは、2人が同じ空間にいることを示している。

 同じ空間にいて、どうしてこうも反応が違うのか。


「暴走、ね……」


 心当たりはあり過ぎる。

 だが、心の中でなにかがそれに納得していなかった。

 紗琥耶に限って、わざわざ源を相手にとは思えない。それもあるが、絵美の頭には個人的な感情が割り込んだ。

 端的に言って、信じたくなかった。同じ職場のメンバー同士がになったと思うのは、誰でも嫌なはずだ。まあ、それ以外にも思うところはあるが、今は無視する。

 Alternativeの緊急事態に振り回され、ゲッシュから目を離した隙に、別の意味でとんでもないことが起こっていた。


「エリちゃん、ちょっと私と代わってもらえる?先にそっち片づける」

「すみません、お願いします。ごめんなさ、絵美さんばかりに負担をさせて」


「あの2人に限っては仕方がないと思っているし、気にしないで」

「そう言っていただけるのはありがたいですが、どうぞ無理のない範囲でお願いしますね」


 畏まるエリに心の中で手を合わせて、絵美は一旦ヴァーチャルロビーを離れる。

 今回、時空間跳躍においては大きなブレイクスルーとなるゲッシュを試験運用しているが、これは鈴蝶と絵美そして青洲の3人間の極秘であり、エリのいるヴァーチャルロビーで確認は出来なかった。

 時空間跳躍電波以外の全てスタンドアローンにした独自電子空間プライベートヴァーチャルロビーで、絵美はゲッシュのプログラムを開く。

 紗琥耶の興奮具合を考えると、源の状態が気に掛かる。すぐに源の視野にもぐりこむと、真っ暗な闇が広がっていた。


『なによこれ⁉』


 本当に視界潜入出来たのかもよくわからない景色に驚いたが、紗琥耶の声が聞こえて、事態は明らかになる。


〈頑張るじゃない。足の指全部剥いたのに声も出さないなんて。射精していいのよ?それじゃあ次、いよいよ

『なんですって⁉』


 慌てて紗琥耶の腕輪に電流を流す。

 だが。


〈が!……ああああああああああああああ!〉


 絶叫したのは、紗琥耶ではなく源だった。


〈あら、急に素直になったじゃない。……ああ、絵美ちゃんのゲッシュか〉

「紗琥耶、貴女なにやって」


 一オクターブ上がった紗琥耶の声が弾んで、思わず絵美は声を上げる。だが、なぜかすぐに源に遮られた。


〈やめろ絵美……ッ……余計なこと、すんじゃねぇ!〉


 2人だけの専用回線を使って囁かれた言葉に、耳を疑った。


「なに言ってるの⁉そのままじゃ紗琥耶に殺されちゃうのよ⁉」


 咄嗟にそう言いながらも、頭の中で嫌な想像が広がる。もっとも大事なパートナーを失うかもしれない焦燥が、自然と言葉を強くした。


「こんな所で死なせたりしてやらないからね!」


 感情に任せた咆哮に、しかし返って来たのはいつもの源の声だった。


〈馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ。俺がいつっつったよ。お前にならまだしも、よ〉


 絶句していると、源はしっかりした声でなんてこともないように続ける。


〈そっちがヤベェことになってるっつぅのは紗琥耶コイツから聞ぃた。コッチでガキと一緒にいた野郎が重要キーだって睨んでんのはお前も同じだろ。だから少し仕掛けてやろうと思ってな、その駄賃に紗琥耶コイツに俺の身体を破壊し再構築スクラップ&ビルドさせてやってんだ。麻酔なしでな。安心しろ、自然回復力の増強も図ってっからパフォーマンスに影響は出さねぇ〉


 なに一つ安心出来る要素のない新情報を与えられたが、現状をこれ以上煩わしくしても絵美の許容量キャパシティを超える。


「……信じていいのね?」


 止めてくれ、と懇願したい気持ちをグッと呑み込んで、確認を絞り出す。


〈俺のことは信じていぃ。紗琥耶コイツのことは紗琥耶コイツに訊け〉


 短くも確かな言葉に、絵美は肚を括った。


「わかった。信じるわ。……紗琥耶、手短に済ませてさっさと任務しごとに戻ってよ。あと、念のために言うけど、源を殺したら私は絶対貴女を許さないからね。You see?」


 回線チャンネルを切り替え、毅然と警告すると、紗琥耶は〈I see,I see〉と笑って一方的に通信を切る。はたしてどこまで意図が通じたのかはわからないが、時空を隔てた今の絵美に出来るのは、紗琥耶を信じることだけだった。


「源、あとはお願いね」

〈あぁ、任せろ〉


 尾を引く懸念材料ではあったが、今出来るのはこれくらいしかない。溜息一つで気を静めていると、別の回線チャンネルが文字を躍らせて絵美を呼んだ。


《なんだかお疲れみたいだけど☆ちょっといいかな?》

「大丈夫よSilk。なにか分かった?」


《そっち大分忙しそうだから、こっちで外務省漁ったんだけど、粟生田外相と皇議員の狙いと動静が洗えたのだー♪》

「ああ、そういえば……ごめんなさい、私の分まで。助かるわ」


《ホントに大丈夫ぅ?》

「大丈夫よ。それで?早く背景を教えてちょうだい」


《その前に一点だけ☆今回の件、外事と内調の網がものすっごいキツかったから、ちょーっと経費が割り増しになるゾ♪》


 目眩がした。外事こと外事警察。そして内調、内閣調査室。この2つの組織名が出るということは、直面する事案トラブル規模キャパシティを圧倒的なヴォリュームに撥ね上げる。


『なんてこと……』


 絵美一人の手には余る、壮大な絵が垣間見えてしまった。

 現行の事態を前に、絵美が持てる影響力など、芥子の実一つにも満たない。

 しかしながら、ここで止まるわけにもいかなかった。なんでもない声で絵美は続ける。まだ本丸が残っていた。


「そう……報酬フィーの話は心配しないで。ちゃんと支払うわ。……でも、そこまでして2人はなにを?」

《絵美ちゃん、問題を矮小化しない方がいいゾ☆2人は明らかに日本政府の意向で動いてるのだゾ♪》


『分かっているわよ』


 分かっているがゆえに背けた目を戻されて、絵美の頭はグラグラと揺れ、胃は中身を逆流させようと必死だ。というのも、粟生田外相と皇議員の2人が日本政府の意向で動いていたならば、その目的は分かり易くかつ明確だ。


「分かっているわSilk。私が言いたいのは、彼らはどうしてT.T.S.私たちに、バルセロナまで行ったのかってことよ」


 日本国政府がT.T.S.を警戒しているのは、絵美も知っているし、理解も出来る。

 だが、なぜバルセロナなのか?その疑問が晴れない。


《それがね☆どうもに釣られたみたいなの♪》

「妙な連中?それってニコラエたちのこと?」


《そだよー♪あとはさっきのロサちゃんを襲った連中もね☆》


 すでにロサのことも知られているとは、今更驚きもしないが、ゾッとさせる話だった。


「いつ知ったのかしらないけど、その情報、口外は許さないからね。それで?彼らはなにが狙いなの?」

《んーそれがね、カタルーニャの復活なんだって☆》


「はあ?」

〈なるほどね〉


 とつじょ割り込んできた声に、絵美は飛び上がる。


「ま、Master⁉どうやってここに⁉」


 聞き違うことなきT.T.S.Master甘鈴蝶の声だった。


〈はじめましてだね、Silkさん。それとも他の名義の方がいいかな?アラクネでも女郎でも、お好きな方で呼ばせてもらうよ?〉

《いやん☆T.T.S.Master様様様♪あんまりイケずしないで下さいよー☆》


〈そう、じゃあ失せなさいモグラ。情報はありがたいけど、お前のようなヤツに共同歩調を採るなんて思われるのは冗談じゃない〉

《……残念♪それじゃあ絵美ちゃん☆またね♪》


「あ、ああ……」


 言うが早く、Silkのメッセージボックスが消える。

 残された絵美は口をもごもごと動かす以外、出来ることがない。


〈さて、絵美ちゃん〉

「ひゃい!」


 身元もよく分からない市井の情報屋との接触など、処罰ものの失態だ。


〈私の居場所を貴女にだけ伝えておきます。今ICPO本部に入っているテロ組織や国際指名手配犯の動静を洗い終えたところです〉


 お叱りではなく現状報告が飛んできたことに面食らっている内に、話は先に進んでいく。


〈断言します。我々T.T.S.および日本国政府はカタルーニャ独立活動家を中心とした新たなテロ組織の標的にされています〉

「新たなテロ組織、ですか?」


〈そう。ついてはその便宜上の名前、いい提案ない?敵の姿を明確にしたい〉


 どうでもいいようで、重要なのが、敵の線引きだ。

 すぐに絵美は命名する。


「では、RUIDO RUEDAでいかがでしょうか?」

混乱の集まりRUIDO RUEDAか、悪くないね。それじゃあ、その呼称と現状判明しているメンバーを外事とP.T.T.S.に共有しておくから、貴女は即時休みなさい〉


「そんなわけに」

〈絵美ちゃん〉


 鈴蝶の声に、厳しさが籠った。


〈弁えなさい。ここから先では、今の貴女は足を引っ張るだけだ〉


 キッパリと言い切られ、二の句が継げない。


〈これが最後の警告で、援護だ。これ以上はもう、つまずいても置いていくよ〉


 最後通告は冷徹ともいえる毅然さで、絵美を独りにした。




17

~1937年5月15日PM2:10

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


 絵美との通信を終えてすぐに、それは来た。


「………ッ………!」


 ズキリと強い痛みが、鳩尾みぞおちの下を焼きつくしていく。紗琥耶の身体の一部、細胞と同等かあるいはそれ以下のサイズの極微な機械ナノマシンが、胃酸の異常分泌と粘膜上皮の瞬間爆発的な細胞自死アポトーシスを引き起こしていた。深刻な胃潰瘍に見舞われた源の胃は、大量の胃酸と血液で満たされ、今やそれは食道を駆け上がっている。

 胸郭の正中を焼き、ガラガラと呼吸の度に喉を洗う酸性は、声帯を融かし、もはや呼吸すらままならない。

 しかたなく、源は首をもたげて吐血した。

 背もたれだけのシンプルな木の椅子に縛りつけられた源の膝が血に染まるのを見て、対面のテーブルで自慰に耽る紗琥耶は艶然と微笑む。


「へえ、意外といい血色」


 嬌声のような声音で呟くと、源の口から糸を引いて太腿に垂れる血を指を這わせてすくい上げ、自らの秘部に塗り込んでいく。


「ん………ぁ……ク……」


 源は死体と血と精液で汚れた床から目を引き剥がし、血まみれの秘部を掻き混ぜては太腿を痙攣させて達する悪趣味この上ない女を、エララの放つ真っ赤な警告アラートエフェクト越しに見上げる。詳しくは数えていないが、こうして眼前に秘部を開帳されてから、ゆうに5回は達している。複数の男の輪姦相手を引き受けてなお、紗琥耶の欲望は枯れない。


『どんだけイキャ満腹になんだテメェは』


 心底ウンザリしながら、それでも付き合ってやるのは、源なりに紗琥耶の事情を斟酌するからだ。

 紗琥耶にとって、快感と痛苦は重要な自己認識だ。

 あの悲劇を経て、紗琥耶の身体のほとんどは人工物ナノマシンに置き換わり、彼女の価値観に大きなバイアスがかかった。彼女の自我が生身の身体を懐かしみ、生体としての刺激を強烈に求め出した結果だった。

 特に彼女が求めたのは、肉欲という実にシンプルな欲求。枯渇した抗いがたい欲求を埋めるため、紗琥耶はセックスと戦闘に没頭する。

 しかしながら、生身の頃からこの2つに明け暮れていた彼女にとって、そんな歪な生ですら謳歌しがいのある生き方でしかなかった。人が見れば悲劇的に見える人生を、笑いながら享受する。それは、まごうことなき紗琥耶の強さの証明であり、魔性の女ファム・ファタールの証明だった。


『そろそろ動かねぇと、アイツの動きに合わせらんねぇ』


 気の向くままに官能と残虐に踊る紗琥耶に対し、どこまでも己の正義に苦悩する道を選んだ者もいる。

 そういった意味では、正岡絵美は紗琥耶の対極にいる存在だ。

 幼い頃に家族を目の前で殺害され、それでも正義を求めてどん底から這い上がった絵美の苦労と葛藤を、源は知っている。

 それだけに、彼女が今どれだけの無念を懐き、屈託に苛まれているかが、源には分かった。予期せぬ病魔に蝕まれ、城に幽閉された姫のようにただ待つしかない立場に甘んじる絵美の次手が読める。


「おぃ糞ビッチ、そろそろ……ッ……とっとと終わらせろ」


 ようやく潰瘍の侵攻が一段落したと思えば、再び痛みがぶり返してきた。思わず睨みつけると、自身の愛液と源の血に塗れた手を舐めながら、紗琥耶は艶然と笑う。


「やぁーだ♪」

「テメェ、話が……ッ違ぇぞ」


 紗琥耶の嗜虐趣味につき合う条件として、源は皮膚の一割と手足の爪四ヶ所、左耳の鼓膜と消化器官のどこか一つを差し出し、彼女のナノマシンに自然回復促進をさせることだった。

 だが、すべてを享受しイジり終えてなお、彼女は続きを楽しもうとしている。これでは話が違う。いよいよ、『ヤベェかもしんねぇ』と頭の片隅で焦りが広がる中、紗琥耶が源の背後を指示した。


「だって混ぜて欲しそうなんだもん♪」


 いつからそこにいたのだろうか?


「お前、どぉやって」

「混ざる?」


 瞠目する源の視線と目を眇める紗琥耶の視線を受けて、死体の転がる部屋を前に愕然とたたずむ皇幸美の姿があった。パクパクと言葉にならない悲鳴を上げる彼女の姿は痛々しく、泳ぐ視線は逃げ場を失い、一度だけとはいえ彼女を救った男の目に着地する。


「……っそ!おぃ糞ビッチ、終わりだ」


 戒めを一瞬で引きちぎり、源は崩れ落ちる幸美を抱き支えた。顔を蒼褪めさせた幸美は、源の目を見詰めたまま強く強くその袖を掴む。


「いやだ……」

「あ?」


「いやだ……いやだよ……」


 自らの腕の中で譫言を繰り返してガタガタと身体を震わせ出す幸美に、源は困惑する。


「エララ、すぐにガキの脳波スキャニングだ!俺に割いてる自然回復促進機能リソース回せ!このガキどぉなってる⁉」


 語気を強めてエララに指示しつつ背後を見ると、紗琥耶は自慰を再開していた。口角を吊り上げ、異常な反応を見せる幸美をに、源の血を潤滑油にした性器を掻き混ぜている。もはや、今の彼女にはなんでもになるのだろう。

 胸糞の悪くなる光景から目を逸らして、源はエララを問い質した。


「どぉだエララ、なんか分かったか?」

《強烈なストレス値を計測。フラッシュバックなどの幻覚を見ているようです。また、それにより外部刺激を受けつけていません。深刻な自閉状況です》


「なんだそりゃ、外部要因による干渉か?」

《外部干渉は認められません。過去に負った心的外傷トラウマによる自閉と推測されます》


「そこから呼び戻せりゃなんとかなんのか」


 考える。

 本任務において、肝要なのは皇幸美を無事に帰すことだ。

 そして無事の条件には、心身ともに、という但し書きがつく。


「……T.T.S.特権を行使する」


 意を決してそう告げた。

 任務遂行において、他に方法がない場合にだけ適用される超法規的措置。それがT.T.S.特権だ。

 今回源が適用と判断したのは、幸美の意識に介入する脳内潜入だ。2176年では特殊医療か重犯罪捜査の際に、然るべき手続きを踏んだ場合にのみ施行される人権と大義を天秤にかける行為だ。

 しかしながら、現状源に出来る策はこれしかない。

 となれば、迷う時間すら惜しかった。

 だが。


「おい、エララ……エララ?」


 頼れるもう一人の相棒バディ、エララが応えない。それどころか、視界のARコーティングや肉眼視認化拡張現実ナナフシまで剥がれ始めていた。


『おぃ待て、まさか落ちたのか?』


 いよいよ運に見放されたのか、時を同じくして、紗琥耶のナノマシンが再び源の胃を喰らい出した。当然、エララによる自然回復促進のバックアップはない。


「クッソ……ゴハッ……」


 バシャっと自分でも驚くほど吐き出した血に、顔が映る。

 ドン詰まりだ。

 身体を抉られ続け、相棒バディの援護は得られず、対象パッケージは自我崩壊の危機にある。あまりに厳し過ぎる状況を前に、孤立無縁だ。


『ヤベェ、マジでヤベェぞコレ……』


 食道を駆け上がり、止めどなく喉を洗って口から溢れ出る血を前に、意識が遠退いていく。

 本気で死を覚悟した、その時だった。


《……ん、源!きこえる⁉源!》

「ひゅぅ……ゲホッゲホッ!」


 突然気道が開き、血が止まった。視界に広がるARコーティングが復活し、体内異物である紗琥耶のナノマシンの除去が始まった。潰瘍の癒える速度が上がり、骨髄からの造血が促進されていく。

 同時に、紗琥耶の脳内麻薬の分泌量がイコライザーで表示され、幸美の延髄のマイクロチップへのハック準備が整った。

 あまりにすべてが一瞬で、快復直後の源はすぐに状況が呑み込めない。


《よかった。いきてた》

「ゲホッ……お前、柴姫音か?」


《そうだよ。絵美にいわれておてつだいしにきたの!》

「エララは?」


《トーケツした》


 その一言に、源は心の底からホッとした。

 エララと紫姫音のスペックの差は明確だった。すべての処理を一瞬で済ませた紫姫音は、なんでもない風に告げる。


《タイナイのナノマシンのジョキョはおわったよ。紗琥耶ののーないまやくのチョウセイもさっきはじめた。そこの子にノーナイセンニューするならいってね》


 頼もし過ぎる相棒バディの合流に、思わず源の頬も綻んだ。


「そぉか、絵美に言われてきたんだな?」

《うん。あ、絵美からメッセージだよ。“合図はエリに従って”だって》


「そぉか」

『ありがとな、絵美』


 どうやら、また絵美にギリギリのところを救われたらしい。この場にいずとも、確かなサポートをして見せる相棒バディに心から感謝して、源は目を瞑って紫姫音に命じる。


「紫姫音、幸美に潜るぞ」

《りょーかい!》


 まもなく、激しい頭痛とともに、源と幸美の意識シンクロが始まった。




18


 深く深く沈んでいく。

 肉体を脱ぎ捨て、自我を強く意識して、感覚を手放す。

 意識交換マインドジョイントの名で一時期は若者間で流行した、究極の相互理解を刺衝する強烈な精神体験だ。

 SNSが一定の役割を終え、人々はスタンドアローンの楽しみ方の深度を深め、この意識交換マインドジョイントによって真の相互理解を得るに至った。

 しかしながら、その交換調整の具合を間違えれば、統合失調症をきたす危険な行為でもある。

 そしてまさに今源が行っている“心的外傷トラウマによりパニックに陥った人間”への意識交換マインドジョイントこそ危険極まりない行為だった。


『イヤッ、私は違う!』

『イヤだよ!私はパパとは違う!』


『止めて!とは違う!』


 耳障りな悲嘆の声が源の頭に直接流れ込んでくる。心苦しさに、またしても胃がキリキリと痛んだ。

 幸美の意識に直結して、源の思考は幸美にリンクする。黙って歯を食い縛り、源は沈み込むことに集中した。

 やがてが輪郭を失い、幸美に代わっていく。

 激しい苦痛に頭痛がして、吐き気も酷い。

 やがて表層感情のもっとも苦しい部分に突入した。


《源、ノウナイの活性細胞区画リソース一部分離パーツパージがカンリョウしたよ》

《そう、一応幸美脳内麻薬経過INP監視モニタリングしてこっちに回して》


《りょーかい》


 紫姫音の声に背中を押されて、なおも幸美の苦渋に身を浸していく。

まもなく、ある光景が見えた。

 幼い幸美が佇み、父親の外部記憶保管用特殊端末にアクセスしている。

 それは源には見慣れた景色の断片だった。

 当時の皇議員の職は、2102年に勃発した第一次核大戦を機に設立された国際軍事裁判所の高等陪審員だ。そんな彼が外部記憶装置に隔離するほど遠ざけ、それでいて忘れられない記憶。


 戦争犯罪の犯行現場写真だった。


 身体の部位が欠損しているものや奇妙な腫瘍に覆われたもの、果ては生物兵器まで、その種類は多種多様だ。

 その中で、私はある画像をじっと見つめる。

 幼い頃の紗琥耶の画像だった。傷だらけの裸体で壁に凭れた彼女は死んだ目を虚空に投げている。

 その姿に、どこか親近感シンパシーを感じる自分がいた。


『違う!私は違う!』


 しかしながら、その画像は一瞬で消え、場面が切り替わった。

 同時に、強い嫌悪の感情が頭を茹だらせ、吐き気をもよおす。視界は真っ暗闇で、なにも見えない。

 違う。

 

 視覚情報がない分、聴覚情報は豊富だった。

 紛れもない、セックスの音だ。

 男女二組の嬌声が交互に木霊していた。

 僅かに、瞼が開く。

 そこには、見知らぬ女に腰を振る皇栄太パパと、その秘書に腰を打ちつけられて啼く、ママの姿があった。息を荒げ、喘ぎ声を上げるたび、彼らはゴボゴボと目と口から泥のような血を噴き出す。血まみれになってもなお腰を振り続ける2人が、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 私は頭まで布団に潜り、耳を塞いで身を縮めて寝たふりをするしかない。

 拷問のような長い夜が延々と続いた。

 内側から炙られ融けていくように胸が、噛み締めすぎた顎が、米神が、痛い。

 自分の歯がきしむ音を聞きながら、私は耐えて耐えて耐えて……耐えることを止めた。


『私は違う!』


 両親は青ざめていた。

 小学3年生の私が並べた数々の証拠を前に、みっともなく震えていた。


 みっともない。

 情けない。

 バカみたい。

 みすぼらしい。


 怒りで喉が痛くなる。

 睨みつける瞼が震える。

 拳の中で爪が肌に突き刺さる。

 脈が耳元で聞こえる。


「すまなかった」


 パパは枯れた声で絞り出すように呟き、頭を下げた。

 抗弁もせず、ただただ謝り続ける姿を見て、少しだけパパが哀れになる。私の脳裏に、あの女の子がよぎった。


「パパは……無理ないとは思うけど……」

『違う!!違う!


 ママは黙って家を出て行った。秘書の人も、パパの元を去った。だから、もう、どうでもいい。

 でもパパはあんな仕事をしてるから!辛い気持ちに一杯なってるから!それが辛そうだったから同情しただけ!


『だから違う!私はそんなんじゃない!』


 小学5年生。

 初潮が来た。

 私は、子供が産める身体になってしまった。


 イヤだ

『イヤだイヤだ』

 イヤだイヤだイヤだイヤだ!


『私もイヤだ!』

『じゃあなんでパパを許したの?』


『それは……辛い仕事をやってるから!』

『どうしてママじゃ駄目だったの?なんで他の女の人を選んだの?』


『それはママのせいで!』

『だからあの女の人と再婚することを許したの?ママを引き留めもせずあっさりと捨てて、仕事を変えてもママを取り戻しもしなかったパパを許したの?』


『それは』

『それとも羨ましかったの?』


「違う!」


 違う違う違う違う違う違う違う違う違う!


『じゃあなんでパパを許したの?』


 それは……。


『ところで、貴女はなんだっけ?


 イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ


 あの写真の子みたいだ。ママにもパパにも自分自身にも、なにもかもに裏切られて、頼れなくて。でも、あの写真の子だって


 ヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテヤメテ


『もういぃでしょ』


 なにがいいの?全然よくないよ!きっと私もパパやママやあの写真の子みたいになっちゃう!大事な存在を忘れて、誰かに依存して、なにもかもなかったみたい平気な顔して生きてるような人間に!でもキライなのに!イヤなのに!そんな風になりたくないのに!私は……


『じゃあどぉなりてぇんだ?』


お前は一体どうなりたいんだ?』


 わた……し?


『もぉ見っけたよぉなもんだろ?』


 ………………


『大切な存在を忘れず、誰にも依存せず、自分のしたことと向き合って生きていける人間になりてぇんじゃねぇのか?』


 …………うん

『自分のことを大切にして、自分の足で立って、誰かに信じてもらえる人間になりてぇんじゃねぇのかよ』


 …………うん、そう。そうだよ。

 私はそんな風に生きるって決めて、それであの人に……


『じゃぁまずは目ぇ醒ませ』


 ちょっと待って、アンタ……


『仕事だ。お前が心身共に無事じゃねぇとこっちの仕事に障っからやっただけだ。お前に興味はねぇから安心しろ』


 そう言うと、アイツの存在がフツリと消えた。

 あんな近くに感じていたのに、こんなにもあっさりと。

 あ、でも。


『責任は取ってもらわなきゃね』




19

~1937年5月15日PM2:44

カタルーニャ共和国 バルセロナ~


 どっと押し寄せた重力に、源は意識を揺り戻す。同時に、酷い頭痛と鼻を衝く血と精液の臭いに顔を顰めた。意識交換マインドジョイントの代償自重の感覚を久しく感じつつ上体を起こそうとすると、上半身に載ったなにかに阻害される。


「……どけガキ」


 見なくても、それが皇幸美だとすぐに分かった。当然だ。僅かな間とはいえ、源は幸美だったのだから。ゆえに、指示を発したところで彼女が退かないことも分かっていたが、言わないわけにはいかなかった。

 なぜなら。


意識交換マインドジョイントとか超エロいことしてんじゃん。なんでアタシ誘わねえんだ馬鹿」


 全裸の紗琥耶が源の頭上で仁王立ちになっている。眼前に開帳された秘部からゴボリと子種を垂らされ、源は幸美を抱えて急いで立ち上がった。


「テメェ」


 毒づきながらも、源は愉快そうに笑う紗琥耶の様子に安堵する。どうやら、紫姫音は紗琥耶の脳内麻薬調整を上手くやってくれたようだ。源の内臓は守られた。

 それはそうと、源の腹の辺りの服を掴む手が離れない。


「……おぃ、歩き辛ぇだろ。離れろ」


 ヒシと源に抱き着いた幸美が離れなかった。

 肩を掴んで引き離そうとするも、頑として離れない。


「いい懐きっぷりじゃない、どうやって堕としたの?」

「るせぇ、とっとと服着ろ」


 ニヤニヤ笑う紗琥耶をピシャリと塞いで、源は今一度幸美に語りかけた。


「おぃ、もぉ大丈夫なんじゃねぇのかよ」

「……たでしょう」


「あ?」

「見たでしょう。私の全部」


 さすがに、どう答えたらいいものかと考えてしまう。

 幸美の言う通り、源は彼女のすべてを見た。断片的だが、彼女の人生そのものを、彼女の意識で追体験した。それこそ、彼女のもっとも隠したい秘密さえ見てしまった。

 それだけに、普段は思っていることをそのまま口に出す源も、思わず言葉を濁してしまう。


「……忘れた」

「ウソ!絶対憶えてる!」


『そりゃバレるよな』


 顔のすぐ下にいるにもかかわらず、まるでキスするかのような思い切りのいい背伸びに、自然と体が仰け反った。

 分かってはいたのに、幸美に対する後ろめたさから咄嗟に吐いた嘘を、後悔する。


「忘れよぉとしてんだから忘れさせろよ」

「やっぱり覚えてるじゃない!」


「だから忘れよぉとしてんだろぉが」

「責任取りなさいよ」


 ずずい、と更に距離を詰められて告げられた一言に、耳を疑った。


「あ?」

「私のしょ、初潮まで見たんだから責任取りなさいよ!」


 恥ずかしさを振り払うように幸美は叫ぶ。

 即座に、服を纏った紗琥耶が反応した。


「なにそれ詳しく!」

「黙れ痴女!テメェは話に入ってくんな!」


 ギャーギャーと騒がしいやりとりが続く中、源の身体を唐突な悪寒が襲った。


《源》


 それは、さながら地の底から響く怨念のような声音で、源にだけ届けられた呪詛だ。紫姫音の放つ殺気は、百戦錬磨の源ですら冷や汗を垂らすレベルの迫力があった。

 AIだろうが、女として生まれた以上、死ぬまで女なのだろう。


《かえったら、くわしく、ね》


 もう浸食されていないはずの胃が、キリキリと痛んだ。

 しかしながら、いつまでもこんな血と死体と精液に塗れた場所で人の好嫌について話をしている場合ではない。

 やるべきことに目を向けなければならなかった。


「どぉでもいぃが。テメェいぃ加減あのアホのこと思い出したんだろぉな?」


 源と紗琥耶という2人の超人をして、いまだに打倒の叶わぬ因縁の敵。その正体が、なにより重要なことだった。


「ああ、それね、思い出したわよ」

「よし、なら教えろ。アイツは誰だ?」


「エドの元相棒穴兄弟。あいつがアタシと組む前のね」

「……そぉか」


 どうにも、命日というのは奇妙な縁を結ぶらしい。エドは源にとって呵責を懐くほど良心を向けた相手ではないが、つくづく因縁なのだろう。それとも、元相棒のよしみとして、同じ日に同じ相手に殺されたいとでもいうのだろうか。


「お前とことん調べつくされてんじゃねぇか。本当に勝てんのか?」


 情報は更新されたが、状況は芳しくなかった。

 かつてトマス・エドワード・ペンドラゴンと肩を並べ、紗琥耶と入れ替わりでその任を解かれた者。恐らく、紗琥耶を狙う理由もその辺りの事情だろう。

 それはつまり、源や絵美とは比べ物にならないほど紗琥耶のことを知っているということであり、こうして時間跳躍先に現れた以上、T.T.S.になってからの彼女の動向も追っているということだ。


『旗色悪すぎんだろ』


 源はエドと本気で闘ったことはないが、しっかりと準備をしてなお、苦戦を覚悟しなければならない相手だ。そんなエドが背中を預けられる男と対峙するならば、やはり相応の準備と覚悟がいる。

 だが、現状源と紗琥耶にはそれぞれネックがあった。片や精神的にも肉体的にも消耗して満身創痍、片や手の内は筒抜けとあっては、いくら超人的な力があろうと危うい。

 ゆえに、源は改めて打診するしかなかった。


「もぉなりふり構ってらんねぇんだ。現在がヤベェ、協力しろ」

「イイよ」


「は?」


 正中に走るファスナーを上げながら、紗琥耶はあっさり同意する。余りにあっさりしているので、源の方が呆けたほどだ。


「3P、してやるって言ってんだよ。で?どんな戦術でイキたいの?」


 どういう風の吹き回しかは分からないが、紗琥耶が乗り気なのは僥倖だ。

 話を一気につけるべく、源は口を開いた。




20

~2176年9月30日PM1:28

新生オスマントルコ帝国 旧アシガバット飛行場~


 かつて、トルクメニスタン共和国のアシガバット飛行場は翼を広げた鳥のようなデザインはその高い芸術性を高く評価されていた。だが、今やその屋根は今にも崩れそうなほどボロボロで、それでもなんとか地に着けないことで、かつての偉容を精一杯に示している。

 そんな伽藍洞の一角に、着ぶくれしたむくつけき兵たち9人が整列していた。手に手に大口径の突撃銃アサルトライフルを携行した彼らは、41℃の外気にもめげず、列を乱さない。そんな彼らの前に、眼帯をしたひっつめ髪の女性指揮官が立っていた。彼女の名は、エリン・オルゾン。かつてトマス・エドワード・ペンドラゴンと同部隊に所属していた彼女は、弱冠28歳で指揮官を任された熟練兵ベテランだ。

 彼らの見詰める先、ほとんどを砂に侵食された滑走路に、一機の飛行物体が垂直着陸する。一見黒いコンテナのようなその物体は、着陸噴射をしつつ、両端がキャンディ袋のように捻じれて畳まれていった。やがて完全な立方体になったその物体は、砂交じりのアスファルトに着地する。


「散開!」

「イエス!マム!」


 エリンの一喝に、兵たちが散らばる。

 三人一組スリーマンセルで散開した兵士たちは、崩落した天井の瓦礫や割れたガラスから吹き込んだ砂の塊に硬化剤を撒いてその陰に潜み、次の指令を待った。

 エリンは一人動かず、仁王立ちのまま咆哮する。


「構え!」


 7.62×51mmの火を噴かんと、銃口が並んだ。

 まるで20世紀のSF映画のような光景の中、立方体の正面が内側に窪んでいく。兵たちは、全環境遮断型戦闘防護服の中で秘かに固唾を飲んだ。

 ガッチリと武装を固め、恐ろしいほど統率の取れた彼らがここまで恐れるのには、訳があった。


「マム!T.T.S.は何人だ?」

「慌てるな間抜け!」


 ほとんどが人外ともいえる技能者タレントで構成されたT.T.S.登場の緊張に、耐え兼ねた兵士が尋ねる。エリンは怒号を返し、落ち着いて眼帯をずらした。彼女とて、T.T.S.を前にして侮りはない。

 エリンの眼帯の下には、人体器官らしい加工もされていない機械感丸出しの義眼が鎮座していた。

 フォーカスを遠方に投げた彼女は、組木細工の仕組みを取り入れた大型輸送音速ジェットの入口を睨む。


「……喜べ、最悪の相手ヘカテだ」


 そこにいたのは、かつてギリシャ神話に登場する女神の名を借りて、ヘカテと呼ばれた幻の女だった。3面3体にして、天上・地上・地下に影響を及ぼす女神同様、その女は敵・味方・傍観者の全てを支配し、操れるという。

 薔薇乃棘エスピナス・デ・ロサスからは思考指揮者マインドフレイヤーとも称されるアグネス・リーは身構えもせず、一人ポツンと大型輸送音速ジェットに立ち尽くしていた。ジッと足元を見詰めたまま空港に目も向けない彼女は、砂埃が鬱陶しいのか、顔に掛かる髪を払い除ける。


「面倒、だから、早くして」


 その声は、ボソリと響いた。彼我の距離は200mほどあったが、まるで耳元で囁かれたように鮮明だ。


冗談の通じないやつだみんな、行くよ


 「冗談の通じないやつだ」とエリンは言ったつもりだった。

 だが、彼女の口はそう動いておらず、発せられた音はまったく違う内容になっていた。

 それでもエリンは、なんの疑問も持たずに発言通りに部隊の武装を解かせ、大型輸送音速ジェットに向かう。



 人間は、潜在的に試行の結果を察しているという。表層意識の奥、深層意識で感知した情報を元に、経験や知識と照らし合わせて分析、鑑定し、結論を出す。そういった無意識下の思考が、一般に予感や天啓と呼ばれる。

 アグネス・リーは、この無意識の気づきに干渉し、支配する。彼女は直接戦闘するのではなく、周りに潰し合いをさせるエキスパートだった。


「P.T.T.S.、迎え、終わった。行くから、戻って」


 アンドロイドのような機械的な動きでこちらに向かってくるP.T.T.S.の一個小隊から目を放し、アグネスは背後を顧みる。

 武装集団を手玉に取るアグネスを前に、服部エリザベートは身震いしていた。


「貴女、一体なにを……」


 アグネスは無視する。エリザベートの個人的な質問に答える気などなかった。

今のアグネスにとって最大の関心ごとは、この後の源との合流だ。



 彼女にとって、源は非常に興味深い存在ファンタジスタだ。出会った瞬間に彼女の技能を見抜き、常にアグネスの考える結果に誰よりも先に辿り着く。彼女の目論見通りに、計算外の速さで先回る存在。それが、アグネスにとってのかなはじめ源だ。

 最初は、目の上のたんこぶだった。相棒を組んでも徹底的にアグネスを無視し続け、それでいて彼女の思考を完璧にトレースした結果に、彼女より先に辿り着く。

 次第に、鬱陶しさは厚い信頼に変わった。

 次はどれだけ速く問題を片づけるのか、楽しみになる。

 惜しむらくは、源がアグネスよりも絵美と組むのを好んでいることだ。

 しかしながら、これはアグネスも仕方のないことと諦めていた。絵美もまた、多少遠回りするものの、アグネスと同じ結論にいたることが多いからだ。

 源の手綱を完璧に握り、その能力を全力で活かし、自ら足掻くことも止めない。今まで見たどの凡人より、正岡絵美は努力家で諦めの悪い女だった。



 アグネスは、チラリとエリザベートを窺う。絵美の提案で同行することになった彼女は、一体どうだろうか?源が連れて来る幸美を案じるこの女の、最終的な着地点は一体どこになるのだろうか?


「乗ったね。行くよ」


 エリンの部隊が乗り込んだところで、大型輸送音速ジェットは自動で離陸準備プロセスを開始する。組木細工の仕組みを取りれたカーボンナノブロックの塊は、立方体のまま離陸し、浮上しながらグニャリグニャリと形を変え続け、やがて矢じり型になり、急加速した。

 あと5分もすれば、廃国独自自治区バルセロナだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

T.T.S. @AmonoOki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ