第34話 補習開始
セントラルと医療センターから、当面のスケジュールが書かれたEメールが届いた。
バングルのフレームを『リマインダー』に合わせ、電子カレンダーを呼び出す。バングルの上にポップアップされた青白い画面を右手でタッチし、届いたメールを転送すれば、あっという間に目の前の日付が埋まっていった。
わ~。これまでで、一番ハードな夏休みになりそう。
やれやれ顔でため息をつこうとしたんだけど、顔がニヤケちゃって駄目だった。
もうジュニアの時みたいに、一人で延々お留守番しなくていいんだ。勉強にもテレビにもゲームにも飽きた後、手持無沙汰に時計を眺めて父さんの帰りを待たなくてもいいんだと思うと、嬉しくて仕方ない。
時々マホとも遊んだけど、マンションからは一歩も出られないのであまり面白くなかった。
そうそう。父さんが張り切って申請したプライベートビーチの使用許可は、あっさり却下された。使いたい日の六か月前から予約できるんだって。こんな直前じゃ取れるわけがない。
ガッカリした父さんは、なんとハルキくんパパに泣きついたらしい。
ハルキくんパパは、それは快く父さんの我儘を聞き入れてくれたという。
結局私達は、神奈川にある鎌倉のビーチへ行くことになった。はい、リーズンズが沢山いるであろう一般向けの海水浴場です。
ハルキくんパパがコネを駆使して、私とマホ、そしてサヤの外出許可をもぎとってくれたみたい。
未成人の純血パワードは基本、保護区外へは出られない。この前出掛けた繁華街も保護区外だけど、まだ都内だった。今回は東京を出て遠出すると知り、私もマホもサヤも一気にテンションがあがった。
だって都外だよ? 仕事でしか行けない場所だよ!?
『すごいね、さすが柊グループ当主!』
『それな。持つべきものは、お金と権力持ってる仲間だね。カマクラだって、やばくない? 私でも名前知ってるよ』
『私も知ってる! あれだよね、なんか昔の政府があったとこ!』
連絡アプリのグループチャットで大はしゃぎする私達に、ハルキくん達は軽く引いていた。
『……もしかして鎌倉幕府のこと言ってる?』
入澤くんの送ってきたメッセージを見て、首を傾げる。
幕府? 政府って、途中で名前変わったのか。
そして始まった夏休み。
補習のコースは前半と後半に分かれていた。私はもちろん、両方への出席が義務付けられてますが、何か?
私は柊家所有の送迎車に乗ってセントラルへと向かった。
ハルキくんも補修に参加したがったんだけど、補習対象の生徒以外の登校は認められなかった。それにハルキくんには他にも沢山やることがある。
時刻は午前9時ちょっと前。
あと数分で正面玄関が開く、というところで、リムジンはセントラル前に到着した。
鞄を抱えて降りようとした私を、ハルキくんが呼び留める。
「何かあったら、すぐに呼ぶこと。若月には出来るだけ近づかないこと。いいな?」
「了解です! 送ってくれてありがとね。うちのマンションで補習受けるの私だけだし、わざわざ転移ゲート開いてもらうの申し訳ないなと思ってたんだ」
「これくらい、何でもない」
ハルキくんは優しく笑うと、私の腕に軽く触れた。触れたところから、彼の不安が伝わってくる。
たかだが補習で何を大げさな、と笑われてしまうかもしれない。
でも私には、ハルキくんの気持ちが痛いほど分かった。父さんが殺されるのも、私に超強力な暗示がかけられるのも、ここセントラルでの話だ。
未来で起こった事件まではまだ時間があるものの、少しずつ歯車が狂っている今、予定はあくまで未定だと彼は思っている。
「大丈夫。何があっても、ハルキくんのとこに帰ってくるから」
いざとなったら、能力を全開放して戦ってやる。
私はまだ死ねない。こんな道半ばで、死んでたまるか。決意を固めて力強く告げる。
ハルキくんはふっと頬を緩め、頷いた。ものすごく嬉しそうな顔だった。
「ああ。待ってる」
くっ……! 今、トキメキで心臓止まりそうになったけど、大丈夫か、これ。
学校から貰ったメールをタブレットでもう一度確認し、指定された教室へ向かう。
私以外にも補習生はいると聞いていたのに、その教室には誰もいなかった。いるのは、生徒用の椅子に腰かけ、膝を組んだ若月先生だけ。ガラリと開けた扉を、そのまま閉めそうになる。
「はい、いらっしゃい」
ところが若月先生は、サイコキネシスで閉まりかけた扉を開き、にっこり笑って自分の目の前の席を指差した。一気に警戒度が高まる。入口で踏ん張ったまま、私は先生を見据えた。
「どうして、私だけなんですか?」
「どうしてって……。言いにくいけど、個人補習じゃないと間に合わないレベルだから」
先生は聞えよがしな溜息をつき、手にした学習タブレットを指で叩く。
「神野くんはさ、皆と一緒の授業じゃ、分からなくても分かったふりするでしょ? それを阻止する為のマンツーマンです、諦めて下さい」
「えっ! なんで分かった振りが分かるんですか!?」
「伊達に5年も教師やってないよ。はい、着席」
「はい……」
とぼとぼと歩いて行き、先生の前に座ってタブレットを開く。
すぐに数学の補習が始まった。若月先生が怪しいという先入観があるせいで、なかなか授業に集中出来ない。ちらちら先生の顔色を窺ってしまう私に気づき、彼は苦笑を浮かべた。
「間違えても怒らないから。ほら、ここもう一回やってみて」
先生の指した計算問題は、さっきから何回も間違えている数の計算だ。
マイナスが左から右に移るとプラスになるって言うんだけど、右から左に移る時もプラスになるっていうんだよね。そんなのおかしくない? 左と右の方向は関係ないのかな。
「神野くんは、『イコール』の意味が分かってないみたいだね」
「そうかも? しれないです」
何ともあやふやな答えしか返せない私だったが、一時間が経つ頃には『移項』の考え方を飲み込むことが出来た。すごい! 今までまぐれでしか正解できなかった問題が、全部解けるよ!
「分かるって、面白いですね」
全部解けた問題に丸がついていくのを眺めながら、思わず呟く。
若月先生は採点を終えると、にっこり笑って片手を上げ、私の前に掲げた。私もつられて左手をあげる。先生はパチン、と軽く私の手を叩いた。あ、これハイタッチだったのか。
「でしょ? 神野くんだってやれば出来るんだから、もっと自信もって頑張ろう」
「はい、頑張ります!」
ふにゃ、と笑った後で、ハッと気づく。普通に勉強して、ハイタッチして褒められて?
『若月には出来るだけ近づくな』というハルキくんの言いつけ、補習開始一時間ですでに破ってる気がする。慌てて表情を引き締め、若月先生をじっと見つめた。先生は小首を傾げてこちらを見つめ返してくる。
……うーん。やっぱり悪い人には見えない。
今の所、何も嫌なことされてない。そんな相手を警戒し続けるのは、ひどく難しかった。
ねえ、先生は本当に私達の敵なの? 未来で父さんを殺すのは、先生なの?
「よし! やる気充分だな。じゃあ、次は英語の構文をマスターしよう」
私の視線は全く違う方向に解釈され、休憩なしで次の科目へと進むことになった。
わあ、待って! 詰め込んだばかりの数式で頭が発火しそうだから待って!
涙目になりながら、必死に先生の説明についていく。
英語というのは、暗記科目だった。理科も社会も、国語の漢字と文法も、暗記科目だった。これリーズンズは13歳で全部理解するって、ほんと? 頭良すぎるよ……。
補習はお昼で終了。
若月先生は次の補習までの宿題をたんまり出してから、立ち上がった。
「はい、お疲れさん。宿題、忘れるなよ? 下校時刻は12時ジャストだ。過ぎたら改めて下校申告しないと門が開かないから、気をつけて」
「はい。あの……今日はありがとうございました」
貴重な休みを潰してポンコツ学生に付き合ってくれたことに礼を言うと、照れ笑いが返ってくる。
「こちらこそ。よく頑張りました」
ああああ、だめだ、だめだめ!
こんなの、普通に良い先生じゃん。私の中の好感度がどんどん上がっていってるよ。
「そうだ、神野くん」
先生は教室の入り口で立ち止まり、こちらを振り返った。
一体何を言われるのかと身構える。
「ジャストの綴りは?」
「え!? え、えっと……」
「5、4、3――」
「J、A、……じゃなくてU、と、S、Tです!」
突如として始まったクイズとカウントダウンに混乱しながら、覚えたばかりの綴りを頭の奥から引っ張り出す。
「うん、正解。ちゃんと今日の範囲、家でも復習しとくんだぞ」
若月先生は親指を立てて破顔し、今度こそ教室を出て行った。
私は開きっぱなしの扉を呆然と眺めた。
補習って、ほんとにただの補習だったんだ。ここにきて、ようやく納得する。
何かあるかも、と構えていた気持ちのやり場がないというか、なんというか。
複雑な気持ちで帰り支度を終え、私も教室を出る。
廊下に出てすぐのところで、保健室の先生と出くわした。先生は、大きな水筒と紙コップの入ったビニール袋を手に提げていた。
「あれ? この教室でも補習があったのね。ごめんなさい、回るの忘れてた!」
そう言って、先生は顔を顰めた。
「もしかして、飲み物を配ってたんですか?」
「そうそう。今年は特に暑いでしょう? エアコンはついてるけど、室内での熱中症の発生率は高いから油断できなくって。イオン飲料水を持って見回ってたの」
そういえば、今年は熱中症の被害が多いってニュースで見た。
暑さに弱いパワードの為に、セントラルの空調は22度に設定されている。それなのに、熱中症になる可能性があると聞いて驚いた。
「そうなんだ! 知らなかった~。生徒の水筒の持ち込みは禁止ですもんね。それで先生が?」
「そういうこと。プラスチックはともかく、ステンレスが指定危険物だからね~。神野さんは大丈夫?」
先生が手に下げた水筒を持ち上げ、軽く振ってみせる。
「一人分くらいは残ってそうだけど」
思わず、ごくりと喉がなった。
3時間ぶっ続けで勉強してたから、正直すごく喉が渇いている。先生に会うまでは意識してなかったのに、氷のぶつかる涼やかな音を聞いてしまったらもう駄目だった。
「欲しいです!」
「ふふ、だよね。ちょっと待ってね」
先生が紙コップを取り出し、私に渡してくれる。そこへ、トクトクと半透明の飲み物が注がれた。小さくなった氷も一緒に出てきて、カラカラと良い音を立てる。
わ~、美味しそう!
「いただきます」
軽く頭をさげて、紙コップに口をつける。
冷たくてほんのり甘い液体が、乾いた喉を潤していくのが分かった。頑張った授業の後の一杯は、格別だわ!
私はごくごく喉を鳴らして、一気に飲み干した。
「ぷはー! ご馳走様でした!」
「いえいえ。お粗末様でした」
先生は私から紙コップを回収すると、優しく微笑んだ。
「もうすぐ12時かな。引き留めちゃってごめんね。気をつけて帰ってね?」
「はい……って、ほんとだ! 先生、さようなら!」
バングルを見て、私は慌てた。あと2分で門が開いてしまう。開門時間はほんのわずか。
これ、間に合うかな!?
小走りに廊下を曲がり、曲がったところで辺りに誰もいないことを確認する。
……うん、これなら大丈夫そう。
私は、医療センターで訓練中のテレポートを試してみることした。
探索能力を発動して、正面玄関付近の様子を探る。人の体温は、正門前に集まっていた。近くの非常階段口前には誰もいない。
「うまくいきますように……っと!」
自信はあった。火災テロ以降、医療センター以外で能力を使ったことはまだないから、実際に使ってみたいという気持ちに抗えなかった。誰にも見られなければ、大丈夫。
全身に負荷がかかったのも一瞬。私は、何度も重ねた訓練の時と同じように、狙った場所へ移動出来た。
「はっはー。余裕!」
成功した嬉しさに足取りが弾む。
テレポートのお蔭で、下校時間には余裕で間に合った。
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