第15話 封印

 中から出てきたのは、たった1枚の便箋だった。

 三つ折りにされた薄紙の頼りない軽さに、拍子抜けしてしまう。数枚使っても書ききれないほどの想いが綴られてるのかと期待しちゃったよ。がっかりしながら便箋を開くと、そこには迷路のような絵が描かれていた。

 今度こそぽかんと口をあけ、棒線が走る手紙をまじまじと見つめる。


……なにこれ。イタズラ?


 むかっ腹を立てながらもう一度封筒をひっくり返し、宛名を確認する。

 間違いない。母さんの字だ。台所に置いてある手書きのレシピブックと同じ筆跡。


「これが遺書? 流石にないわ~」


 ぼやきながらも、すぐにしまってしまうのは何故か躊躇われ、手慰みにその迷路を指で辿ってみる。上の穴あき部分がスタートで、下部の穴あき部分がゴールだろうとあたりをつけ、指で順番になぞった。


……あれ? こんなこと、前もやらなかったっけ?


 なぞり始めてすぐ、強烈な既視感に襲われた。現実の上に重ねて映される、もう一つの出来事。


 お尻の下の暖かい膝。

 背中に感じる柔らかな胸。

 耳をくすぐる優しい声。

 自分の手足がぎゅんと縮んで、子供に戻ったような錯覚を覚える。


――『あーちゃん、そうそう。上手ね』


 優しい声は私を励ましていた。私は声の持ち主の膝の上に座り、導かれるままにぷっくりした丸い手を動かし、棒線をなぞる。

 不思議な模様を指でたどるその度に、息をするのが楽になった。頭の中に溢れかえる沢山の雑音やぐちゃぐちゃな映像が、少しずつ柔らかな球体状に丸まっていく。


――『ママのこと、ゆるしてね。見えるだけで何にも出来ない。こんなことしか、してやれない』


 優しい声は途中で涙にくもった。

 泣いてるの?

 振り返ろうとした私の小さな頭をふわりと押さえる、白いたおやかな手。声の持ち主は私に顔を見られたくないみたいだった。


――『死なないで、アセビ。逃げ切って。失う為に、産んだんじゃない……! あなたとヒビキを失う為に、私は選んだんじゃない!』


 背中にぽたり、冷たい水滴が落ちる。

 一度落ち始めた涙は止まることなく、その人は泣き続けていた。

 私はたまらずノートを放り投げ、体ごと振り向いた。私を膝に抱いていた人と、正面から目が合う。アーモンド形の黒い瞳は深く、見る人を吸い込んでしまうような美しさだった。


――『アセビ』


 直接、母さんの声が頭の中で響いた。

 ああ、こんな声だった。こんな瞳をしていた、と懐かしさにひたる間もなく、眩いハレーションに包まれる。強すぎるフラッシュで、周りの景色が白一色に染まっていった。


 驚いて、何度も目を瞬かせる。

 今の私のまぶたを動かしているのか、小さな私のまぶたをそうしているのか分からない。戸惑っているうちに突然、脳内で古いフィルムの上映会が始まった。


 3歳の私は毎日のように癇癪を起こし、暴れていた。

 幼い私が少し泣くだけで、周りの家具が全て浮く。台所のコンロが火を噴き上げる。お風呂には常にいっぱいの水が貯められていたし、それは私がぐずる度に蒸発し空っぽになった。

 父さんがヒーリングを施さないと眠らない子どもは、起きている間は獣のように体を丸め、フーフーと息を荒くしながら部屋の隅で瞳を光らせていた。

 医者に駆け込もうとする父さんを母さんは必死に止めた。

 力が暴走しているだけだ、私が抑え込んでみせるから、と母さんは父さんに縋った。


『アザミさん、僕はこの子の命を心配しているんだ』


 父さんは震える母さんの両肩に手を置き、なんとか説得しようと試みた。


『こんなに小さいうちから、こんなに力を使って。バングルが全く役に立ってない。このままじゃアセビは、生き延びられない』

『それは大丈夫』


 母さんは唇をへの字に曲げ、半ば得意げに、そして苦しげに吐き出した。


『アセビは命を削って能力を発動していない。この子は次世代能力者ネクストパワードなの。純血パワードの両親から極僅かな確率で生まれる、特殊進化タイプなのよ』


 父さんの目が大きく見開かれる。


『どうしてそんなことが分かるのか、今は聞かないで、お願い』


 お願い、と繰り返す母さんの肩に手を置いたまま、父さんは項垂れた。そのまま、こつんと母さんの肩に額をくっつけ、父さんは呟く。


『――分かった。結婚する時の約束だもんね。アザミさんが話せないことを、無理に聞いたりはしない。ただこれだけ。イエスか、ノーかだけでいいから教えて。……君が怯えているものは、君のお母さんと関係がある?』


 母さんは拳を口に当て、数秒黙った後で『ある』と答えた。

 父さんは息を呑み、しばらく動かなかった。どれほどの時間そうしていただろう。

 やがて互いを固く抱きしめあう両親の姿を、私はギラついた小さな瞳に映していた。


 そこでブツリ、と一旦映像は途切れる。次の瞬間場面は変わり、私を膝に乗せて暗示図をなぞらせる母さんが浮かんだ。

 暗示図の模様は、手紙の迷路そのものだった。

 彼女の鬼気迫る表情に、幼い私は怯えていた。普段の優しい母の面影はどこにもない。彼女は私の手そして頭へと両手を滑らせ、順番に力を込めていく。


『サイコキネシス、封。発火能力、封。転移能力、封。透視能力、封。……過去知能力、封。未来視能力、封』


 母さんが言葉を紡ぐ度に、彼女の全身を覆うオーラがゆらめき、薄まる。

 唇の端から溢れた血の泡を、母さんは舐めとり、にこ、と笑ってみせた。余計に怖ろしい顔になった。

 このままでは、この人は死んでしまう。幼い私は手足をばたつかせてむずかり、彼女の手から逃れようとした。


『しーっ。じっとして、あーちゃん。大丈夫、ママは今は死なない。ママが死ぬのは今じゃないって知ってるでしょ?』


 確信に満ちた口ぶりで彼女は断言し、べそべそ泣きだした私を抱き寄せた。


『時がきたら分かるように、手紙を残すね。先に誰かに読まれたらあーちゃんの身を守れないから、暗示図にしようと思うんだ。この絵で、過去視の封印を解くからね。ママが見た未来のお話は、絵本の本棚の一番下に挟んでおく。あーちゃんの未来は2つに分岐してるの。あーちゃんを守って旅をする男の子と、無事に会えたらいいな。……あーちゃんが次にこの絵を見る時、あーちゃんの傍には誰もいないかもしれない。一人にしてしまうこと、許してね』


 これこそが遺言だったのか。

 2人がいる場所は、ここと同じ仏壇の前だ。今は色褪せた畳が青々としている。

 幼い私は封じられようとしていた未来視とテレパスの力を使い、母さんを襲う未来の出来事を伝えた。


 電車、暴走、大事故。


 3つのキーワードを送った瞬間、幼い私の全身は見違えるように軽くなった。

 頭のてっぺんからつま先まで、常に私を苛んでいた能力同士の激突の火花が消え、一気に深く息を吸えるようになる。

 能力が封じられたのだ。深い喪失感と突き上げる開放感の両方に襲われ、私はひどく混乱した。


 母さんは私の背中に回した手に力を込め、『分かってる』と囁いた。


『避けたいと思ってるんだよ、これでも。あーちゃんの傍にギリギリまでいたいって、思ってるんだよ。成人式の着物、似合うだろうなぁ。見たかったな』


 涙声のその台詞を最後に、ようやく意識が現在に戻ってきた。

 まっさきに自分の手足を確認する。15歳の体だ。今の、私だ。

 呆然と座り込んだまま、私はくしゃりと前髪を握り込んだ。


 母さんは自分の最期を、知っていた。


 都内を走る電車が夕方のラッシュピーク時に暴走したのは、5年前。

 ブレーキに細工がされてたとか、テロだとか、いや鉄道会社の職務怠慢だとか、原因はさまざまに推測されたけど、真相は闇の中で今もまだ解明されていない。

 約3000人を乗せた電車が脱線し、繁華街のど真ん中に飛び出し、更に大きな犠牲を生もうとしたその時、母さんは全ての能力を使い切って電車と線路と、その周りの設備全てを元に戻した。

 そんな真似が出来るのは母さんくらいのものだ、と後から偉い人がきて、沢山褒めていた。さすがは神野アザミだ。彼女のお蔭で、大勢の人の命が助かった。ありがとう。興奮したように母さんの功績をたたえる人の前で、私は何も言えなかった。

 隣に立った父さんが、きつく手を握ってくれたことだけを覚えている。


 そうか。知ってても、どうにもできなかったのか。

 見て見ぬ振りだってしようと思えば出来たのに、母さんは出来なかったのか。


 ――ううん、出来ないよね。


 優秀な純血パワードが、無力で罪のないリーズンズを見殺しにできるわけがない。それでもギリギリまで迷っただろう、と今の私には分かる。10歳の私と、数千の命を天秤にかけ、母さんは最後まで迷っただろう。


「ばっかだな~。もう」


 涙が次々に湧いてきて止まらない。

 ポタポタこぼれる透明な雫は、私のスカートに黒い染みをつくった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る