#014 リバースデイ④
失われた約束の代わりに、自らに深く深く突き刺した誓い。この誓いを果たすためだけに、薫はこの一年を生きてきた。もちろん独りでとは言わない。薫も死ぬ。ふたりで、この腐ったマスにしか止まらない世界からあがるのだ。
今、薫のズボンのポケットにはナイフが入っている。短い刃渡りの薄いナイフだったが、華奢な美緒を殺すには十分すぎる代物だ。
これを美緒に突き立てる。
痛みがないように。
あいにく薫はその術を心得ている。この時ばかりは薫も武術を教えてくれた父親に感謝した。
「ねえ」
美緒が言う。
「なんでここに連れてきたの?」
彼女の風邪は既にだいぶよくなっていた。咳が少し残ったが、さほどではない。薬のおかげだろう。
薫を幸せにすると言ったルルの姿はなかった。いないならそれはそれで構わない。希望は躊躇いを生み、躊躇いは手つきを狂わせる。
薫は美緒への返事とばかりにため息をついた。森の空気が心地よい。そよ風に草木がさやさやと春を囁いて、まだ東にある太陽が燦々と緑を照らしている。
「美緒」
薫は言う。
「ごめん」
美緒はきょとんと目を丸くして、首をかしげた。いつもと薫の雰囲気が違うから、訝しげな表情を向ける。
「ごめんって、なに?」
「とぼけるなよ」
小声ながらきつい口調で告げると、美緒はしゅんとして俯いた。
「謝られても、困る」
彼女は言った。
「確かにそうだな。ごめん」
「……また謝った」
「あ、いや、これは謝ったことに対するごめんであって」
「……ふふっ、なに言ってるの? 変なの」
くすくすと笑う美緒だったが、若干それには無理があった。
「大丈夫だよ。もう、私、気にしてないよ、何も」
「……嘘つき」
「あ、ひどーい。嘘つきなのはかーくんじゃん」
「俺がいつ嘘ついたんだよ」
「いつもじゃん!」
「いつもっていつ? 何時何分何秒? 地球が何回まわったとき?」
「そ、そんなの知らないよ! もー、いつも私のことバカにするくせにかーくんのほうがバカみたい。小学生じゃないんだから」
ぷんぷんとふざけた調子で美緒は怒った。それすら痛々しくて、薫は見ていられなかった。
「ごめん」
「……また謝った」
「ごめん」
美緒の顔が、曇る。
「……ばか」
「わかってるよ」
「わかってないよ」
「わかってる、誰よりも」
「違う!」
美緒は叫んだ。美緒ももう、自分の思いを我慢できないようだった。
「違う、違う、違う! 私はもう、かーくんのこと恨んでなんかいないよ? かーくんのせいだなんて、思ってない。あれは、仕方なかったんだよ」
「そんなことない」
「なんで? なんで今そんなこと言うの? なんでここに連れてきたの? ひどいよ、かーくん。私だって、やっと……、やっと、整理できるようになってきたのに。お願いだから、もう、やめてよ」
「ごめん」
美緒は薫に向かって走り寄ると、勢いよくその胸に飛び込んだ。痛みがあって、でもきっとそれは心の痛みだった。
「ごめんね。かーくん、ごめんね」
涙を流しながら、美緒は謝りだした。なにを謝っているのだろう。
でも、薫も泣いた。自然と涙がこぼれた。それが美緒の優しさだとしても、もう恨んでないと、薫のせいじゃないと言ってくれたことが嬉しかった。
泣きじゃくり、咳き込みながら、美緒が言う。
「かーくん、私ね……、ずっとずっと前から、かーくんに言いたかったことがあるの」
薫は片手で美緒を抱きしめながら、もう一方の手をポケットの中に入れた。シースから刃を抜けば、そこにはひやりとした死の感触があった。
「いつ言おういつ言おうって、ずっと考えてた……。ずっとだよ? 多分、かーくんが考えてるよりも、もっとずっと前から……。ずっとずっと……、ずぅーーっと前から考えてた」
ポケットから抜き出したナイフが、美緒の背後で陽の光に煌めく。それは美しくて、人を殺すものには見えなかった。
「本当はね、今日、真緒の前で言おうと思ったの。でもね……、でも、今、言う……、ね。だから、聞いて。……私の気持ち。私のことを信じて。私にずっと優しくしてくれた、そんな薫のこと、ずっと見てたから」
美緒の言葉の一つひとつが、薫の胸を打った。
――けれど、止まれない。
「ねえ、薫?」
薫はその声の先を聞きたかった。
でも、聞いてしまっては、ダメだ。
聞いてしまったら、この手を、振り下ろせない。
「私ね、薫のこと――」
――だから薫は、美緒にキスをした。
自分の唇で美緒の唇をふさいで、そして、片手で彼女を力強く抱きしめた。
『さよなら』
それは、真緒の最後の言葉。
(さよなら)
薫も心の中で呟く。最後の一線をこえるために。
そして薫は、その手を振り下ろす。
雪が落ちるように。
涙を拭うように。
星に願うように。
さよならと、手を降るように。
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