#012 リバースデイ②

「ばかばかしい」


 薫は右手で頭を抱えてひとりごちた。あまりにも現実味がない。あれは、きっと、夢だ。夢でなくてはならない。でなければ薫はここにいないのだから。こんなことならばルルを探して確認をとってくればよかった、と思った。

 薫は礫の派遣元である上之木家に連絡するべきか逡巡し、やはり連絡はしないことに決めた。上之木家に連絡して新たなボディガードが派遣されては、明日の予定に支障が出る。礫の心配もやめた。心配したところで、もうまもなく全てが終わるのだから。


 台所に行くと美緒のためにおかゆを作り始める。食べられるかはわからなかったが、早く治す上でもご飯は必要だ。その時ちらりと時計が目について、あと四時間ほどで今日が終わることを知った。薫はおかゆ作りに集中することで、余計なことを考えないように努めた。

 おかゆと白湯と薬箱の熱冷ましを盆に載せて持って行くと、ちょうど美緒が目を覚ましたところだった。


「……手、握っててくれなかったんだ」

「ごめん、でもなにか作らなくちゃいけなかったから」

「わかってる。ごめんね、わがまま言って。……なんだか頭がぼーっとして、うまく考えられないの」

「熱があるんだ、当たり前だよ」


 薫はベッドに腰掛けると、自分の膝の上にお盆を置いた。傍にあるライトスタンドのスイッチをいれる。淡い光が闇をぽっかり切り取った。


「少しでいいから、食べれる?」


 美緒は小さく肯く。

 薫は彼女の体を少し起こして、壁に寄りかからせた。クッションと枕で座り心地をよくしてやる。


「ありがとう」


 美緒が微笑んだ。薫も微笑んだ。


「気にしなくていいよ」


 美緒は肯いた。

 れんげで少しずつ掬って、おかゆを美緒の小さな口に運ぶ。ただ軽く塩をまぶしただけの、味も素っ気もないおかゆだったが、美緒は文句も言わず食した。時折白湯を飲んで、辛そうに息をつくこともあったが、その度に彼女は微笑んでみせた。薫は彼女の心遣いを感じて、胸が痛んだ。

 最後の一口を食べ、薬も飲み終えると、美緒は深く息をついて体から力を抜いた。満足した表情を浮かべ、自分で横になる。


「……ありがと、薫」


 右半身をベッドに沈め、顔を薫の方に向けて、美緒は言った。


「ねえ、お願いがあるの」

「なんなりと」


 薫は優しく応じる。


「十一時五十分になったら、起こして? 誕生日になる瞬間は、やっぱり起きていたいから」


 薫は肯いた。


「いいよ」


 最後にもう一度お礼を言って、美緒は目を閉じた。

 スタンドライトのスイッチを切ると、二分と経たずに寝息が聞こえてきた。静かで暗いその部屋の中はまるで宇宙のようで、薫と美緒は広い宇宙にふたりぼっちだった。


 十二時近くまでなにをしていようかと思ったが、最終的に薫はその場を動かなかった。幾分落ち着いた美緒の寝息を聞きながら、遠くで聞こえる不思議な鳴き声の正体を探っていた。

 ……鳥だろうか、虫だろうか。

 あまりに遠い音色でうまく判断できなかったが、確かに鳴き声が聞こえていた。春の夜に、そっと囁くように鳴く生き物。それは少しだけ寂しくなる音色で鳴き続けていた。

 真緒なら鳴き声の主を教えてくれたかもしれない――彼女はそういうことに詳しかったから。

 そう思うと、不思議と薫は泣いてしまいそうだった。だからできるだけ息を止めて、じっとしていた。ずっと昔の、懐かしい匂いに思いを馳せていた。

 そこには美緒がいて、真緒がいて、薫がいた。

 家族の温もりと、笑顔と、優しい魔法があった。


『ハッピーバースデー』


 誰かが言った。


『ハッピーバースデー!』


 みんな笑顔だった。

 みんなが笑って、手を叩いていた。

 ケーキの甘い匂いかと思えたそれは、胸の中の少女の髪の匂いだった。薫は少女を抱いて、横になっていた。雪が降っていて、でも雲はなくて、夜空には煌めく星たちがいくつもいくつも流れ落ちていった。


 ――ふたご座流星群。


 それはきっと、宇宙の涙だった。


 ――私を見て。


 ――私を、助けて。


「……ハッピーバースデー、トゥーミー」


 小さな歌が聞こえて、薫はそこではっと目を開けた。

 隣に美緒が座っていて、彼女は薫の手を握っていて、あたりは暗くて、それは昨晩と似たようなシチュエーションだった。だからはじめ薫は昨晩にタイムスリップしたような心持ちだった。自分が眠ってしまったことだけはわかったが、寝起きということもあって、頭はうまく働かなかった。


「どうして泣いてるの?」


 美緒が首を傾げる。

 薫は自分の目尻を拭った。確かに、薫は泣いていた。そしてとても悲しい夢を見ていたような気がした。

 そこで薫は思い出した。


「あ、時間!」

「十二時十一分。寝坊だよ、かーくん」


 くすりと美緒が笑う。


「ごめん」

「いいよ、自分で起きれたから。でも、あとで罰だよ? まだ決めてないけど、すーっごくつらいの! 礫と一日恋人ごっことか」

「……それはつらいな」

「えへへー」


 やれやれ、と薫は思った。


「でも、昨日と今日の境目なんて、全然わかんないね。毎年思うけど、なんだか不思議な気持ち。すごく曖昧で、目に見えなくて、そんなものたちを私たちは大切にして生きているんだなあ、って」


 熱と眠気のためかうつろな目をしていたが、美緒は不思議といつもよりも口が達者だった。こういうロマンチックな事を口にするのは、いつも決まって真緒の方だった。

 薫は美緒の瞳を見つめた。暗い部屋の中で、さらに暗く沈んだ闇がそこにあった。自分が見られているというよりは、自分を透かしてなにか別のものを見られているような……。

 口調はいつもと同じなのにそんな瞳をするものだから、薫はちらりと恐怖を感じた。そして、美緒は今なにを考えているのだろう、と思った。

 だがすぐに美緒は目を閉じた。そして薫に寄りかかる。


「あのね、まだ頭がぽーっとするの。かーくんの手、冷たい?」

「俺の手? どうかな」


 美緒と結んでいないほうの手を見る。確かに布団もかけずに眠っていたことで手足の先は若干冷えているような気がした。


「私のおでこ、触って」


 薫は言われたとおりにする。


「あーいい気持ち」


 普段より少し高い声で美緒は呟いた。その額はまだ熱い。薬の効き目が出てくるのはもっと後だろう。


「なにか飲む?」


 美緒は首を振った。


「このままでいい。もう少し、かーくんの傍にいたい」


 薫の手を掴む美緒の手に、ぎゅっと力がこもった。痛みはなく、むしろ心地良い強さだった。

 美緒の頭を撫でながら、薫は改めて呟いた。


「ハッピーバースデー、美緒」


 意図的に、美緒の名前だけを呼んだ。ここに真緒はいない。いない少女を祝ったところで、それはきっと空しいだけだ。

 それでも美緒は言う。


「ハッピーバースデー、真緒」


 ――今日、四月二十八日をもって、双子は一六歳を迎えた。


 けれど、片割れの少女の時は、一年前のあの日から止まっている。


「約束だよ、かーくん」


 美緒が言う。


「わかってる」


 薫が言う。

 今日は、真緒に会いに行く日だった。




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