#011 リバースデイ①
薫は目を開けた。灰色がかった空がその目に映った。草に頬を撫でられながら、しばらく仰向けのままその空を見ていた。薄い雲の合間に、星がひとつ見える。一番星だろうか。夜が訪れようとしていた。甲高い鳥の鳴き声が、沈む太陽を嘆いている。鳥も人も、巣に帰る時間だ。
ゆっくりと体を起こす。霞がかった頭に、先程の記憶が戻ってくる。
影。
礫。
ルルが撃たれて。
薫も、撃たれて。
あたりを見回した。ルルの死体は、なかった。それどころか血の跡もない。もちろん影もいない。風に揺れる草の群れと、薄暗く屹立する木々だけが、薫を囲んでいる。
「いきてる」
薫は呟いた。自分が死ぬという実感もないままに、殺されかけた。……この記憶は、いったいなんなのだろうか。夢、と考えるのが一番妥当だった。しかしあの衝撃は、恐怖は、痛みは、真実のように再度頭に浮かび上がって薫の身を震わせた。寒い。身も心も、ひどく冷え切っていた。春だというのに、それは終焉を予感させる秋の終わりの冷たさだった。
とにかく、この森を出なければならない。力の入らない脚を叩いて、薫は森の中に分け入った。
*
薫は焦っていた。美緒と礫は、有り体に言えば仲が悪い。だから長時間二人きりにしたくはなく、もっと早く帰る予定だった。それに、先程の件もある。なぜ影は礫の姿になったのか。……嫌な予感がした。
そうして家に着いたのは十九時過ぎだった。まず、異変に気かついた。
家の電気が、全て消えている。
ほんの一瞬思考が止まった。ありえない。礫と美緒の二人で出かけているのか。風邪だというのに? 病院? いや二人の性格から考えてもありえない。寝ている? 礫も一緒に? いくら礫でもそこまで馬鹿じゃない。外部からの気配を気にしていたのに、家を誰の目にも不在に見える状態におくわけがない。
さぁと血の気が引いて、最悪の想像が頭をよぎった。
襲撃。
薫は玄関の鍵を開けて、中へ入った。……ひどく静かだ。玄関は暗く、何も見えない。先程の経験で敏感になっている心臓が、ばくばくと激しく脈動する。見たくないものを見てしまうかもしれない。怖かった。だけど、もう二度と逃げ出したくはなかった。
電気を、つける。
――瞬間、薫は息を呑んだ。
「美緒!」
オレンジ色の電灯に照らされて、廊下にしゃがみ込み美緒が目に飛び込んできた。膝小僧に顔を押し付けて、パジャマ姿でぶるぶると震えている。
「おい美緒、どうした、大丈夫か!」
薫は美緒に駆け寄った。震える肩を掴む。
美緒がひどく怯えながら顔を上げた。
「……かー、くん?」
青ざめた顔には涙の跡が張り付いていた。ずきりと激しく胸が痛む。
何だこの状況は。知りたいけれど知りたくない。言葉が出ない。言葉にしたくない。
美緒の顔が崩れて、涙が溢れた。大きな声で泣き出す。母親に縋りつくほんの小さな子供のように、両手が伸びて、薫の首に回った。ぎゅうと力強く抱きしめてくる。そこから伝わると痛みに、薫も美緒を強く抱きしめるほかなかった。
あたりに気を配りつつ、やっとのことで薫は聞いた。
「どうしたんだ、美緒。礫は、どうした?」
美緒はぶんぶんと首を振った。
「礫、いなくなっちゃった……。かーくんも、いなくて、私、ひとりぼっちだった……」
「……礫が、いない?」
美緒は鼻をすすりながら肯く。
「起きたら、ひとりで、少し待ったんだけど、誰も来てくれなくて、探しに行ったのに、どこにもいなくて、いたずらしてるんだって思って、ふたりの名前読んだのに、返事がなくて……。なんでひとりにしたの? ひとりは、嫌だよ……。まおぉ……、真緒ぉ……」
片割れの少女の名前を何度も呼びながら、美緒は泣き続けた。一年が経ってもなお、美緒の心の病は治らない。真緒を求める美緒の思いが、その腕の力に表れている。
しかしそれも次第に弱くなり、やがて泣き声もやんだ。だが泣き疲れて眠ってしまったにしては息が荒い。額に手を当てると、朝に比べて熱が上がっていた。風邪を引いているのに、冷たい廊下でずっと泣いていたせいだろう。薫は罪悪感から顔を歪める。
美緒を抱きかかえて階段をのぼると、薫は彼女を寝室のベッドに寝かした。洗面器の水を交換して、改めて冷たいタオルを美緒の額に当ててやる。息はやはり荒い。うわ言のように寒いと繰り返している。
それから美緒が眠りにつくのに、三十分ほどかかった。それを見届けると薫は立ち上がり、廊下に出た。扉を閉め、静かな夜に紛れる。
薫は緊張した面持ちで家中の点検を始めた。できるだけ物音を立てないよう注意しながら、あらゆる扉を開け、中を調べ、そして普段と変化がないことを確認すると、閉めた。
一五分ほどかけて調べ終えた結果、いつもと変わりない我が家だということがわかった。どこにも血痕や死体なんてものはなかったし、なにかを隠蔽した後もなかった。
ただこの家から、九重礫という一人の女だけが忽然と姿を消していた……。
礫が美緒を残してこの家から離れるなど考えられない。家の中で襲われたというわけでもない。ならば彼女はどこへ消えたのか。
薫には、思い当たる節があった。
昼間、ルルと薫を殺した、礫――いや、礫の姿をした影。
あれが、もし、礫を殺してその体を奪い取ったということだったら――
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