#010 幽霊が悪夢を呼ぶのか、悪夢が幽霊を呼ぶのか。③
泣き止んで、落ち着いて、それからしばらく、薫とルルは寝転んで空を見ていた。心地よい風に、頬を撫でる草の香り。陽の光は柔らかくふたりを包み込んで、息をする度に泡沫のような光の粒が胸を満たしてゆく。
やがて雨が降り出した。狐の嫁入り、いわゆる天気雨だ。
雲ひとつない空から、星のように雨粒が降り注ぐ。粒は小さく、冷たく、音もなかった。突如透明な湖の底に潜り込んだようで、揺れる水草の隙間で息を潜めていると、不意に何者かの気配がした。ひどく淡い気配で、雨に紛れて気のせいとも思えるようなか細い気配だった。
少ししてゆっくりと体を起こし、薫は気配のする方に顔を向けた。そして、見た。
――広場の端に、何かが立っていた。
それが何かわからない以上、立っているというのは不可思議な表現ではあるが、薫にはそれが人に見えた。けれど人ではないことは確かだった。それは、……『影』、だった。細長く真っ黒い影。のっぺりとして、輪郭は丸く、少し前屈みに曲がっているように見える。そんな影が、木々の影の中、より黒々とした闇を纏ってそこに立ち尽くしていた。
遅れてルルも気が付いた。ルルが息を呑む音が聞こえてきて、緊張が薫にまで伝染した。
「ルル」
「わかってる。あれは、よくないものだ」
一概に悪いものと言い切らないあたり、ルルにもアレが何であるのかという確信はないようだった。ただ、薫もルルと同意見だった。善意や悪意といった思惑が感じられないにも関わらず、その影の視線は薫たちに本能的な不快感を引き起こす。
鼓動が少しずつ早くなって、薫は立ち上がると同時に、昨夜の礫の話を思い出していた。
『今日、度々外から妙な気配を感じた』
『意思が感じられなかった。盗みに入りたい、殺してやりたい、そういった意思が』
『どこから見られていたのかもわからなかった。見られていたかどうかすら定かではない。ただそこに、気配があった』
礫が言っていたのは、こいつのことかもしれない。だとしたら、視られている以上、事は昨日よりも重大だ。今、薫と影はお互いを認識してしまっている。これ以上関わっては駄目だ、と直感で思う。逃げなければ。
「カオル、今日はもう、この山から出た方がいい」
「ああ、そう思ってた」
薫とルルは警戒した虎のように姿勢を低く立ち上がった。かかとに体重をかけ重心を低く後ろにして、逃げ出す隙を伺う。……はっ、隙? 薫は自嘲した。影は隙だらけにも見えたし、鍛え抜かれた武術の達人のようにも見えた。わからない。その姿から受け取れる情報は、あまりにも少なすぎる。
先に動きがあったのは、影の方だった。ゆっくり近づいてくるかと思うと、その体がぐにゃりと変形し、人の輪郭をかたどった。ドブ沼の底から死体が浮かび上がってくるかのように、影の真っ黒な体に色が浮かび上がってくる。
肌色――痩せた首元、尖った顎。薄い唇、細い鼻。暗い目つき。
胸から上が順々に、人の形へと変貌していく。それに伴い凹凸のなかった体を衣服が纏う。ダークスーツ。しかしそれは男性のものよりもタイトで、女性的なシルエットを形作る。胸の膨らみや腰のくびれ、細身な腕は、やはり女性のものだ。ネクタイはなく、シャツのボタンは上から二つ開いている。
長い髪がバサァと生えて、鎖骨の下まで垂れ下がる。彼女はどこからか取り出した黒いゴムでその髪を雑にまとめた。ポニーテールのその出で立ちは、どこかボンドガールを思わせて――
「礫」
薫のつぶやきを待たずして、礫の姿をしたその影は二人へ向かって右手を上げた。
――ぱん、ぱぁんっ!
二度、乾いた音が草原を揺らした。次いで隣から、どさりと何かが倒れる音。驚いた鳥たちがバサバサと羽音を立てながら空にのぼっていく。薫は、ルルがいた――ルルがいたはずの隣を見る。
倒れていた。少し後ろに、ルルが、頭と左胸から血を流して、その金の瞳を見開いて。帽子ははるか向こうに吹き飛んでいる。草原に赤色が広がっていく。その光景は、いつか見たことがあった。
フラッシュバック。
母の死体が、ルルの死体と重なった。
「うわああ――」
「うるさい」
いつの間にかすぐそばに来ていた礫が、薫の側頭部を殴りつけた。激しい衝撃に、ぐわんぐわんと視界が揺れる。倒れてしまいたい。しかしなんとか踏ん張って、顔を上げた。目に血が入る。相当強い力で殴られたらしい。見れば礫の手には拳銃が握られていた。そのグリップで殴られたようだ。
「誰だよ、おまえ」
礫の姿をした『影』は、無表情だ。現実の礫も淡白だが、いつもどこか不機嫌そうな眉をしている。それに対してこの礫は、機械のようだった。右のラインから左のラインに物を移すように、躊躇なく人を傷つける。
薫は拳銃を持っている方の手を掴むと、残った拳で礫のみぞおちを殴りつけた。
手応えは……あった。しかしその感触は人のそれではなかった。
どぷんと、水面に拳を突き立てたようだった。スーツだった部分が凹んで、そこだけ先程の影になる。そして戻りながらにゅるんと薫の腕に絡みついた。がっしりと固定されて、抜けない。
「くっ、なんだよ、これ」
ごつりと、額に金属の冷たい感触がした。
「し」
礫の口角が上がった。薫は初めて礫の笑みを見た。
「ね」
銃声がして。
爆発的な痛みとともに、薫の意識はそこで途絶えた。
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