#009 幽霊が悪夢を呼ぶのか、悪夢が幽霊を呼ぶのか。②

 ――『世界樹』?


 薫が疑問を口にする前に、ルルは先に先にと口を滑らせていく。こうなってしまったルルはそう簡単に止められない。


「ボクが木や血管を好むのは、そういう繋がりがあるからなんだ。もともと、世界樹を眺めているのが好きでね。枝も葉も根も、血の管も、蟻の巣も、その無数に枝分かれしてゆく広がりの形にとてもわくわくさせられる。葉脈なんて二、三〇枚分もあれば一日中それを見ていられるよ! だからこうして森に住んでいるわけだし」

「ちょ、ちょっと待てよ。『世界樹』ってのがまずよくわからないんだけど」

「ん? あーそっか、そうだね。んー……」


 ルルは顎に手を当てて少し考えてから、にこりと笑って言った。


「キミもきっと死ねばわかるよ、カオル。世界はね、可能性の数だけ存在しているんだ。また数学の話になるけど、樹形図だよ、いわば。無数に存在する可能性の枝、その数だけ世界も存在するってこと。それをボクはまとめて『世界樹』と呼んでいる」

「……はぁ」


 納得はできなかったが、肯くほかない。それはルルの思想であり、それを否定するのは悪魔の証明にほかならない。薫が咀嚼する限りでは、彼が言いたいのは、おそらくパラレルワールドの類の話だ。ルルは「別世界は実在する。それも無数に」と述べたいらしい。そんなこと脈絡もなしに言われても、うまく飲み込めるはずもない。

 薫はこれも世間話のひとつだと捉えて、ルルの話の続きに耳を傾ける。


「もちろん普通のニンゲンが認識できる世界樹の枝はひとつだけさ。でも、ボクは違う。可能性の枠から外れた存在だから、全体を認識することができる。鳥だとでも思ってくれたらいい。空から立派な巨木を見て、今日はどの枝に止まろうかと思案しているのが、ボクさ。ボクのお気に入りはこの枝――この世界だけど」


 話の雲行きが怪しくなってきていた。何より、今まで自分のことをまるで語ろうとしなかったルルが、こうも饒舌に自らの存在を語ることが異常だった。


 ――これが、最後だからだろうか。


 その言葉は出なかったけれど、薫は思わず尋ねてしまっていた。


「……おまえ、誰だ?」


 ルルはきょとんと目を丸くして、それからまた笑った。


「ただの幽霊だよ。ようやく信じる気になった?」


 ルルの手に触れたことは何度もある。彼の手は温かい。血の温もりをそこから感じる。

 けれど、そう言う彼の言葉は不思議と冷たかった。まるで、幽霊のように。


「続き、聞きたい?」


 しばし間を置いて、薫は肯く。ルルも肯いた。


「正直、ボクも適当に話し出しちゃったから、何が言いたいのか、うまくまとめられてないんだよね。ただ、この世界はね、世界樹の端にあるんだ。もちろん他にも端っこの枝はあるけど、その一本ってこと。そういう世界ってどういう世界か、想像できる?」

「いや」


 嘘だ。だいたい想像はついていた。


「それは、可能性の果ての果て。ひとつは、誰かにとっての最良の世界。何もかもがそのヒトにとって幸福である世界。そしてもうひとつは、最悪の世界。行き場を失い、絶望の終わりという希望のみが残された世界……。右の端の枝でキミが最良の頂を踏めば、左端の枝のキミが最悪の石を踏んで崖から落ちる。神様の天秤が、うまいことバランスをとるわけだ」


 ルルはそう告げ、続けて宣告した。


「カオルを見ていると、この世界は、キミにとっての世界の果てなんじゃないかって思うんだ。それも、悪い方に天秤の傾いた、ね」


 ずしりと胸が重くなる。そんなこと、言われなくてもわかっていた。

 世界は残酷だ。ある日をきっかけに――あくまでもそれは薫の選択をきっかけにして、世界はひどく薫に冷たく当たるようになった。無慈悲に雨を降らし続けるその様は涙さえも許さぬようで、薫はいつからか嘘をよくつくようになった。他人に対しても、自らに対しても。

 誰のせいと問いたところで、薫のせいなのだから抗う気もなかった。世界の残酷さを許容し、そこで生きることを容認した。いまさら文句はない。けれど、改めて他人から言われると、やはりひどく辛いものだと思った。何者のせいにもしてこなかった薫だからこそ、誰かのせいにしたい思いは胸の内に雑然と巣食っていた。


「じゃあどこかに、最高の俺がいるってわけだ」


 自らに対する皮肉のつもりで言ったセリフだったが、予想以上に堪えた。そんなことが許されてたまるものか。

 しかしルルは肯く。


「そうだね、それは確かだよ」


 おいおい、そこは慰めてくれよ。

 その言葉を口に出そうとして、けれど次に続いたルルの言葉に、薫は言葉を失った。


「けれど、今からでもキミが望む最良を手にすることができる」


 次の言葉を出すのに、薫はとても長い時間を要した。ルルが薫を見て、その金の瞳が強く輝いて、そうして薫はしばらくその輝きを見つめていた。その輝きが希望だと気付くまでに、薫は非常に長い時間を要したのだった。


「……え、なに、言って……、下手に、期待させる慰めなんか、そんなのは――」

「慰めじゃないよ」


 ルルの言葉は強かった。声そのものは小さかったけれど、そこに込められた思いはその小さな体からは信じられないほど強かった。

 薫は混乱していた。どうしてよいかわからなかった。明日薫が行おうとしていたこと――それをすべて認めて受け入れてくれていた仲間が、急に非常に強い意志でもって薫を諭そうとしている。それは嬉しいことでもあったが、一年以上も準備してきた薫にとって、そうそう受け入れられることではなかった。なにせ、明日なのだ。なぜ今このタイミングで……。

 けれどそういった葛藤すべてを吹き飛ばすような笑顔で、ルルは言った。


「ボクを信じてくれるだけでいい。ボクならそれができる。キミたちは、約束どおり、明日ふたりでここにおいで。そうしたら、すべて教えてあげる。ボクがキミを――キミたちを、誰よりも幸せにしてあげる」


 気付けば薫は泣いていた。

 なんの確証もないというのに、その言葉が、想いが、嬉しくてたまらなかった。


「ボクはね」


 ルルが言う。


「やっぱり、キミと別れるのが辛くてたまらないんだ」


 薫は、ルルに泣きついた。みっともなくとも、情けなくとも、今ここに存在する小さな男の子がとても愛おしくて、止められなかった。幽霊だろうが人間だろうが、温もりだけは確かな優しさの証だった。

 そうしてふたりに言葉はもう、必要なかった。




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