#008 幽霊が悪夢を呼ぶのか、悪夢が幽霊を呼ぶのか。①
初めて会った時、その幽霊は『ルル』と名乗った。
流れ流れると書いて、流々。
薫は、正直彼に相応しくない名前だと思う。なぜなら幽霊である彼に、外見的な変化はほとんどないからだ。一見小学校高学年の男の子だが、その容姿は出会った五年前から変わっていない。チャーミングな金の瞳と金の髪をきらきらと輝かせて、まるで幻のようにこの森の中の広場でのみ顔を合わせる。
もっとも、薫は彼が幽霊だと信じてはいなかった。彼が自らを幽霊だと言うから、それでいいやと思っているだけだ。ただ、一年ぶりに再会してみれば、やはり成長をしないという異様さが際立って映る。記憶の中の彼と、今目の前にいる彼は、衣服の違いを除けばまったくと言っていいほど違いがない。
「久しぶり」薫は言った。「変わらないな」
「まあね」
ルルが微笑む。そして掌を上に、薫に向けて差し出す。
「なんだよ」
にやりと、ルル。
「おみやげ」
薫は目をぱちくりと瞬かせてから、しまったと心の中で舌打ちをした。
「……あー、ごめん。忘れた」
「えぇっ!?」
大声を上げて、ルルは頬を膨らませた。
「楽しみにしてたのにぃ!」
「わ、悪かったよ」
「悪かった? そりゃ悪いよね! そこは大前提だよ! 一年間ボクのことほったらかしにしといてさ! だからおみやげ持ってこないと駄目なんでしょぅ?」
「ごめんって」
「謝って済むならテキサスはいらないの!」
一瞬薫は高度な言葉遊びかと思考を巡らせたが、単なる言い間違いだった。ルルにはよくあることだ。
「警察な。テキサスって」
「ま、またそうやって揚げ足を取る! ボクが日本語が不自由だって知ってるくせに!」
なんとも不自然な不自由さだったが、このやりとりが懐かしくて、薫は思わず笑ってしまった。それに対してまたルルがつっかかる。
「うー、もういいもん。ボク帰る」
「いや、ちょっと待てよ。悪かったって」
「おみやげも持たずに何しに来たのさ。約束の日は明日でしょ、明日。もーまったくぅ」
約束の日、と言われて、薫は自分の表情がぎこちなく歪むのを感じた。その話をしにきたのは事実だったが、まだ心の準備ができていないことも確かだった。
取り繕った表情で薫は話題をつくる。
「とりあえず久々に会えたんだから、それでいいだろ。土産話ならたくさんあるからさ」
「なにその開き直り」
「そう言うなって。どうせ暇なんだろ? 付き合えよ」
「まー確かに暇ですよ。暇ですとも。付き合いましょぅ?」
「何様だよ」
「神様」
「馬鹿言ってないで、ほら」
倒れて朽ちた木の幹に座って促すと、ふくれっ面のままルルも正面に座った。ちょこんと正座して、その姿だけ見たらひどく可愛らしい。
「何やってたんだよ、この一年」
「ん、まーぴろぴろ?」
「色々な」
「そう色々」
「その色々を聞いてるんだよ」
「えーめんどくさいなぁ」
ぶちりと草をむしり、ルルはそれを風に流した。
「てゆうか、カオルの土産話が先でしょ。ミオちゃんとはどうなの?」
「どうって、特には」
「A、B、T、どこまでいったの」
「Cだろ、てか古いなおまえ」
「いいから。言う」
「そういうんじゃないって、おまえはよく知ってるだろ」
「えー。でももうすぐお別れなのに、未練残らない?」
ずきりと、不意に胸元の傷口を抉られたような痛みが走った。ルルの無邪気は、研いだばかりのナイフのように鋭い。
「おまえの意地の悪さには、ほんと閉口するしかないわ」
「えへへー」
美緒の真似をして、笑うルル。
「まあいいけどね。正直そんなに興味ないし」
「おい」
「ボクはねー、ティッシュを折ってたよ」
「ティッシュ?」
どこからか取り出したポケットティッシュを、さも大切な宝物のように見せびらかし、彼はその中からティッシュペーパーを一枚だけ抜き取った。
「カオルはさ、このテュッシュ、何回半分に折れると思う?」
「え?」
思わず素っ頓狂な声を出して、薫は戸惑った。
「……一五回、とか?」
「一五!?」
大声とともに、ルルが吹き出した。意味はわからなかったが、バカにされていることだけはわかった。
「一五かー、いやカオルはすごいなー。じゃあやってもらおうかな? かなかな?」
ティッシュを手渡される。気は乗らなかったし苛立ってもいたが、ため息を飲み込みつつ、カオルはティッシュを折り始める。
四回目あたりで、その想像以上の厚みに、嫌な予感はしていた。
「あれ、あれれー。うまく折れないねー? まだ九回目なのに」
四苦八苦しながら無理矢理にでも折ってやろうと奮闘していた薫だったが、急にどうでもよくなって、そのポップコーンのように小さく丸くなった固まりをルルに投げつける。
「いたっ! なにするのさ! エデンは大切にしなくちゃダメじゃないか!」
「資源、多分」
「そうそれ!」
母音すら合っていない。
「くだらん」
「くだらんだって!? いいかい、カオル、キミが数学が得意だという前提で語らせてもらうけどさ!」
急に演説が始まった。これもよくあることだ。
「ティッシュの厚さは一般的に〇.一ミリメートル程度。それを半分に折っていくということは、つまり!」
ルルの目線が催促していたので、薫はやれやれといった調子で力なく問う。
「つまり?」
「Yをテュッシュの厚さ、Xをティッシュを折った回数とすると、Y=0.1*2^xの式が成り立つんだ」
「ほうほう」
「じゃあこのXにキミがほざいた一五を入れてみようじゃないか。すると、Yはおよそ三三〇〇……、つまり三メートル以上ってことだ! そんな厚みになるまで折れるはずないよね!?」
「がんばれば」
「折れないよね!?」
「はい」
「そう! だから無理なんだよ! ちなみに四二回折ると――まあ折れたらの話だけど、ティッシュの厚さは月まで届いちゃう! 紙を折り続けるって、実はとても大変なことなんだよ! なんだか宇宙の神秘すら感じるだろう?」
「ほー」
ぱちぱちと、薫は拍手する。雑に。
「なんだよその雑な拍手は!」
「いや勉強にはなったけどさ、相当暇だったんだろうなって」
「かっちーん。ああそうですよ、暇ですよ、暇でしたとも! でも楽しいからいいんだもん!」
「で、何回折れたの?」
「…………」
沈黙。
「あ、そうだ、他にもねー」
「おい」
「ここら一帯の星は数え終わったよ」
またなんとも言えない暇つぶしに、なんだか急に切なくなって、薫はきちんとルルの話を聞くことにした。
「何個?」
「肉まんで見えたのは、三〇九一個。プラス流れ星が二二個」
ピースふたつを掲げてにこりと笑うルル。「肉眼」と訂正しつつ、案外星は流れないものだなとも思ったが、あの日、一つだけでも流れ星を見たかった薫としては、それはとても羨ましいことだった。
「そういえばこの森の植物図鑑も作ったっけな。……あれ、どこしまったっけ……。あ、そういえばここクマがいるから気をつけてね」
「知ってる」
「ならよかった。あとぉ、あー、ゴミ拾いをしてた。この広場の手入れだってしたんだよ。アリの巣の場所も大体把握したしね」
「おまえ、蟻、好きだよな」
多分蟻の巣の把握は星を数えるよりも大変な作業だろうと思った。
「大好き! そうだ、今度アリの巣の観察キットがほしいな!」
「今度なんてないだろ」
「あーそっか、残念……」
項垂れるルル。
なかなか勇気のいるセリフを案外するりと言うことができて、薫は安堵していた。
「蟻の巣なんて見て楽しいか?」
すると信じられないとでも言いたげな表情で、ルルが勢いよく顔を上げた。
「楽しいよ! もんのすっっごぉく楽しい! 昔図鑑で見たことがあるんだけど、あれはね、世界樹に似てるんだ」
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