#007 しのびよる気配なき非日常④

 ――眼が、合う。


 薫の薄黒い瞳と、美緒の焦げ茶色の瞳が、目に見えない、そして触れてはならないものを見つけてしまったかのように、静寂の中で交差する。

 薫は固まった。

 彫像のごとく、見事に固まってしまった。


「えっへへー、引っかかったー」


 熱で力が入らないためか、柔らかく笑う美緒。それがまた妙に可愛らしくて、薫は自分の顔が耳まで赤く染まるのがわかった。焦ったあげく、美緒の顔に布団をかけて誤魔化す。言葉がうまく出ない。

 そこから顔を出して、まだ美緒は可愛らしく笑っている。


「あれれー、どうしたのかーくん? 焦ってる? 本気にした? えへへー、さっきのお返しだよーだ」

「……このバカ」


 やっと出た言葉はそれだった。美緒の両頬を掌で挟んで押しつぶす。歪んだ変な顔で文句をいう美緒に、自分でやったことながら薫は思わず吹き出してしまった。


「はっははっ、その顔じゃあ一生キスなんてできそうもないなあ」

「なによー! 薫がやったんじゃない! それにできるし!」

「へー、いつの予定なんですか、お姫様」

「もうすぐだもん。王子さまが迎えに来てくれるんだから」

「いたらいいねぇ、殊勝な奴がさ」

「むぅ、しゅしょうってなによー、でもバカにされてることはわかるもん! 意地悪薫の馬鹿あんぽんたん」

「その悪口、バカっぽい」

「じゃあなんて言えばいいのさー」


 ジタバタ布団を叩く美緒。ああ、なんてくだらない会話だろう。薫と美緒は笑い合った。そこには幼馴染同士にしか出せない独特の空気感がある。

 薫は改めて、自分がたくさんの美緒の表情を知っていることに気付いた。笑顔や泣き顔はもちろんのこと、親しい者に向ける表情と学校での彼女の表情が違うことも知っている。とても素直で優しく見える美緒にだって、数えきれないほどの様々な表情があるのだ。……時には美緒だって、人を憎む。その表情さえ、薫は知っている。きっと真緒もその表情は知らないはずだ。


 やがて薫が頼んだものを持って、礫がやってきた。薫はその場を礫に託し、おかゆをつくりに一階に戻る。そこでダイニングテーブルを見れば、きれいに礫と美緒の料理がなくなって、皿だけが残っていた。礫はよく食べる。そして食べるのが早い。この事実がボディガードゆえのことなのかはわからないし、知りたいとも思わない。

 おかゆは冷蔵庫にしらすがあったので、しらすがゆにした。持って行って、食べさせてやる。それを礫は不服そうに見つめていた。


 やがて礫は一階に戻って、薫と美緒はしばらくふたりきりで過ごした。互いにさほど話さなくても時間はいつの間にか過ぎていく。

 そして九時頃に、美緒は眠ってしまった。すうすうという寝息を確認して、薫は一階の居間へと向かう。礫は報道番組を見ながらコーヒーを飲んでいた。これがボディガードの正しい姿なのだろうか。疑問に思う薫だったが、無視して声をかける。


「美緒が眠りました」

「そうか。ハルシオンでも使ったのだな。そしていかがわしいことをしたと。了解した」

「了解しないでください! てかそんなことが起きていると思うなら助けに来いよ! ああもう苛々するな!」


 するとようやく礫が真面目な表情で薫を見た。そして言う。


「出かけるのか?」


 薫はその言葉に驚いた。自分が今から礫に言おうとしていることがまさにそれだった。

 テレビに視線を戻して、礫は続ける。


「驚くことでもないだろう。お前の意思ぐらい表情を見れば読み取れる」

「……さすがですね。見直しました」

「おまえに見直されても嬉しくないがな」


 薫はため息をつく。


「まあ、じゃあ、そういうことです。美緒をお願いできますか?」

「起きたときにおまえが隣にいないと知ったら荒れるんだがなぁ」

「あーもうわかってますよすみません。それでも、行かなければいけないところがあるんです」

「どこだ?」

「駅前です。生徒会長から食事に誘われているんです」


 嘘だった。


「ほう。二股か。ご盛んだな」

「残念ながら、あの人を相手にするだけの胆力も体力も持ち合わせていませんよ。ただの社交的な付き合いです」


 薫は笑って、じゃあお願いしますと、家を出た。




     *




 斜陽が美しい森だった。薫は息を切らして、そんな森を歩いていた。森の空気は冷たく、そしてとても澄んでいた。影は幾重にも光を切り裂いて、足元の湿った苔は薫の靴にへばりつく。どこからか聞こえてくるのはおそらく鳥の羽音で、右か、左か、様々な方向から耳を打った。気付けば自分の息の音がとても大きく聞こえていた。興奮しているのか、と薫は自問した。それもそのはず――なにしろ、一年ぶりなのだから。

 やがて視界が開けて、広場に出た。草原がうねる、森の中の空き地だった。


 ――そこに、ひとりの少年が立っていた。


 一二、三の顔つきで、つばの付いた帽子を目深にかぶっている。

 少年が帽子をずらして視線を薫に送った。大きな金の瞳が輝いて、そしてにやりと、笑う。


「や、カオル」


 そこには一年前と同じ姿で、幽霊がいた。

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