#006 しのびよる気配なき非日常③

 翌朝、薫と美緒は朝早くに目を覚ました。ふたりで一階の台所に行き、朝食の準備をする。

 居間には既に礫がいて、三種類の新聞を読み分けながら、テレビのニュースを聞いていた。相変わらず器用だな、と思う。

 朝食はベーコンエッグとサラダ、そしてご飯だ。基本的に朝食はお米と決まっている。よく薫の母が言ったものだ。朝はご飯食べて力出さなくちゃね、と。母の作る料理は美味しかった。『サン=テグジュペリ』のものとは似て非なる美味しさがある。


 母の味。

 久しぶりに食べたいと思うのは、きっとすごく罪なことなのだろうと思う。


 物思いにふけって焦がしたベーコンエッグを、薫は自分の皿に分けた。三人分用意し、盆に乗せてダイニングテーブルの上へと持っていく。

 まだ眠そうな美緒の担当は、サラダだ。レタスをちぎって、細切りのニンジンと大根を盛って、水菜を散らして、おかみさん特製の青じそをかけたものである。簡単だけど、少し酸っぱい青じそがからんでとても美味しい。

 礫は基本的に薫たちの生活に関与しない。ただ、守るだけ。でも食事は一緒にとるし、挨拶もする。礫は確かにそこにいる。


 三人は合掌をして、食事を始めた。しかし食卓にはベーコンエッグにかける醤油がなかった。いち早くそれに気づいた美緒が、取りに行く。三人分の水も用意しようと、薫も後から立ち上がった。

 台所で出会ったとき、美緒はその手にコードレスのドライヤーを握っていた。

 薫は思わずぎょっとして、動きを止めた。

 美緒は薫が来たことにほとんど気づいていない様子で、薫の横を通り過ぎようとする。すれ違いざまに、薫は美緒の腕を掴んだ。


「ん、あ、あれ? どうしたの、かーくん?」


 美緒が薫の顔を見上げる。よく見ればその瞳はとろんと潤んで、頬は赤く染まっていた。そういえば起きた時からこんな様子で、うつらうつらと眠たそうだった。当初は寝ぼけているのだろうと思っていたが……。

 嫌な予感がした。


「どうしたのって、それ、どうするつもりだよ」

「え、もちろん卵とベーコンにかけるんだよ」

「ドライヤーを? カピカピになるぞ」


 薫が指さすと、美緒はようやく自分がなにを手に持っているか気が付いたようだった。

 薫が驚いた以上に驚き、慌てて背中に隠すと、えへへーと照れ隠しに笑う。


「おかしいな。朝だから、寝ぼけてるのかな」


 そこで誤ってスイッチが入って「うわわ」と慌てる美緒を、薫はむりやり近くに引き寄せた。彼女の額に手をおく。……やはり平常よりも熱い。


「おまえ……」

「えへへ……、ちょっとね、ぽーとするかも」


 風邪だった。明らかに、風邪だ。

 薫はため息をつき、夜中に美緒が咳をしていたこと、腹部を出して眠っていたことを思い出した。台所から顔を出し、テーブルで醤油を待つ礫に声をかける。


「礫さん、美緒が風邪をひきました」

「知っていた」


 当然のように礫は言う。気付かなかった薫を非難するようにも聞こえた。


「知っていたなら言ってくださいよ」

「自分で気付け。もう薬なら要請してある。そもそもどうせ昨晩も裸で寝かせたのだろう。毎晩貴様が無理をさせるからだ」

「いやいやいやいや、朝からいつもの下品なくだりはいらないです。そもそももなにも、僕たちは健全です。あなたのほうがいやらしい。少しは自重してください、礫さん」

「ほう。そうやっておまえはまた処女である私を馬鹿にするのだな。下衆め」


 苛々とした表情で、礫はご飯を食らった。咀嚼しながら薫を睨みつけている。礫は性的な経験がないことをコンプレックスにしており、一五という若さで同棲している薫を事あるごとにからかってくる。もちろん主人である美緒にはなにも言わないが。

 薫は首を振った。そして美緒に向き直る。


「ごめん、気付かなくて」

「うんうん、大丈夫だよ。私、元気だもん」


 そう言って力こぶをつくる美緒だったが、笑顔が弱々しかった。


「醤油とドライヤー間違える人が大丈夫なわけないだろう。そもそもそのふたつをどうやったら間違えるんだか……」


 謎だった。


「とにかく、ベッドに行こう。眠ってなきゃ駄目だ」

「でも」

「でももへちまもないんだよ」

「なんでそこでへちまがでてくるの?」

「へちまなおまえにはわからないよ」

「なにそれ。意味わからないけど、むかつく」

「そんな弱々しい声で言われても怖かないよ。いいから、ほら、ついてくる」


 薫は嫌がる美緒の手を引いて、階段を上り、寝室まで連れていった。むりやり寝かしつけ、布団を普段より多くかけてやる。熱いと美緒は文句を言ったが、自分が病人だという認識はあるのか、蹴飛ばそうとはしなかった。

 薫は子機で一階の礫に内線をかける。


『なんだ』

「すみません、冷たい水の入った洗面器と、あとタオルをお願いできますか?」

『……行っていいのか?』

「え? あ、はい。もちろんですけど」

『そうか。てっきり私は弱った美緒様をおまえが襲っているものだと――』


 薫は電話を切った。襲っていると思うなら、お前が守りに来なくちゃ駄目だろうと、心の中で強く突っ込む。礫のボディガード精神はどこかで致命的に狂っている。


「ねえ」


 苛立つ薫に、小さな声で美緒が声をかける。


「ん、あ、悪い。どうした? 水分とるか?」

「うんうん」


 美緒は首を振った。そして手を伸ばす。その手は薫の服の裾を掴んだ。


「ごめんね」


 美緒が言った。小さな声だった。


「すぐ治すから、ごめんね。許してね」


 最初薫は美緒がなんで謝るのかわからなかった。迷惑をかけてしまったことに対して謝っているのかと勘違いした。けれどすぐに思い直した。美緒は、このタイミングで風邪を引いてしまったことを謝っているのだ。大事な日を目前に控えた、今日、この日に。

 全てを悟って、薫は微笑んだ。


「気にすることないよ。大丈夫、すぐ治るさ。てか、謝るくらいだったら言う事聞いてちゃんと寝ろ。早く寝ろ。ほら寝ろすぐ寝ろはいもう寝たー!」


 布団に突っ伏し、いびきをかいて寝たふりをする薫に、美緒は笑う。


「そんな早く寝れないよ。お腹だって空いたし、喉だって乾いた」


 薫は顔を上げる。


「わがままなお姫様だな」

「えへへー、わらわの前に跪けー」


 具合が悪いのだから仕方がない。薫は従うことにする。


「ははー」

「よし、命令を下す」

「なんなりとー」

「キスして?」

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