#005 しのびよる気配なき非日常②
体を洗い終えると、戸を少しだけ開けて、美緒がバスタオルを渡してくれた。体を拭き終われば服を渡してくれる。薫は風呂の中で着替えを終えた。火照った体で美緒と向かい合う。彼女はとろんとした目をして、とても眠そうだった。ぽんぽんと薫が彼女の頭に手をやると、「ふぬー」と不思議な言葉を発した。
「もう少し待ってて」
薫は急いでドライヤーで髪を乾かし、歯を磨いた。その間美緒は壁に寄りかかって目をつむり、今にも眠ってしまいそうだった。おそらく座ったらもう立ち上がれないのだろう。努力して立っているようだった。
薫と美緒は手を繋いで階段を上った。そして同じ部屋に入る。そこはふたりの寝室だった。テレビと戸棚と小さな冷蔵庫と、クイーンサイズのベッドが置かれている。
薫は衣服を整理すると、冷蔵庫からミネラルウォーターの入ったペットボトルを取り出し、戸棚から出したコップに注いだ。静かな寝室にとくとくと水の注がれる心地よい音が染み渡る。
薫は一口飲むと、ベッドに腰掛ける美緒に渡した。
「……ん、あ、ありがとー」
危うげな手つきながら両手でコップを掴み、美緒はゆっくりと水を飲み下す。それを見届け、薫は電気を消した。窓から差し込む月の光が、仄かに室内を照らす。儚い闇だ。ガラスのコップが淡く光っているようにも見えた。
水の減ったコップを受け取り、それをナイトテーブルに置く。薫は優しく美緒の額を人差し指で押した。すると美緒はその勢いでベッドに倒れ込んだ。
あたっ、と変な声が上がった。
「こら、美緒。布団の上に寝るな」
「わかってるよー。じゃあ人のこと押したの誰よーもー……」
不平を言いながらごろごろと転がって、美緒はベッドから落ちた。薫が布団をめくると這い上がってきて、一緒に布団の中へと入る。
「あー、だめ。私もう眠っちゃう……」
美緒が小さな声で言った。そして薫の手を掴んだ。手は温かかった。薫の隣に美緒が存在していることの、それがなによりの証だった。それは喜ばしいことであり、そしてとても淋しいことでもあった。
――美緒は、病気だ。
目に見える病巣はない。それは、心の病だから。
彼女は、独りになることができなかった。独りになると極度の不安に苛まれ、パニックになってしまう。だからなにをするにも近くに親しい人の存在を求めた。時を経て、ある程度症状を抑えられるようにはなってきたが、完治には至らない。だから美緒は薫が風呂に入っている間も傍にいるし、寝るときも一緒だ。美緒にとってはそれが当たり前のことで、独りこそが異常だった。
――『倉野真緒(くらのまお)』。
美緒の双子の妹であり、二年前まで誰よりも美緒の傍にいた少女だ。
だが、彼女は今ここにいない。
薫は真緒の代わりだった。九重礫ひとりでは決して担いきれない重要な役であり、ただそれでも代替品に過ぎないことは事実だった。その事実について薫がなにも感じていないと言えば、嘘になる。しかしなにも感じていないと己を偽ることこそ肝要だった。薫は嘘つきだった。
ふと横を見れば、美緒は寝息を立てている。それはあまりにも無防備だ。そっとキスをすることもできれば、首を絞めることもできる。ただ美緒の手の感触が、いつも薫を冷静にした。
薫は目をつむって、自分も眠ろう、と思った。
しかし夜は冷たく、長かった。疲労に体は浸かっていても、思うことがあった。先程中途半端に眠ってしまったこともあってか、目は冴えていた。
それでも薫は眠ろうと努めた。そして確かに眠った。だが眠りは浅かった。目を覚ましたのは、美緒が咳をしたからだ。見れば彼女は腹部を出して眠っているし、布団もベッドの下だ。寒気を感じた。冷える夜だ。
薫は美緒の着衣を整え、布団を直した。そして水を飲む。美緒はどんな夢を見ているのだろうか。彼女の頭を撫でながら、そんなことを思う。
静かに部屋を抜け出て、トイレに向かった。すると待ち構えていたかのように、暗い廊下の途中に九重礫が立っていた。それはさながら亡霊のようだ。壁に背中を預けて、腕を組んでいる。
彼女の眼が薫に向けられた。
「言っておくことがある」
礫の真剣なまなざしに、薫も真面目に聞くことにした。
「なんですか?」
「今日、度々外から妙な気配を感じた」
「妙な気配?」
薫は眉根を寄せた。礫は一日中家の中にいるため、外というのは家の周りのこととなる。礫の雰囲気から言っても、話の流れから言っても、それは穏便な話ではなかった。
「妙、というのは?」
「この家を狙っていた。それは間違いない。だが意思が感じられなかった。盗みに入りたい、殺してやりたい、そういった意思が」
「意思のない気配……ですか。たしかに妙ですね」
「ああ」
「姿は?」
「捉えられなかった。どの監視カメラにも映っていない。それどころかどこから見られていたのかもわからなかった。見られていたかどうかすら定かではない。ただそこに、気配があった」
気配だけがあり、姿どころか意思すら持たない。それは話だけ聞けば幽霊を思わせた。そう正直に告げると、礫はいくらか口元を歪めた。しかしなにも言わなかった。馬鹿馬鹿しいとでも言いたげなため息ののち、薫に尋ねる。
「おまえは外でなにか感じることはなかったか? 美緒様と一緒にいるときに異変はなかったか? 今日でなくてもいい。小さなことでもいいから、なにかあれば話せ」
薫は口元に手を当てて、最近の出来事を振り返った。しかしこれといった心当たりは無い。礫の言うような妙な気配が近くにあれば、薫でも気付くはずだ。薫には武術の心得がある。
「なにも。普段通りです」
すると礫は案外素直に引き下がった。「そうか」と呟いて、「ならいい」と背を向ける。
「気を抜くなよ。外ではおまえが美緒様の盾だ」
そう言い残して、礫は自室へと戻っていった。
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