#004 しのびよる気配なき非日常①
薫と美緒は、同棲していた。
もちろん同棲にいたるまでには、それなりの事情と過程があった。誰かがいなくなって、誰かが傷ついた。深い深い傷が未だに消えることなく疼いている。ただそういった内情に踏み込まず事実だけを記すならば、そういうことになる。
さらに彼らの暮らす家にはボディガードがいた。『九重礫(ここのえれき)』という女だ。
礫は今日も玄関でふたりを出迎えた。全身を黒いスーツに包み、髪型はポニーテール。化粧もせず、切れ長の目で鋭くふたりを見据えている。冷たく暗い印象の女だった。なにを考えているのか、まるで表情から読み取ることができない。ボンドガールのような雰囲気があった。
「おかえりなさい」
礫が言った。
「ただいま」
美緒が言った。美緒は礫と話すときだけ、態度が少し冷ややかになる。それは美緒らしくない変化だ。薫はその変化に気づいていないふりをする。
実際のところ礫が守っているのは、美緒ひとりだ。美緒さえ無事であれば、礫は火中の薫を容易に見捨てるような女だ。礫にとって薫は美緒の害であると同時に、美緒の盾であり、薬であった。現に礫の薫を見る眼は、モノを見るそれだ。
薫と美緒が共に住んでいる家は、二階建ての一軒家だ。薫の父親が用意したものである。
美緒は礫と共に居間へと直進し、薫はひとり階段を上った。二階の自室の扉を開け、電気を点ける。電灯が白々しく室内を照らし出す。
簡素で狭い部屋だ。シングルベットと机がそれぞれ壁に寄せられて配置されており、本棚のみならず机の上もベッドの下も沢山の本が積まれている。家では小説を読むぐらいしかやることがない。
薫はベッドに倒れこんだ。胃は満たされ、全身には心地よい疲労があった。頭はぼんやりと膜がかかったようで、うまくものを考えられない。
眠い、と薫は思った。睡魔の存在をすぐ傍に感じた。黒猫が塀の上からこちらを見つめているような感覚だった。にゃあと声がして、薫も鳴いて返した。すると誰かが笑った。美緒の声だ。
「『にゃあ』だって! ぷふっ、かーくんったらかわいい」
いつの間にかつむっていた目を開けると、声は消えた。……どこにも美緒の姿はない。猫もいない。
改めて、眠い、と思う。少し夢を見ていたみたいだ。黒猫と美緒の夢。不吉で穏やかな夢。薫は目をつむって、思い出す。猫が鳴いて、薫も鳴いて……
薫の意識はそこで途切れ、深みへと沈んでいった。再び夢を見たような気もしたが、定かではなかった。
*
次に気付いたとき、部屋は真っ暗だった。電気を点けたまま眠ったはずなのに、そこには当たり前のように暗闇が居座っている。そして人の気配もあった。美緒だ。
美緒はいつものピンクのパジャマ姿で、ベッドに腰掛けていた。左手は膝の上に、右手は薫の手に添えられている。足元を見つめるその目はうつろだ。見るからに元気がない。こほんと小さく咳をして、足を揺らすその様がとても悲しげで、薫はそっと声をかけた。
「美緒」
はっと驚いて、美緒が薫に顔を向けた。小さな笑みが、小さな顔に浮かぶ。
「おはよう、かーくん」
「おはよう。今、何時?」
「もう十一時だよ。礫も眠っちゃった」
「そっか……。あー、じゃあ、だいぶ眠っちゃったな。ごめん」
「んーん、大丈夫。かーくん、なんだか疲れてたもん。生徒会、大変だったんでしょ。おいしいご飯も食べて、お腹いっぱいだったしね。私だってねむねむだよ」
薫は体を起こし、壁に背中を預ける。
「じゃあ、寝る?」
「うん」
「俺、風呂入って、歯磨いてくるけど……、どうする?」
美緒は薫の目をじっと見て言った。
「私も行く。下で待つ」
「……そっか。オーケー」
薫は目をこすりながらベッドから抜け出て、着替えの準備をした。パジャマと新しい下着を手に持つ。
ふたりは階段を降りて一緒に洗面所の中へと入った。しっかりと鍵を閉める。洗面台からは本来そこにあるはずの鏡が取り外されているが、何も見えないふりをする。
薫は服を着たまま風呂へと入り、そこで服を脱いだ。ビニール袋を二枚使い、その中に濡れないようにしまって、風呂の隅に置いておく。美緒は風呂の戸に背中を預けてしゃがみこんだ。一枚の戸を隔てて、薫は体を洗い、美緒はその音を聞いている。自分を守ってくれる者の存在を、その音から感じている。
「ねえ、かーくん?」
やがて声が聞こえたので、薫は頭を洗う手を止めた。
「なに?」
「さっき、かーくん、眠りながら『にゃー』って鳴いてたよ。どんな夢見てたの?」
薫は絶句した。美緒の笑い声が聞こえてくる。正夢だった。
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