#003 さくら散る日常③

 クラスメイトのことや先生のこと、最近の流行や面白かったテレビ。そんなことを離しながら食事をしていたら、時も過ぎ、あれだけあった料理もあらかた片付いていた。胃袋が膨れて、薫はベルトを緩める。銀色のやかんに入った冷たい水が喉に心地よかった。もう一杯注いで、飲む。


「あーお腹いっぱい」


 美緒が足を崩して言った。


「おい」

「わかってるよー。ちゃんと姿勢を正して、手を合わせて、ごちそうさまでした、でしょ? はい、ごちそうさまでした」

「よし、許す」

「はは、何様だよ、薫」


 程良い満腹感と週末特有の疲労感に、薫は眠気を感じていた。目をこすり、欠伸を噛み殺す。本当は片付けをしたかったが、今はサン=テグジュペリも忙しい時間なので、食器を持って行くと邪魔になる。申し訳ないが、ちゃぶ台の上に重ねて置いておくのが常だった。


「絵が見たい!」


 美緒が不意に声を上げた。


「ダメ?」

「え、あー……」


 由宇は苦笑いを浮かべて、頭を掻いた。


「構わないけど、先週から進んでないよ?」

「それでも見たいな! 見たいな! ね、かーくん?」


 薫は肯く。


「ほら!」


 美緒の元気な声に押されて、由宇は笑った。


「わかったよ。じゃあ、ついてきて」


 由宇はふたりを二階にある自室へと案内した。戸を開けて、中に入る。その瞬間、空気が変わった。


「わぁ……」


 ――青。


 青だった。青い絵だ。

 真っ白いキャンバスに描かれた青が、部屋中所狭しと飾られている。

 サンテックスも、春の風に揺れる桜も、遠く海の向こうの教会と鐘の音も、海の底に沈んだ未来の都市も……、すべてが青で描かれていた。温もりも、冷たさも、喜びも、悲しみも、青という色だけでそのすべてが表現されていた。そこにあるのはそういった水彩画であり、油彩画であり、パステル画だった。

 ただ部屋の中央に一枚だけ、薫の位置から表側が見えない絵がある。イーゼルの上に載せられて、いかにも描いている途中という風だ。

 薫たちはキャンバスの表へと回った。


 ――それは、少女の絵だった。


 青い青い川の上に、少女が浮かんでいた。水に濡れた髪は重みをもって膨らみ、ワンピースの裾も広がっている。少女の目は閉じられていて、それは安らかな笑みであった。幻想的で、微笑ましい絵だ。そして薫と美緒は、その少女を知っていた。

『上之木遙(かみのぎはるか)』――三人のクラスメイトで、国民的なアイドルで、由宇が好意を寄せている相手だ。


「ほわー……、やっぱり素敵。遙かわいい!」


 美緒が感嘆の声を上げる。


「少し進んだんじゃない? 先週と印象違うよ。少しあったかくなったような」

「そう言ってくれると嬉しいけど、んー、まあ、色を重ねただけだよ。朗らかな光を寒色で描くのはやっぱり難しくて、それで詰まってる。というか、正直、スランプ」


 由宇は自嘲気味な所作で首の裏に手を回した。


「好きな人を描くのは本当に難しいよ」


 またさらりと言ってのけるなと思いながら、美緒と顔を見合わせる。なんだかこっちが恥ずかしい。

 薫はふと思い立って、茶化すことにした。


「『青の王子さま』にしちゃ弱気だな」

「あ、言ったなあ!」


 由宇が不満を顔に表す。

 由宇は皆から『青の王子』と呼ばれている。特別な由来のある称号だ。

 しかし由宇は、そう呼ばれることを嫌っていた。自分のような人間が王子と称されることが恥ずかしく、申し訳ないようだった。俺なんてそんな素晴らしいものじゃない、と由宇はよく言う。


「薫はそれ、言わないはずじゃないか」

「さっきのお返し」

「うー、まあそれはたしかに悪かったけど、でも、王子さまだとかどうだとかは、まったくもって事実に反するだろ。俺はそんな柄じゃないし、そもそもみんなが思っているほど俺はいい奴じゃないよ」

「そんなことない!」


 間髪入れずに美緒が言った。薫と由宇の視線が集まりうろたえたが、はにかんだ笑顔で続けた。


「ごめんね、あんまり言われたくないの知ってるから言わなかったんだけど、その、由宇は素敵だよ。私も、さっきのお返しじゃないけど……。由宇はかーくんなんかより全然私にとって王子さまだもん」


 最後のセリフを、茶化した調子ながらも、美緒は強く言い切った。

 薫は自分へのあてつけだろうかと一瞬思ったが、その言葉には強い説得力があった。

 妙な感情が込み上がる。確実に嫉妬ではない。でも、美緒にとって自分は王子さまには成り得ないのだ、と改めて思った。

 その時、美緒の携帯が鳴った。赤く染まった顔で画面を見て、渋い顔をする。


「あー、礫(れき)からだ。ごめんね、先に下戻ってるね」


 そう言って美緒は顔を手で仰ぎながら部屋を出て行った。残されたふたりはしばらく沈黙を守った。

 再び話し出したのは、やはり由宇からだった。


「美緒ちゃん、いい子だね」


 薫は応えない。


「手、離しちゃだめだよ」

「……わかってるよ」


 薫は目の前の青い青い少女を見ながら、美緒のことを思った。

 そろそろ帰る時間だった。

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