#001 さくら散る日常①
春名薫は、春が嫌いだった。
チャイムを押そうと伸ばした腕には桜の花びらが付いていた。払うと、ひらひらと空を舞って、買い替えたばかりの真新しいローファーの上へと積もった。薫は思わず笑って、同時に悲しくなった。去りゆくものの名残がもたらす、悲恋のような美しさが、心を打った。
そこは友人の家の裏口だった。すぐ背後には小さな庭がある。手入れが行き届き、様々な色の花が夕日の下できらきらと輝いている。
薫はしばしそれを見つめてから、校章の縫い込まれたネクタイをきゅっと締め直し、ブレザーの皺を伸ばした。花びらを靴から払う。しっかりとチャイムを見据え、人差し指で押す。
――ピィン、ポォーン。
変に間延びするチャイムに次いで、「はいはーい」とドアの向こうから明るい声が聞こえてきた。そしてドタドタという足音。
短い間を置いてドアが開き――そこには制服姿の少女が立っていた。
「おそいよ、かーくん!」
そしてドアの向こうから飛びついてくるゴールデン・レトリーバー。鼻を鳴らしながら頻りに跳ね回り、その大きな体を薫に押し付けてくる。年老いて体も弱っているというのに、遠慮なんて存在しない。
「こ、こら、サン! あぶないって、うわっ!」
尻餅をついて苦痛に呻くその顔を、サンこと『サンテックス』は我知らずと舐めるのだった。
少女の楽しげな笑い声が空に響く。
「うわー、かーくんへぼっちいのー」
「いや、むりでしょ。立ってらんないって」
「ふーん……。じゃあ私も跳びかかっていい?」
「いいわけないだろ! てかじゃあってなんだよ、じゃあって!」
「えへへー」
「そもそもサンより重いだろおまえ」
「そそそんなことないよー! ねーサンー?」
思わず、ため息。そこで耳をなめられて、薫は悲鳴を上げた。それにまた少女が笑う。
仕方がないなあと、少女がサンテックスを呼んだ。
「ほらサンテックス、おいでー。そのお兄ちゃんノリ悪いからつまんないよー」
するとサンテックスは素直に少女の方に駆け寄っていった。解放されたわけだが、薫は不思議と振られたような気分だった。
悪戯に、少女が笑みを薫に向ける。まったく、と薫も苦笑する。
少女は名前を『倉野美緒(くらのみお)』と言った。まだ幼さゆえの固さが残る、野桜の蕾のような少女だ。まあるい瞳と笑う度大きく開く口が印象的で、それは見るものを朗らかな気持ちにさせる。髪はショートカットとしても短いほどで、むき出しの額と耳が仄かに赤い。春の夕暮れは微かに冷たかった。
ふたりはいわゆる幼馴染だ。誰よりも互いのことを知っている。たくさんの秘密と、忘れがたい記憶を共有していた。それはまるで双子星のようだった。
「薫」
不意に縁側の方から声がして、目を向けるとそこには笑顔の親友の姿があった。
薫が手を上げ、彼も手を上げる。それはあまりにも完成された笑みだ。どこにも隙がない。優しさに満ち溢れた表情で、いつものように彼はそこに立っていた。
名前は『桜井由宇(さくらいゆう)』。襟付きの白い七分袖に、深い緑のズボン姿。胸元には夕闇に沈む深い青のペンダントを身につけている。髪は短髪の直毛で、そのすっきりとした目鼻立ちは絵に描いたような美少年と言っても差し支えない。
年齢は薫と美緒と同じ一五歳で、同じ高校に通っている。冷静な視点を持ちながら時には正義感に熱い姿も見せ、虐めをする者や社会のルールを守れない者は許さなかった。学業だけでなくスポーツにも長けており、誰の目にも明らかな優等生だ。
薫と美緒が由宇に出会ったのは中等部一年の話で、付き合いは三年になる。もうお互い気は知れていた。
「遅かったね」
「悪い、生徒会の用事で」
「大丈夫だよ。むしろグッドタイミング。もうすぐ準備が終わるとこ。さあ、上がってよ。サンテックスもおいで」
由宇の声は決して大きくはなかったが、よく通った。春の夕空にさっと染み込む、とても澄んだ声だ。
「お邪魔します」
薫は美緒に続いて、裏口から桜井家に入った。『サン=テグジュペリ』という小料理店を内に孕んでいるだけあって、大きな家だ。しかし大黒柱たる父親はいない。桜井家は、母親を中心にして回っている。
「ああ薫ちゃんいらっしゃい」
手を洗ったのち、畳敷きの居間に入ると、そこには由宇の母親がいた。薫はかしこまって挨拶をする。
「こんばんは、おかみさん。遅くなってしまい申し訳ありません」
「なーにかしこまってるの。遅くなんてなってないわよー。それよりほら、座って座って」
由宇の母親は皆からおかみさんと呼ばれている。割烹着に頭巾という昭和のお母さん姿の彼女は、その温和そうな笑みがよく似合う。
「早速だけど今日の料理は……」
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