誰かのクローンの恋人
朝霧
妥協
「お前の主と私が猛毒に侵されていて、お前が解毒剤を1つだけ持っていたとする。さあ、どちらに解毒剤を飲ませない? どちらを見殺しにする?」
棚の二番目に高いところに置かれたゲーム機に向かってぴょんぴょん跳ねながら彼女は自分の恋人にそう問うた。
小柄な彼女では棚の二番上までぎりぎり手が届かない。
台になるものを探せばいいのに、彼女はそれを面倒がって無様に跳ねていた。
「…………お前」
ぴょんぴょん跳ねる彼女の背を不機嫌そうに見つめながら問いかけをされた彼は答える。
その回答に女は跳ねるのをやめて彼の方を振り返った。
「そう」
そしてそれだけ答えて棚に向き合う。
そして呼吸を整え、右手を伸ばし勢いよく跳んだ。
「……っしゃ!!」
跳躍した彼女の右手がゲーム機を掴む。
が、彼女は中空でバランスを崩す。
「っ!?」
バランスを崩した彼女はゲーム機をを両手で胸元に抱えて、そのまま仰向けに転倒した。
その様子を彼は半眼で眺め、深々と溜息を吐いてから立ち上がった。
「……この、ドジ」
「……ああ、びっくりした。でも取れたし死守」
抱えていたゲーム機を掲げて彼女はニンマリと笑う。
彼はそんな彼女の手からゲーム機をひょいと奪い取って、棚の一番上に置いた。
「あ゛――!! 何すんじゃてめ――!!」
「やりすぎだ、昼間もやってただろ」
「まだ1時間しかやってない!!」
「1時間"も"だろう」
彼女は仰向けになったまま彼の顔をぎとりと睨む。
そして、数秒何かを考えた後、小さいがよく響く声でこう言った。
「……と、いうわけで、私、お前と別れようと思う」
よっこいせ、と起き上がろうとする彼女の胸に彼の右足が乗せられた。
それによって起き上がれなくなった彼女は仰向けのまま彼を睨みあげた。
「胸を踏むな」
「なにが、とりあえず? お前、ゲーム取られたくらいで別れ話を切り出してきてるわけ? それとも何? 今更僕がアレの偽物であるから嫌気がさしたとか、そういう?」
虫けらでも見下ろすような目で自分の胸を踏みつける彼の顔を見て、彼女は小さく溜息をついた。
「だってお前にとって私は2番目以下だ。どうせ恋人にするなら、一番大事にしてくれるひとがいい。真っ当に愛してくれるひとがいい」
「ふーん。おかしいな……廃人になるくらい溺愛してるつもりだったけど、まだ足りない?」
首をかしげる彼に彼女は溜息をつく。
「溺愛されてるのは知ってる。でも一番じゃない。一番がいい」
「こだわるねぇ……そんなに一番がいいの?」
「うん」
「こんなに愛してあげてるのに?」
「うん」
「……贅沢ものだね、君は。これ以上ないくらい愛しているつもりだったんだけど……これ以上を望むのか。……なら思い知らさせてあげる。心にも身体にも魂にもしっかりと教え込んで、」
彼の言葉を彼女は首を横に振って遮った。
「いやいい、と言うかやめてくれ…………別にお前よりも私を愛してくれる人がいいわけじゃない。そんなのは二の次。私が重要視してるのは、愛情の量じゃなくて質。一番か、そうでないか、それだけ。逆に一番に想っていてくれるなら、愛情が薄くても構わない。可愛がってもらわなくていい、大事にされなくてもいい……その人にとって一番重要な存在でいられるのなら、それでいい」
だけど私はお前にとっては2番目以下の存在だ。
彼女は皮肉げに、少しだけ泣きそうな顔でそう嗤った。
「理想を言うと、私を一番大事に想ってくれて、私を大事にしてくれて、私の意思をある程度尊重してくれて、基本的に謙虚で強引じゃなくて、束縛ゆるくて、ゲームは1時間とか肉だけじゃなく野菜も食えとか菓子を食いすぎるなとか早く寝ろとか早く起きろとか掃除しろとか日中ダラダラするなとか、そういう口煩い母親のような事を言わない人がいい」
彼は半眼で彼女を見下ろした。
彼女は再び溜息をついた。
「……ふぅん」
「というかなんでお前こんなに口うるさいんだ?」
「君には僕より長生きしてもらわないと困る」
「……お前のそういうところ本当にいや。私に1人で死ねってことだろ、それ」
「うんまあそうなるね」
「お前ってほんとなあ……だからできることならさっきあげたみたいな理想の恋人に乗り換えたい」
やれやれと肩をすくめる彼女の顔を彼は一瞬凄まじい顔で見下ろしたが、彼女は気付かないふりをした。
「ま、贅沢だってわかってるし、私にとってそんな都合のいい人間見つかりっこないし。だから私は、誰も好きにならないことにした」
名案だろうとでも言いたそうな顔で笑う彼女の胸を彼は軽く踏み潰した。
「……いい加減、その足どけてくれないだろうか? というかなんで踏んでるの」
「踏み甲斐があるからね。やわい」
ふにふに、と彼は彼女の胸を揉むように踏みつける。
「とりあえず最低、とだけ返しておこう。というわけで、別れほしい」
「うん? なんだって?」
「いやだから、別れ……」
そこまで言った彼女の胸に重圧が掛かる。
にこり、と彼が彼女を見下ろす。
ただし目は笑っておらず『もう一度言えるものなら言ってみろ』というような目付きだった。
「わかれ……わか……うっがー!! お前ほんと嫌い!!」
どんどんと重くなる胸の重圧に彼女は堪らずそう叫んだ。
「…………へえ?」
彼女を見下ろす彼の顔から笑みが完全に消える。
その顔を見た彼女はやってしまったといった表情で顔色を悪くさせた。
が、すぐに眉根を寄せて眦を吊り上げて強気な姿勢をとった。
「だ、だってフェアじゃない……お前にとってはどうでもいいことだろうけど、私には重要なことだし……それに」
「……それに?」
「私には親がいない、兄弟もいない、親戚もいない、友達もいない。大事な人なんて誰もいない。そんな私に恋人なんて存在ができればそいつは私にとって自動的に一番の存在になる。私にとっての一番が、そいつにとっての一番じゃないとか…………ほんと、虚しくなるんだわ……」
ははは、と彼女は自分の目元に右腕を置いて顔を隠す。
彼は無言で彼女を見下ろしていた。
「私にとっての二番目が私の事を二番目に想ってくれなくてもいい、私にとっての三番目が私の事を三番目に想ってくれなくてもいい、そこまで厳密じゃなくていい……だけど、一番目くらいはそうであってほしい……なあ、そんなに贅沢か? そのくらいは妥協しろって思ってるんだろうな、お前は。……だってお前、はじめから誰かの一番になることを諦めてた奴だからな……偽物、だから」
偽物。
彼女がはじめて彼と出会った時、彼は自分がどうしようもなく自分が誰かの偽物であるという事実に絶望していた。
だから彼女は、ほんの戯れでこう問いかけたのだ。
偽物として生きたいのか。
本物に成り代わりたいのか。
別の存在として生きたいのか。
彼は何も答えられなかったし、彼女もその問いかけを投げかけただけだった。
それでも、彼はそれによって自分の望みにつながる、回答を見つけるための問いを手に入れた。
その時点では彼は何も答えられなかった。
そんな彼に彼女は笑ってこう言ったのだ。
いつか、自分の意思で答えが見つかればいいな、と。
その答えはきっと偽物なんかではない、お前だけの意思になるのだろう、と。
そして、それからしばらくして彼はその答えを見つけた。
だから彼は今ここにいる。
「もう無理だ。ごめんもうほんと無理……お前とこの先まだ付き合っていこうっていうのなら、私がお前よりも大事なものを見つけるしかない。互いに一番同士でなくなれば、多分付き合っていける……けどそれは不謹慎極まりない、人道に反してる」
「……ああ。それはやめておいた方がいい。もしそんな存在作ってみろ、相手は拷問にかけて無残に殺すし、君にもそれ相応の事をする。だからそれはやめておけ。僕は君のことを愛しているし大好きだから……手足を引きちぎるとか薬漬けにするとか、そういう物騒なことは極力したくないんだ」
「いやおまえこわすぎだろ……え……? こわっ!?」
「そんなにビビるなよ。そんなこと、百も承知だと思ってたんだけど。僕は自分のためなら基本的になんだってするよ?」
「いや知ってたけど……えええ……でも怖……」
「そう? これでもまだまともな扱いを言ったつもりだったのだけど……」
「……こわいこわいこわい。お前そんなんだったっけ? いや最初から物騒な奴ではあったけど……なんでそうなった?」
「8割は君のせいだと思う。君のせいでこうなった」
「嘘吐けそんな物騒なこと教えてない」
「うん。君から教わったわけじゃあないよ。でも……君のことを愛していなかったら、ここまで物騒な考え方はしなかったと思う」
「……そこまで愛してるくせに、一番ではないんだな?」
「一番に愛しているのは君だよ。一番優先しなきゃならないのは主だけど」
彼がそう言うと、彼女は怯えた顔から一転してふくれっ面になった。
そして、未だに自分の胸を踏み潰している彼の足を左手で掴んで、思い切り爪を立てた。
「……痛いんだけど」
「痛くしてるからな……なんで、私を見殺しにするとか言った? そこは嘘でも、私を助けるって言う場面だっただろう?」
「……そう答えても、君はそれが嘘だってわかるだろう?」
「……とーぜん。でも嘘でもそう言ってくれたら多分私は嬉しかったよ」
「……それでも見殺しにするならやっぱりお前だよ。お前を見殺しにして僕も死ぬ。お前がさっき言った条件なら、僕が選べる選択肢はそれだけだ」
「……ふぅん。私が死んだらお前も死んでくれるんだ」
彼女のふくれっ面に少しだけ喜色が混じった。
「うん。君がいなくなったら僕は生きていけないからね……それじゃあ、だめ?」
「……うん」
それでも彼女はまだ納得ができないのか、暗い声でそう答えた。
「……君は強欲だなあ」
「百も承知だ。自分でも自分の性分が面倒なものであることくらい理解している。強欲なのも贅沢であることも知っている。わかってはいるけど……これだけ愛されてもこれだけ大事にされてもこれだけ求められても、まだ足りない。正直自分でも呆れてる」
彼女は溜息をついて、それきり黙り込んでしまった。
爪を立てていた彼の足からも手を離し、床に投げ出した。
そのまましばらく互いに無言だった。
不意に彼女の胸が軽くなった。
彼女が自らの顔を隠していた右腕をどかして見上げると、すでにそこには彼の姿はなかった。
逃げたか、そう思った彼女の身体が何者かに抱きしめられた。
どうも音もなく床に寝転んだ彼が彼女の身体を思い切り抱きしめているらしい。
「ちょっ……」
痛いので離れてほしいと彼女は暴れるが、ほとんど無駄な抵抗だった。
「ごめんね」
掠れた謝罪が一度だけ聞こえてきたが、彼はそれきり何も言わずに縋り付くように彼女を抱きしめるだけだった。
彼女はしばらくもがいていたが、それが無駄な抵抗であると悟った。
だから、もう一度溜息をついて小さく呟いた。
「もういいよ。悪かった……もうしばらくだけ妥協しておく。もうちょっとだけ我慢する」
「…………」
「けど、本当にどうしようもなくなったら……どうしようもないって思ったら、多分死ぬから。それだけ覚悟しといてくれれば、もういいよ」
彼女の言葉に彼は何も答えず、ただ彼女の身体をより強く抱きしめただけだった。
誰かのクローンの恋人 朝霧 @asagiri
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