第7章 零に至る黄の霊域(蓬莱)

     1


 赤火あかほちゃんと一緒に動物園に行った。ヒョウの前でベンチに座る。

 秋晴れの日曜日。

 暑いことは暑いが、外に居てもそれほど不快ではなかった。

「お手紙読んでくれた?」赤火ちゃんが言う。「あれね、わたしが手伝ったの。アダムくん、まだじょうずに書けないからってゆってて」

「へえ、道理で」満足に字も教えていなかったのにおかしいと思ったが。「でもいつの間に? 全然知らなかった」

「ひみつー」赤火ちゃんがいたずらっぽく笑う。

 こっそり連絡先を交換していたのだろうか。だとしたら、手の早いことだ。ママパパは将来が心配だよ。

 ヒョウは真っ白だった。

 どことなくビャクローを思わせた。あいつも髪から何まで真っ白だった。

「もう会えないのは悲しいね」赤火ちゃんが言う。「せっかく仲良くなれたのに」

「うん」

「三代目さんも行っちゃったんでしょ? みんないなくなっちゃったね」

「そうだね」

 祝多出張サービスの雑居ビルは取り壊しが決まった。土地ごと買い手がついたようだった。

 三代目の遺体は運び出すのに難儀しそうな分解ぶりだったが、ちゃんとお墓を作ってあげたとは思えない。遺体ごとビルを葬る気なのだろうか。

「トールさんはいなくならないよね?」赤火ちゃんが言う。泣きそうな顔だった。

「そうならないように努力するよ」

「いなくならないでね? トールさんまでいなくなったら、わたし」

 ヒョウが背を向ける。

「ねえ、赤火ちゃん。これは提案なんだけど。知り合いの医者が、君みたいな家庭環境に馴染めない子を支援しててね。全寮制だから窮屈かもしれないけど、家にいるよりはマシかもよ」

「トールさんも?」

「いや、そこね、女の子しか入れないからさ。断ったよ」

「うーん」赤火ちゃんが唸る。

「すぐに決めなくていいよ。親にも聞かなくていいし」

「え、シンケンとか大丈夫?」

「よく知ってるね」笑ってしまった。「そこらへんは気にしなくていいよ。赤火ちゃんがどうしたいかだけ聞かせてくれれば」

「時間かかってもいい?」

「いいよ。ゆっくり考えて。決まったら教えてくれれば」

「うん」赤火ちゃんが大きくうなずく。

 妖怪露出狂にもらったパンフレットを赤火ちゃんに渡した。家に帰ったら見るとのこと。

 迷うというより、親の顔色をうかがっているパターンか。生きにくいだろうなぁ。

「トールさんは、わたしみたいなのでも幸せになれると思う?」

「俺もガキの頃そう思ってたよ。でも」

「あー、わかったー!」赤火ちゃんが声を上げる。「ダンナさんだー!!」

 ヒョウがこっち向いた。声に反応したのだろうか。たまたまだろうか。

「厳密には旦那じゃないんだけどね」

「でも一緒に住んでるんでしょ? ドーセイじゃん」

 通知音。俺のじゃないから赤火ちゃんのだ。

「え、うそ」確認した赤火ちゃんの顔が凍る。

「どうしたの?」

「トールさん、どうしよう」

 赤火ちゃんの母親からの連絡。

 離婚したから家に帰ってこい。

「一緒に来てくれますか?」



     2


 ママパパとパパへ

 長いあいだぼくのめんどうをみてくれてありがとうございました

 本当のママがぼくをむかえに来てくれるそうです

 たぶんぼくはきゅうくつな思いをすると思います

 ぼくの本当のパパはもういないのでしょう

 ママが教えてくれました

 なのでしっていました

 どうしてママはぼくをおいていったのか

 ずっと考えていました

 ママに聞いても教えてくれないでしょうから

 ぼくがいらない子なんだとしたらママはうまなかったでしょう

 でもママはぼくをおいてどこかに行ってしまった

 ということはママはぼくがいらないわけじゃないけどそばにいたらじゃまになるからおいていった

 そう考えました

 ぼくはママがむかえに来てくれるとは思っていませんでした

 もしママがぼくをむかえに来なかったらママパパたちの子としてずっといっしょにいられたでしょうか

 ママパパもパパもいい人です

 それはわかってます

 でもぼくはママにあいたかった

 ママがぼくをきらっていたとしてもやっぱりママといっしょがよかった

 ママがむかえに来てくれる

 うれしいです

 なのでこの手紙を読んでもなかないでください

 ぼくは育ててもらったおれいとして書いただけです

 ママパパはぼくの本当のパパをしってるんでしょう

 ぼくの本当のパパはどんな人でしたか

 ママがすきになるくらいすごくかっこいい人でしたか

 ぼくににていましたか

 おへんじはけっこうです

 それではさようなら

 もしまた会うことがあればそのときはいっしょにどうぶつえんにつれていってください

 

 ついしん

 パパへ

 ママパパがなきやむまでそばにいてあげてください




     3


 離婚と帰宅要請の因果関係が不明だが、赤火ちゃんが家に帰っていないことがわかった。

「もうあんなことしてないから。それは信じて」

「もちろん」

 駅からそこそこ近い賃貸マンションの5階。ファミリィ向け物件だろうか。エレベータで入れ違いになった中高年に赤火ちゃんが挨拶をしていた。

 て、来てから気づいたけど、俺完全に部外者じゃん。

「え、ちょ、え、だれ?」地味だけど神経質そうな印象の男子が真っ先に反応する。

 早速二度見された。

 彼を含め、リビングに3人いた。

「おかえり、赤火。ただいまの前に聞いときたいんだけど」チャラいけど利発そうな男子が言う。「そのやたら美人なお姉さまはどなた?」

「関係ない奴は出てってもらいたいが」童顔だけど芯の強そうな男子が言う。「赤火。新しい寄生先か」

 喋った順で年齢が低そうだった。赤火ちゃんが小声で、ぜんぶクソ兄と教えてくれる。

 てっきりクソ兄は一人だと思っていたが。まさか4人きょうだいだったとは。

 あんまり似てない。のは、親のどっちかが違うとか連れ子とかそうゆう事情が濃厚だろう。

「あいつ、またやりやがった」長男らしき男子が吐き捨てる。「赤火。ババアから連絡いったか」

「うん。お母さんは?」

「ババアのアバズレ癖は死んでも治んねえよ。ババアんとこついてきたきゃ、止めねえがな」

「そうじゃないよ。お母さん、いま」

「だから、新しい男んとこだっつうの。察しろ、馬鹿」

 母親から連絡があって自宅に戻ったのに、肝心の母親がいないのはこれいかに。赤火ちゃんが言いたかったのはそういうことだろうけど。

 説明が口応えだと見なされる環境下では、沈黙が一番賢い振る舞いだ。

 赤火ちゃんはこうやって育ったんだろう。

「つうわけだから、その美人さんのとこでも、どこへでも行きゃいい。ああ、そもそもここにゃ戻ってきてねえな。とっとと消えな」

「お兄ちゃんたちは?」これからどうするのか。赤火ちゃんが言う。

「どうするもこうするも、俺らはなんも。クソババアが死のうが別の男作ろうが変わんねえよ。カスの生き血すすっても生きてくしかねえだろうが」

「ところで赤火。どうしたの?久しぶりじゃん」二男らしき男子が赤火ちゃんに尋ねる。努めて明るく接してくれているのがわかった。

「あ、うん」赤火ちゃんの眼はちらちらと長男の様子を伺っている。

「勝手にしろ。バイト行ってくる」長男は荒々しくドアを開け閉めして出て行ってしまった。

「機嫌わっる」三男らしき男子がぽそりと呟く。

「赤火。わかってると思うけど、クロ兄ああ見えて一番傷ついてるからね」二男が優しげな口調で言う。「なんたって、俺らの数だけおんなじことされてるわけだからさ」

「俺らの数プラス1じゃん」三男が口を挟む。「よくそんなバッテン付けて表歩けるよね。化粧でツラの皮辞書みたいになってんじゃん?」

「アオくん、一応お客さんの前だからね?」二男ががっくりと肩を落とす。「すみません、お見苦しいところを。赤火がお世話になってます?でいいのかな? 俺は赤火の兄の、て見ればわかるか。白光しろひです。白い光って書きます。さっき出てっちゃったのが上の黒土くろど。んで、こっちが下の」

「なんで自己紹介要んの? どこのだれかもわかんないのに?」三男が嫌そうな顔をする。

「まあそれも一理あるか。すみませんが、お名前をいただけますか?」

「いえ、こっちこそ勝手に上がり込んでごめんなさい。私は」女装だからそっち仕様で名乗っておくか。「胡子栗茫えびすりトールです。驚かせるつもりはないけど、ケーサツ官です」

 白光くんのさわやか優しげオーラが、一瞬にして硬質で鋭利な盾に変わった。

「へえ、赤火。随分ご無沙汰と思ったら、俺らを売ってたわけか」三男が嗤う。

「ちがう。トールさんは、わたしを助けてくれたの! お兄ちゃんたちのこともきっと」

「助けてくれるって?俺らを? じょーだん、きっつー」三男が息を漏らす。「俺らがこんなになるまで、いんや、こんなになってもなんもしてくれないクソの残りカスみたいな大人が。いったい何をどうして助けてくれるって? そんなのお前が一番よくわかってんじゃないの?赤火」

「それは」赤火ちゃんが黙った。というより言葉に詰まった。

 基本的に弁舌でも立場でも兄たちには勝てない。それを熟知しているから無駄に争わない。

「アオくん。ちょっと部屋行っててくれる?」白光くんがトーン抑えめで言う。

「は? シロ兄、まともに話し合おうって? この期に及んで」

「アオくん。二度は云いたくない」

「わーったわっかりました。はーあ、俺も早くクロ兄みたいに自分の食う分くらいはなんとかできるようになりてーな」三男が捨て台詞を残しながらドアの向こうに消えた。

 立場上は長男が最高権力者だが、長男を立てつつ陰で実権を握っているのは紛れもなく二男だ。三男も彼に敵わないことは頭と身体の両方で理解している。

「赤火。おかえり」白光くんが赤火ちゃんに微笑みかける。

「ただいま」赤火ちゃんは白光くんを見ない。視線を合わせようとしない。「わたし、謝んないけど、心配かけてごめんなさい。あと、トールさんは悪くないの。悪いのは」

「わかってるよ。大方、赤火がなんかやらかしてそれでお世話になったんでしょ。見ればわかるよ」

「あ、うん。そう、です」

 です?

 親子ぐらい年が離れてる俺にタメ語なのに、二男には敬語?

「番犬まがいのお付きがいるのが気になるけど、戻ってきたってことは、やっと俺と話する気になったってことかな?」

「シロお兄ちゃん、もう、やめよう? こんなこと続けてたってお兄ちゃんがすり減るだけだよ?」

「俺の返答如何ではこのまま御用? へえ、頭が回るようになったね」白光くんが含みのある笑みを浮かべてソファの背もたれに背中を預ける。「言っとくけど、そのクソみたいな汚いカネでお前ら生きてるんだけど?まさか忘れちゃったりしてないよね?」

「これからは一人で生きてくもん!」

「どうやって? 俺とおんなじ方法で?」白光くんが莫迦にしたように嗤う。「やり方は教えたから心配ないか。でも手取りの何割かは、こっちに入れてもらえるんだよね? お前いくら俺に借りてんのかわかってる? ちゃんと付けてんだけど」

「ねえ、もうやめよう? クロお兄ちゃんみたいにちゃんと働いて」

「は? あのクロ兄がちゃんとしたとこで働いてると思ってんの? アオくんも変なゲンソーモーソー抱いてるみたいだから教えとくけどさ、俺と大差ないよ? そうじゃなきゃ、学もない伝手もないなんもないガキが、一家食わせるとか無理だって」

「うそ。クロお兄ちゃんまで」赤火ちゃんが半歩後ずさる。

「嘘なもんか。アオくんも受験終わったら手伝ってもらう予定だし、そしたらもうちょい楽になるかな。俺が一晩で相手する人数的にね」

 なるほど。輪湖ワコ家の事情がわかったような気がした。

 俺が来たのは僥倖だったか、余計なお節介だったか。

 赤火ちゃんの最初の“客”とやらは、彼だろう。もしくは彼が手引きした客か。

 二男が権力を握っているのは、一番の稼ぎ頭つまり“大黒柱”だからだ。

「赤火、生理きた? まだ?」白光くんが現在の空模様を聞くテンションで尋ねる。ケータイをいじくりながら。「来ないうちにもうちょい稼いどいてもらいたいんだけど」

「ええと、白光くん?」聞いてらんないよ、もう。「ゲンエキのケーサツ官が聞いてるっての忘れてない?」

「俺ら全員“まともな”施設にぶち込んで終わり? ケーサツのお姉さまさ、赤火が“まともに”働くのやめさせないでくれません?俺をまともに高校通わせたいんなら。一応分担してるんですよ、これでも。まあ、俺の負担が一番多いけど、俺の外観が一番稼げるからそこは適材適所ってことで」

「母親は?」

「だから、男とヤりまくって俺ら産み捨てて、胎が空っぽになったらまた男にザーメン注いでもらうんしょ? 反吐が出る。育てる気ないんなら最初っから堕ろしとけっての」

「君は“まともに”稼げるなら、いまの職場とおさらばしたい? それとも稼いでるうちに目覚めちゃった?」

「あれが快感だってんなら、世界中の便器がよがり狂ってるよ」白光くんが言う。「美しいお姉さまにはわかんないかもしれないけど、他に選択肢がなかった。便器も腹が減るんすよ、悲しいことにね」

「うーんとね、そういう話をしてるんじゃなくてね」だいぶ根が深いな、こりゃ。「母親は、君らを完全に捨てたってこと? もう二度と帰ってこないの?」

「さあ、あの汚ねえ穴に聞いてくださいよ。俺らとしては二度と会わないに越したことはないけど」

「わたしは、みんなで一緒に暮らしたい、です」赤火ちゃんが言う。

「赤火。頼むからお兄ちゃんの細っそい神経切らないでくれる?」白光くんが低い声で赤火ちゃんを睨めつける。「あのアバズレ穴女がどんだけ俺らを苦しめて来たか。5回も男乗り換えやがって、ド田舎行く電車じゃねーんだっつの!!」

「6回目じゃん」三男がドアを開けて入って来る。どうやら立ち聞きしていたらしい。「ぶっちゃけ回数はどーでもいいよ。だってこれからも記録更新すんじゃん。シロ兄、一人だけ汚れ仕事引き受けてますーみたいな高尚なこと言ってっけどさ、ホントに他に方法なかったわけ?」

「あ? アオくん、よく聞こえなかったんだけど俺」

「俺はフツーのバイトがいい。シロ兄がやってるのは、ちょっとムリっつーか」

「はあ??? アオくん、俺の神経細いっていっつも」

「はいはい、落ち着いて落ち着いて。君たち論点が噛み合ってないからね?」

 互いに視線が交わらないように、二男と三男をソファに座らせて、赤火ちゃんの隣に俺が座った。

 母親の養育放棄。不遇な四兄妹。不在の父親。

「あ、わたしお茶いれてくる」赤火ちゃんがキッチンに走って行った。

 うまい。俺が赤火ちゃんの立場ならそうする。

 厄介二人を押しつけられた。

「お姉さま、別に俺らをどうこうしようと思って来たわけじゃないんですよね?」白光くんが言う。「赤火が無理矢理引っ張ってきただけで。敵意がないことを示すために、わざわざ身分も明かしてくれたし」

 激昂しなければ抜群に察しがいい。お陰でいままで生き延びてこれたんだろう。

 一番早死にしそうなタイプだ。

「さっき言い忘れたんすけど」三男がおずおずと言う。「俺は、青水あおみです。青い水て書きます」

「みんな色が入ってるんだね」

 黒、白、青、赤。

「あ、はい」青水くんが視線を逸らした。

「もう一人いたんですよ」白光くんが言う。

「シロ兄」

「いいよ別にホントのことだし、お姉さま悪い人じゃなさそうだし」

「悪い人とかそんなの」

「見た目じゃわかんないって? じゃあ悪い人じゃないからってアオくんが最後まで庇ってたゲス野郎が俺らの口座丸パクリしたアレは俺の記憶違い?」

「それとこれとは」

「人を見る眼に関しては、俺を信用してよ。俺が間違ったこと、いままであった?」

 俺は、白光くんのお眼鏡に適ったてことか?

 第一関門突破かな。

「お姉さまからは、なんといいますか、俺らをサクシュしてやろうってオーラがないんですよ」白光くんが言う。「俺らみたいな可哀相なガキを見る大人からは、たいていそういうドス黒いオーラが滲み出てる。この可哀相なクソガキから何をむしり取ってやろうか、どうやってこれ以上の絶望の断崖を探して突き落としてやろうかってね。お姉さまはそうじゃない。こんなにフツーに喋れる大人なんか初めてだ」

「褒めてもらってるところごめんだけど、君たちが、失礼、君とそのお兄さんと、いまはしてない赤火ちゃんがやってることは、こっちの立場がどうとかじゃなくって、こっちの心情的に絶対に見過ごせないんだ。これは信用してもらうために明かす手管だけど、俺も昔、その辺で立ってたことあるから」

「生活の為に?」白光くんが聞く。「じゃなさそうですね」

「うん、残念ながら。一人っ子だったし、父親はケーサツのそれこそ偉いほうにいたから、そこそこお金持ちだったよ。お小遣いいっぱいもらってた」

「必要ないじゃん」青水くんが言う。

「そう、必要なかった。そうなんだよ。なんで立ちんぼしてたんだろうね。いま思うと、ちょっと当時の自分にツッコミ入れたくなる」

「何かを探してたんじゃないですか?」白光くんが言う。「んで、それが見つかったから立つのをやめた」

「かもね。てか、見て来たみたいに言うんだね。フラングエイジヤて聞いたことない? それ創ったの俺だよ」

「マジすか?」青水くんが反応した。「え、マジ? マジで、ウソ言ってたら怒りますよ」

「なに?」白光くんは知らないようだった。

「シロ兄はいいよ。たぶん関係ないし」青水くんの俺に対する眼差しが変わった。「え、じゃあトールて、あのトヲルさん? え、男だと思ってた」

「男だよ」

「はい?」白光くんが年相応の声を出した。「え、いま、なんて? 一人称が俺って珍しいなぁとは思ってたんですけど、え???」

「トールさんすっごい美人でしょう?でも女装なの」赤火ちゃんがお茶をテーブルに置いた。「て、あ、言ってもよかった?」

「美人てとこに免じて許すよ。お茶いただくね」

 紅茶とクッキー。元手が長男か二男が身体で稼いだ金だと思うとやってられないが、美味しくいただくことにする。そのために用意されたお茶と菓子だ。

「え、あの、仕事上ですか?それともご趣味で?」白光くんが遠慮がちに聞く。

「失礼だなぁ、そこまでヘンタイじゃないよ。ガキに警戒させないためと、大人を油断させるためだね。うまくいってるでしょ?」

「あ、あの、俺、メンバなんすよ。あとでサインとかもらえたら」青水くんが興奮した様子で言う。

「いいけど、そんなに担ぎあげられちゃうとむずかゆいなぁ」

 赤火ちゃんの表情が和らいだ。

 二男と三男に信用してもらうことはクリア。

 あとは長男と、母親。

 白光くんの仲介で、黒土くんに話をする場を作ってもらった。バイト終わりの彼を捉まえる。

 そうゆうホテルのどぎつい照明が眩しい。

「あ? なんすか?疲れてるんだけど」黒土くんは全身で拒絶している。

 彼の味わった苦しみが最も長く重い。

 最初に生まれたというのは、それだけで責め苦を負っている。

「お腹空いてない? どう?奢るよ」ご飯で釣る作戦。

「シロ。お前が言うから会ってやったが、俺には一切用がない。腹減ってんならお前が奢ってもらえ」

「クロ兄、俺の目利きを信じて賭けてみない?」白光くんが言う。「最初は赤火が俺らを嵌めようとしてるのかと思ったけど違ったんだ。俺は初めてこの人なら、て人に出会えた。クロ兄さえよければ」

「よかない。これでいいか」

「こっちもよくない。俺は真剣に」

「とりあえずご飯行こうよ。立ち話もなんでしょ?」二人とも未成年なので、ファミレスが妥当か。

 二人とも居酒屋に行きたそうな顔をしたが断固として首を振った。

 現役のケーサツ官になんつーことをさせようとするんだ。

「なんでも好きな物食べていいよ」向かいに隣同士で座らせた二人にメニューを渡す。

「自分で払いますんで」黒土くんが言う。

「俺は奢ってもらおーっと。ごちそーさまです」白光くんが言う。

「つうか、話って?」注文を終えて、黒土くんが言う。「食べたら俺は帰る」

「君がやってるバイト、やめることできそう?」極力言葉尻に注意した。

「どういう意味だって?」黒土くんの眉根がぴくりと上がる。

「ヤバい組織とつながったりしてない? 辞めようと思ったらすぱっと辞めてこれるのかってこと」

「クロ兄、俺ももうやめようと思ってるんだ」白光くんが言う。

「あ? やめてどうすんだよ。カネは?」黒土くんが言う。「どうやって食ってくんだよ。いまだって充分厳しいだろうが」

「それは、その」白光くんが言い淀む。

 さすがの白光くんも黒土くんには委縮するか。無理もない。

 彼らの母親が母親になったときからずっと変わらずあんな調子で、黒土くんが長男なら、白光くんは黒土くんに守られていた時期があっただろう。

 裏切りととられても致し方ない。

「俺から説明するよ。自己紹介まだだったね。俺は胡子栗茫。見えないかもしれないけど、ケーサツ官です」

 黒土くんが電撃が走ったみたいに立ち上がった。

「シロ。帰んぞ」黒土くんが白光くんの腕を引っ張り起こす。

「違うんだ、クロ兄。そうじゃなくって」白光くんが引っ張り返す。

「どう違うって? ケーサツだ? んなもん、クズ中のクズじゃねえか。てめぇ、黄ィのこと、忘れたわけじゃねえだろ?」

 黄ィ?

 噂の、もう一人か。

「黄ィ兄のことは、忘れてないよ」白光くんが言う。「忘れたことなんか一日だってない。だけど、この人は、トールお姉さまは、俺らが知ってるクズじゃない。俺らを見殺しになんかしない」

「何の確信だよ」黒土くんが鼻で嗤う。「俺はな、女なんか大っ嫌いなんだ。視界に入れてるだけで虫唾が走る。あのクソババアがこの世に存在しなきゃよかったて、何遍思ったか。黄ィが止めなかったら俺がぶっ殺してた」

「ああ、黄ィ兄てのは話してたもう一人です。一番上の兄貴だったんですが」白光くんが空気を読んで注釈をくれる。

「言わんでいい。シロ、胸糞悪ィ思い出話をしにきたんじゃねえんだろ」黒土くんが言う。座り直してくれた。「ケーサツの姉さん、辞めるのは問題ねえと思う。けど、どうすんだ? こいつもまだ高二。まともにバイトするつっても高が知れてる。俺だって三流の馬鹿公立を、三年経ったから追い出された程度の学力だ。なにができる?」

「逆に聞くけど、何がしたい? 仕事ってそうやって探すんじゃないのかな」

 二人の眼がぱちくりした。

「俺はガキのころ大人なんか滅べばいいと思ってた。大人になんかなるもんか、て思って創ったのが、アオくんも入ってくれてるフラングエイジヤていうガキの集まりでね。長くなるからここら辺省くけど、たった一人、俺が莫迦やって命を無駄にしようとしてるのを救ってくれた人がいたんだよ。あ、ちなみに親じゃないよ? クソ親父は犯人に返り討ちに遭ったし、母親なんか俺がクソ親父殺したと勘違いして代わりに出頭しちゃったし。まあそこら辺もどうでもいいんだけど、とにかく、君ら四人には誰か保護してくれるまともな大人が必要だ。んで、ここからが提案なんだけど」

 お冷の氷がすっかり溶けた。

 お代わりをもらおう。今日はたくさん喋ったから。




     4


 妖怪露出狂に手土産を持って国立更生研究所へ行った。

 スタッフ用のパスをようやくもらえた。これがないといちいちエントランスで妖怪露出狂を呼び付けなければいけない。そんなお忙しい所長のお手を煩わせる必要はなくて。

 逆さ釣りの首長竜の骨格標本を横目にエレベータに乗る。3階の所長室をノックする。

「甘味料か。入っていいぞ」先生は相変わらず下着に白衣を羽織っているだけ。

「全然老いませんよね。ブラッドバスとかやってません?」

「更生不可能な性犯罪者どもの汚い返り血なんか浴びてどうするんだ? シャワー代が嵩むだけだろう?」先生が俺の手土産に気づいた。「お、この時期にはありがたい。気が利くじゃないか」

 だんだん日が短くなって、朝晩の冷え込みがきつくなってきた。

 もうすぐ冬が来る。

 研究所内はいつでも適温だが。

「どうです? お役に立ってます?」今日はそれを聞きに来た。

「なんだ、案外心配性だな。抜き打ち参観じゃないんだぞ?」先生が包みを開けてチョコを口に放り込む。「うむ、頭脳労働者にはこの甘みが必要だな」

「人の道に外れたことだけはさせないようにだけ、お願いします」

「心外だな。この最先端の研究のどこが、人の道から外れてるというんだ」先生が真面目に言う。「イブンシェルタと文葦も含めて実に包括的な支援プログラムだろう? 穴があるとすれば、天才すぎる私の後継くらいのものだが」

「ははは、先生死なないから大丈夫でしょう」コートを脱いでソファに腰掛ける。

「よく大王が了承したな」先生が向かいに座る。「お前を独り占めできなくなって嘆いている顔が眼に浮かぶぞ」

「あ、いや、それが」

「まさか無許可じゃないだろうな」

「いえ、さすがに言ってますよ。ただ、あの人忙しすぎて全然帰ってこないので」

「ふむ、不在の家に猫が何匹増えようが構うところではない、てところか。過労死だけはさせるなよ」

「わかってますよ。先生こそ健康にお気をつけて」

「なんだ、妙にしおらしいじゃないか。猫の世話に疲れたか」

「いや、みんなそれなりに自立してるんで、それはないんですけど」なんだろう。「あの人が帰ってこない以外は、別に不満はないんです。むしろ幸せっていうか。幸せってこうゆうことを言うのかな、て感じてて」

「もともと空っぽのところに幸福の素で生地を膨らませても、中身はすかすかだろうな。なるほど。久しぶりに診察が必要だな。ここでいいか。逆に診察室は緊張するだろう?」

「あ、はい」コートをソファの背もたれにかける。「突然すみません」

「元気がないのはそのせいだったか」先生が言う。「お前はアダムの穴埋めに、猫を4匹も犠牲にしている。そのことで良心が咎めている。あいた穴はな、他の物じゃ埋まらんよ。その穴が気にならんくらい、別の山を作って登れ。山は高くても低くてもいい。高ければ登るのに時間がかかるがそれなりに達成感もある。低ければ登るのが楽だし、降りてすぐに別の山を作りやすい。お前が今作りかけてる山はなんだ?」

「なんで全部お見通しなんですかね」どっと力が抜けた。

「私を誰だと思っている。お前の主治医だ」

「そうでしたね」

 あの子らが嫌いなんじゃない。アダムくんのときと同じだけど違う。

 今度は、俺の意志で選んで家族に迎え入れた。

 でも、俺が親にならなかったら救えなかった。その他に方法がないと思った。

 同じか。

 同じことを繰り返している。

「お前が元気がないのは結構だが、猫は飼い主の顔色に敏感だぞ?」先生が言う。

 いつの間にかチョコの包みが空っぽになっていた。

「お前はいい親をやってるよ。自信を持て。なにせ朱咲スザキが見込んで、朱咲が命よりだいじな後継者を預けた男だ」

 研究所の入り口は2階にある。エレベータを降りてエントランスに向かうとき、呼ばれた気がして吹き抜けの階下をのぞき込んだ。

「来てたんすか!」黒土くんが手を振ってくれる。「帰るとこすか? 気ィつけて」

 そんなに嬉しそうな顔されると。

 こっちも嬉しくなっちゃうよ。

「晩ご飯何にする? リクエストある?」とか聞いちゃったりするのだ。

「父さんが好きなものってなんすか?」

 黒土くんの云う父さんは、俺のことじゃない。

「うーん、なんだろ。そいえばよく知らないかも」

「じゃあ聞いといてください。それが食べたいす」

「忙しいから捉まるかわかんないけど。うん、わかった。ちゃんと定時で帰るんだよ」

「りょーかいす」

 車に戻って一か八か電話をした。

 出ない。

 よなあ。

 メール送ったってフツーに三日後くらいに、あの用件はとか真面目に返事してくる遅延ぶりだし。

 あーあ。

 声聞いてないの、何ヶ月だよ。

 5人でご飯を食べて、青水くんを塾に送る。

「元気ないすね」青水くんが言う。車を降りながら。

「そう?」

「日に日に元気なくなってく感じつーか。心配なんすけど」

 ううん。

 バレてーら。

「同じ職場に居ても会えないとか、きっついすね。いってきます。いつも送ってもらってありがとうございます」

 家に戻ったら、居間で白光くんが待っていた。

「おかえりなさい。ちょっと話いいですか」

「別居の危機とかじゃないよ。仕事が忙しいってだけで」

「そうじゃなくってですね」白光くんが苦笑いする。「俺らけっこうビンカンですよってこと。それと、俺らに云ってもどうしようもないかもですけど、話聞くくらいならさせてくださいってことです」

 時計の秒針と、冷蔵庫の冷やす音がした。

「トールさんは、俺らが欲しくても欲しくてもどうしようもなかったものを、魔法でも使うみたいに全部揃えてくれた。全部ですよ。本当に全部なんです。それってスゴすぎないですか?まるで魔法使いですよ。だから、俺らはそんなトールさんが落ち込んでたり、悲しい顔をしてるのが嫌なんです。悔しいんです。なんか俺らで力になれることないですかね?」

「めっちゃ心配かけてるね、俺。ごめん、そんなつもりじゃなかったんだけど」

「むしろ俺らがじたばたするほうが迷惑ですかね」白光くんが言う。「本部長って一番偉い人ですよね。クロ兄も俺もケーサツなんか虫唾走るほど嫌いですけど、少なくともトールさんたちは俺らのために頑張ってくれてるんだってのはわかります。でも、一番大切な人を悲しませてまで、その他大勢を守るのとかって、どうかと思うんですよ。あ、俺個人のキレイゴト見解なんで、深くツッコまないでくださいね」

 パトカーのサイレンが遠ざかる。

「たぶんね、放っといてももう危なっかしいことしなくなったから、四六時中気にしてる必要がなくなっただけなんだと思うよ。喜ぶべきことなんだよね、どっちかというとさ。俺は世話焼かれんの大嫌いだし、自分で好きなようにさせろってずっと思ってたから」

「父さんは」

 白光くんは、あの人をそう呼ぶ。

「トールさんの父さんじゃないですよ」

「知ってる」

 あの人は、俺の保護者じゃない。

「トールさんがさっき言ったの、ぜんぶ親の役目じゃないですか」白光くんが言う。「もし父さんがまだ、トールさんの父さん気分が抜けてないってんなら」

「どうだろう。何考えてんのかよくわからんしなぁ」

 何考えているかわかるためには、話すしかないけど、その話す時間が取れないわけで。

 まさか本部長室押し掛けるわけにいかないし。てゆうかあの部屋でふんぞり返ってるだけなら、メール見るくらいの時間はあるんだと思う。県警本部で姿を見ないのはきっと気のせいじゃなくて、たぶん、本当にいない。

 どこ、行ってるんだか。

 白光くんが身を乗り出す。テーブル越しに。

「父さんがトールさんのことをどれだけ思ってるか、重々知ってるつもりですけど」白光くんが顔を近づける。「ちょっと俺の賭けに乗ってみませんか?」

「それたぶん、君らの命がなくなる系だからやめたほうがいいよ」

 白光くんの鼻からもれた息が、俺の唇に吹きかかる。

「そこまで思ってるならどうして」

「身体の交わりも、心の交わりも、20年前にやりつくしちゃったからね。もう俺らがすることは、維持くらいしかないんだよ。嘘みたいでも家族になれたんだから、それを守ってかなくちゃ、ね」

「よけーな気回しでしたね。すみません」白光くんが顔を離す。「お風呂どーぞ?」

 湯船に浸かったタイミングで曇りガラスに人影が映る。

「残るは赤火ちゃんかな?」

「入っていい?」赤火ちゃんだった。

「いや、俺男だし」

「ママパパじゃん」

「いや、年頃の女子がアラフォーおっさんと風呂とか駄目だって。俺が許さないって」

「ママパパ、おっさんじゃないもん。美人だもん」

 ガキの駄々捏ねに見えるが断じて違う。絶対に譲ってはならない局面だ。

「話があるなら上がってからでいい? 急ぎならそこで話してくれるとありがたいかな」

「いますぐ帰ってこないとママパパと一緒にお風呂入ってやる、てさっきお父さんに送ったから」

「え、赤火ちゃんが?」

「ううん、兄2人」

「いやいや駄目だって。いますぐ取り消して。君ら命がなくなるから、いや、マジで。あの人冗談通じない世界線から来てるから」

「お、すっげ。トールさんのケータイ鳴ってるよ」白光くんの声がする。「父さんじゃん!最初からこうすればよかったね。すげー、俺天才」

「いやいやいや、君ら、ホントにやばいから。ほら、ケータイ寄越しなさい。赤火ちゃん以外で」

「俺出ていいすか?」黒土くんの声までする。「好きなもん聞いとくんで」

「いやいやいや、だからね? 一番ややこしい人が出てどうすんのさ。大人しくケータイをこっちに」

 脱衣場に赤火ちゃんがいる以上、全裸でケータイ奪還は望めない。タオルがあればいいけど、脱衣場だ。

 なんでこんなめんどくさい展開に。

「あ、もしもし」

「黒土くん!??」

「はい」黒土くん、電話出ちゃったのか。「はい、そうです。はい。ですね」

「何話してんの? やめて。ほんとガチやめて。命消えるから。消し炭みたいに消えちゃうから」

「なになに? 父さん何だって?」白光くんの声。

「赤火にも聞かせてーー」赤火ちゃんの声。

「やばい。ホントヤバいんだよ。あの人、そうゆうのガチで効くから。死んじゃうから」

「あ、はい。待ってます」黒土くんの声。「5分で帰るそうです」

「やりー」白光くんの声。

「よかったね、ママパパ」赤火ちゃんの声。

 駄目だ。終わった。

 でも、帰って来るの?

 ほんとに????

「ちょっち過保護すぎません?」白光くんが言う。

「俺もそう思う。あのさ、みんなそこどいてくれる?上がるから」

 玄関がガチャガチャいってるけど。え、ちょっと。まだ服着てないんだけど???

「ただいまー」青水くんが帰ってきた。

 やばい。

 タオルがない。

「全員いるか」うわー、ホントに帰ってきたよ。「そこに座れ。私が最初に約束したことを確認したい」

 え、ちょ、いきなり説教タイムすか。

 そんなことよりタオルはいずこへ。

「私は君たちを息子や娘として迎えるに当たって一つだけ約束したことがある。憶えている者は申し出てほしい」

 え、なにこのガチテンション。

 早くタオルを見つけて止めないと。

「いないのか? それとも黙っていれば過ぎ去るとでも思っているのか」

「いんや、憶えてますよ。トールさんに手を出すなってやつでしょ」白光くんの声。「憶えてるからこそやったってところを気づいてもらわないとですね、何のために俺らが約束を違えそうになったかっていう」

「わかっているのなら尚更だ。二度とするな」

「え、ちょ、どこ行くんですか?」白光くんの声。「まさか、たったそれだけのために」

「それだけのためだが? 君たちは早く寝なさい。明日も学校だろう。おやすみ」

 な

 に

 が

「それだけのためだよ! 俺の顔くらい見てけ!!!それでも父親か!」

「服を着なさい」

「着ますよ。でもですね、俺に云ってくことがあるでしょう?」

「服を着てくれ。風邪を引く」

 赤火ちゃんが、あ、と呟いてタオルを持ってきてくれた。さすが察しがいい。

 今更遅いが下半身を隠した。

 ぼたぼたと髪から水滴が落ちる。

「ありがとね。ちょっと席外してくれる? みんなも」

 男3人が銘々に返事をしてそれぞれの部屋に消えた。赤火ちゃんはお風呂に入ってから寝るとのこと。

 小学生はもう寝たほうがいい。

「部屋に行こうか」本部長が言う。

「服着ろってことでしょう? わかりました」

 パジャマを着て髪をタオルで拭う。

 本部長はベッドに座って待っていた。

「これでいいですか」

「久しぶりに顔を見た気がする」

「久しぶりに帰ってきてそれですか」力が抜けた。「あの子らを叱る権利は、あなたにはないですよ。叱るんなら俺にしといてください」

 隣に座った。

 本部長が俺の手の上に手をのせる。

「言い訳はしないよ。帰宅しても君を独り占めできないと考えたら、どうにも足が遠のいてしまっていた」

「意味がわかんないんですけど」

「君の素肌に触れられたんじゃないかと思って気が気じゃいられなかったんだ」

「ばっちり見られましたけどね」

「何もなかったんだな。よかった」

「一人で盛り上がって一人で納得しないで下さい。てか、いい加減その強すぎる独占欲をなんとかしてもらいたいんですけど」

「君のことととなると駄目だな。せっかく一緒に暮らせているというのに」

「そうですよ? ちゃんと帰ってきてくださいね。あと、仕事で帰れないときはちゃんと連絡を下さい。無視されてるんじゃないかって考えながら、一人で寝るの、もう、嫌ですからね」

 後方に加速度がかかった。

 後頭部が布団に沈む。

「布団が濡れるんですけど」

「乾かせばいいよ」

「あーなるほど。俺の手間が増えるわけですね」

「乾燥機を買おうか」

「すぐそうやってカネとか物で解決しようとするところが汚いですよね」

 ドアをちゃんと閉めたかどうか気になって集中できなかった。

 夜中に眼が覚めたとき、隣で暢気に寝てる顔があったので鼻をつまんでやった。

 こんなことくらいじゃ起きないか。

 寝直す前に、もうちょっとだけ。

 寝顔を見ててやろうっと。





      Hライ7


 つい先日殺したというのに、なぜか電話が鳴っている。

 非通知で掛けるのは、この世であなたくらいのもの。いいえ、あの世かしら。

「よくも殺しおって」

「そこは地獄ですかしら。閻魔様に頼んで電話を貸していただいたの?」

「今日誕生日やろ? おめでとうさん」

「本当のご用事を伺いますわ」受話器を持ち直す。餅のように貼りつくのですもの。

「ソチが殺したんは、ほんまにアチやったんかな」

「わたくしを揺さぶろうとしたところで」

 ちゃんと確認した。

 わたくしが殺したのは。

「気づいとらんの? アチは、死んどるんやで?」

 背中が。

 ざらりと冷えた。

「余計なことをしよったな」

 しくじった。というよりは浅はかだった。

 アレはただの器。

 いや、そもそも空の器しか存在しない。

 なぜこの仕組みに気づけなかった?

 呼び出しブザが鳴った。

「来よったで」

「誰ですの?」

「トロツキんとこの新人くんやな」

 なんでこんな厄介な時分に先兵を寄越すのかしら。しかし、無下にするのも印象が悪いというもの。

「どうぞ? 中でお待ち下さいな。ちょっといま手が離せませんの」

 男は、姿勢を低くしながら鼻を押さえて入室した。

 これが?

 次の殉職希望者?

「スーザ。そこの全権、任すわ。好きにやってみ」

「ですからわたくしは」

 何をしていますの?この方は。

 挙動不審にもほどがありますわ。

「どうぞ? お掛けになって」

 見るに見かねてソファを進めましたけれど。

 こちらもそれどころではなくて、ごめんなさいね。

「突然そのようなことを仰られましても」

「突然もなんも。ソチが突然アチを殺すからいかんのやで」

「ええ、自信がないわけではございませんの。そうですわ。わたくしは」

 対策課なんて、協力するつもりは毛頭なくて。

 ソファに腰掛けている男を見る。

「虫も殺さん顔して座っとるやろ?」

「ええ、はい。いらしてますわ」

「そいつが、ムダくんやで」

「はい」

 え。

 いま、

 なんと仰って?

「はい?」

 これが?

 あの?

 冴えない男を上から下まで見て。

 下から上まで見てしまいました。

 わたくしとしたことが、なんて下品なことを。

「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしくて?」

 男が口を開こうとしたところを遮る。

「わかりましたわ」

 これが。

 あの方であるのなら。

「いえ、わかりませんけれど」

 心臓が。

 びくんと跳ねた。


 自己紹介の折に、わざと、名前を読み間違えましたのに、あなたは、訂正などなさる気もなくそのまま。

 こんなことくらいでリセットして別人になどなれるわけがありませんけれど。

 もし。

 万が一、そのつもりが微かでもおありだったのでしたら、わたくしにひとこと。

 仰って下されば良かったのに。

 何も仰らないから。

 何も仰らなくなるまで気づきませんでしたわ。

「アダムラなどよし、さん?そう、それで」

 ムダさん。


     ***


 入ったことをひどく後悔する。すぐに引き返したく。なるが、

 引き返したところであとがない。

 僕にはもうこの道をゆくほか。


 僕は。

 君に好きになってもらっちゃいけない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

アダザムンライ 伏潮朱遺 @fushiwo41

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ