第6章 朱に咲くその花の名はそう(シャングリラ)

     1


 赤いワンピース。ご主人にしてはスカート丈が長かった。

 照明は必要なかった。

 それくらい眩しかった。

「ご主人」

「お別れの挨拶に来ましたの。ボーくんにはお顔を見せたくて」

 意味が結ばない。

 お別れと挨拶の間に関連性はない。

「もう会えないってことすか?」

「わたくしが生きていればその可能性はゼロではないのだけれど、もう今後一切、祝多出張サービスにも対策課にも手を貸すつもりはありませんの。ごめんなさいね」

 ご主人のごめんなさいね、は直前の文脈に対する謝罪というより、これからすることに対する満足な説明ができないことを先立って謝っているような口調だった。

 暑い。

 最高気温が何度になるかを、朝なんとなく通り過ぎて行った天気予報で思い出そうとする。

 眼前の出来事を直視する勇気がない。

 気を逸らしたい。ご主人はソファに座っている。

 膝の上に視線を集中させないためなら何でもする。

「さっきまで泣いていたのだけど」ご主人の白い手がそれを撫でる。「何か感じ取っているのでしょうね。もしかしていらっしゃるの? ふふふ、それならそうと仰ってくださいな」

 言っている意味はわかったが、間に入るのは遠慮しておきたかった。

 ここで死んだ人間がいる。

 たったそれだけのことだ。

「ボーくん、この子をお願いできますかしら?」

「頼んでるんじゃなくて、置いてくってことすよね?」

「頼めるのがボーくんしかいなかったんですもの」

「そりゃ俺に頼めば断れないすからね。冗談じゃないすよ、それ、誰の」

「わたくしの子ですわ」

「父親は?」

「あら、おわかりにならない?」ご主人はこの空間にいる俺以外に言ってるみたいだった。「一人しかいませんわよ、ふふふ」

「本当に?」

「ええ、ボーくんに嘘をつく意味がありますかしら」

「その方が俺が育てやすいからってことだったら、むしろ本当のこと言ってってほしいんすけど」

「わたくしが、わたくし以外の子を生かすかしら。しかも父親があの方であれば尚更」

 ご主人の独占欲の強さはわかっているつもりだったが、そうあっさりと言われると。

 俺にはわからない部類の感情だ。

 理解することを拒否している。

「期限付きですか? それとも俺が生きてる限りは面倒看ろってことすか」

「ボーくんはガキを見捨てられますかしらね」

 返したい言葉がない。

 なんで。

「置いていくんすか」

「やらなければいけないことがありますの。どうしても。わたくしでなければできない。そのためにはこの子が妨げになりますの」

「便利な託児所か何かだと思ってませんか? 嫌すよ、俺は。それこそ祝多に」

「みすみす人体模型の材料を増やしたくありませんの」

「跡継ぎじゃないんすか?」

「ええ」ご主人が腕の中の命を差し出す。「抱いてくださいな?」

 意味がわからない。

 必要なら連れて行けばいい。

 不要なら捨てて置けばいい。

 それだけのことじゃないのか。

「なんで俺なんすか」

「思考が停止していましてよ? ボーくんは断りませんわ。断ったらガキが死にますもの」

「選択の余地なんかないじゃないすか。そういうところが」

「卑怯でしょう? 産んでおいて、育てられないから、捨てる。ボーくんが一番憎い感情でしょうから」

 本当にご主人の子なのだろうか。

 本当にムダくんの子なのだろうか。

 そんなことは二の次だ。

 俺は、

 この命を生かせるだろうか。生かし続けられるだろうか。

「ボーくんならできますわ」ご主人が俺の思考を読んだ。「自信を持ってくださいな。わたくしは、わたくしなんかより、ボーくんのような優しい親に育てられたかったですわ」

 その重い重い命の名は、アダムといった。



     2


 小学生とは世も末だ。学校側もPTA側も認めたくはないだろう。俺だって認めたくない。

 めっちゃ帰りたい。

 10歳にもなってないじゃないか。

 グループが屯しているという噂のカフェに入る。客の顔を作るのを忘れたので、店員の顔をした見張りに訝しがられる。事情を説明しようとした矢先、髪の短い少女がカウンタの裏から顔を見せた。

 観賞用樹木みたいな細く整った脚がカフェの床を滑る。サンダルの裏に車輪が内蔵されているのだろう。そうでなければ床磨きの達人を雇っているか。

 写真通りなら、彼女がリーダ格。

「対策課の胡子栗エビスリといいます」お決まりの身分証明書を見せた。「輪湖赤火ワコあかほちゃんは、君?」

「え、ケーサツの人?」俺を検分しながら言う。「セクハラとか大丈夫?」

 スカート丈を心配してくれているらしい。これは趣味も半分、動きやすいという実益も兼ねている。

「えっと、お父さんとお母さんを呼ぶ前に、話を聞かせてほしいんだけど」極力笑顔を作って言った。

「おばさんにしてはキレイすぎ」

 お

  ば

    さ

 ん

「赤火はわたし。ほどーだったら帰って?」

 落ち着け。落ち着くんだ。俺はおばさんじゃなければ、男であって、おじさんて呼ばれたほうがまだマシなんだかけどまさかのおばさんとか呼んでくるクソガキがいるとかそういうのは。

「ねえ、聞いてる?」

「赤火ちゃん。言っちゃいけないことってのがある」落ち着け。「俺はおばさんじゃないし、おばさんていうのは血縁上の叔母っていう意味じゃなければ概ね女性に対しては非礼に当たる。俺は」

「おばさん、男?」

 ガキの直感というのは侮れない。

 この完璧な夏の装い(薄着)を見破るとは。

「じゃあ女装してるの? すごー。女にしか見えない」

「赤火ちゃん。お願いだから黙って」

 隣にいた三代目がくすくすと笑う。

「あなたは?妹? あ、眩しいなら電気消すけど」赤火ちゃんが機敏に立ち上がって点滅する照明をオフにしようとしたが。

「気が利くのは長所だけれど」三代目が遮った。「あなたがすり減ってしまうわ。ほどほどに鈍感な方が生きやすくてよ?」

 赤火ちゃんが表情を取り替えてドアに手をつける。この切り替えが彼女のカリスマ性か。

「外でなら話すけど?」

 彼女は自分の通う小学校を中心にグループを作り、いわゆる売りをやっている。どこぞの組織のようにトップが儲けを独り占めしているわけでもなければ、その資金を元手に何か不穏なことを企んでいるわけでもない。刹那的快楽主義とも違う。彼女らが求めているものがわからなければ、これは止まらない。厳重注意をしに来たのではない。

 我々、対策課は。

 彼女らのグループの解散と、二度としないように、したくないように思ってもらう。そのために出動した。

 カフェは高速道路の高架下にある。片側四車線の道路を歩道橋で渡る。

 暑い。

 三代目はいつも通り全身真っ黒で、真っ黒の日傘を差している。汗をかいている姿をついぞ見かけたことがない。背中にラジエータでも搭載されているのかもしれない。そうでなければあんな涼しい顔で炎天下のアスファルトを歩けない。

「見えないの?」赤火ちゃんが三代目のサングラスを凝視する。「生まれつき? 事故?」

「興味本位なら答えませんわ。仲良くなりたいのなら、そのうちにね」三代目は静かに微笑んで、ケータイ画面を見せる。「赤火さんが声をかけた集まりですのよね。あなたの声掛け如何で、これは止まるのかしら」

 売りのグループが所属するSNS。所属の許可がなければそもそも閲覧権限もないはずだが。

 さすが。

「あのさ、楽しいからやってるって思う?」赤火ちゃんが言う。

「どうかしら。そのあたりも聞きたいのだけれど」

「当ててみてよ。絶対にわかんないから」

「少なくとも赤火さんは、楽しいとは思っていない。ですが」三代目はケータイをバッグに入れた。「お友だちは、そうではないのでしょう? ですからあなたはリーダにならざるを得なかった。頭空っぽのお友だちには、手を引いて道案内をしてあげる必要がありますものね」

 初めて赤火ちゃんから敵意のようなものが滲み出た。警戒かもしれない。

 これでようやく、赤火ちゃんではなく、グループのリーダとして話ができそうだった。

「あなた、なに?」

「申し遅れましたわね。わたくしは、祝多出張サービス三代目店主・祭地玄宮さいちクロミヤと申します。どうぞ、ゲングウとお呼び下さいな? わたくしと親しくなりたいのでしたらね」

「しゅっちょうサービス? へえ、そうゆうお店ってこと?」

「ええ、そうゆうお店ですわ。少女のピンチに駆けつける、とてもここでは言えないような方法で以って、愚かで下劣な男根へ制裁を下す。わたくしとこのエビスリ課長さんとは、協力関係と申しましょうか。初代の頃からの強力な蜜月関係ですのよ?」

 ご主人ならここで腕でも組んでくるんだろうなと思った。

 三代目は、ご主人じゃない。からしない。外見と声は本当にそっくりだけど、中身は全然違う。

「変な人」赤火ちゃんが眉を寄せる。「三代目さんは憎くないの?」

 憎い?

 ガキの会話は飛ぶ。点と点の間を瞬時に移動する。

 三代目の口元が僅かだけ上がる。「復讐というより、正義感かしら?」

「一番最初の“客”だれだったと思う? クソ兄だよ。カネやるから静かにしてろって。ぶっ殺してやろうと思った。してないけど。あんなの殺したってうじゃうじゃわいてくる。ウジだよ。気持ち悪くてどんどん増える虫。ああゆうのからサクシュされないために、わたしはみんなに教えてあげた。だれもわかってくれなかったけど」

「赤火さんのような方のほうが少数派なのですわ」三代目が言う。「あなたのグループはこれからエスカレイトし、同じくらいの数離別する。過激派が幅を利かせて、付いていけない或いはこの不条理に嫌気が差したまともな方が、耳と眼と口に蓋をして元の汚い世界に戻る。少数派のまま発言権を持つというのは、とてもとてもエネルギィと根気が必要ですのよ。皆が赤火さんのような器ではないの」

「器じゃなくたって、少数派だって、一緒に戦ってくれればいいのに!!」赤火ちゃんが声を張り上げた。「なんでみんなわたしの言うこと本気にしてくれないの? なんで、皆このままじゃ、わたしと同じになっちゃう」

「お優しいのね。その勇気を煎じてお友だちに飲ませてあげたいけれど、無意味でしょうね。残念だけれど」

「じゃあ、どうすればいいの? わたしは、何も間違ったことしてない!!」

 蝉が鳴いている。

 じりじりと太陽光線が照りつける。

 蜃気楼の向こうに神社が見えた。

「思想はそこそこ高貴ですけれど、方法が間違っていますわ」三代目が言う。「どうしてわざわざ男根のいいなりになるのかしら? 思い知らせたいのなら、安易に脚を開かないことですわね。見返す方法ならいくらでもありますわ。そのためにまず、世の中のことを知りなさい。学校のお勉強など最低限で、自分の眼と耳で受け取った情報だけを信じなさい。まずは自分を磨くことですわ。誰が何と言おうと、自信が持てる自分におなりなさい」

 赤火ちゃんは棒立ちになったまましばらく三代目を見ていた。

 俺の首から垂れ流れる汗の量が尋常じゃないことを察してくれた三代目が、アーケードの下に入った。

 直射日光が遮られただけでこんなにもマシになる。

「三代目さん、あの」赤火ちゃんが言う。

「決意表明は結構ですわ。行動で示してくだされば結構」三代目が日傘をたたんで歩き出す。「さ、課長さま。かき氷でも食べに参りましょう?」

「え、経費で落ちます?」

「どうでしょう。納涼費の漢字をお忘れにならなければ或いは」

 一度だけ振り返ったけど赤火ちゃんは付いてこなかった。

 それから三日後、助けを求めてくれた少女からお礼の連絡が入った。対策課ではなく出張サービス宛てに。そもそもSOSは三代目が受けたものだ。

「お見事、解散てことすか?」PC画面をのぞき見する。「え、これって」

 メールは匿名だが、差出し人は内容から一目瞭然。

「ご自身でもわかってはいたのですわ。がつんと叱ってくれるお節介な大人が不在になってしまいましたものね。わたくしのところに来たSOSですから、わたくしが出しゃばっただけのことですわ」

 なるほど。少女が困れば絶対に助ける。基本理念はきちんと受け継がれている。

 これをきっかけに、赤火ちゃんは、祝多出張サービスの雑居ビルを訪ねてくるようになった。検索すればサイトはすぐに見つかる。住所も電話番号も公開している。三代目もそれとなく追い払うが、あまり功を奏していない。

「友だちになりたい子の家に来ちゃいけない?」赤火ちゃんが大真面目な顔で言うもんだから。

「友だち? わたくしと?」三代目が虚をつかれたような声を上げる始末。「学校はどうされましたの?」

「行ってますー。三代目さんこそ、カレンダー見てくださいー」

 ああ、そうか。

 夏休みじゃないか。

「三代目さんはお休みないの? 一緒に行きたいところがあるんだけど」

「お店の営業時間をご存じかしら?」三代目がサイトのトップ画面を見せる。

「営業時間外じゃないといないんでしょ? あ、ねえねえ、何歳からバイトしていい?」

 三代目が俺になんとかしろと訴える。眼球はないけど目線を感じる。

「行ってきたらどうすか? どうせ営業時間外なんすよね?」

 三代目はすごく嫌そうな顔をした。

 こうゆうところが、ご主人とは似ても似つかない。




     3


 アダム君も夏休みなのでどこかへ連れて行ってあげたいが、生憎と俺もあの人も夏休みなんかない。

 どっちかだけ有給を取るか。いや、アダムくんは俺だけじゃつまらないとか言ってたような気もするし。

 三代目と、てのはちょっと想像がつかないから。他に暇そうなのは。

 いた。

 今日も今日とて、いかがわしい雑居ビルの最上階・祝多出張サービスに入り浸る小学生。輪湖赤火。

「いいよー! てか、トールさん、子どもいたの? えー、会いたい会いたい」

 早くも失策だったか。うるさくて敵わない。三代目にもそれとなく追い出された。

「えー、むっちゃかわいい!! 男の子?」赤火ちゃんが屈んで眼を合わせる。「はじめましてー。わたしは赤火。赤い火って書くの」

「アダムです。かんじはまだわかりません」アダムくんが俺を見上げる。「このかたは、ママパパのなんですか?」

「えーっとね」説明が面倒くさい。「ただの知り合い?」

 暑いのでお出掛けは、屋内の涼しい場所にしよう。駅に着いてから検索を掛ける。

「えー、動物園がいい」赤火ちゃんが口を尖らせる。

「なんでこのクソ暑いのに動物なんか見に行かなきゃいけないんだって」

「わたし、ヒョウが見たいー」

「いたっけ?」

「いるみたいですよ」アダム君が僕のケータイをいじくる。いつの間に。「でもぼくはほかのばしょがいいです。すいぞくかんとか」

「イルカー!! イルカ見たい」

「イルカもいますね。そこでおねがいします」

 行き先決まり。

 地下鉄で移動する。赤火ちゃんとアダム君の会話をなんとなく聞き流しながら、ぼんやりしていた。

 水族館か。

 混んでるだろうな。

「おしごとでつかれているのにありがとうございます」アダム君が言う。足をぶらぶらさせながら。

「ああ、ごめん。トイレとか大丈夫?」

「がまんします」

 と言いつつもアダムくんは限界すれすれの顔をしていたので、駅に着くなり3人で全速力で走った。

 間に合った。なによりだ。

 赤火ちゃんご希望のイルカショウの時間まで、中を見て回ることにした。アダムくんのほうが年下のはずなんだけど、赤火ちゃんのほうがはしゃいでいる。

 来たことないのか? 小学校の行事とかないのか。俺は行ったことあるけど。

「つれてきてもらってありがとうございます」アダムくんが俺の隣に座った。水槽を眺めるソファ。

「ああ、うん」バレてるなぁ。「楽しい?」

「とてもきょうみぶかいですね」

「ふうん」

 赤火ちゃんが水槽に貼りついて眼を輝かせている。

「あかほさんは、こうゆうところにきたことがないそうです」アダムくんが言う。心なしか音量を抑え気味で。「かくゆうぼくもはじめてですが。あかほさんのばあいは、かていのじじょうというやつでしょう」

「別に知りたくないよ俺は。引率の先生ていう気楽な立場でいさせてよ」

「きょうのよそうさいこうきおんは、39ど。ママパパはいつもどおりおつかれで、あかほさんはどうぶつをきぼう。ぼくはそのあいだをとって、すずしいばしょでのどうぶつをえらびました」

「気を遣ってもらってどーも」

 敵わないなぁ。なにせ遺伝子が最強だもんなぁ。

 時間になったのでイルカショウの会場へ移動する。水が飛んできそうで嫌だったが、赤火ちゃんにごりごり引っ張られて仕方なく前の方に座る。混雑しているのに、妙に前方に空席が目立ったのはそういうことだろう。

「トールさん眠い? 水かけてもらって起きるとか!!」赤火ちゃんが笑う。

 こっちにもお見通しか。ガキは聡いからやりづらいなぁ。

 ああ、やばい。本当に眠くなってきた。

 夢を見た。

 絶対に会えない人に会えたから、これは夢だと思う。

 ムダくんとご主人がいつもみたいに言い合いしてて、横から口を挟む俺。一年も続かなかった。一年にも満たない懐かしい光景。

 俺だけ残ったなぁ。

 淋しいのかなぁ。

 アダムくんに揺すられて起きた。そうか。やっぱり寝てたのか。

「おはようございます」アダムくんが俺にかかった水を拭いてくれていた。「イルカというのは、ゆうこうてきないきものですね」

「水さえかけなければね」ハンカチを受け取る。「ありがとう。暑いからちょうどいいよ」

 お子様たちがお腹がすいたので、軽食を取る。席がなかったので、食べ物だけ買って、外のベンチに座る。暑い。アイスにしてよかった。

「夏バテ? 食欲ないの?」赤火ちゃんが気にしてくれる。

「夜しっかり食べちゃう派なんだよ。お仕事のせいでね」

「お仕事たいへん?」

「うーん、そこそこ」

「秘密ってこと?」

「言えないことのほうが多いね。ごめんだけど」

「ママパパはあやまってばかりですね」アダムくんが言う。口の周りにケチャップが付いていた。

 赤火ちゃんがペーパーナフキンを渡す。アダムくんはそれが意味するところがすぐにわかったようだった。

「大人にはいろいろ言えないことがあるんだよ」

 赤火ちゃんがいなければ、アダムくんはもっと追及していただろう。そういう眼。

 ムダくんに怒られてるみたいだった。

 真実を晒せ。ていうあの眼だ。

「食べたら残りを見に行こう。ペンギンもまだだし」

「え、ペンギンもいるの?」赤火ちゃんが嬉しそうな顔になった。

 ペンギン水槽前には階段状にソファがあった。最上段のすみっこが空いたので座った。

「おつかれというよりは、かんがえごとですか」アダムくんが隣にきた。

「ペンギンはいいの?」

「ここからでもみえます」

 赤火ちゃんの座標を眼で追いつつ。

「俺、そんなにわかりやすい?」考え事。

「ええ、かおにかいてあるうえに、でっかいかんばんもって、かくせいきでどなってるかんじです」

「主張しすぎでしょ、それ」笑えてきた。「仕事してた方が気が紛れるとか思っちゃってるから性質悪いよね」

 夏休みだからか、家族連れがほとんどだった。

 俺とアダムくんは、世間からどう見えているのだろう。

「俺と初めて会ったときのこと憶えてる? 申し訳ないけど、君の本当のお母さんに頼まれて、僕が君を育てることになったってやつ」

「それをおぼえてないのはさすがにまずいですね」アダムくんが頷く。「はい、そうでしたね。ママパパとパパはそだてのおやということになります」

「ねえ、なんで俺は“ママパパ”で、あの人は“パパ”なの? あの人こそ何の関係もないよ」

「ぼくはパパのかおをしりません。なのでいまのところ、パパとよんでもさしつかえないとおもったからです」

「じゃあ」本当の父親を知ったら。と言いかけて飲み込んだ。

 死んでるじゃん。

「じゃあ?」アダムくんが促す。

「いや、ごめん、いい」誤魔化せてないけど誤魔化す。「子どもは親を選べないじゃん? 俺なんかでごめんね、ていう話」

「そのかおをしているときは、たいていおなじこといってますね」アダムくんが言う。若干あきれ顔で。「えらべないからこそ、げんじょうをよりよくするようつとめてください。そだてのおやとして。こどもとのこうらくくらいはいっしょにはしゃぐとか。おつかれとはおもいますが」

 ぐうの音も出ない。

 代わりにお腹がぐうと鳴った。

「ばんごはんには、はやいですが」アダムくんがくすっと笑う。「いつも、おしごとされてると、このくらいのじかんにごはんをたべるんですね」

「うるさいよ。俺の腹時計は正確なんだ」

「ここでたら、おちゃにしますか?」

「はいはい」

「はいは、いっかいです」

「はい」

 育てようとか、親だとか気負うから駄目なんだと思う。わかっている。俺の母親がいい例だ。

 かくあるべし、とか、こうはありたくない、とか、ごちゃごちゃ考えているくらいなら、実際に子どもと話して、触れて、一緒に考えればいい。わかってはいる。わかってはいるのだ。

 でも、なんでそれを、俺がやらないといけない?

 最終的にはこうゆう思考に陥る。堂々巡りの果てはいつも同じゴール。

「ママパパは、ぼくをそだてたくなかったんでしょう?」アダムくんが言う。

 絶対に子どもに見通されてはいけないことを、平然と言われてしまった。

「ママパパは、べつにぼくがきらいなわけじゃない。ぼくのほんとうのママに、かりがあるから。おんがあるから、しかたなく、ぼくをあずかっただけ。だいじょうぶですよ。ほんとうのことですから。うけとめています」

 駄目だろう。本当のことを伝えるのは、必ずしもいいこととは限らない。知らなかった方がよかったことなんて、世の中に山ほどある。

 受け止める?

 莫迦を言え。俺だったら家出してる。そのレベルの重要事項だ。

 なんで、言ったんだろう。

 答えは自明。

 楽になりたかったから。預かった荷物が重すぎて、背負い切れなかったから。自分が潰されまいと、自分可愛さに自分を庇ったから。

 ああ、なんて大人は醜い。

 俺が一番わかっているはずなのに。同じことをいままさに繰り返している。

 自責の念で押し潰されそうだ。

「かおをあげてください」アダムくんが俺の肩に触れる。「あかほさんがないています」

「え」

 どこかでガキがぴーぴー泣いているなぁと思ったら、なんのことはない、俺が引率しているガキだった。

 赤火ちゃんは、顔をぐちゃぐちゃにしてしゃくりあげている。

 ああ、しまった。

 ぜんぶ、聞かれてたか。

「出ようか」二人と手をつないで館内を抜ける。

 暑い。

 日陰を飛び石的に辿りながら、飲食店施設に向かう。フードコートは戦場のような熱気だったので、うどん屋に入った。このクソ暑いのにうどんを食べる客は比較的少ないようだった。

「大丈夫?」赤火ちゃんの背中をさする。「てか、ごめんね。要らんこと聞かせて」

 赤火ちゃんがハンカチで顔を覆いながら首を振る。

「注文は落ち着いたらにしようか?」

 赤火ちゃんが首を振って、メニューを俺にくれた。

 そうか。

 お腹の音も聞かれていたか。

「じゃあ、先に」

 アダムくんは、あんみつをご所望だった。

「トールさんは、いいお母さんだと思うよ」赤火ちゃんが眼を真っ赤にして呟く。

「褒めてくれてるとこ嬉しいんだけど、俺はお母さんにはなれないんだよね」

「でも、お母さんなんでしょ? わたしのお母さんより美人だもん」

「あのね、最初に会ったときおばさんて言ったの、ちゃんと憶えてるよ」

「え、あ、あのときは」赤火ちゃんが鼻をすする。「ごめんなさい。怒らせたかったの」

 本当だろうか。

 まあそういうことにしておいてやろう。

「ママパパは、ちょっとびじんすぎて、ごきんじょでもゆうめいです」

「要らんこと言わんでいい」

 注文が揃ったので口に入れる。赤火ちゃんは抹茶フロートをご所望だった。

「アダムくんのお父さんはどんな人?」赤火ちゃんが言う。

 どきりとしたけど、さっきの話をまるっと聞いていてくれたなら、育ての父親のことだろう。

 あの人の評価か。

 聞きたいような、聞きたくないような。

「うーん」アダムくんが首を傾げる。

「うーん?」赤火ちゃんがつられて首を傾げる。

「うーん、て」出汁を吹きそうになった。「どういう意味、それ」

「へんなひとですよね」アダムくんが言う。「ぼくのことみてないようでみてるし、ママパパのことも、みてないようでみてる。ぬけめのないひとです」

「そう?」見てないようで、実際何も見てない。だったらその通りだと両手を叩いてやりたいが。

「へー、いい人なんだ。いいなぁ」赤火ちゃんが言う。

「けいさつかんです」アダムくんが言う。

「トールさんもでしょ? えー、じゃあ職場結婚?」赤火ちゃんがにこにこする。

「親の馴れ初めをほじくり返さない。ほら、さっさと食べて。アイス溶けてるよ」

 地下鉄に乗った途端、アダムくんが眠ってしまった。赤火ちゃんもうとうとしている。

「眠ってていいよ。着いたら起こすし。てゆうか、家まで送るよ」

「あり、がとうござい、ま」言いながら瞼が落ちた。

 ガキだなぁ。

 俺もだけど。

 寝過ごして駅通り過ぎた。



     4


 対策課の増員について本部長にそれとなく言ってみたけど、なかなかムダ君レベルの逸材がいないのも事実で。妖怪露出狂には、贅沢言うなとお叱りを受けたりもしている。

 ムダ君にこだわっているわけではない。

 優秀な人材が欲しいだけで。

 もともと一人でやってたわけだし、やれないこともないけど、一人より二人のほうが便利なときがある。

 順番待ちとか。

 アダムくんがトイレに行きたそうな顔をしている。わかっている。

 付いて行ってあげたい。

 しかし、せっかく並んだのにまた並び直しはつらい。

「ぼく、ひとりでいけますので」アダムくんが言う。

「場所わかる? 2階に上がって、奥の方だよ。もしわからなかったらお店の人に聞くんだよ?」

「はい。いってきます」

 アダムくんの背中を見送って順番を待つ。アダムくんが欲しがった新作ゲームの発売日。物を欲しがるのが珍しいのでなんとしても買ってあげたい。

 整理券がもらえたので無事に買えそうだ。よかった。

 アダムくんが戻ってこない。

 かれこれ30分は経過している。トイレが混んでいたにしては遅すぎる。

 迷ったか。いや、ここには何度か来たことがあるし、トイレも使ったことあるし。

 しまった。この格好だと男子トイレに入れない。出てきた男性を捉まえて尋ねてみるがそんな子はいなかったとのこと。他の階も見に行ったが、徒労に終わる。アダムくん一人なら女性トイレには入らないだろうけど、念のため見たが、やっぱりいない。

 防犯で持たせているケータイにかけるが、つながらない。GPSは建物内を示している。

 迷子のお知らせをしてもらったが、来ない。徒歩で帰れる距離ではない。というか、アダムくんの希望で来ているのに、俺を置いて一人で帰るとは思えない。

 まさか。

 考えたくないが、誘拐か。

 このまま帰る気にはなれないので、あの人に電話する。仕事中だが出てくれるだろうという甘い期待。

「考えたくはないが、実は君に黙っていたことがある」本部長が言う。

「このタイミングでそういう話します? なんですか」

「先月から管区内で幼児連れ去りが立て続いている」

「なんで黙っていたのか聞きます」怒りというより不信。「俺が担当してる領域わかってます?」

「すまなかった。言い訳はしない。そちらに行く」

 アダムくんがいなくなってから3時間経過。

 アダムくんのケータイが、サービスカウンタに届けられていた。拾ってくれたのは子どもだったらしい。どこに落ちていたのかは言っていなかったそうだ。

 俺の着信が入っているだけ。特に違和感はない。

 本部長が捜査員を引きつれてやってきた。いなくなった幼児の“母親”として顛末を説明する。捜査に加わりたいが、本部長が首を振る。文句を言いたかったが、たぶんそういうことではない。

 本部長は、わざと、俺を捜査から外した。

 対策課として勝手に動けとそういうことだろう。止めたってどうせ同じことになるので、最初から縄をつけないことにしたらしい。さすが。俺の扱い方をよくわかっている。

 三代目がいることを確認してから、祝多出張サービスに出向く。

「トールが仰ろうとしていることはよくわかりますわ」三代目が静かに言う。

 ここには、県内全域をのぞき見できるモニタが存在する。

 それの録画を見せてほしいと頼もうと思ったのだが。

「なんでですか? アダムくんが」攫われた手掛かりが。

「意地悪で言っているのではなくてよ。見ても無駄だということですの」三代目がケータイの画面を見せる。「これをご存じかしら、創始者さま?」

 背中にざらざらした極寒の感覚が走った。

 フライングエイジヤのサイト。長らくメンバの交流が主だった活動だったはずだが。

 管理者権限のコメントが更新されている。

「これ」誰が。

 自分で言っていて無意味な質問だった。

 こんなことをしそうで、かつ、技術的に可能なのは一人しかいない。

「帰って来てるの?」ご主人が。

 管理者権限のコメントは赤い字で表示されていた。

 ――――笛の音が聞こえたらそれが合図だ。

「首謀者がスーザお姉様だとするなら、アダムさんは誘拐ではありませんわね」

 単に我が子を連れ戻しただけだ。

 でもそれなら。

「ひとこと云ってくれたら」

「拒んだ場合、トールは殺されますわよ?」三代目が無感情に言う。

「拒むわけないよ! だって、ご主人の子じゃん。俺は頼まれて育ててただけで」

 迎えに来たならそう言えばいい。

 アダムくんにちゃんと説明して、それで済む話じゃないか。

 嫌な想像をしてしまった。

「おそらく、合っていますわ」三代目が俺の思考を読んだ。「あのアダムさんがゲームなど欲しがりますかしら」

 嘘だ。

 じゃあ、ここ最近の間に、アダムくんに個人的にご主人がなんらかの働きかけをしていたことになる。

 ほしいものがあるんですが。と、アダムくんが言いにくそうにしていたときのことをありありと思い出せる。

 あのときの表情の意味は、俺が想像していた世間一般の常識とかけ離れていたと。そういうことか。

「三代目は知ってたんすか?」ご主人が帰ってきていること。

 アダムくんがいなくなること。

 こうゆう未来が来ることを。

「スーザお姉様は、やることがあると言ってトールにアダムさんを預けた」三代目が言う。「アダムさんを連れ戻したということは、やることが済んだ、完遂したと見ていいですわね」

「そういうことを言ってんじゃないんです! 俺は、三代目が、知ってたかって聞いてるんです」

「ええ」三代目はこともなげに言う。「お姉様が考えることくらい三手先まで見通せなければ、わたくしなどとっくに命がないでしょう」

 なんで。

 知ってたんなら。

「では逆に問いますけれど、教えたら、トールはどうしていましたかしら?」

「それは」どうしていたか?

 いま、

 よぎったことを否定しろ。

「ほら、言わないほうがよかったでしょう?」三代目の口元が上がる。「勝ち目はありませんわ。なにせ」

 ご主人に恩があるだとか、本当の親はご主人だとか、そんなことはわかっている。

 わかってるんだ。

 わかっているから、言わないでくれ。

「ここに、ご主人て来た?」

「いらっしゃるときは、わたくしを殺すときですわ」三代目が言う。「わたくしが生きているということが、姉さまが来ていないという嘘偽りない証左になると思いますけれど」

 三代目とご主人は決して仲がいいとは言えない。骨肉の争いとはこうゆうことをいうのだろう。

 駄目だ。

 いろいろが急すぎて、処理が追いつかない。頭の中が嫌味な棒で撹拌されている。

「ごめん、邪魔した」

「わたくしから一つだけ」三代目が俺を呼び止める。「連続幼児連れ去りは、アダムさんのとは別の事件ですわ。いつでも協力する準備は整っていますのよ」

「ありがとう。一遍出直す。ほら、地味な私服だし。派手な戦闘服に着替えてくるよ」

「お待ちしていますわ」

 何の気分も晴れないけど、雑居ビルの壁を殴った。手が痛くなっただけだった。

 本部長に連絡する。

「わかった。夜にでも話そう。連れ去りの方は引き続き捜査を続ける」

「捜査は俺も手伝いますけど、帰って来れます?」夜に。

「正直に言えば、何とも言えない。わかった。いまどこだ?」

「出張サービスですけど」

「ああ、そうか。なるほど」本部長は俺が何しに行ったのか理解したようだった。

 そもそも防犯カメラの映像がここで一挙見できるのは、本部長から聞いた情報だった。

「ちょうど引き上げるところだ。30分後に事務所に行こう。少しなら時間が取れる」

「待ってます」

 3年前、俺の希望で対策課の事務所を県警本部のお膝元に移してもらったが、結局祝多出張サービスに出向かないと出動できないので、意味があったかといえばごにょごにょと口の中に唾液が溜まる。

 雑居ビルの2階は、今も封鎖されている。一度だけ勝手に入ったのがバレて、鍵を変えられてしまった。

 この鍵は、もうあの場所に至れない。

 時間より5分過ぎて、本部長が事務所に来た。

「遅れてすまない。よく頑張ったね」

 そういうことを。

 言うなって。

「迎えに来たならそれでいいじゃないか。そう思うことにしよう」本部長が背中をさすってくれる。「別れ方が少し急すぎただけだよ。君は何も悪くないさ」

「アダムくんは、それでよかったんでしょうか」そうでも思わないとやってられない。

 一応、育ての親なんだから。

 我が子の幸せを願う義務と権利がある。

 本部長が傍にいてくれたお陰で頭の中のぐるぐるが収束してきた。

「連れ去りのほうだが」本部長が言う。鋭い語調に切り替わった。「連れ去られているのは今のところすべて男児だ。君に一刻も早く告げなかったことを今更になって後悔している」

 本部長の顔を視界に納められるだけの距離を返す。

「それって」

「君と私の推測が間違っていることを願うが」本部長が苦々しい顔で言う。

 祝多じゃない。

 祝多だったら人間を個として扱わない。大量に十把一絡げでまとめて持って行く。

 網漁と釣りほどの違いがある。

 ご主人が、帰ってきている。しかも、やっていることが最悪だ。

 祝多と同じじゃないか。

「会議に出なくてもいいように、ここまでわかっている情報を伝えよう」本部長が頷く。

 最初の事件はちょうど一ヶ月前。

 アダムくんのときと手口は同じ。親から離れて一人になった男児を狙う。

 アダムくんを含めて5件目。週に1回ペース。いずれも日曜の午前に発生している。

 身代金等犯人からの要求は一切なし。

 ガキを狙った理由は、カネではない。カネが欲しいなら、誘拐よりもっと確実な方法がある。堅実に働けばいい。もしくは誰かから強引に盗むか。それこそ稼ぎのいい大人から。

 ガキ自体が目的だ。

 殺すのか、それとも。

「なんとかしてご主人に会わないと」止めないと。いや、三代目が言うには別の事件とのこと。

 とすると、これで終わりか?

「これまでの4件が今回のアダムくんを攫うためのカムフラージュなのか、もしくは全然別の目的があるのか」

「すまないが、そろそろ行くよ」本部長が手を離す。「何か気づいたことがあれば遠慮なく言ってくれていい」

「つかまらないのに?」

「こちらにかけてくれたら出るよ」本部長がプライベート用のケータイを見せる。「くれぐれも無茶だけはしないように」

「努力します」

 アダムくんを取り返したいわけじゃない。

 ちゃんと話してほしい。時期が来たから連れていくと。

 実の親からそう言われたら返すしかない。それだけのことじゃないのか?

 なんだろう。

 すごく胸がざわざわする。

 フライングエイジヤのサイトの赤字は、ご主人によるものだろう。

 笛。

 やっと聞こえなくなったと思ったのに。

 耳鳴りがちりちりうるさい。

 妖怪露出狂にも相談するか。ご主人が絡んでいるならもしかしたら別件で何かつかんでいるかも。

「連れ去りが連続とは初耳だな。大王は過労だろう。お前自身は大丈夫じゃないだろうが、何かしていたほうが気も紛れる。激励ついでに顔を見に行ってやる。事務所か」

「あの、ご主人は」妖怪露出狂に会ったのかどうか。

「いや、お前よりも何より、私に会いたくないだろうからな、朱咲は。しかし、やっていることが私に宣戦布告しているも同然だ。全面戦争は免れない」

「ご主人は、何をする気なんすかね」

「お前の推測を信じるさ。たぶん、合っている」

 笛の音が鳴り響く。

 頭蓋の内側から。

「朱咲は、お前に嫌われたくないんだろう」先生が言う。「時間も時間だ。夕飯くらい奢ってやろう。食べたいものを考えておけ。どうせ今日まるっと碌なものを摂ってないんだろうから」

 さすがは俺の主治医なだけある。何もかもバレている。

 嫌われたくないなら、むしろちゃんと言ってほしかった。

 俺がご主人を嫌うわけないのに。

 だって、ご主人は、俺を生き返らせてくれた。混沌とした闇から個を掬いあげてくれた。

 いわば光だ。俺にとっては。

 例えそれが気まぐれだったとしても、あれがなかったら、今頃俺は。

 悶々としてたら電話が鳴った。

 非通知。だけど誰かはすぐにわかった。

 喉が干上がる。

「ご主人?」

「鍵を開けて待っていますわ」それだけ言って切れた。

 笛が高らかに吹き荒れる。



     5


 雑居ビルの2階。対策課の前事務所。

 応接室の奥のドアを開ける。

 あのときがデジャヴュする。

 闇を照らす月明かり。

 重い重い命。

「突然で驚かれたでしょう?」ご主人の声だった。

 姿はよく見えない。

 わざと見えないようにしている。遮光カーテンと照明が結託して。

 黄昏。

「アダムは無事ですわ」

 息を吐く。

「あら、すっかり板に着きましたのね」

「情が移っただけすよ。聞きたいことがあるんすけど」

 ソファを勧められた。ご主人はすでに座っている。

 首を振った。

 ドアを背に立つ。

「昼から何も食べていないのでしょう? お疲れになったら遠慮なく仰って?」

「4人のガキは?」

「生きていますわ」ご主人の口調は、何を当たり前なことをと言わんばかりの。「この先は保証できないけれど」

「生贄ってことすか」

「どちらかというと、お土産ですわね。わたくしは、どうしてもアダムを生かしたいの」

 カムフラージュだなんてとんでもない。一瞬でもそう思った俺の思考に吐き気がする。

 口の中に鉄の味が拡がった。

「返す気は、ないんすね。祝多に差し出す貢物ってことすか」

「ガキなどまた作ればよろしいのよ」

 あなたが、

 それをいうのか。

「絶望なほど祝多に似てきましたね」震える利き手を反対の手で制する。

「遺伝ですわ」ご主人が笑った音がした。「親子ごっこは楽しめて?」

「ええ、やっと荷物が降ろせて清々してます。あんな重たいモノ、二度とご免すよ」

「そう。それは残念」ご主人が首を傾げた。「これで未練はないかしら?」

 冗談でも言っていいことといけないことってのがある。

 言わなきゃよかった。

 ソファの陰から。

 今一番会いたくない姿が出てくる。

「ながいあいだ、ごめいわくをおかけしました」アダムくんがぺこりと頭を下げる。「ぼくがわがままいってさいごのおわかれをしにきたのです。でも、ひつようなかったですね」

 ちがう。

 ちがうちがうちがう。

 首を振っても取り消せない。

「むりしなくていいです。わかってましたから」アダムくんが言う。「ママパパは、ぼくのことなんか」

 荷物程度の。

「アダムくん、あの」

「わかれがつらくないようにつよがりをいってたんだってのも、わかってますが、やっぱりそうゆうのを、いわれちゃうと、ちょっとつらいですね」

 ちがう。

「違うよ、違うんだ。俺はアダムくんを」

 重い荷物だと思ってた。けど、3年も一緒にいたら。

「じょうがうつっただけ、ですよね。おきになさらず。こどもは」

 親を選べない。

「おせわになりました。もう、あうこともありませんけど、おげんきで。あ、パパにもよろしくおつたえください。すえながく、ママパパとおしあわせに、と」

 なんで、

 そんなに。

 物分かりがいいんだ。やめて。絶対に聞きたくないんだ。

 これじゃあ。

 俺の親となんにも変わらない。俺の親より劣る。

「お気づきと思いますけれど」ご主人が言う。「生贄の数はもう結構ですの。大王様にお伝えくださいな。事件は終結ですのよ」

 あんたが。

「終わらせたんでしょうが。ガキ攫って、殺して。おんなじじゃないすか! なんで、あんたが、ご主人が」

「どうしても守りたいものがありますの。そのためには、鬼にも修羅にもなりますわ。それが」

 親ってものでしょう?

 自分の子を守るためなら。

「他のガキが死のうがどうなろうが」

「ええ、構いませんわ」ご主人が言う。「どうしてその他雑多に愛を注ぐ必要がありますの? 愛とは元来不平等なもの。わたくしが最後に選んだのが、アダムだったと、それだけのことですわ」

「ご主人はそれでいいんすか」

「質問の意味がわかりませんわ。ボーくん、いいえ、トール」

 背筋から後頭部が一瞬で壊死した。

 まさか。

 そんな。

 いや、それだけは。

 考えたくない。

 部屋を出て3階に上がる。呼び鈴は意味がない。

 祝多出張サービス。

 ドアは開いていた。

 開けてあった鍵は、こちらだったのかもしれない。

 デスクの奥のドア。

 破片とコードが散らばる。

 監視カメラのモニタは、すべて沈黙していた。

 においに遅れて気がつく。

 鼻を覆ってももう遅い。

 ここには、命のようなものは存在しない。

 三代目が、

 死んでいる。

「監視システムも根こそぎ壊させていただきましたわ。ねえ、ビャクロー?」後ろの声が言った。

 白く鋭利な気配。

 俺に危害を加える気はなさそうだったが、耳の後ろで刃物をかちかちされると神経がすり減る。

 エレベータホールまで後退する。

 ドアを、閉めた。

「いつからすか」俺は、今日の昼過ぎにここを訪れている。

 そのときの三代目は果たして三代目だったのか。

 そうか。

「それで見せてくれなかったんすね?」監視システムはすでに。

 ということは。

 ご主人の口元が朱く裂ける。

「ゲングウはそもそもわたくしのスペアでしたのよ」ご主人はサングラスをかけている。

 三代目のように。

「ご主人すか? どっちなんすか」手が勝手に伸びていた。

 それを外せば、わかるだろうか。

 闇の眼窩を覆う黒。

 白い気配が遮る。

「さすがのりえーちゃんでもお手上げかぁ?」ビャクローが赤い舌を出す。

「俺は、あなたがご主人なのかどうか知る権利がある。でしょう?」ビャクローの向こうのご主人に言った。「安心してアダムくんを連れて行かせられない」

「あら、心外ですわ。ちなみにどちらのほうが生存率が高いのかしら?」ご主人が白々しく言う。

「ご主人の所じゃなきゃ、俺が認めない。ご主人だから諦めたってのに。ご主人じゃなきゃ」

 断腸の思いで手を引いたのが丸つぶれだ。

 ようやく正常な聴覚が戻る。蝉の声が笛の音と混ざる。

「外してください」サングラスを。

「わたくしだと言っていますのに」

「お願いです。俺の最後のお願いだと思って」

 ビャクローが肩を竦めて脇に避ける。

 ご主人が、

 白い指で、

 黒の覆いを取り去る。

 闇が見えた。

「無意味な質問ですのよ、ボーくん?」

 闇しかなかった。

 なんで。

 ない?

 眼が。

 いや、三代目のはずがない。三代目は、このドアの向こうで。

 本当に?

 確かめてもないのに?確かめる?

 どうやって?

 あんなにバラバラでは。どうすることも。

 脳裏に焼きついた赤と黒の色を掻き消す。

「ママが、わたくしとゲングウを見分ける方法を知っていて?」

 嘘だ。

 まさか。

 たったそれだけのために?

「三代目を殺したんすか?」

 自分の眼を抉り出して。

「ゲングウはわたくしのスペアだと言ったでしょう? お話はきちんと聞いて頂かないと」ご主人がサングラスをかける。「ああ、ボーくんには話していませんでしたかしらね。わたくしは、ママの失敗作なのですわ。ゲングウこそがたった一つの成功作。失敗作が成功例を壊して、成功例のフリをして、お家に帰ったらママは、どんな顔をしてわたくしを迎えて下さるでしょうね。ふふふ、楽しみですわ。行きましょう、ビャクロー。手を引いて」

「仰せのままに」

 気が狂いそうだ。

 アダムくんが見ている。聞いている。

「ばいばい、せかいいちきれいなママパパ」

 手を振る資格くらい、あってもいいだろう。

 エレベータが行って、しばらくして。

 ようやく息ができた。

 涙も出てきた。

 俺は、

 何かできただろうか。

 笛の音がやんだ。ぴたりと止まった。

 その日以来、笛は鳴らない。

 耳が悪くなったのだろう。それだけのことだ。

 ガキにしか聞こえない音。

 蚊の鳴く音。

 大人になれば聞こえない。だいじなものを失ったせいだ。

 重い重い命。

 俺が抱えられるのはせいぜい自分のすかすかの命で。

 あんな重い命。

 どだい支えるなんて無理だったのだ。

 アダムくんが、幸せなら俺は何も。

 ズタボロの身体を引きずって帰ったら、ベッドの上に手紙があった。

 あの人が帰ってきたら、読めるだろうか。

 寝ずに待っていた。

 あのときみたいに。

 愛すべきフライングエイジヤのサイトを見ながら。




     Fライング6


 Oz 〉君にも笛が聞こえるって聞いたけど。

 Damn〉軽快で楽しい音です。あなたのは?

 Oz 〉俺のは、あんまり。聞いてたくない感じ。

 Damn〉聞こえなくなってほしいと思いますか?

 Oz 〉そうだね。消えてほしい。耳障りかな。

 Damn〉どうすれば消えますか?

 Oz 〉我慢してやり過ごすしかないよ。

 Damn〉そうじゃなくて。永久に消す方法です。

 Oz 〉俺が死ぬとか。

 Damn〉そういう方向性ではなく。もっと平和的な。

 Oz 〉治療しろってこと?

 Damn〉病気なんですか?

 Oz 〉わからない。おかしいとは思うけど。

 Damn〉どういうときに聞こえますか?

 Oz 〉なに? 探ってくれてるの?

 Damn〉聞こえることで不快に感じているみたいだったので。

 Oz 〉君の親ってどんな人?

 Damn〉笛に関係するんですか?

 Oz 〉言いたくないならいいけど。

 Damn〉母親は綺麗な人です。

 Oz 〉母親は好きなの?

 Damn〉そうですね。父親よりは。

 Oz 〉俺はどっちも嫌いだな。早く死ねばいいと思う。

 Damn〉兄弟はいますか?

 Oz 〉いや、一人だよ。だからよけいに構うんだろうね。愛が分散しない。そっちは?

 Damn〉たぶん、他にもいると思うんですけど。会ったことはないです。

 Oz 〉会いたい?

 Damn〉会ってどうするんですか?殺す?

 Oz 〉極端だね。生きるの大変でしょ。

 Damn〉あなたこそ。だからこそ、これを創った。僕らの拠り所になるために。

 Oz 〉そんなたいそうなもんじゃないよ。自分が助かりたいだけかもしれないよ。

 Damn〉少なくとも僕は助かってますよ。ありがとうございます。

 Oz 〉それならいいけど。

 Damn〉実は母親に近々会えるんです。船で迎えに来てくれるそうです。

 Oz 〉お金持ちなの? すごいね。よかったじゃん。

 Damn〉島を持ってるそうです。父親と離れたかったので、僕は行こうと思います。

 Oz 〉そっか。お別れだね。向こうでも元気で。

 Damn〉一緒に行きませんか?

 Oz 〉俺が? 冗談。でも誘ってくれたのは嬉しかった。ありがとう。

 Damn〉あなたの笛は危険信号なのかもしれませんね。

 Oz 〉うーん、どうだろう。

 Damn〉笛の音が聞こえたらそれが合図です。

 Oz 〉何? 逃げろって?

 Damn〉合言葉にしましょう。もし、この先僕があなたに会うことがあれば。

 Oz 〉わかった。憶えておくよ。


 たぶん、あの人は忘れていた。

 それとも笛の音が聞こえないくらい危険から遠ざかったか。

 僕は、笛の音についていった。

 結果、名前の通り地獄に落ちた。それだけのこと。

 怨んだりはしていない。僕は、あの人を怨むほどあの人のことを知らない。

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