第5章 根より来たりて海の内(ニライカナイ)

     1


 ここから大阪なら寝ずに車を飛ばすよりも、始発の新幹線を捉まえたほうが圧倒的に速いし労力も最小限で済む。先生の提言で一旦戻ってきた。

 クソガキ輸送中の船には、陣内探偵と龍華タチハナが殴り込んでくれているらしい。

 志遣しやるが最期に手を回してくれてあった。

 朝の3時過ぎ。

 対策課。の掘立小屋じゃないほう。

 先生が嫌な予感がすると言って、エレベータのボタンを連打する。「階段で行く」

「ムダくんですか」自分で言ってひどく後悔した。

 あんまり認めたくないけど、先生と祝多(電話越し)が言っていた。

 急げば間に合う。とかではなく、すでに絶命状態。

 とするなら、どこかに遺体があるはずだが。

 まさか。

「開いてる」先生がドアノブをつかむ。

 手前の応接室は無人。

 照明をつける。

 奥が事務所。

朱咲スザキ!いるか」先生が珍しく声を張り上げる。

「ご主人?」

 開けなきゃよかった。てのと、早く開けるべきだったていう感情が同時に襲った。

 月明かりが差し込んだ名残。

 耳障りな湿気を帯びた雑音。

 ご主人だった。

 ご主人がいる。

 けど。

「おい、何をやってる。やめろ」先生がご主人の元に駆け寄って、手首をつかむ。「甘味料。悪いが県警に」

 ご主人の手は真っ黒だった。

 顔も、特に口の周りがやけに黒い。

 ご主人は床に座っている。

 そこに。

 何があるのか。

「甘味料。お前は見ないほうがいい。頼むから私の仕事を」

「ムダくん、ですか。それ」照明をつけようとした手を下ろす。

 見えた。

 見たくなかった。

 ようやく嗅覚が追いつく。

 この、においは。

 強烈な吐き気が襲った。血と肉が腐ったそれは。

「トール! 早く外出ろ!!県警に」

 連絡しろったって。

 志遣は死んだし。

 あの人は病院だし。

 誰に?言えば。

「大丈夫か」聞き慣れた低い声がした。

 後ろ。

 大きな手が俺の肩を支える。

「すまなかったね。あとは任せなさい」

 本部長。

 うそ。

 幽霊じゃないよね?

「なんで」生き返った?

「外の風に当たっていなさい」

 時間差でご主人の手下というか有事の際に駆けつけるお面部隊がぞろぞろと事務所に入って行った。

 壁にもたれかかる。

 ご主人は、無事なのか。

 あれがムダくんだというなら。

 なにを、してた?

 風が凪いだ。

「ムダくんを引き受けに来たんだが。この分じゃ、まともに残っとらんか」

 全身の神経が危険値を報せる。

 呪詛のような黒髪。

 禍々しい香をまとう闇の塊。レンズの奥に青を湛える。

「蒼白い顔しよって。アチがおったらあかんか」

祝多イワタ

 やっぱり生きていたか。

 お面部隊が一斉に頭を下げる。

 そうだった。そもそも彼らは祝多の手と足。

「朱咲が何しとったんか、見たか?」祝多が言う。

 見てないから首を振った。

「教えたろか。朱咲は」

「私の仕事を増やすな、祝多」事務所の中から先生の怒鳴る声がした。「甘味料! 私のためと思うんならさっさと掘立小屋に帰れ。お前の手には負えん」

「私が送ろう」本部長が手を拭きながら出てきた。「先生。あとはお願いします」

「聞こえるか、甘味料!」先生が怒鳴り続ける。「私は祝多と話がある。大阪はお前らで行ってくれ。ガキ共はお前に任せる。対策課の本領発揮だ」

「怒鳴らずここ来て言うたらええのに」祝多が呟く。

「返事!」先生が怒鳴る。

「はい。あの。ご無事で!」

 本部長は祝多を見て一瞬口を開きかけたが、無意味だとわかってすぐに噤んだ。

 祝多も特に視線すら寄越さなかった。

 彼らの確執は、ここにいる。俺が生きてるから、もうどうでもいいのだ。

 本部長の車に乗る。

 ハンドルを持つ手の上に、手を乗せた。

 あたたかい。

 よかった。

「嬉しいが、運転の妨げになる。あとにしてくれると」

「生きてたんすね」

「君を置いて死なないと言ったよ。信じてもらえていなかったかな」

 左手の指の金属に触れる。

「ぜんぶ、説明してもらいますから」

「弱ったな。憶えていることならいいが」

 行き先を、掘立小屋じゃなくて別の場所にしようかと掠めたが、それはぜんぶ終わってからだ。

 着信。

 仕事用ケータイ宛てに、顔が見える通話。

「取り込み中だったらかけ直すが」陣内探偵だった。若干眠そうに見えた。

「船って電波届くんですか?」

「そこはなんとかなるらしい」陣内探偵が言う。「ところで、乗ってから気づいたことがある。本当に大阪に行くと思うか? 地図見て吃驚した。紀伊半島が邪魔すぎる」

「ちょっと眠ったほうがいいんじゃないんすかね」

「近くにPCがないか。対策課の臨時事務所あたりだとありがたいらしいが」

 陣内探偵の近くにいた龍華が見切れる。「僕のバックアップ機があるのでいますぐ移動して下さい」

「だ、そうだ。行けそうか」

「タイミングばっちりですね。いま向かってるところです」

「そりゃいい。着いたらそっちから連絡もらえるか。割と急いでる。頼む」

「了解しました」

「本部でいいのかな」本部長が言う。

「はい」

 何をする気だろう。顔が見える通話方式にヒントがあると思うのだが。

 眠い。

 本部長が生きていることがわかって若干安心したからだろうか。

「仮眠が取れればいいが」本部長が言う。

「いえ、ガキの命がかかってるんで」寝るわけにいくか。

 ムダくん。

 死んでるんなら地獄からエール送って!



     2


 鍵が開いている。不用心だが、罠だと思って間違いない。

 祝多出張サービス。タ=イオワンのいわば別荘地。

 その真下。

 対策略的性犯罪非可逆青少年課の旧本部。

 待ち伏せるならここだと思った。

 後ろに気配があった。

「退いてくれるかな」徒村が言う。「ああ、死にたいならそれでもいいけど」

 強烈な血のにおいがした。

 禍々しい死のにおい。

 すでに何人か殺してきたのだろう。

「聞こえなかった?」

「トムラ・ひとら」私は振り返らずに言う。余計な動きに反応して引き鉄が引かれる恐れがあった。「私を憶えていますか? いえ、質問が悪かったですね。私を認識していましたか」

「陣内のこと?」

「あなたが殺した。お陰で私が喪主を務める破目になった」

 生ぬるい気体が足元に滞留する。

「僕の邪魔をするなら誰だろうと殺すよ」

「やっぱり認識の外でしたか」

 徒村の興味は、こちら側にない。

 最初からこちら側にはなかった。

 いまも尚こちら側にはなく、今後こちら側に向くこともない。

「忠告は二度しない」

 銃口がすぐ後ろにある。

「あなたは私の喪主を務めてくれますか」

「墓に刻む名前も知らないのに?」徒村が嗤った音がした。「本音を言うと、ここで銃声を聞かせたくない。無駄弾を撃ちたくないって意味じゃないよ。僕はあくまで平和に説得に来ただけなんだから」

「あなたに実の娘は殺せない」

 銃口が首の付け根にねじり込む。

 その勢いで床に押し付けられた。

「なぜ知っているか。でしょう?」うつ伏せで喋ったから口の中に砂が入った。「あなたが殺したくて殺したくて仕方がなかった悪の化身は、なんのことはない、あなたの母親です。しかしあなたが直接手を下す前に、あなたの娘によってあっけなく葬られていた。実の母親を殺すために研ぎ澄まされたあらゆる手管、手札は無と化した。絶望したでしょう? 生きている意味を見失ったでしょう? もう一度言います。あなたが殺したかったのは実の娘じゃない。だからあなたに実の娘は」

「殺すよ。そのあとに僕も死ぬ。これで満足?」徒村の声は乾いていた。

「いいえ、それでは私の気が晴れない。私の手で上司の復讐をさせてもらわなければ」

「できる?」徒村の言い方は、技術面への嘲笑を前面に出していた。「死にたがってるのは僕じゃない気がするけど」

 銃口が離れた。

 立ち上がる気力がなかったので私はそのままうつ伏せていた。

 機敏に体勢を立て直したら撃たれるだろう。反撃の意志があると思われて。

 即死させてくれる優しさが残っているかは不確定だが。

 徒村に、弱者を痛めつける趣味はない。

「あ、そうだ。本部長撃ったの、お前?」徒村がドアノブをつかんでから言った。

「結果的にはそうなりますね」

「じゃあこれ、課長の分」徒村はなんの躊躇いもなく私の利き腕を撃った。「頭狙わなかったのは温情じゃなくて、反省しろって意味だから。課長は船に乗らないことを選んだ。英断だったと思うよ」

 徒村がドアの向こうに消えた。

 鍵がかかる音がした。

「あーあ、フラれちったねぇ」ビャクローの足が見えた。「助けてほしいかぁ? 血まみれで痛ってぇの」

 ビャクローは、男の姿になっていた。

 奴もタ=イオワンと同じく、器を替えて生き永らえることができる。

「テメェはガチにダムダムくんに復讐してぇの? 死んだ上司くんの仇とりてえんなら、俺とかぶっ殺したほうがよっぽど供養になんだろーがよ。て、あ、違げぇのか。テメェの死んだ上司くん、俺らを殺すつもりぜーんぜんなかったもんねえ」

 利き手が動かなくても問題はない。

 身体がもつかどうかだけ。

 命がもつかどうかだけ。

「んあ? まーだ諦めてねぇの?」ビャクローの足が見える。

 ドアには鍵がかかっている。

 知っている。

 でもこの向こうに徒村がいる。徒村の娘がいる。

 綺麗に心中なんかさせるか。

 徒村にそんなに楽な死に方をさせて堪るか。

「テメェ、ぶっ殺してぇのどっちよ?」ビャクローの眼が見えた。床すれすれまで屈んでいる。「どーせならよ、ダムダムくんじゃねぇほう殺っちまってくんねえかな?」

 そう云うと、ビャクローは鍵をドアノブに差し込んだ。

 開錠の音がした。

「おらよ、お目当てのもんはもう一個のドアの向こうだ」ビャクローがドアを脚で支える。「ただし、チャンスは一回きりだ。外したらテメェ、今度こそ俺にぶっ殺されちゃうからそんつもりで?」

 どういうことだ?

 試しているのか?

 迷っている暇はない。迷えるだけの時間もない。

 頭が正常に働いていないのがわかる。

 ああ、そうか。血を止めればよかったのか。

 室内は暗かった。エレベータホールは常夜灯があったので人物誤認は避けられたが。

 眼が慣れるまで生きていられるか。

 律儀にビャクローが付いてくる。斜め後ろから。

 何も言わない。

 何か言ったら気づかれるから。

 利き手でなくともなんとかなる。

 床に血の跡が付いているはず。暗くて見えないから。

 奥のドア。

 あと少し。

 鍵は。

 かかっていない。

 声と気配が二つ。

 月明かりが漏れている。なまじ奥の部屋のほうが明るかった。

「スーザちゃん。君は生まれないほうがよかった」徒村の声。

 手前が徒村。

 徒村が銃を構えて、実の娘を撃とうとしている。

 絶好のタイミングだった。

 どうせなら。

 二人同時に撃ち抜いてやろうか。

 いや、娘の方を殺すという約束でドアを開けてもらった。

 ビャクローの急かすような視線を感じる。

 そうか。

 娘の方を殺せば。

 逆上した徒村が。

 私を殺してくれるのか。

 ビャクローが云っていたことは、そういうことだ。

「さよなら、スーザちゃん」

 徒村が撃つよりも早く。

 引き鉄を引けばいい。

 徒村は。

 私に気づいていない。

「愚かな人ですね」思わず声が漏れた。

 弾は確かに徒村の後頭部に向かって放たれた。

 徒村が前のめりに倒れる。

 違う。

 当たったなら血が飛び散るはず。

 血が飛び散っていないということは。

 当たっていない。

 当たる前にビャクローが弾いた。

 月が欠ける。

「ビャクロー、追いなさい。殺して! 早く!!」

 徒村の娘の叫びを背にとにかく走った。

 私の弾は当たっていない。のになぜ、徒村は前のめりに倒れたのか。

 ビャクローは私の後ろにいた。

 あの場面で徒村を殺せるのは。

 娘しかいない。

 港で車を乗り捨てる。

 眩暈がする。

 意識が遠ざかる。

 まだ。

 あともう少しだけ。

 船が。

「だから、ムダムダくんじゃねぇほうぶっ殺せつったのによぉ」ビャクローの声が波の音に紛れて聞こえる。「冥途の土産に教えてやっけどな。喰われちまうんだぜ? ぐっちゃぐちゃのねっちゃねちゃに。さすがの俺でも引くっつの」

 歩くたびに身体のどこかを切られる。

 血が。

 もう残り少ない。

「肉喰らったところでよ、そいつは自分のもんにはならねぇだろうがよ。気づけっての、胎なしの赤裂アカザキちゃんよ」

 何を。

 云っているのか。

 胡子栗と瀬勿関が見えた。

 ああ、よかった。

 船も出ていない。

 間に合った。

「どこに向かってると思います?」胡子栗が言う。

「目的地で迎え撃とうって?」瀬勿関が言う。「それこそお前らの手の届かない管轄外だ。祝多と直接話ができればいいんだが」

「船のほうはすでに手配済みです」私にできる最期の仕事だ。

 陣内の養子。タ=イオワンの縁者。

 彼らなら、悪いようにはしないだろう。

 徒村は。

 娘に喰われたのか。

 ざまあみろだ。




     3


 朱咲から眼を離すべきでなかった。

 強いて言うなら、ムダくんからも。

 頭部は割と綺麗だった。

 志遣が空けたはずの穴が見当たらない。

 ここから導き出せる死因に私は意見を持たない。

 朱咲の胃洗浄は不要だ。

 もう、だいぶ消化が済んでる。

 死後何時間だ。

 むしろ何時間でここまで減らせる?

「もうええか。それはアチのもんやで」祝多が言う。合図待ちの屈強部隊を控えさせて。

「ハイエナにも劣るな。葬式くらいは出してやりたい」

「燃やすもんのうても葬式はできるやろ。セキ、アチはトロツキのこと、まだ許してへんで」

「許さなくて結構だ。あいつの抜け殻は今頃お前のコレクションか」

 朱咲をこちら側に連れ戻さないといけない。

 そのためには、ムダくんを祝多に明け渡す必要がある。

 死者を取るか、生者を取るか。違う。

 天秤にかけるものが間違っている。しっかりしろ。

「どいてくれへんかな、セキ。手遅れやで。わかっとるやろ? それはもう、アチやないとムダくんには戻せへん」

「戻すの定義が私とは違う。ムダくんは死んだ。戻すも何もない」

「ああ、もう、埒が明かん」祝多が手で合図する。「早う持ってって。肉が古うなるわ」

 祝多の手足に歯向かう気はないが、みすみす奪われるのも苦痛極まりない。

 しかし、この状態ではもはや私になす術はない。葬儀屋の手配をしてやりたいが、まともな葬儀屋では卒倒されかねない。

 すまないな。

 私は、お前に何もしてやれなかった。

「アカザキ。よくもアチのだいじなもん壊しよって」祝多が部屋に入って来る。

 入れ違いで祝多の手足がムダくんを運び出した。散らばった肉片を集めるのに難儀していたようだが。

「祝多、ここは空気が悪い。上に行かないか」

「アチはアカザキに話があるんやけどな」

「朱咲も連れていく。頼むから、私の鼻を使い物にならなくさせないでくれ」

 祝多はしぶしぶエレベータに乗った。

 3階。

 祝多主張サービス事務所。鍵は私も預かっている。

 洗面所で朱咲の手と顔を洗い流した。本当は口をすすがせたかったが、唇に触っても開けようとしない。

 まだ咀嚼している。

 いずれ飲み込むだろうか。

 濡れた髪をタオルで拭って、朱咲を座らせる。座る意思がないらしく、その姿勢のままソファの座面に頭をつけた。

 咀嚼音が嫌に耳に障る。

「眠いんやけどな」祝多がぽわぽわ欠伸を見せつける。

 着替えを探してやりたいが、私にも優先順位がある。

 おそらくこれが、祝多と会う最後の機会になる。

「ここでの活動は終わりか」朱咲の隣に座った。「よそに拠点を移すのか。それとも国に帰るのか」

「そないなこと聞きたいんか? つまらんかったら寝てまうで」

 わざと照明はつけていない。

 朱咲の顔を確認するのを先送りにしたかったのと、祝多と視線を合わせたくなかったのと。

 祝多は店主のデスクに座る。もともとは祝多の席だ。

 窓から薄明かりが漏れる。

「ムダくんの父親だが」

「あーつまらん。むっちゃつまらんけど?」祝多が天井を仰ぐ。「そないなこと今更どないなるん? 誰が知りたい思うとるんや」

「私だ。お前なら知っていると思ったんだが」

 咀嚼音が響く。

 残響が耳にこびりついてそれが悪さしているようにも感じられる。

「登呂築の息子が自殺した」我孫水夏。

「で?」祝多はつまらなそうにデスクに頬杖をつく。

「そいつが死に際にな、“生まれ方は選べないが、死に方は選べる。二代目がいないなら自分らは救われない”と言っていたそうだ。こいつの意味がお前はわかるか?」

「お手上げなんか、答え合わせなんか。どっちや?」

登呂築礼仁トロツキれにんから取り上げた名字をな、カルテを整理していて思い出した。思い出すんじゃなかったよ。あまりに悔しいから、お前と共有してやろうと思ったんだ。やつあたりだよ」

 朱咲の肩を撫でる。ぞっとするほど冷たくなっていた。

 思わず呼吸を確かめる。

 よかった。鼻からのかすかな呼気が手の平に触れた。

「砂宇土夜妃、いや、塑堂夜日古も爆弾抱えて死んだんだが、奴が死ぬことを決めた理由。これも“二代目が死んだ”ことらしい。イブンシェルタの同質の七人だが、塑堂夜日古を除いた6名は、お前と登呂築の子じゃないのか?」

「セキ。アチの裸見たことあるやろ? どないしたん?」

「そういうことを言ってるんじゃない。人間創るくらい造作もないだろう、お前には」

 祝多が嗤う。

 勢いのある呼気が生ぬるい空気を切り裂いた。

「なぜ二代目がいないと自分らが死ぬしかないのか。言い換える。死にたくなるのか。二代目つまり朱咲がいなくなると、自分らが役割を代わらされるからだ。じゃあお前は朱咲に何を強いていたか。これも言い換える。朱咲がしなければいけないと思っていた、思わされていたことは何か」眼が慣れてしまったので顔を上げる。「祝多、春の戦争とやらの生き残りは、お前が望んだ通りになったか?」

 パトカーと救急車のサイレンが聞こえた。

 ここに向かっていないことだけは確かだろう。

「ゲングウとやらに会ったよ。お前の嫡子だと息巻いていた。あいつの役割はなんだ? 三代目か?それとも」

「セキ。ソチはアチの同志やろ? アチの味方やんか」祝多が言う。片膝を抱えながら。「なんでそないにアチを責めるん? クソガキを有効活用したこと、まだ怒っとるんか?」

「ああ、そうだ。お前はまたやろうとしてる。責める? 責めているように感じたか? 驚いたな。悪の権化のお前にも良心らしきものはあったのか」

「悪なぁ。ムダくんもアチが悪やゆうて追い回してくれたな」祝多が言う。抱えた膝に顎をのせて。「もうおらへんかったな。あーあ、アチに惚れるとみんな死んでまう」

「お前それ、本気で言ってるのか?」

「本気やのうたらなに? 遊びなん? 好きやった男に端から死なれるつらさは、セキにはわからん」

「リョクヤは死んだがな」緑野みなのリョクヤ。

「ああ、死んだんか。そら、お気の毒にな」祝多が抱えていた膝を解放する。「もうええか。セキやさかいに、お時間とっとったんよ。行かな。ムダくんが待っとる」

「あいつは待ってない。待ってるとするなら地獄だ。こいつはどうする?」

 咀嚼音が微弱になった。

 騒音も毎日聞いていると気にならなくなる。順応じゃなければいいが。

「セキにやるわ。アチこれでもむっちゃ怒っとるんやで。アチのだいじなムダくんあないに食い散らかしよって。セキに懐いとったやん。どないでもしたってよ」

「ゲングウとやらが代わるんだな? そいつには生殖能力があるらしいが」

 祝多が椅子から降りて髪を払う。

 逆光で表情は見えない。

「まだ続けるんだな? こんな不毛な」

「今生のお別れやで、セキ。せいぜい過労死せんように。ああ、センセにもよろしゅうな。来年の8月やったか、でっかい学会があるんやろ? センセの太鼓持ちは大変やなぁ」

「お前がやってることは、私の倫理に反する。二度と顔を見せるな」

「セキに嫌われたんは痛手やな。ほな、さいなら」

 祝多が部屋から出てすぐに窓を開けた。祝多が纏う香は、例え微量でも触れ続けていると頭と精神がおかしくなる。本人が毒の発生源。加えて依存性も高い。

 朱咲は相変わらず冷え切っている。身体を温めてやりたいが。

「聞いてたんだろ?」息だけで問うた。

 朱咲は口を開けずに頷いた。

「どうする? 祝多に捨てられたぞ」

 朱咲の紅い唇が微かに上下する。赤とも黒ともつかぬ粘液が口の端を伝う。

「1年だけでよければ、匿ってやってもいい」

 朱咲が躊躇いがちにうなずいた。

 口を拭ってやろうかと思ったが、やめておいた。朱咲の赤い舌が舐め取った。

「まったく。患者を増やすなと言っている」朱咲に聞こえるように呟いた。

 夜が明ける。

 船はおそらく大阪には行かない。

 じゃあどこに行くのか。それはお前らが突き止めろ。

 そいつは、私の仕事じゃない。




     4


 船がどこに行くかは重要じゃない。ガキを無傷で船から下ろすことが最優先。

 掘立小屋の龍華のPCで、龍華が言った通りにセッティングした。

「見えます?」手を振ってみた。

「もうちょっとマイク近づけてもらえますか」龍華が言う。

 向こうの様子もよく見える。カメラとマイクで双方向を中継でつないでいる。

「これでどうです?」

「オーケイです。化粧とか大丈夫です?」龍華が冗談ぽく言う。「まだガキ共起きてこないので余裕ありますよ」

 朝の5時。

「え、隈できてます?」

「ちょっとお疲れな顔ですね。まあ無理もないですけど」

「すいません。マイク切りますね」

 洗面所で鏡を見る。ああ、これはひどい。徹夜しました、てでかでかと顔に書いてある。

「近くにコンビニってありましたっけ?」手持無沙汰でうろうろする本部長に言う。

「行って来ようか?」

「化粧品とかわからないでしょう?」かといって、そこまでする必要があるかどうか。

 いっそすっぴんで。いやいや、化粧で化けないと結構恥ずかしい。

 陣内探偵の提案はこうだった。

 乗ってるのはフラングエイジヤなんだから、俺が説得するのが一番効果が望める、と。

 説得というのは違うかもしれない。ご主人が先導してガキ一同がそう思い込まされているなら、話をする余地があるかもと思った。

 うまくいくと軽く考えてはいない。

 最悪の結末。陣内探偵が指摘しなくたってわかる。あえて言ってくれたのは優しさだ。

「ところで陣内探偵は?」生中継の出力調整を龍華に放り投げてから姿が見えない。

「操舵室ですかね」龍華が言う。「あの人、常に最悪のケースばっか考えて動いてるから早死にしますよ」

 陣内探偵は目的地のほうを探ってくれているのか。

 むしろ陸地に着いたらタイムリミットな気がしてならない。

「シナリオは用意しませんので、お好きに喋ってください」龍華が言う。「あと、探偵さんから連絡が入ったら別回線でつなぎます。課長さんは気にせず説得を続けてもらえれば」

 モーニングコールは、6時。

 手持無沙汰な本部長が買ってきてくれたお茶を口に含む。

「私にできることがあれば言ってくれ」本部長がやっと座ってくれた。

「今更なんですけど、病院抜け出したりしてませんよね?」

「ああ、これか」本部長が上着を摘む。「志遣だよ。家まで送ってくれたんだ」

 ということは。

 志遣は本部長を自宅に置いて、その足でムダくんにヘッドショットお見舞いして。

 港で。

「志遣は」本部長が思い出したように言う。「亡くなったのか」

「ええ、はい」ビャクローに首を掻き切られて、海に落ちた。

 これで生きてたらそれはそれでしぶといが。

「銃は確かに彼の物だし、撃ったのも彼だ」本部長が言う。「だけどね、私に当たっただけだ。それだけのことなんだよ」

「ビャクローを庇ったんじゃないんですか?」

 ビャクロー本人からもらったヒントを元にパズルをつなぎ合わせると、それが一番あり得そうで。

 この人なら、やりそうだなぁと。

「なんで庇ったんです?」自分でも言ってて意味ない質問だった。

「君は、理由を聞きたいのではないね」

 ほら、バレてる。

「もう、そうゆう危ないことはやめてください」本部長の両手を取りながら言う。「置いて行かれたのかと思いました」

「死ぬつもりはなかったよ。現に助かっただろう? それでいいじゃないか」

 よくない。

 いいわけがない。

「次はやめてください」

「わかった。気をつけよう」

「あのー、いいですかね?」龍華の声が脳天から降ってきた。「そろそろスタンバイお願いしますー」

「ええと、中継は」急いで手を離したが。

「よかったですね。僕が空気読める系気が利く男子で」龍華がにっこり邪悪に笑う。

 ガキどもに見られていないならそれでいい。

「あ、探偵さんだ」龍華がキー操作する。「こっちは準備万端ですよ」

「龍華。課長さん、と揃ってるな」陣内探偵が言う。彼は音声のみ。「予想はしてたが、ちとまずい。いまブリッジにいるんだが」

「当ててあげましょうか」龍華がすかさず言う。「無人だった」

「お前も気づいてたろ? こいつ、さっきから動いてない」陣内探偵が言う。

「え、どういうことです?」

「密室ですよ。やられましたね」龍華が言う。

「ガキは一網打尽にできるとして、俺らの処分も一挙にやっちまう可能性が出てきた」陣内探偵が言う。「本部長サン、埼玉県警に連絡とってくんねえかな」

「構わないが、海なら」海保。本部長が言おうとしたことはよくわかる。

「いや、海のほうはキリュウがなんとかしてる」陣内探偵が言う。「本部長さんにはキリュウの奴を止めてほしい。アレは放っておくとすぐ敵を作る。正論しか言わん奴だから」

 なるほど。仲裁に入れということか。

「やれます?」弁舌が不得手だから不安が残るが。

「ここを離れないといけなくなる」本部長が言う。

「行ってください」

「戸締りをしっかりするように」

「わかってます。いってらっしゃい」

「無茶だけはしないようにね」本部長しぶしぶ退場。

 出入り口に鍵をかけて席に戻る。

「課長サンがどこまで知ってるか知らねえが」陣内探偵が前置きする。「ガキは趣味の悪い人形の材料になる。あいつにそこまでの情があるとは思えないが、やばいな。龍華、デッキに上がってこい。できるだけ早く」

「うわ、えげつなすぎません?」龍華が急に慌て出す。機材を片づけ始めた。

「つーわけで作戦変更だ。課長サン、ちっと待っててくれ」陣内探偵の音声が切れた。

 龍華からの映像と音声も切れたので、放送事故ではなさそうだが。

 むしろ放送事故なのか?

 電話は通じない。メールも届いたかどうか不明。

 考えろ。あの状況での最悪のパターン。

 船ごとドカン。或いは、船ごと沈没。

 いや、沈没してしまったらせっかく乗せたガキをみすみす海の藻屑にしてしまう。

 無人の操舵室。密室。デッキまで上がれ。

 そうか。

 だいぶやばい。

 フライングエイジヤのサイトにログインする。

 俺のIDはまだ使えるらしい。塑堂夜日古の置き土産だ。


 ID 00001 Oz


 Oz 〉さっさと起きて海を見に行け!

 コメントはまばら。

 もう一回言ってやろうか。創始者から特別モーニングコール。

 Oz 〉ガスだ



     5


 船のデッキ。

 ベイ=ジンの気配が消えた時点で気づくべきだった。

「寝ぐされ探偵、生きてるか?」通話先の鬼立が嫌味を言う。

「坊ちゃんが死んだかもしれない」

「ったく、あの恩知らずが」

「お前の怒りのポイントがわからん」

 お、噂をすれば。

「勝手に殺さないで下さい」息も絶え絶えの龍華が階段を這い上がってきた。「はあ、息が。できる」

 だいじそうにPCだけ抱えて。

「てめぇ、ガキの一人くらい拾ってこい」

「探偵さんだって随分身軽じゃないですか」龍華がネクタイを緩める。「僕はこれを持ってくるだけで精一杯です。むしろこれが全財産です。あ、県警的な意味ですけど」

「おい、今不穏なこと言った奴がいなかったか」鬼立が耳聡く反応した。

「気のせいだろ。それよか、海のお巡りさんはどうなった? 救助は?」

「調整中だ」

「アホか。死ぬぞ」本部長さん、間に合わなかったか。

「勝手に乗った奴が悪い」鬼立のイライラが伝わる。イライラするとすぐ手近なものをこんこんつつく癖がある。

 水平線に太陽が昇る。

 朝だ。

「うわー、朝ですよ」龍華が暢気にPCを立ち上げる。「あー、やっぱり回線死んだ」

「連絡できねえってことか」

「そうゆうことになりますかね」

「こっちは?」俺のケータイ。つながってる。

「ああ、それは僕の魔改造がですね」

「は?お前、何勝手に俺の」

「使えるからいいじゃないですか」龍華が口を尖らせる。「仕方ない。これだけは使いたくなかった裏技を使います」

「具体的に何すんだ?」

「救助ですよ。ちょっと話しかけないで下さいね」龍華がケータイを耳に当てながら距離を取る。

 朝日が眩しい。

「ところで研修はどうなった?」鬼立が言う。

「お前この状況でよく」

「だから調整中だと言ったろう。何もしてないわけじゃない」

「どうだか」

 魚かと思ったが、違う。

 なんか。

 近づいてくる。

 そこそこでっかい船。

「さすが早い」龍華がケータイを耳に当てたまま戻ってきた。「こっちですー」

 デッキに車椅子の女がいた。つばの大きな帽子を被っていて、顔が見えない。

 龍華が呼んだ救助はアレか?

「え、うわー。そうですか。そうゆうことさせますか」龍華がケータイを切って俺を見る。「飛び移れ、だそうです」

「は?梯子とかねえの?」

「急がないと置いていくだそうです」

「助けに来てんのか、そうじゃねえのかどっちだ」

 車椅子の女が腕を伸ばし、親指を下に向けた。龍華に向かって。

 この女。

 どこかで。

「何があった?」鬼立がぴーぴーうるさいので。

「またあとで」切った。

 ガキがわらわらとデッキに上がってきた。




     6


 車椅子の女――セイルーは、手足に操縦を命じると、如何にも不機嫌そうに僕を見た。

「貸しね」

「とっとと返したいんで見返りを要求してもらって結構ですよ」僕は頭の中の電卓を叩いた。加減乗除で計算ができる範囲ならいいが。

 探偵さんはガキに特別上映会を開いてくれている。元フライングエイジヤ創始者の有難いお言葉だ。

 岸に着くまでの暇つぶし程度の娯楽に成り下がってもらっては困る。

 岸に着いたあとのガキの行く末を決定すると言っても過言ではない。と云って創始者にプレッシャーを与えておいたので、いい加減なスピーチもしまい。

「徒村が死んだそうね」セイルーが言う。僕を捨てた出生地の言葉で。

「あ、そうなんですか」あえて日本語で返す。

「ざまあみろじゃないの?」

「どうでしょう。奴のお陰で探偵さんに会えたわけなので」

「結果論でしょう。そんな話はしてないわ」セイルーは僕の返答が気に入らなかったようだ。

 手足に速度を落とせと無茶を云っている。

 仕方ない。

 探偵さんに上映会を全任せするのは心苦しいが、世間話に付き合ってやるか。

「もともと出来レースだったんじゃないんですか」春の戦争とやら。「風の噂で聞いたところによると、貴女は中立とか云って不戦敗を気取ってたぽいですが。徒村が死んだくらいで何かが変わるとも思えない」

「助け損よ。どっかの餌もまんまと生きてるし」セイルーは相変わらず日本語を喋らない。

 爪先まで覆う、丈の長いスカートの下。

 脚でもヒレでも尻尾でも本当に心底どうでもいい。

「僕を何と合成しようとしてたんです?」

「あんたなんか餌よ。助けたとでも思ってる?」セイルーがちら、とドアを振り返る。

「餌をちらつかせておいて申し訳ないですけど」それはさせない。させないために足止めをしている。「僕の命で何とかなりませんか?」

 セイルーは、探偵さんに若干因縁がある。

 放逐した僕を助けたことがあるから。恨みつらみがそこそこ積っているはず。

「そもそもあんたのほうを殺したくて来てやったのよ。それで今更合成のこと聞いたの?」セイルーが嗤う。日本語ではない。「本当に合成される気あるの? 餌でしょう? 生きたままカンディルの水槽に放り込んでやるわ」

「最悪ですね。内側から食われるじゃないですか」

「やめるわ。想像したら気持ち悪くなってきた。チューザじゃないんだから」セイルーは、うんざりとばかりに首を振る。「あの子もうダメよ。使い物にならないわ」

 徒村が死んだ。

 チューザが使い物にならない。ここから推測できる顛末は。

 タ=イオワンの出方が気になるが。

「あっちの島がダメージなら、貴女の島が潤うんじゃないんですっけ?」

「そう簡単に行くと思う?」車椅子の女が言う。日本語じゃない。「どうなろうと上は据え置きなの。機嫌が悪くなって当てこすりされるのよ。そうなると私にもとばっちりが来る。負の連鎖ね」

 つまり、自分の機嫌が悪いのを察しろと。そう云いたいらしい。

「徒村に気があったんですか?」

「冗談にしたってないわ。性癖が黙示録レベルで歪んでるのよ」

「へえ、それはそれは」どうでもよくなってきた。「あ、そうでした。2週間だけ待ってもらえません? 一応研修中なので」

「2週間待ったら死ぬの?」

「本当に死んでほしいんですか?」

 電話が鳴った。

 探偵さんから。上映会がそろそろ終盤なのだろう。

 次の出し物を考えるか、運航速度を上げてもらうか。

「では、2週間後にまた」

「なんで生きてるか考えたことある?」セイルーが日本語で言う。僕の後頭部に投げつける。

「悪運が強いんでしょうね」

「そういう意味じゃないわ。ねえ、どうやったら無傷で陸に上がれるのかしらね」

 わざと返答せずにレストランに戻った。

 探偵さんが嫌そうな顔でこちらを見る。ガキの遊び相手をさせられている。

「ガキに好かれることじゃないでしょうかね」

「あ? 意味わかんねえこと言ってねえで、さっさと代われ」探偵さんが言う。

 徒村もガキに人気があったとかなんとか。

 噂でしかないが。

 セイルーがあえて陸に上がってまで僕を殺しに来るとは思えない。今更僕なんか殺したところで何の得もない。

 後継の座は揺らがない。

 僕が生きてようが死んでようが。




     7


 ムダくんの遺体を祝多が持って行ってしまったので、葬式ができない。

 お別れ会でもしようかと思ったが、集まりが絶望的に悪いので諦めるしかないようだ。

 祝多出張サービスには、三代目が居座っている。

 祭地玄宮。

 時折ビャクローの姿を見かけるが、特に話しかけても来ないので素通りしている。

 県警本部の敷地内の掘立小屋だが、再びそこを対策課の事務所にしてもらうよう本部長に頼んだ。

 祝多出張サービスの2階には行くなと瀬勿関先生に首を振られたのが大きい。

 俺としては、対策課が存続できれば別にどこで事務所を構えようが構わない。

 ムダくんが死んだ日から2週間が経った。

 埼玉県警の研修もなんとか終わり、龍華は本拠地に帰った。

 陣内探偵は、2週間前にはすでにいなかった。龍華が云うには、フランスに戻ったのだろうとのこと。

 フランスで探偵業を営んでいるのだろうか。

 最後まで素性のわからない謎な人だった。

 愛すべきフライングエイジヤだが、ときどきSNSを見る程度。

 塑堂夜日古亡きいま誰が運営しているのかは知らない。存続してくれればそれ以上は望まない。

 イブンシェルタは瀬勿関先生がきっちりフォローをしてくれている。もともと自分の仕事の範疇だとのこと。

 生き残りの幹部は絶賛治療中。治療プログラムの是非にまで口を出すつもりはない。

 志遣の遺体はあがらなかったらしい。魚の餌になったとは思えないので祝多が回収したのだろう。

 本部長の怪我だが、志遣が本部長の座を乗っ取るために大げさに機械を繋げていただけだったというオチ。

 俺の涙を返せ。

 云う相手がこの世にいないので呑み込むしかない。

 そんなことしながら夏が来て、もう一回夏が来た。

 ムダくんがいなくなって一年経った。

 亡くなった場所に花とか線香とかお供えしたい気持ちでつい、祝多出張サービスの2階に行った。手ぶらだけど。

 瀬勿関先生には内緒で、本部長にも黙っていた。

 鍵は閉まっていたけど、俺が持ってた合鍵で開いた。

「お邪魔しますー」と言って気づいたけど、もともとここ俺の事務所じゃん。

 先ほどの発言を訂正します。

「ただいまー」

「おかえりなさいませ」よく通る凛とした花のような声がした。

 応接室から奥の事務所に通じるドアを、俺は勢いよく開けた。

 茹だるように暑い室内に、ご主人がいた。

 幽霊でも別に良かった。

「お久しぶりですわね」




     Eラー5


 いかがわしい高級ホテルに来たはいいけど、本当に使い物にならなくっていまスーザちゃんに拗ねられている。

 気合の入りまくった真っ赤なベビィドールの背中が僕をあらん限り責めるが、使い物にならないものはならないのでと居直るほかない。

「ボーくんとはなさるのに」スーザちゃんが背中を向けたまま言う。

「性癖が歪んでるんだよ」

「知ってますわ。そんなこと、あえて仰らないで下さいまし!!」

 あーこれ駄目だ。完全に怒らせた。

 無言に耐えかねて、テレビをつける。

 害にも薬にもならない昼過ぎの番組。

 ドラマの再放送がやっていた。チャンネルを一周した中では一番マシだった。

「ドーピングをすれば望みはありますかしら」スーザちゃんが呪詛みたいに呟く。

「いや、君が仕入れるとなると本当に毒でしょ。やめようよ」

「どうしてここまで歪んでしまわれたのです?」

「言った方がいい?」

 スーザちゃんは知っている。知っていてその上で聞いたってことは、これは質問じゃない。

 非難だ。

「もう結構です! 何も仰らないで!!」スーザちゃんは布団を被ってしまった。

 ドラマは序盤の冗長なシーン。

 起承転結で言えば、起ですらない。

 何が始まるともわからない。きっと何も始まらない。

 僕とスーザちゃんみたいだ。

「テレビを消してくださいまし」スーザちゃんが布団の中から言う。

「いいけど、無音に耐えられないから何かしようよ。トランプとか」

「わたくしがしたいことはしていただけないのに?」

 うーん、何言っても地雷か。

 とりあえずテレビは消そう。

 無音。

 スーザちゃんが布団の中でもぞもぞする音が聞こえる。

 もぞもぞしながら、僕に近づいてくる。地中のモグラを連想させた。

「何度でも言うけど、僕は年下興味ないよ」

「知っていますわ」

「君だって別に僕のこと好きじゃないでしょ」

 返事の代わりに、スーザちゃんが布団から顔を出した。ベッドの上。

「好きだって思い込んでるだけだよ。ねえ、そろそろ諦めない?」

「嫌ですわ」即答。

「どうして? 絶対実らない不毛な恋だよ」

「それでも」わたくしは。スーザちゃんが口ごもった。

「君が背負ってる重い重い荷物を下ろしても、やっぱり僕が好きだとか言える?」

 スーザちゃんが手を伸ばす。

 僕に取れと言っている。僕は首を振る。

「荷物を下ろしたとしても、僕は君を好きにならないよ」

「ひどい」スーザちゃんの手が顔を覆う。

「デートでも行く?」

 スーザちゃんが首を振る。

「せっかくクリスマスだし?」自分で言っていてわけのわからない話題転換だった。

 クリスマスだからどうだというのだ。

 どうもしない。

 ケーキを食べなくたっていいし。鍋を食べたっていい。

 一人で過ごしたっていいし、いつも通り仕事をしたっていい。

 スーザちゃんはそうか、僕と一緒にいることを選んでくれたのか。

 何をしたっていい日だってのに。

 なんだって僕と一緒になんか。

「スーザちゃん」

「帰りませんわよ」即答。

「帰らないから話をしようよ。テーマはそうだなぁ。“共通幻覚がもたらす遺伝的環境的素因と家系研究”」

「なんですのそれ?」スーザちゃんの眼を僕に向けることには成功した。

「僕の知り合いの教授が書いてる論文。全然面白くなさそうでしょ? 論文じゃなくて小説にしとけばいいのに。あ、タイトルは暫定らしいから最終的には変わるかもだけど」

「どうでもいいですわ」

「そうだね、どうでもいいね」

 沈黙。

「スーザちゃんが必死になってるのは、僕が死ぬかもって思ってるから?」

 スーザちゃんが首を振る。

 僕の発言が間違ってるていう意味じゃなくて、僕の発言ごと根こそぎ否定したいみたいに。

「確かにスーザちゃんよりは早いだろうね。寿命的にも、運命的にも」

「殺させはしませんわ。わたくしが絶対に」

「どうかな」

 スーザちゃんが僕の手の上に手をのせる。

 小さい手だった。

「死に急いでいるわけでは御座いませんのでしょう? わたくしを捕まえていただかないことには」

「死んだって地獄から連れ戻すって? 案外ここより住みやすいかも」

 ぎゅうと手を握られる。

 眼が覚める力強さだった。

「スーザちゃんは知ってるかもしれないけどさ、僕は一回死んだんだ。だからなんていうかな、いま生きてるこれは余剰分ていうのかな。やり残したことがあってそれがあまりにも悔しくて暴れまくってるのを見るに見かねた神様が、それじゃあやり残しだけやっといでってチャンスをくれたんだと思うんだよ。だから目的を見失っちゃいけないし、目的遂行を最優先で動かなきゃいけないし、目的を達成したら速やかに地獄に戻らなきゃいけないわけで」

 現世に来たはいいけど目的は叶えられそうにない。

 心残りのターゲットはすでにこの世にいなかった。

 いっそ地獄に戻ったほうが会えるかもって思ったりして。

「君の所為だよ」

 スーザちゃんがタ=イオワンを殺すから。

「君が生まれてさえ来なければ」

「代わりにわたくしを殺して下さればいいのに」スーザちゃんが感情を排した声で言った。「ママを殺した憎い憎らしいわたくしを殺して、それで地獄にお帰りになればよろしいのに」

 スーザちゃんの眼は、なぜしないのかという非難に満ち満ちていた。

「わたくしは、いつでもその準備ができておりますわ。ムダさんがいつもお持ちの凶器もそのためのものでしょう? 何を躊躇うことが御座いますの? こんな小娘如き、手にかけるのは容易いことではありませんの?」

「そうだね」

 自分で聞いてて不快で煮えくり返りそうな相槌だった。

 そうだね?

 どの口がどの脳が。

「できない」

「どうして?」

「君を殺したって気は晴れない」

 最低だろう。気を晴らすために殺すのか。

 違う。

 悪は滅ぼさなければいけない。

 タ=イオワンは悪だ。あいつを殺さないと。

 また沢山の子どもが犠牲になる。

 僕は運よく生きてるけど、いっそ死んで訳のわからない人体模型の材料になったほうが楽だったかもしれない。

 生き地獄。

 生きたって死んだって地獄なら、生き延びて地獄の元凶を断つ。

 誰にも頼まれてない復讐。

 誰にも望まれてない正義。

 僕は、空っぽだ。

「わたくしの為に生きて戴くことはできません?」

「無理だよ」即答。

「わたくしではムダさんの灯明にはなりませんの?」

「駄目だね」即答。「生きる意味なんてものは海に流しちゃったから」

 スーザちゃんは明るすぎる。

 僕では眼が焼ける。灼熱の太陽。

「つまんない話になっちゃったね」

 そのあと結局スーザちゃんとホテルに泊ったのか、それとも仕切り直してデートに出掛けたのか。全然思い出せない。

 スーザちゃんの機嫌が直ったとも思えないし、僕もきっともやもやを抱えたままだろう。

 あのときと同じ高級ホテルの同じ部屋。

 わかっててやってるならそれはそれで。

 スーザちゃんに少なくとも外見はそっくりなゲングウは、ビャクローを部屋から追い出した。

 黒いワンピースの下は、真っ黒のベビィドール。

 サングラスの下と同じ色。

 真っ暗闇。

「どうされましたの?」ゲングウが言う。

「いや、君はスーザちゃんじゃないんだなぁって考えてた」

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