第4章 亡くや緊迫の郷(エルドラド)

     1


 半時間ほど日を跨いで研究所に護送が完了した。イブンシェルタ幹部残り4名。

 志遣も付き添った。別に不要と断ったが、護送中に何かあった場合、自分の責任にしたかったのだろう。

「お前が後任か?」先生が身体拘束用の磁石を振り回しながら近づいてくる。「私はここの所長を務める瀬勿関セナセキだ。そこの甘味料課長が世話になったな」

「甘味料? ああ」志遣が俺の顔を見て頷く。「なるほど。勉強になります。申し遅れました。私は志遣しやるといいます。こころざしが遣る瀬ないと書きます」

「他の言い方がないか」先生はエレベータのボタンを押す。「朝まで甘味料を借りる。何かあれば遠慮なく連れ戻してくれ」

「先生はここで何を?」志遣が去り際に言う。

「解剖だよ。お前が使い物にならなくなったら引き受けてやってもいい」

「精神科と伺っていますが」

「だから、解剖するんだ、脳をな。私より世の中に貢献する医者は国内にそうはいない」

「頼もしいですね。夜分お疲れ様です」

 志遣の捨て台詞は、皮肉か本気かわかりづらい部類だ。

 3階の所長室。入ったことはあっただろうか。お世辞にも片付いているとは言えない。

 先生が白衣のボタンを外してソファに腰掛ける。

 予想通り。下着のみ。黒。

 いっそ全裸のほうが健全ではなかろうか。欲情しか煽らないデザイン。

「一応上司殿に気を遣ったんだ。こんな夜分にやる気を出されても部下が休めん」

「ぶれませんね」正面になんか座ったから眼のやり場がない。「どこまでご存じで?」

「お前の口から聞きたい。お前の治療も含めてな」

「徹夜は肌に悪いすよ?」

「私はお前の主治医だ」先生が言う。「この方法が、いまのお前の安眠に最も効果がある。もちろん、眠くなればベッドを貸すぞ」

「地下のほうでしょう? 冗談じゃないすよ。絶対寝るもんか」

 順を追って話した。

 本日未明本部長が撃たれた。

 少なくともここ1週間ご主人と連絡が付かない。

 塑堂夜日古そどうヨルヒコから対策課に名指しの連絡。

 塑堂夜日古が観覧車にイブンシェルタ幹部6名(本人含む)を乗せ人質に。

 塑堂夜日古が爆弾と共に自殺。

 イブンシェルタ幹部5名に命の別状はなかったが。

 イブンシェルタ元代表 我孫水夏あびスイナの逃走と自殺。

 フライングエイジヤが、イブンシェルタを吸収。

 弾はまだある。

「足りないな」先生が言う。ペットボトルを俺の前に置いた。「意図して言わなかったことがあるだろう。朱咲スザキ周り、ムダくん周りの情報が著しく欠如している」

 やっぱりバレたか。この女に嘘はつけない。

 口の中が干上がる。

 一気に半分ほど水を飲んだ。

「20年前の、憶えてますか」

「忘れるわけがない」先生が言う。「大王がお前を連れて来た。いいものをもらったじゃないか」

 指輪。

「なるほど。大王は撃たれることがわかってむざむざ出掛けたことになる」先生が言う。「この世に未練があってはできないと思ったんだろうな。あいつの考えそうなことだ」

 指輪に触る。

 冷たい。

「ご主人の双子の妹に会いました。それとお付きの白い女、じゃないか。男になってた。ビャクローというんですが」

「20年前の連続眼潰しの犯人もビャクローというんだが。同一人物か?」

「あんまり憶えてなくて」

「だろうな。まあ、そこはあまり重要じゃない」先生が言う。「祝多が死んでて、そっくりの女が帰ってきた。胎にムダくんのガキを仕込んで」

 は??

 いま、

 なんて?

「状況を整理すればそのくらい推測できるだろう」先生が言う。「なぜムダくんは、そこまで祝多殺害にこだわったか。何のことはない。証拠隠滅だ。悪人のすることだよ」

「どういうことです?」

「大王が気がかりで頭が回ってないな。奴は必ず戻って来る。お前を置いてどこにも行きはしないさ。あいつはお前を守ることに関しては、それこそ命を賭ける。ビャクローは、その朱咲の双子の妹とやらに指示されて、大王を呼び出したんだろう。来なかったらお前の命はないとでも言えば、あいつは断らない。ここで問題になるのは、果たして大王は誰に撃たれたかということだ。お前の推理は?」

 第一発見者と救急搬送の手配は、志遣。

 徒村等良は、アダムラナドヨシではなくトムラヒトラ。

 私は、荒種前本部長を撃ったのは徒村じゃないかと思っています。

「わかりません」

「お前はどう思ってる?」

 首を振る。

 考えたくなかった。考える気がなかった。

「内容が内容だからな。無理もない。私も無理を言ったな、すまない」先生がバツが悪そうな顔をする。演技だろうけど。「志遣が第一発見者で、救急要請も志遣で。なんでそこでムダくんが出てくるんだ?」

 確かに。言われてみたら。

「志遣ってのは一体なんなんだ? 祝多を捕まえる部署なんかあったか?」

「何が言いたいんです?」

「ちょっと裏を取ってやる。どうにもこのタイミングでいろいろが揃いすぎてる。春の戦争はあらかじめ予定にはあったが、なんで情報が漏れてる? だいたいこのタイミングで埼玉県警から対策課の研修なんか組むか? どうにも出来過ぎてると思わないか」

「志遣が怪しいってことです?」

「あんな物分かりのいい奴が警察関係者のわけがない」

「それは偏見じゃないすかね?」

 先生がおもむろに立ち上がって伸びをする。

 部屋の時計は3時過ぎ。

「さすがに脳がエネルギィ切れの悲鳴を上げてきたな。甘味料、チョコとか持ってないか」

「ないすよ。その辺の戸棚に隠し持ってないんすか?」

「役に立たんな」先生がデスク上の受話器を耳に当てる。「ああ、私だ。チョコか何か甘いものがあったら至急所長室まで。なに? ない。そうか。特別にバイクのキーを貸そう」

 こんな時間にコンビニにチョコを買いにパシらされる部下。いや、たぶん相手は。

「すまんな、ゴトー。いつも助かっている」先生が電話を切った。「物資が届くまで休憩だ。トイレはそこを出て、十字路を左手突き当たりだ。右の突き当たりが男子トイレだから。あ、お前どっちのトイレに入ってるんだ?」

「男ですよ! わかりました。右すね。いってきます」

 特に行きたくなかったが、なんとなく部屋を出たかった。

 先生は、去年の冬の事件で、ここに勤める看護師と再婚した。いや、書類上はどうか知らない。式もしたという噂は聞かないし、先生がウェディングドレスとか白無垢とか、鼻で笑えるほどに不似合いだ。

 先生も指輪をしている。それと同じものを、先生の部下の看護師もしている。

 ただそれだけなのかもしれない。

 俺だって、外と中の性別の問題があって、式とか籍とかはどうにもならないけど、これはもらった。小頭梨英が欲しがった金属の証。あのときの証はなくしてしまった。死んだときに地獄に置いてきてしまった。

 なんで、こんなことになったんだろう。

 俺が返事しなかったら、あなたは行かなかったですか?

 俺が頷かなければ、この世に未練が残って、ビャクローに会いに行ったりなんかしなかったですか?

 わからない。わかりたくない。

 鏡に映る、髪の長い眼鏡の男は、あなたの心残りじゃないんですか?

「甘味料! いるか」廊下につながるトイレのドアが開け放たれる。「行くぞ。クソガキが港に集まってる」

 ああ、やっぱり。

 予想ができていたというより、祝多が帰ってきているなら、またやるだろうという確信。

 あれは、

 二度ほど成功している。

 先生はエレベータで上がってきたばかりの看護師(使いパシリさせられていた部下)からチョコレートだけ奪い取って、入れ違いにエレベータに乗る。

 エントランスは2階にある。

「まったく、クソガキは早く寝ろと説教してやりたいが」先生がガレージで車に乗る。運転席に。「ほら、何してる。特別サービスに私が運転してやる」

 急発進。シートベルトはぎりぎり間に合った。

「祝多だ」先生が言う。「あいつはまたあれをやろうとしてる。塑堂のガキは死んだ。幹部は全員拘束中。ったくどこの誰が」

「先生、チョコ食べたほうがいいすよ」

「どういう意味だ」

 フライングエイジヤと、イブンシェルタ。

 この両方に指示を出せる、支持のあるガキ。

「ご主人」

 よかった。

 生きてる。



     2


 あのにおいがした。

 たぶんこのにおいのせいで僕は気が狂った。

 嫌な音。

 ぐちゃぐちゃと。

 内臓をかきまわす音。

 何をしているのかすぐにわかった。

「スーザちゃん」

 返答はない。

「スーザちゃん」

 それでも返答はない。

「君はそれでいいの?」

 聞こえていないはずはない。

 わざと無視している。

「君は僕のことを好きなわけじゃないんだ。説明したはずだよ。君は、タ=イオワンの所有物であった僕を奪うことで、タ=イオワンに復讐っていったらちょっと違うかもだけど、目に物見せたかったんだ。ざまあみろって笑いたかった。その程度のことで、こんなことまでする必要はないんだよ」

 やめない。やめろと言ってもきかないなら。

 力づくで。

 腕と脚が動かない。

 終わるまで抵抗するな。そういうことだろう。

「ビャクロー?いる?」

 返答はない。

 たぶん、いない。

 スーザちゃんが追い駆けさせた。

 手も足も動かない脅威でない僕相手に、護衛は要らない。

「ビャクローは君の即位というか継承を見届けられるの?」

 一瞬だけ動きが止まった。

 また再開。

「彼、いや、彼女? どっちでもいいか。便宜上彼ってことにするけど、彼は君のために脳を削られてきた。すべては君のためだ。ちょっとでも彼に恩を感じているなら、彼のためにも即刻彼を追いかけて」

「ビャクローが尽くしていたのは、ゲングウの方ですわ」

 動きが止まった。

「やっと喋ってくれた。スーザちゃん」

「どうして」

「どうして?」

「わたくしの想いは嘘だと仰るの?」

「だって」

 言わないで。スーザちゃんはそれだけのために僕の口を塞ぐ。

 言わないと。君は囚われたまま一歩も動けない。

 月の光が刺さる。

 僕が発しようとした呼気が端から呑み込まれる。

 無意味だ。

 無為だ。

 僕の声帯を潰さない限り、僕は喋り続けるから。

 言っても尚この無意味な行為を続けるというのなら。

「やっぱり君を殺すしかないよ」

「その方がマシですわ」

 顔は見えない。

 逆光。

 唇が異様に朱いことだけはわかる。

「でも君は生きたい」

「ムダさんは違いますの? わたくしと一緒に生きては頂けない?」

「タ=イオワンに愛されたが最後、僕は最期はあの部屋で人形になるだけだね」

「そんなこと、わたくしがさせませんわ」

「無理だよ」

「いいえ、わたくしが」

 顔に水滴が落ちる。

「泣いてるの?」

「わたくしでは駄目ですの?」

「うん、そうみたい。ごめんね」

 それでも離れてくれない。

「諦め悪いね。無理だと思うよ」

 それでも離れない。

「スーザちゃん」

「嫌です」

「スーザちゃん?」

「わたくしがどいたら、わたくしを振り切って行くのでしょう?」

「それも無理だよ。手も足も動かない」

 時刻もわからない。

 まだ外は暗そうだけど。

「スーザちゃんが僕を手に入れたって、すぐにあきるよ。だって手に入れることが目的なんだから。関係を維持しようとは思わない。だから僕はあきちゃったスーザちゃんに殺される」

「どうしてそんなこと仰るの?」

「スーザちゃんに殺されるくらいなら、僕が殺してあげるよ。手のこれ解いて。銃もどっかあるでしょ? 一発で逝かせてあげるから」

「それを違う意味で聞きたかったですわ」

「スーザちゃん」

「嫌です」

「意味ないよ」

 スーザちゃんが首を振る。

「ないんでしょ?」

「あります」

「ないよ。さっきも言ったけど、取り出すところ見てたんだ。君にはない」

「その子は、ムダさんに利用されて置き去りにされた悲しみで自ら命を断ちましたわ」

「てことにしたいだけでしょ? あのときの利用された子は、君だよ」

「違います」

 待てよ。

 本当にそうか?

 あのときの子が、本当に死んでいて。

 眼球がなかった姉のほうが。

 本当に?

 姉になかったのは眼球?子宮?

「ねえ、君は本当にスーザちゃん?」

「ええ」

「僕の記憶だと、スーザちゃんには子宮がないんだけど」

「ええ、そうですわね」

 ちょっと待って。

「わかんなくなってきた」

「何もわからなくてよろしいですわ。いまここにいるのは、わたくしとムダさんの二人だけ。それでよろしいですのよ」

 駄目だ。

 流されちゃいけない。

 でももし、僕が勘違いしてて、まったくの思い違いをしているなら。

「スーザちゃん、やめよう」

「やめません」

「こんなことしたって」

「わたくしは最初からこうしたかった。そうお伝えしていたはずですわ」

 首を振る。

「なぜ?」

「言ったほうがいい?」

 白い指が僕のみぞおちあたりを撫でる。

 這う。

「言わないでほしいですわね」

「ねえ、言わないからやめよう。ね?」

「じゃあ仰ってくださいな?」

 立場が逆転してきた。

 そうか。

 この短い弁論の間に飛び越えちゃったのか。

 まずい。

 そうなると、僕の説得はまったくの無意味。

 彼岸に向かって怒鳴ったって、川を泳いで戻ってはこない。

 なんで。

 渡っちゃったかな。

 渡らせたのは僕か。

「ねえ、スーザちゃん。万一君の思い通りになったとする。その子どうするの? 育てるの? 育ててどうするの? ベイ=ジンもタ=イオワンもいないなら、その子は後継者だよ」

「ですから、わたくしと、ムダさんでママのあとを継ぎますのよ? わたくしたち二人で仲睦まじく。素敵なことではありませんの?」

「最悪だね」

 なんで僕が憎んでやまない悪の巣窟に婿入りしなきゃいけないのか。

「どの道、わたくしが継がなくても、兄がいますわ。ママのお気に入りのお父様から生まれたがために、いろいろと破格の待遇を受けていますの。そんなの卑怯でしょう? ずるいですわ」

「へえ、そのお兄さんは知らないな」

「知らなくて結構ですわ。ムダさんがわたくしの伴侶になって頂けるのでしたら、兄など殺します。不要ですわ」

「ああ、なるほど。そうやって血を濃くするわけか、君のところは」

 だったらますます。

「君の望みを叶えるわけにいかないな。どいてほしい。君を殺して、ビャクローを殺して、最後にセイルーを殺さないといけないんだ」

「なぜセイルーが最後ですの?」

「ちょっとした恩があってね。最後にするって約束したんだ」

「まあ、誰にでもお優しいのね」

「なんならお兄さんとやらも殺そうか?」

 タ=イオワンの血を断絶させるために。

「わたくしを最後にしてくださらない? わたくしと添い遂げたら、わたくしが自動的に最後になりますわ」

「ねえ、いい加減にしようよ。僕は君のことをどうとも思ってない。君も僕なんか手に入れたって、その場の満足でしかない。みんな僕が殺した。君はもう何にも縛られていない。これからは自由に」

「ですから、あなたしかいないと言っていますでしょう? ムダさん。いいえ」

 スーザちゃんの顔がはっきり見えた。

 月が照らす。

 その顔は。

「言わなくていいよ」

「お父さま!!!!!!」

 対策課の事務所が軋むほどの金切り声だった。

 僕の声を完全に打ち消した。

「いいって言ったのに」

 スーザちゃんが抱きついてくる。

 無意味で無為な行為。

「言わないでほしいって、言ってたのはそっちだよ」

 スーザちゃんは泣いている。

 泣くほどのことだろうか。

 僕と君の血がつながっているくらいで。

「好きです」

「うん」

「愛していますの」

「うん」

「ママは生きています」

「だろうね」

「ムダさんも生きてください」

 無理だよ。

 気が遠くなってきた。

 もうとっくに限界だったのかもしれない。

 頭撃ち抜かれてたんだから。

 真っ黒に染まった手でスーザちゃんが必死に血を止めようとするけど。

 意味がない。

 とっとと病院連れてっても間に合わなかった。

 いわゆる、即死ってやつだったから。

「ムダさん! ねえ、お返事なさって!! お願いです」

 お願いされてもできないことはできないんだ。

 ごめんね、スーザちゃん。

 さよなら。

 地獄でまた。



     3


 港に大きな船が止まっていた。貨物用ではなさそうだった。

 人間用か。

 続々とガキが乗り込んでいる。

 こんな丑三つ時に。

「乗ったほうがいいと思います?」先生に聞いた。

「帰って来れないのはデカい損失だな。全世界の」

「そうすよね」

 かと言って手をこまねいて見ているわけにもいかない。

「どうする? 海の上じゃ、管轄が違うだろ」先生が言う。

 笛が聞こえる。

 本当に?

 耳の外から聞こえる音を拾ったのか、脳の内で鳴った音を拾ったのか。

 いまの俺にはガキを説得する術を持たない。

「どこに向かってると思います?」

「目的地で迎え撃とうって?」先生が息を吐く。「それこそお前らの手の届かない管轄外だ。祝多と直接話ができればいいんだが」

「船のほうはすでに手配済みです」志遣が外灯の下にいた。「タ=イオワンが存命なら、船には乗っていないでしょう。居所に心当たりがありますか」

 志遣の足元に何かが落ちる。

 点々と。

 それは。

「お前、それ」先生が駆け寄ろうとしたのを。

 志遣が遮る。

 その理由がすぐにわかる。

 志遣の首から黒い飛沫が舞った。

 ひゃははははハははははははハハはははははっは。

 狂った笑いが追いつく。

 白い青年。

 こちらを見てにやりと裂ける。

「先生」後ろに隠れるように合図したつもりだったが。

「お前に守られるようじゃ主治医失格だよ」先生は白衣の裾を風にたなびかせながら言う。「お前がビャクローか。はじめましてでいいか。祝多と話がしたい。一緒に来てないか」

「りえーちゃんは傷つけんなって言われてっしよー」ビャクローが足元に転がる志遣を踏みつける。「いちおなぁ、アダムダくんの弔い合戦だったってわけよ。これ、捨てちまっていっかぁ?」

 ビャクローの足が、海の方へ蹴りを。

 いま、

 なんて?

「りえーちゃんのだいじな部下くんは、こいつがヘッドショットかまして死んじまった。ざーんねん」

「ウソだ」

 信じたくないし、信じない。

 何がどうなってそうなる必要性がある?

「落ち着け、甘味料」先生は冷静だった。「ビャクロー。その足の下の塊をどうしようが私には関係ないが、祝多への手土産にするのもいいと思うがな。なにせそいつは、祝多を捕まえるために遥々警察庁から出向いてくださったエリート様だ。材料にしたら愉しみが増すだろう?」

「あ?おねーさん何するヒト?」ビャクローが先生をじろじろ見る。

「祝多の旧友だよ。向こうがいまもそう思ってくれていれば、だがな」

「ビャクロー。それを拾って去りなさい」黒い靴が見えた。

 漆黒の髪。黒一色のドレス。

 今朝、というか日付的には昨日の朝だが、ここで会った黒い少女。

 月明かりしかない深夜でもサングラスが必要らしい。

「瀬名先生。お初にお目にかかりますわ」黒い少女はドレスの裾をつまんでお辞儀した。「お母さまがお世話になっております。わたくしはお母さまの嫡子、祭地玄宮さいちクロミヤと申します。ゲングウとお呼び下さいまし」

「私は祝多に会わせろと言わなかったか」先生が言う。

「ええ、ですから、お母さまがお話があると」ゲングウが客船を見遣る。眼線はわからないが、顔がそちらを向いた。「どうぞ、お乗りになってください。そろそろ出港の時間ですから」

 笛が聞こえる。

「乗ったが最後、帰って来れないと困るんだがな」先生が言う。

「ご安心ください。目的地は大阪ですわ」ゲングウが答える。

「新幹線のが速かないか」

「終電が行ってしまいましたもの」

「どうする?」先生が俺に聞いた。

「世界的損失なんでしょう?」だったら。「俺が行きます」

「呼んでいますのはトールではありませんのよ」ゲングウが言う。

 笛が鳴る。

「どーすんだってーの」ビャクローが地団太を踏む。志遣の上で。

 笛が啼く。

「なんとか陸地で会えるように会合の場を整えてくれないか」先生が言う。「無理なら電話でもいい」

 電話が鳴った。

 先生の。

「お出になったら?」ゲングウが言う。

「失礼」先生がケータイを耳に当てる。「ああ。絶対に見ていると思ったよ。久しぶり。元気そうじゃないか。船のほうは知らん。確かに私は賛成しないし、妨害されているんなら願ったり叶ったりだが。ふうん。最後の最期にやることはやってったてことか。いや、こっちの話だ。それよりこんな開放的な場所じゃ話も弾まん。いまどこだ?」

 相手は祝多か。

 こっそりムダくんのケータイを鳴らす。

 出ない。

 留守電にすらならない。

 嘘だと思いたい。でも現に志遣は首を掻き切られて死んだ。

 あの人も、ビャクローが撃ったんなら。

 本当に?

 なんだ?

 喉に小骨が引っかかったみたいな違和感。

「りえーちゃんよ」ビャクローがナイフを放り投げて手遊びする。志遣だったものに腰を下ろして。「いまの見てわかっちったろ?俺の得物はこいつね。ひきょーな飛び道具がお得意なんは、軍隊か、ケーサツか」

 この想像を掻き消したい。

 あの人の救急搬送を手配したのは、誰だった?

「ビャクロー、黙っていて」ゲングウが静かに言う。

「へいへーい。濡れ衣着せられっぱなしつうんも、あんまりっつーかねぇ」

「薔薇の餌にされたいの?」ゲングウはビャクローを見ない。

「どーせラストチャンスじゃんよぉ。甘く見てくださいってーの」ビャクローが立ち上がって、足元の志遣を勢いよく蹴り飛ばす。

 海に。

 落下。

「ひゃーっはっははhっはっははh。クソざまあねーなぁってなぁ!!!」

 志遣だったものが闇に呑まれる。

 拾いに行こうとは思わなかった。

「そうそ。そいつがおにーさんに大穴空いた真実ってわけよ」

「ビャクロー」ゲングウが言う。「あなたは誰の牙?」

「わーってますっての。りえーちゃんにちったぁいい顔させてくださいーって」

 本部長を撃ったのは。

 ビャクローじゃない。

「甘味料。目的地で迎え撃つ案だが、改めて採用と行こうじゃないか」先生が電話を白衣のポケットに入れた。「それと残念な報せがある。どうやら本当に」

 ムダくんが死んだ。

 うるさい。

 笛が鳴り已まない。




     4


 昨日桜を見た公園。

 人通りはまだない。

 やや霧がかかる。

 視界が悪い。

 白の気配。

「よお、ひっさしぶりー」

 相手の姿は見えない。

 でも確実に、向こうからは見えている。

「りえーちゃんに想いは届いたかよ?」

「余計なお世話だよ」

 白い気配は、ひとしきり笑った後、私にこう言った。

「俺に殺される準備はできたぁ? おにーさん」

 その少女には、

 私を殺す正当な理由がある。

 いや、少年か。

「俺俺。ビャクロー。女の子じゃねーから違げぇって思ってんのー?」

 白く長い髪。

 体格も幾分かがっしりしている。

 なにせ二十年経った。子ども成長は早い。

「どちらでもいい」私が気にかかるのは今も昔もたった一つ。「本当にオズ君には手を出さないんだな?」

「俺あ約束守んよ。おにーさんと違ってぇ」

 串字路修真クシジロしゅうまの件だ。

「ま、さいしゅーパンダちゃんはこっちでどーにも出来なくなって放り投げちまったんだけどよ」

「なんのことだ?」

「おにーさんには無関係ってね」ビャクローが赤い舌を出す。「なんで俺がおにーさんに会いに来てやったかわかる?」

「私を殺すためだろう?」

「いんや、別におにーさんをどうこうする気はねーっての」

 おかしい。

 ポストに入っていた手紙には。

「おにーさん、ハメられちったってわかってねーかな?」

 気配。

 後ろ。

「動かないで下さい」知らない声だった。「振り向かないほうがあなたの生存率が跳ね上がります」

「ほーらよ。おでましってわけだ」ビャクローは馬鹿にしたように鼻で嗤って適当に両手を上げた。「先にゆっとくけどよぉ、俺ぶっ殺したってなんも意味ねーし、むしろ居所わかんなくなっし、なーんもイイコトねーって」

「ないかどうかは私が判断します」声が近づいてくる。

 私の肩の上に腕がのった。腰を落とせとの命令。

 そこからビャクローに照準を定めるらしい。甚だ迷惑な。

 私は砲台か何かか。

「ベイ=ジンならびにタ=イオワンの居所を吐いてもらいます」後ろの声が言う。

「あ? 俺が、んなちゃっちぃ脅しで白状ゲロると思っちゃってる?」ビャクローが言う。「こっちも別に脅しじゃねーけどよぉ、この距離ならあんたの首、3秒もありゃ吹っ飛んじまうけど?」

「じゃあ私は2秒であなたの頭を吹き飛ばすだけです」引き鉄に指がかかった。

 私は餌だったわけか?

「もう一度だけ言います」後ろの声が言う。「ベイ=ジンならびにタ=イオワンの居場所を教えてください」

「あ? 地獄じゃねーの?」

 撃った。

 撃つのはわかっていた。

 こういう輩は絶対に撃つ。一発目から撃つ。しかも中てる気で。

 私が助けるべきは今も昔もたった一人だ。彼のためなら命は惜しくないが、命を投げ出してしまったら彼はきっと悲しむ。それを見ていたくない。見たくないから戦線を離脱する。そうではない。

 悲しませないために、身体は勝手に動いていた。

「何やってるんですか」

 男の顔がよく見えた。若い。

 オズ君とそう変わらないじゃないか。

 オズ君より若いかもしれない。

「おにーさん、ちょ、そりゃねーって」ビャクローのそんな顔は初めて見た。

「君もだいじな人がいるんだろう」雪の中、文葦学園の屋上でそう言っていたのを思い出す。「早く行ってあげなさい」

 ビャクローは私と男を1回ずつ見て、身軽に木の陰に消えた。

「冗談じゃないですよ」男が私の出血部分を確認する。ケータイを耳に当てながら。「あなたに死なれたら本末転倒ですから」

 迷わず救急車を呼んでくれればいいが。

「聞こえていますか? 頼まれていただきたいことが」男が言う。「私はどうしても消さなければいけない男がいます。そのために、本部長の座をお借りしたいんです。その男を消せば、私は確実に殺されます。私が死ぬまでで構いません。あなたの命よりもだいじなあの方は、私が必ずお守りします。どうか、私が死んだタイミングで復帰して下さい」

 そんなに都合よく生き返れるだろうか。

「目覚めなければ、あの方は私がもらい受けます」

「あ?ぶっ殺すぞ」絶対に死ぬわけにいかなくなった。




     5


 船が出港した。

 クソガキの集いは坊ちゃんに任せるとして。

 この鉄の塊で一番高い部屋。眺めのいい部屋。

 眺めったって、闇色の海が見える程度の。

「よお、クソババア」銃を構えながら言った。「胎ん中のガキに用がある」

 傍らに控える通訳が、俺を視界に入れて眉をひそめた。

 ベイ=ジンは、無言で手を振る。通訳に席を外せとのお達し。

 何かあってからでは遅い、と通訳がごねるが、通訳の代わりを探すのが面倒だから、と誰を庇ってるかわからない意味不明な理論を振りかざして。ベイ=ジンが手元の瓶の中身を通訳にぶちまける。

 見苦しいから着替えてこい。通訳が強制退場。

「エンデは一緒ではないのか」ベイ=ジンが言う。背を向けたまま。「一緒に顔を見せてくれれば面倒もない」

「てっきりそっちが回収したと思ってたが」いや、とぼけている可能性もある。

 銃口は逸らさない。

「そいつは」胎の中のガキ。「男か女か」

 ベイ=ジンが胎に手を置く。

 椅子がくるりと回転した。

「生かすよ」という意味のフランス語。

 俺の本業を揶揄している。

「私から生まれた命はみんな生かしている」という意味のフランス語。

「どうだか」時差ボケが再発しそうだったのであえて日本語で答えた。「いい加減引退したらどうだ? 地獄あたりに。お前の愛人も勢揃いだろうが」

 ベイ=ジンは俺を殺さない。殺す理由がない。

 そう高を括って単独で乗り込んだ。

 ベイ=ジンも俺が殺す気がないことを見抜いている。

 ベイ=ジンを殺したところで、事態は何も変化しない。

 また次の“ベイ=ジン”が、弾のように装填されるだけ。

 鋳型のほうをなんとかする必要があるが、さすがに俺も鋳型の安置場所までは知らない。

 地獄か。

 それなら無理だ。

 死んだ愛人たちがなんとかしてくれないものか。

「用が済んだらさっさと帰ったほうがいい」ベイ=ジンが言う。日本語で。「通訳が戻ってきたらお前に穴が開くかもしれない」

「降りる気はないんだな?」

「上海の跡取り」ベイ=ジンが言う。母国語で。「アレは私の子ではないから殺しても構わない。なぜ生かした? キリュウに嫌われてまで」

「嫌われることが目的だった、つったら?」

「理解が及んでいなかった。なるほど」ベイ=ジンが言う。日本語で。「陸地に着き次第、ガキを材料にする。制限時間を教えようか?」

「いい。あとは勝手にやる」

 ロイヤルスイートから出てラウンジに向かう。

 ラウンジは無人だった。

 坊ちゃんがPCと向かい合って顔面のしわを増やしていた。

「何が可笑しい?」気味が悪いので1席あけて座った。

「いや、そんな理由で僕が助けられたんですね。知らなかった。あーあ知らなきゃよかった、ていう自嘲の笑いですよ。お気になさらず。さーて、本題はここから」坊ちゃんが指の関節を鳴らす。「悪の親玉が乗っている以上、船ごとドカンていうタイタニックばりのアクシデントは期待しなくていいとして」

「キリュウは?」連絡をしたかという意味。

「ええ、一応上司ですから念のためというか。むしろ、ご自分でしては?」

「長くなる」あることないこと言わなきゃいけないのが面倒くさい。「クソガキの説得だが」

「任せてくださいよ」坊ちゃんが得意げに言う。「これの試験運用も兼ねてるんですから。絶対に有用だってこと証明してみせますよ」

 坊ちゃんの提言で鬼立キリュウが進めている新部署。

 こっちの対策課が対策しているのはガキの性犯罪だが、鬼立のとこの対策課は、ガキのネット犯罪。

 オンライン上で結集されたガキの集団に適切な方法で対応する。

 坊ちゃんの特技を活かすために創られたと言っても過言ではない。

「全員説得して自発的に船から下ろします」坊ちゃんが言う。

「へー、そりゃ頼もしいこって」

 ガキはおとなしく自室でおねんねだろうか。深夜2時半。

 鬼立が海のお巡りさん相手に喧嘩売ってなきゃいいが。




     Dライブ4


 僕に気がある妹は、僕が、後継者に足る姉でなく、後継者に足らない自分を気にかけていることがとてもお気に召したようで、僕にお家事情をあることないこと教えてくれた。

「お母さまは、お気に入りの殿方を見つけると、跡継ぎを残すのはもちろんですけれど、殿方が自分から離れて行ってしまう前に永遠にしますのよ」

「永遠?」

 その言葉だけ違う意味を持った単語に聞こえた。

 永遠。

「今日はお母さまがお留守のようですし、ご覧になられます?」

 妹が案内してくれたのは、一度だけ入ったことのある部屋。彼女らの言う、お母さまに連れられて。正直二度も入りたくなかったが、妹の好感度稼ぎのために仕方ない。

 あのにおいがした。

 香なのか、彼女が愛用する香水なのかはわからない。このにおいに触れるとだんだんとおかしくなっていっているのは確かだ。

 だって、これを見て。

 僕はもう何とも思わないのだから。

「お久しぶりですわね、お父さまがた。今日はわたくしと生涯を誓い合った殿方を紹介しに参りましたの」妹は室内に佇む異様な人形たちに向かって話しかける。

 人形?

 マネキンのほうが近いかもしれない。

 服は着ていたが、服を着ているが故に異様さが強調されていた。

「素敵な方でしょう? うふふ。そう言って頂けたら、わたくしも鼻が高いですわ」

 妹はとっくに彼岸に渡っている。

 僕は絶対に渡るわけにいかない。

 生きてここから出る。そのためならなんだってする。

 弟を逃がしたせいで腰から下だが太ももだか下からをぶった切られたという女と会った。実際に見ていないのでどこから下がないのか不確定。くるぶし丈の長いスカートで下半身が覆われている。

 女は車椅子に乗っていた。

「あの子は生きているかしらね」弟のことだろう。

「生きててほしいのか、そうじゃないのか」僕には読みとれない。

「私の肢は人魚実験で有用に使われているから別に構わないのよ」

 人魚?

「私はあなたのところとは別預かりなのよ」女が言う。「あなたのところは人間を人形にするでしょう? 私のところは人間を獣と融合するの。私はたまたま魚だったのよ」

「意味がわからないし趣味もいいとは言えないね」

「弟は何と融合させられそうになっていたかわかる?」

「クイズだったら遠慮するよ。当たってても間違ってても事実を知ることになるから」

 女は海を見ていた。

 窓の外から見えるのがたまたま海だったからなのか、窓の外にわざわざ海を作らせたのかはわからない。

 どちらにせよ、結果的に女は海を見ていた。

 波の音。

 水の音。

「まともに話をしたのはあなたが初めてよ。ありがとう」女はそう言って笑った。

「君って割と偉いんじゃないの?」手下とか盾とか矛とか身の回りのお世話係とかいるだろうに。

「チューザが羨ましいわ。あの子、さっさと死なないかしら」

「物騒だね」

 チューザというのは妹の方。

 姉がゲングウ。

「君の名前を聞いてなかった」

「情が移ったらつらいのはあなたよ」女が言う。教えない気だ。

「そのときは君も殺すよ」

「楽しみにしておくわね」

 海のそばに住んでいるということは、海路を制御できる権限を持っているのではないだろうか。

 女の親玉に接触する必要が出てきた。

 僕が逃げる方法が残されているとするなら、海路以外にあり得ない。

 面会はすぐに叶った。

 女が僕を気に入ってくれた。何事にも好感度というのは事態を円滑に進ませる効果を持つ。

「人形遊びなんかより飼育のし甲斐があるのよ」

 通称、上海。

 キジ=ハンと呼ばれる、ベイ=ジンとはまた別の悪。

「調教の間違いでしょう」近いのは暗黒サーカス団。

「あなた、好きな動物は?」

 キジ=ハンは流暢な日本語を喋った。車椅子の女はここから日本語を学んだのだろう。口調がよく似ていた。

 タ=イオワンは僕の故郷と同じ方言だけど。いや、あの一人称と二人称は僕の住んでいた地域では聞いたことはないので、古い映画か何らかのフィクションから輸入したんだろうけど。

 ベイ=ジンだけは、何ヶ国語かを自在に使いこなす。日本語を喋れないふりをして、下手くそな通訳伝手に改竄されまくった内容を取引相手にぶつけて困惑させる。性格が悪い。

「一匹どう? 門番にもなるわよ」

「飼い主を餌と見間違えないくらいの知能があればいいですけどね」

 キジ=ハンは指を鳴らして門番を下がらせた。

 少なくとも、愛用の獣には音に反応する程度の知能を残してあるらしかった。

「私に用があるのよね?」キジ=ハンが身を乗り出す。

 顔の左半分が爛れて、終末に現れる獣のようだった。

 ああ、そうか。

 自分にもやっちゃった系か。

「僕を逃がしてください」

「それやると私がメリーちゃんに嫌われるのよ」

「メリーちゃん?て」

「羊と合体してあげたいから。似合いそうでしょ?」

 ちょっと理解を超えてった。

 ベイ=ジンの髪の毛のもこもこ具合か?

 いやいや、気を殺がれている場合ではない。

「あなたに損はさせません」

「取引ってこと? いいわ。言ってみて」

 門番の牙やら爪がちらちらする。

 奴らに言語を理解する中枢が残されていないことを期待して。

「あなたの娘が逃がした跡取り。僕が捜してあげましょうか?」

 獣の遠吠えが聞こえた。

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