第9話 心の雫
──自由行動。
みんなが、猫とじっと睨み合ったり、芝をゴロゴロ転がってみたり、
「ほう、なかなか肝の座った子だ。我輩の事が怖くないのかね?」
「怖くないよ。だってホントに食べたりはしないんでしょ?」
「さて、どうだろうな」
そう言ってクククと笑う先生。その優しさを確信したボクは、ちょっと意地悪を言ってみることにした。
「じゃあ、もしボクのことを食べてもいいよって──」
──突然だった。
ボクの言葉を遮って、スクート先生は力強く──ギュムッと、のしかかるように前足でボクの体を地面に押し付けた。
ボクはタテガミの下にうつ伏せになる形で、大きな肉球に抑え込まれた。ちょっと息苦しい……
「キミのような迂闊な男の子は初めてだな……」
先生はさっきより低くなったトーンで、そう呟いた。
「センセ……
「おお、すまない」
──スクート先生は、ボクを押さえ付けていた前足を横に下ろすと、ゆっくりと話し始めた。
「ここへ住まう際、交わした契約……“首輪の誓約”によって、我輩は人間に食欲を抱くことが無くなった。無理に喰らおうと試みても、先程のように口に含む程度が関の山、唐突にフッと気が削がれてしまうのだ」
先生が喋ると、ボクに半分乗っかっているその胴体から直接声の振動が伝わって、体の奥まで響く重低音がとても心地よかった。……やっぱり、最初からボクを食べる気なんかなかったんだ。ボクは安心しきって、クスッと笑った。
「……だが、稀にその欲望が解き放たれることがある。我輩の経験上、『言葉』がその引き金の一つであることは間違いないだろう」
そう言ったスクート先生は、ふわっとタテガミを揺らして、空を仰いだ。
「我輩によく懐いていた少女がいた。その少女は、
「ジンカ?」
「ああ。あのウサギのように、ケモノが人に似た姿になることをそう呼ぶのだよ。私は好かんがな」
あれ、じゃあうさぎ先生って、元々はふつうの兎なのかな?……あとで聞いてみよう。
などと考えているボクを尻目に、スクート先生は話を続けた。
「ある日その少女は、持ってきた料理の鍋を転んでひっくり返した。クリーミーなスープまみれになった彼女は、恥ずかしげに笑いながら『私ごと食べちゃってもいいんですよ』と言ったのだ」
先生がぷるぷると首を振ると、じゃれていた猫たちがにゃあにゃあ、と去っていく。……ボクはなんだか不穏な空気を感じ、ゴクリと生唾を飲み込むと、ぎゅっと拳を握った。
「どういう意図でそう言ったのかは分からぬ。……だが気がついた時、人化が解かれた我輩の前には、空の鍋だけが転がっていた。はち切れんばかりに大きく膨らんだ我輩の腹の中に、一体何が入っているのかは明白だったが……吐き出す気には全くならなかった。我輩は満たされた心地よさに身を委ね、そのまま眠った。……我輩も所詮はケモノなのだ」
間接的だけど生々しい先生の独白に、ボクはヒュンとして、ブルブルと震えた。追い討ちをかけるように、サンドイッチを貰っていない先生のお腹が、ボクのすぐ上でぐぎゅるるる、と大きく鳴る。……ボクは
……でも、ふとボクは、上からタテガミを伝ってポタ、ポタと雫が落ちていることに気がついたのだ。
「先生、泣いてるの……?」
そう尋ねた刹那、先生はガッと地を蹴って逃げるように飛び退き、ボクに背を向けた。尻尾が慌てたようにブンブンと振られる。
「……すまぬ、大丈夫だ。この話はキミにも、そして我輩にも、少々刺激が強すぎたようだ」
ゴシゴシと前足で顔を洗った先生は振り返ると、
畳んだ後ろ足に前足を揃えてピンと座り、こう続けた。
「ここで暮らす間、何度か同じような事があったが、その
そう話し終えた先生は、のし、のし、とボクに近づき、カプ、カプッと頭を数回甘噛みした後、のし、のし……と、歩き去っていった。
──きっと先生だって本当は人を食べたくなんかないんだ。だけど、どうしても抑えられない地雷がある、って事なのかな。
……ボクは立ち上がって、パタパタとパンツを
まだドキドキしている心臓を、座って落ち着かせながら。スクート先生の匂いにつられたのか、ボクのそばに寄ってきた三毛猫をもふもふと撫でていると、庭に声が響いた。
「みなさぁん〜!準備ができましたので〜、中央のゲートに入ってくださいねぇ〜」
ボクは立ち上がると、猫にバイバイ、といって手を振り、中央の幹に大きく開かれたゲートに向かってトトトと走り出した。
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