リフレイン

菅原侑輝

第1話 リフレイン

 その日も森には静寂な空気が漂っていた。

 朝の森は好きだ、特に今朝みたいな小雨上がりの澄み切った森の空気が良い。

 メル・アイヴィーはそう思いながら朝露に濡れた草花を踏みしめ、そばを流れる小川に沿って進んでいく。


 季節は秋。早朝のこの時間帯は前夜小雨が降ったこともあり、メルの吐く息は白くなっている。肌寒い森の中を麻の外套に身をくるみ、メルはある人物を探していた。

 彼女のブルーの瞳が件の人物を探そうとキョロキョロと辺りを見回す。


———いつもこの辺なんだけどな……


 そう思っていると聞こえて来た。甲高くそれでいて美しいオカリナの音色。

 メルはこのオカリナが、遥か遠くのユミル山脈に生息する飛竜の牙から作られているのを知っている。

 オカリナの持ち主である彼に聞いたからだ。何でも彼の部族に伝わる伝統工芸品らしい。


 オカリナの音のおかげで彼の居場所が大体わかったメルは、つかつかと歩を進めていく。

 小川沿いのカーブを抜けた時、一際大きな樹の幹に身体を寄りかけながらオカリナを吹く彼がいた。色素の薄い長めの金髪、メルとさほどしか変わらない華奢な体格、鼻筋が通った端正な顔立ち、白い絹のような材質で編まれたポンチョに身を包み、綺麗に輝く翡翠の瞳はどこか遠くを見つめていた。


 「カイ」


 メルはそう呟く。そこで彼、カイ・ウィンディは彼女に気が付き顔を彼女に向ける。


 「おはようメル。待ってたよ」


 そう言い彼は優しく微笑んだ。


×××


 メルとカイが初めて会ったのはもう10年以上前になる。いわゆる幼馴染といっても良い。ただ、互いに昔から住んでいるところは遠く、メルは森を西に抜けた草原地帯と大きな泉が傍にある”泉の部族”の里に住んでいる。対してカイは森を東に抜けて小高い丘を越え、渓谷地帯付近の”風の部族”の里に属していた。


 ではなぜそんな二人が出会ったかというと、彼らの親族が互いの部族の族長だったからだ。カイの父親が”風の部族”の族長、メルの祖母・ヒルドが”泉の部族”の族長で、互いの部族は何代も前から友好関係にある。

 10年前、カイの父が幼いカイもつれて“泉の部族”に挨拶に行った際、カイは退屈で里を抜け出し、今いる森の小川の近くでオカリナを吹いていた。一方、メルも大人たちの話は退屈だと、一人森に遊びに出掛け、草花を摘んでいたのだ。


 だが幼い彼女は、運悪く森特有の舗装の悪い地面に足を取られそのまま斜面を転がり落ちてしまった。ちょうど落下した所が小川だった為、衣服がびっしょりと濡れ、転がった際に擦りむいた全身の擦り傷にしみる。おまけに挫いてしまったのか右足首が痛い。幼いメルは泣きそうになった。


 その時、遠くから微かに美しい音色が聞こえた。甲高い、それでいて調和のとれた優しい音色に一瞬メルは痛みを忘れる。しばらく聞き入っていると、どうもこの小川の上流に音の源があると気づき、重い足取りで小川を登って行った。

 小川のカーブを抜けると、そこには薄い金髪の美しい少年、カイが立っていたのだ。

 その後、傷だらけでびしょ濡れなメルを見た彼はびっくり仰天。直ちに自分が着ていた上着をメルに着せ、彼女を担いで“泉の部族”の里まで走る羽目となる。


×××


 「ははっ、やったなこの!」

 「わっ、やめてカイ」


 今朝の邂逅から数刻が過ぎた。日は少し登り、森の温度も上昇してきた。成長した彼らはいつものように小川で川遊びに興じる。


 10年前、この小川で彼らは出会ってからすぐに仲良くなり、度々このように里を抜け出して遊んでいた。もちろんお互いの里にも何度も遊びに行った。10年前は周りには中の良い兄弟と温かい目で見られていた。最近ではお互いが年頃のせいか良く二人の仲を冷やかされたりする。

 その度にメルは顔を真っ赤にし、カイは笑って冷やかした相手をたしなめた。メルにはカイへの恋心があった。それはいつ頃からだったのだろう。3年前のカイの成人の儀の時か、5年前の収穫祭に黒のチョーカーをプレゼントされた時か、はたまた10年前の初めての出会いか。


 とにかくメルはカイに恋していた。だが、その事実が彼女を暗くする。彼とは絶対に結ばれない。それは”風の部族”の掟があるからだ。

 仮に今の”風の部族”の人々に祝福されようと運命は変わらない。それどころかいつかはカイ自体もメルは失うことになる。その事実が彼女には非常に重苦しかったが、それでもこうしてカイに会わずにはいられなかった。


×××


 「クエェェェ」

 「ハハッ、ツェルコは相変わらず元気だね」

 「うん、昔が嘘みたいに元気だよ。今じゃ家一番の大食いさん」

 

 日が昇り午後。二人はメルのペットである小竜のツェルコに乗って森を移動している。


 「へー、メルより大食いとはたまげたね~」

 「そっ……そんなことない……」

 「クウゥゥゥ~~ン」


 カイのからかいに赤面する飼い主をよそにツェルコは欠伸をしながらノソノソと歩を進めている。竜と言ってもツェルコは飛竜ではなく、翼がない。故に二本の立派な前足で走るのだが、元来夜行性の種の為か、昼はノソノソと主人たちを運ぶだけだ。


 ツェルコはまだ幼体の時にケガをしていた所を幼い二人に発見され保護された。ひどく衰弱しており二人は寝ずに3晩、メルの部屋で看病した。

 故にツェルコは二人にすごく懐いている。飼い主のメルもツェルコを愛していたし、何より彼の看病はカイとの大切な思い出であり、そういう観点からもメルは愛おしさを感じていた。


 「ほら見えて来たよ」


 カイが指さす。その方向には小高い丘がある。森を抜けた先、“風の部族”の里と”泉の部族”の里のちょうど中間点、二つの里を見渡せ、人と竜種、妖精種が暮らすこの楽園・アースガルズも一望できる丘である。

 この丘も二人でよく遊びに来る土地だ。何より景色が良いため、360度眺めているだけで飽きない。二人は景色を眺めるだけでなくここで色々な事をした。


 カイはメルにオカリナの演奏と”風の部族”の民謡を教えたし、メルはカイに薬草の知識をレクチャーしたり、”泉の部族”に伝わる伝統舞踊を教えた。そして、落ちていく夕日を眺めながらカイのオカリナに合わせて、メルが歌を歌う。『メルの声はとても綺麗だね』とはよくカイは行って微笑んだものだ。


 丘の麓まで来た二人は、そこでツェルコを残し丘を登っていく。

メルはこの時間がたまらなく好きだ。柔らかい土に敷き詰められた柔らかい芝のせいで足元が悪い。なので、足元の安全の確認の為にいつもカイが少し前を先導する。その時にメルはカイの後ろ姿をまじまじと見つめられるからだ。

 華奢ながらピンとした姿勢の良い背筋は頼もしさを感じるし、ポンチョから覗く腕は男の子らしく筋肉の凹凸があり、いつもメルはドキドキする。

 やがて丘のてっぺんに着くとカイはドカッとそこに仰向けに寝転んだ。


 「あー、登るの疲れた」

 「そうだね……」


 メルもカイの横にゆっくりと腰を下ろす。

 カイはメルと視線を合わせるように上体を起こし、


 「本当にここは変わらないね」

 「カイ?」


 カイの言葉にどこか哀愁の色を感じたメル。

 何か嫌な予感がする。それがカイに問うことをメルに躊躇わせた。

 カイはおもむろに首に掛けていたオカリナを取り、そしてメルの手に乗せた。


 「カイ?」


 彼の意図が理解できずもう一度彼の名を呼ぶメル。


 「君にあげるよ。今までありがとうメル。楽しかった」

 「待って、カイまさか!」

 「うん、『再誕の儀』が始まる」


 “風の部族”は外見は”泉の部族”となんら変わりはない。しかし、彼らには決定的な差がある。それは寿命。

 平均寿命が80歳前後の“泉の部族”に対して、“風の部族”はその50倍、4000年の時を生きる。そこまでだったらメルとカイが結ばれること自体には障害はなかっただろう。せいぜいがカイがメルと早々に死別するだけだ。


 ただし『再誕の儀』。これは20年毎に“風の部族“全員が全ての記憶をリセットする儀式である。いつから始まった儀式なのかは分からない。大昔、悠久の時を生きる彼らの先祖が他部族との死別の悲しみに耐えきれず自分たちに掛けた呪いだったと言われている。『再誕の儀』を通して悲しみそのものから逃れようとしたのだ。

 そしてカイは今年で20歳。初めての『再誕の儀』である。


 「いつ……なの?」


 恐る恐るメルは問う。

 カイは一瞬黙った後


 「今夜、満月が中天に登った時」


 そう言った。


 「なんでもっと早く行ってくれなかったの!?」

 「言い出せなかった。どうしても……。メルと別れることも。メルの事を忘れてしまうのも辛くて」

 「カイ……」


 メルは俯き、泣き出してしまった。


 「だからこれは君に持ってて欲しいんだ。君と過ごしたすべての日々が僕にとって宝物だった。その証に君にそれを譲りたい……」

 「……自分は忘れてしまうのに?」

 「……」


 メルの言葉にカイは言い返せない。


 「……ずるいよね。自分はきれいさっぱり忘れる癖にさ。私だけあなたがいない世界であなたとの宝物を思い出しながら生きていくなんて」

 「メル……」


 そうメルを呼ぶことしかできないカイ。

 メルは唐突に立ち上がり丘を下って走っていく。


 「メルっ!!」


 後方でカイの声が聞こえたがメルは走り続けた。


×××


 日は西の方に傾き、東の空はすっかり夜の色に染まっている。

 メルは自宅のベッドで突っ伏していた。

 あの後、どこをどう走って帰ったのか覚えていない。気づいたらベッドの上で寝ていた。

 窓の外にはツェルコが門に括り付けられているのが見える為、徒歩で走ってきたのではないことは確かだ。

 メルはカイから受け取ったオカリナを取り出す。

 もうカイに会える事はない。いつか来ることは分かっていたはずなのに、今はその事実に耐えられない。


 「カイ……」


 何より別れがあんな喧嘩別れのようになってしまった事が惜しくてならない。とはいえ、もう一度カイに別れの挨拶をする勇気もメルにはなかった。

 もう一度会えばまた泣き出してしまう。カイは死ぬわけではなかったけれど、この20年の記憶を失う事は死ぬことと大して変わらない。

少なくともメルを知るカイはいなくなるのだから、メルにとって死別することと変わりはないのだ。

 これから死ぬとお互いが分かっている状態で泣かないでいられるだろうか。少なくともメルにはその自信がなかった。

 トントンとふいに部屋のドアが叩かれる。


 「メルや……」


 メルが返事をするより先に、祖母で族長でもあるヒルドが部屋に入ってきた。


 「おばあちゃん……」


 メルは虚ろに反応するだけで、ヒルドに視線も向けなかった。

 そんなメルをよそにヒルドはメルのすぐ横、ベッドの空白に腰掛ける。


 「夕方、風の部族の里に行ってきたんじゃ。『再誕の儀』の後の引き継ぎや泉の部族としての支援の話での」


 唐突に語りだすヒルド。


 「お前、あのカイと喧嘩したみたいじゃな。浮かない顔をしとったぞ彼」

 「カイが?」


 カイの話がヒルドの口から出た途端、上体を起こすメル。


 「行ってやりなさい。行って仲直りしてきなさい。まだ少し時間はある」

 「でも、カイは……もうすぐ全部忘れちゃう。私と喧嘩したことも。私自身の事さえも!」


 顔をゆがませるメルは目じりいっぱいに涙を溜め、両手は麻のシーツをぎゅっと握りしめる。

 そうだ。カイと実質死別することだけが悲しいのではない。カイは明日にはメルの事を忘れてしまう。明日の朝には何事もなかったように『初めまして』とメルに笑いかけるに違いない。

 それがどうしょうもなく彼女には我慢できなかったのだ。まるで自分との日々を否定されたような気がして。自分が彼に抱く恋心を否定されるような気がして。


 「なあメル、記憶に残らないからその時間は無駄なのか? 記憶に残らないからそれは事実にはならないと?」


 メルの顔にそっと手を添えるヒルド。


 「儂はそうは思わん。なぜなら楽しそうに過ごしたお前たちを今まで見て来たからな。あの笑顔をカイが忘れてしまってもそれはなかった事にはならないぞ」

 「おばあちゃん」

 「風の部族はの、記憶が20年しか持たん。だから、1日1日一瞬一瞬を大切に生きるんじゃよ。その時間が嘘にならないように。そこへ行くとカイは風の部族の男の典型じゃな。記憶を失う最後まで誰かの事を思い続けて苦しんでおる」


 メルの身体に何か熱いものが広がった。


 「行ってきなさい。そしてあの一途なカイの最後の思い出を彩ってきなさい」

 「……うん!」


 メルはベッドから立ちあがる。もうさっきのような迷いはなかった。それどころか体に力がみなぎっている。自身の部屋を三歩で抜け麻の外套を身にまとう。家の出口を出て、外に繋いであったツェルコにまたがり、全力で風の部族の里へと急いでいった。


×××


 辺りは暗い。日はすでに西の向こうに落ち、月と星が空を支配する時間となっていた。里では大量の松明が赤々と祭壇を照らしている。

 もうすぐ、儀式が始まる。カイは今朝のメルとの事を思い出していた。正直このような別れになるのは、心のどこかで分かっていた。カイたち風の部族とメルの泉の部族。たとえどれだけ分かり合おうと、そこにはしきたりや寿命という深い断絶があるのだ。言ってしまえば生きる時間が違うのだ。

でも。


 「この記憶の最後のメルには、笑っていてほしかったな」


 儀式の時間が迫る。儀式を取り仕切る年長の男性がカイを祭壇上にある寝台に案内する。その時である。


 「♪♪~~」


 ふいに甲高い音色が響いた。オカリナだ。カイにはそれが自身の、今朝メルに渡したオカリナの音色だという事に気づいた。


 「メルっ!」


 思わず叫ぶカイ。すると———


 「カイ……」


 祭壇に続く石畳の道、その一番祭壇から遠いところにメルはいた。

 どうやら走ってきたらしい。息を切らせながらカイの名を呼ぶ。

 メルの登場に戸惑ったのはカイだけではない。他の風の部族たちも当惑の声を上げていた。無理もない。いくら”風の部族”と”泉の部族”が友好関係にあろうと、この神聖な儀式に部外者が立ち入ることは禁じられていたのだからだ。


 「さっきは泣いて逃げ出してごめんなさい!」


 メルは遠いカイに向けて頭を下げる。


 「私、カイに忘れられることがとても悲しかったの。なんかカイと一緒にいた時間がなかったようになる気がして……」


 その場で語りだしたメル。


 「でも!!」


 下げていた頭を勢いよく上げる。顔が再び見え、カイはメルが泣いている事に気づいた。メルは依然とその場で立ち尽くしたまま、カイをまっすぐに見据えている。


 「さっきまで考えてやっと気づいたの! 本当は私なんかよりカイの方がずっと辛いんだって。忘れちゃう方がもう思い返せないから……。カイが私との時間を大切にしてくれたことよくわかってるから!」


 泣きながら、嗚咽を繰り返しながら独白するメルを見つめていると自然と頬を温かいものが伝う。カイは泣いていた。そう自身が気づくのに彼はしばし時間を要した。


 「だから! ……さよならはせめて笑顔で。あなたの思い出の中の私はいつも笑ってなくちゃ」


 涙を流しながら、それでもメルはにっこりと笑った。その笑顔が眩しくて、美しくてカイも自然と笑っていた。

 一方カイの周囲の人間は当初困惑していたが、それがカイへの見送りと知ると落ち着きを取り戻した。むしろ最初の当惑が嘘のようにカイとメルに温かい視線を送っている。

 傍にいた年長の男が、しばしメルと話してくるようにと促すのをカイは制しメルへと叫んだ。


 「メル! ありがとう。今まで本当にありがとう! 君と出会えた今までの日々は僕にとって宝物だよ」


 メルとカイ。二人の涙はすでに消え、満面の笑みでお互いを見つめあっている。


 「メル! 最後のお願いだ。これから僕らは儀式を始める。でも風の部族でない君は立ち会えないんだ。だからせめて……丘に行ってほしいんだ。僕たちがいつも語り明かしたあの丘に」

 「丘に?」


 不思議そうに尋ねるメル。


 「そこであるものを見てほしい。それがこの僕の最後のお願いだよ。さあ急いで。満月が一番高いところまで登ってしまうとそれは見えなくなるから」

 「満月が?」


 メルは空を見上げた。満月はすでに中天に差し掛かろうとしているところだった。


 「……分かった。それがカイの願いなら!」


 そういって踵を返し、メルは走り去っていく。

 その背中にもう悲しみも迷いも見受けられない。


 「時間がないから我々としては助かったが、あれでよかったのかい?」


 年上の部族の男がカイに問う。


 「いいんです。僕たちに言葉を交わすこと自体はそこまで重要じゃないんです」

 「そうか」

 「さあ、行きましょう」


 部族の男に案内され今度こそカイは儀式用の寝台に身体を預けた。


×××


 走る。走る。走る。

 頬を撫でる風を追い越し、メルは丘へと急いだ。

 いつもカイと語り合った丘。

 カイの草笛で行われた二人だけの演奏会が行われた丘。

 草むらに寝そべって来るはずのない将来の話に華を咲かせながら、夕焼けを見上げたあの丘。

 あの丘へとメルは急ぐ。それがカイの最後の願いだから。その意図はメルには分からなかったけれど、それでもカイが二人の最後の記憶(おもいで)にあそこを選んだ。それだけで今のメルはあの丘を目指す理由になりえた。


———ああ、じれったい!!


 メルはツェルコの手綱に力を入れる。

 もうすくだ、もうすぐなのだと前を見据える。

 見えた!

 夜に見る小高い丘は、昼間に見るそれ違い黒々とした塊となってメルを威圧する。カイが消えること、カイが最後に言った言葉が未だに分からないメルはその威容にほんの少し不安を覚えた。それでもあそこはカイと自分が日々を過ごしたあの丘だ。そう言い聞かせ、メルはツェルコに繋いである手綱により力を入れ速度を上げようとする。


 「キュ~~~」


 ツェルコもまた主の思いに答えるかのように速度を上げる。


×××


 丘の麓についたのはもうすぐ満月が夜空の真上に来ようとする時だった。


———時間がない!!


 メルはツェルコから飛び降りて丘の頂上まで走り出す。

 登る。登る。登る。

 いつもカイと登っている時よりもさらにもどかしい。そのせいか、いつもよりてっぺんに着くのが遅く感じられる。


 「守らなきゃ……。カイとの最後の約束……。」


 自然とメルはそうつぶやいていた。

 そしてついにてっぺんまでたどり着いた。

 丘から見る景色は丘そのものと同じく、昼と夜では全く別の顔を見せていた。昼は太陽が中天に輝き、森の生き物、木々、小川のせせらぎ、人々、すべての営みを等しく照らしていた。対して今は、月明かりがわずかに降り注ぎ、その像の輪郭を捉えるだけで正体をはっきりとさせない。里の辺りからポツポツと松明の灯かりが点在し、そこだけは人々の営みと安寧を昼と変わらず指し示しているともいえる。

 里から少し森の方に目をやる。月の光を受け、小川が静かに自己主張するようにキラキラと乱反射している。

 

 「あの場所で私たちは出会ったんだよね……」


 あの時の事がつい昨日の事の様に思える。

 あれから幾つもの日々が経った。

 あれから幾つもの記憶(おもいで)があった。

 その記憶の終着駅がまさか今日だなんてメルには夢にも思わなかった。 少年と少女、お互いが手を取り合って年老いるまでずっと一緒に過ごしていくものだと思っていた。だが悲しいかな、少年と少女では生きていく時間の流れが決定的に違っていたのだ。


 記憶(おもいで)に浸っているメルの目の前の地面。そこに黒々とした影が伸びる。どうやら、月以外の何かが光を放ったらしい。

 光の正体を確認するためゆっくりと振り返るメル。

 何かが輝いたのはメルの真後ろからだった。ちょうどカイ達風の部族の里がある方向。輝きは黄色、緑、青、と色彩を変えながら、けれど決して派手ではなくむしろ優しくメルを包みこむ様な光を放っている。


 「これ……は……?」


 メルは息をハッと飲む。カイの里の上空、そこにオーロラのような光の帯が広がっていたからだ。そのオーロラは一つではない。何十、何百と帯が重なりあい。漆黒の夜空を明々と彩っている。


 「これは何……?」


 驚愕から回復したメルはしげしげとオーロラを見つめる。

 赤、青、藍、水、金、銀、橙。さまざまな色のオーロラが数秒ごとにまた色彩を変化させながら夜空を縦横無尽に漂う。

 メルは一つのオーロラを注視する。とりたてて帯のサイズは大きくないが色彩の発光がハッキリとしているオーロラだった。そのオーロラの中央に一人の若い女性の映像が映し出されていた。ちょうど、森の外の世界の人間が使うらしい映画という道具の様に若い女の像がオーロラという幕の上に映し出されていたのだ。

 オーロラの中の女性は、親類と見られる老婆の手を引きながら森の中に入って行く。映像が転換し森の深く、女性と老婆の二人は辺りを闊歩している森の動物を指さしながら談笑している。


 「これは“風の部族”の人たちの楽しかった思い出?」


 メルは祖母から聞いた話を思い出した。風の部族が『再誕の儀』にて20年の記憶を忘却する時、その20年で一番思い出深かった記憶が儀式の最中に身体からあふれ出て空を彩るという言い伝えを。

 それが今目の前に広がる光景なのだろう。オーロラに投影された女性と老婆の二人は満面の笑みを浮かべながらお互いを、そして森の生命を見つめていた。きっと女性か老婆、どちらかのこの20年で一番の思い出だったに違いない。


 「カイ……。カイの記憶はどこ?」


 メルは最愛の人、カイの記憶を探す。とはいえ、オーロラの帯は数百が幾重にも折り重なり夜空の暗闇が見えないほど輝きを放っていた。

 その中から特定の一つを探し出すなど、森の中から一つの木の葉を探し出すほど困難だろう。それでもメルはあきらめなかった。一か所に立ち止まって観測していては埒が明かないと、丘のてっぺんを走り出す。

 

 オーロラが見えなければ元も子もない為、丘の7合目より下には下りず、けれどもそれより上の部分では縦横無尽に走り回った。時分は夜中、足元が見えないうえにメルはそれを見上げオーロラを探していた為、すぐに草むらに足を取られ地面に身を投げ出すこととなる。さらに不運にも傾斜に捕らわれそのまま丘を5合目まで転がり落ち、すこし平らな踊り場になっている土のくぼみに嵌り転落は止まった。


 全身を擦りむき、右足首は動かそうとするとズキンと痛む。奇しくもカイと出会ったあの日と同じだ。でも、カイはもういなくなってしまう。だからせめて彼が自分に望んだ事を、彼が今回の20年間の生きた証をその目に焼き付けたいとメルは思った。それが自分の義務だとも。

 全身の大小の痛みを無視し、体に鞭を打って立ち会がる。そしてその場で空を見上げたら———


 「あった。あったよ、カイ……」


 間違いなく彼、カイの姿がオーロラの中に映っていた。そして、その隣にいるのも、間違いなくメルだった。

 まず、映し出されていたのは初めて会ったあの日。カイはオカリナを吹き、そんな彼にメルは小川でびしょ濡れになりながら近づいていく。次の瞬間二人の視線がふいに交わる。

 場面が切り替わり、この小高い丘で二人座って自分たち部族の事を語り合った記憶。メルがカイにオカリナを習う記憶。カイがメルに森の薬草について教わる記憶。次々に二人が出会ってから今までの記憶が現れては消えていった。


 そして、最後。今朝の喧嘩別れの記憶だ。今朝の事実どおりメルは泣きながらカイの元を走り出す。だが、この記憶にはメルの知らない続きがあった。

 メルが走り去って行ってポツンと一人残されたカイ。


 「ありがとうメル。僕の為に泣いてくれて。でもたとえ記憶をなくしても、僕はまた君を好きになるよ。さようなら」


 その映像を見たメルは大きく息を飲んだ。

 オーロラに音声はなかったが、確かにそうカイが言った事がメルには分かった。

 ああ、きっと私たち二人はこの思いに至るために出会ったんだ。

 そうメルは悟る。たとえ何度、部族の呪いに邪魔されようと。たとえどんなに時間が二人を別とうとも。カイに記憶がなくなってしまっても、私たちがともに在った事は変わらない。それをこの光の帯たちが教えてくれている。

 例え、忘れられようとも。例え、忘れようとも。大切だったことには変わりない。だから、何度忘れようと忘れられようと、その度に私たちは出会って恋をすれば良いんだ。


 メルはそっとオカリナを取り出して、見つめる。

 朝になったらカイに返しに行こう。きっと、その時にはカイはメルの事を覚えていないだろう。だから、これから始めれば良い。何度だってやり直して何度だって恋をする。そのために2度目の『初めまして』だ。

 メルは目を閉じ静かに歌いだした。カイに教えてもらった“風の部族”に伝わる民謡だ。これからのカイとの記憶(おもいで)が自分たちにより良いものであることを願って、彼女は唄い続けた。

 オーロラの輝きはまだ続く。それは彼ら“風の部族”の20年の記憶(おもいで)の回顧(リフレイン)のように。

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リフレイン 菅原侑輝 @braze

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