エピローグ
「気が付くと、アリスは大好きなお姉さんの膝の上で横になっていました。『とても不思議な夢を見たの』と、これまで見てきた不思議の話をするアリスに、お姉さんは『とても変わった夢を見たのね。でもそろそろお茶にいきましょう』と告げました。アリスは起き上がると、走り出しましたが、なんてすてきな夢だったんだろうと思いました」
凪はゆっくりと本を閉じる。すると、目の前にニコニコと嬉しそうに笑っているフィリアの顔が現れる。
「ひざのうえ! フィリアと同じだね。すてきな夢かぁ。フィリアも見てみたいなっ!」
「そうだな……なら、そろそろ寝よう。もう夜も遅いし」
「うんっ! ナギもいっしょ……だよね?」
あの日以来、フィリアは凪の添い寝を必ず求めるようになった。
どうやらランに捕まった日の夜、教室に一人で置いていかれて寂しい思いをしたらしい。だから、フィリアはいつもギュッと凪にひっつきながら眠る癖がついてしまった。
「正直言うと、男子高校生……じゃなかったな。この年の男子にはいろいろキツいんだけど」
凪は学園を去ることにした。
風紀委員との争いは、すぐに学園中の知るところとなる。自分だけが責めを受けるなら、耐える選択もあっただろう。
だが今の状況では間違いなくフィリアを巻き込んでしまう。
幸い、道を外れた生き方について、多少の知識やツテはあった。だから、フィリアのそばにいるために、凪はこれまでの生活と決別することにした。
「ダメ……なの?」
ちょっとした考え事をしていると、ぐいっとフィリアが顔を近付けてくる。
「だ……ダメじゃないけどな。うーん……まあ、しばらくは仕方ないか」
渋々フィリアの隣で横になる凪。すると彼女は満面の笑みを浮かべ、抱きついてくる。
頬を赤らめ、恥ずかしそうにしつつも、どこか安心感を覚える凪。
その時だった。
「ユーガッタメールッ!」
凪は飛び起きる。
聞いたことのない声が部屋の中に響いたからだ。
だが、声の出処はすぐにわかった。ラップトップである。
「メール? どこから……?」
デバイスを用いた連絡が日常的になった社会で、デスクトップパソコンにメールを送る人間などほとんどない。
凪自身も四半世紀前に廃れた機械を、自分の目的のために所持してはいたが、それで連絡を取るなどという酔狂なことはしていなかった。だから、自分でさえメールアドレスなど把握していなかったのである。
「誰かのいたずら? あるいは間違って送ったメールがたまたま届いた……とか?」
少なくとも自分の元に届くメールに思い当たるものなどなかった。
だが、たとえそれがなにかの偶然で届いたものであったとしても、自分の手元にあれば覗いてみたくなるのが人情である。まして、凪は好奇心において、人一倍の強さを自負している。
カチッカチカチ……。
届いたメールには表題も無ければ、送り主のアドレスもなかった。だが、本文の書き出しは凪を驚かせる。
『イチジョウ ナギ ヘ』
「俺に宛てたメール……なのか?」
予想外の状況に驚く凪。自分さえ知らないアドレスに送られたメールが、なぜか凪を名指ししていたからだ。
『ドウカ オシエテ ホシイ。 アイ ハ ソンザイ スル ダロウカ? カノジョ ニ オシエテ アゲテ。 ソノタメ ニ ツクラレタ ノ ダカラ』
「アイ……? なんだ、これ……カノジョって、まさかフィリアの……?」
凪は『ツクラレタ』という単語にドキッとする。
フィリアは顕現によって作られた存在だ……ランが告げた言葉を、凪は信じていなかった。もちろん、誰から送られたかもわからないメール一つで心が変わることもない。
だが、凪自身が見てしまった。
ランに勝つため、生徒指導室内の顕現を封じた時、フィリアは言葉一つも発さなくなっていた。
それどころか、部屋の外に連れ出すまで彼女は微動だにしなかったのだ。
もしやという疑問は、突然訪れたメールにより、さらに確信へと近付いてしまう。
「だとしても……俺は……」
歯噛みしながら、凪はメールを読み進めていく。
『ガクエン コソ フサワシイ。 モドリナサイ。 モドシテオコウ キミ ニ ヒツヨウ ダカラ』
「戻す……? 何を?」
「割当容量を」
ドキッとした。
さっきまで聞いていた声……のはずが、まるで別人のように響いてきた。それはハッキリとした口調だったからだ。
振り向くと、フィリアが後ろで立ち上がって、凪を見つめている。
「フィリア……お前、今なんて?」
「あなたの割当容量は復元されました。あのままでは、〈イデア〉が干渉できない空間が生まれてしまいます。修正が必要だと判断されました」
凪はすぐに自分のデバイスで確認する。
二九位階。
ランと争う前の状態に戻っている。
一度失われた割当容量が、正当な手続きなしに戻ってくることはありえない。にもかかわらず、凪の位階は元通りになっていた。
「なんで……こんなっ?」
「あなたが必要だから。アイを知るために、あなたこそが相応しいから」
「お前……フィリアじゃない、のか? いったい……」
「それを教えてほしい。あなたが、この子に」
言い終わると、フィリアの体からスッと力が抜けていく。倒れそうになると気付いて、凪はとっさに受け止めようとした。
だが、体勢が維持できず、そのまま一緒に倒れ込んでしまう。
「うーん……ナギ? どうしたの?」
「どうしたって……いま、お前……」
「フィリア? フィリアは寝てたよ。夢を見てたの。ネコさんがいっぱいいた!」
「元に……戻ってる?」
今さらになって、凪は「目の前の少女が何者なのか」を全く知らないことに気付く。
しかし、それでも……。
「そばにいたいのは、変わらないよな?」
「? うん、フィリアはナギのそばがいい!」
フィリアの言葉に、凪は笑顔で頷いてみせる。
彼女が何者であったとしても、居場所を守ると決めたのだ。
凪を抱きしめるフィリアの腕は、間違いなく「ここにある」。
少年にとって、今はそれだけで充分だった。
ゼロへと至る無限演算(プロトコール) 五五五 @gogomori555
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