俺の彼女がヨーネルおじさんになったんだが

鈴木りん

俺の彼女がヨーネルおじさんになったんだが

 その日、松田まつだ健太郎けんたろうに訪れた朝の目覚めは、彼の二十五年の人生で最悪のものだった。

 がんがん、頭を外したくなるほどの頭痛と胃までリバースしてしまいそうな吐き気。

 おまけに酷く瞼が腫れているせいか、目が十分に開かないためにやたらと視野が狭いのだ。

 だが、そんな状況を招いたのも自業自得だった。

 昨晩が金曜日だということをいいことに、健太郎は数か月前に付き合い出した彼女を街に呼び出し、何軒かのバーをハシゴしたのである。ここが男の甲斐性の見せどころとばかりに、彼女の前で飲みまくる。

 元々酒がそんなに強くない彼は、最後にはかなりの飲み過ぎ&へべれけ状態となるのは必定だった。


 就職して三年目、会社ではようやく一人前として認められつつあり、ぼちぼち仕事も任されるようになった健太郎。

 身長178センチという比較的高身長な割には何故か今まで彼女ができなかった彼にとって、ようやく最近、合コンでgetした一歳年下の彼女である斉藤さいとう由依ゆいは特別な存在だった。


「うわー、健ちゃん結構お酒飲めるんだね!」


 そんな言葉をキラキラと輝く二つの瞳とともに言われ、ふわふわと気持ちが浮かれなかったはずがない。

 つい、調子に乗っちまったな――。

 これが今の彼の本心を表すのに、一番適切な言葉だった。



 そんな彼に訪れた、人生最悪の目覚めの朝。

 割れるようにずきずきと疼く頭に小さな呻き声をあげながら、狭いワンルームの壁際に置かれた一人用ベッドで肩をくっ付けながら寝ている彼女の様子を窺おうと横を、掛け布団を少し捲ってそちらを見遣る。

 当り前だが、彼女はちゃんと彼の横にいた。

 最悪な気分が少しだけ紛れ、幸せ度がアップする。


 また、彼女の態度が何とも健気だった。

 可愛くてスタイルも良い彼女にとって、あられもない寝顔を見せないための配慮なのだろう――背中に少女の気恥ずかしさを漂わせながら、上下の下着を身に着けただけの格好で向こう向きに横たわっている。


 ――下着を付けたままってことは、酔っぱらってそのまま寝てしまったんだな。


 健太郎は今からでも遅くはないぞとばかり、彼女の白い肌に手を伸ばした。

 ヒンヤリと冷たい肌に触れ、思わず鼻が伸びる。

 白く透き通る様な肌は、まるで作り物のようにつるつるとして滑らかだ。ずんぐりむっくりとした体に釣り合った幅広の背中は何とも愛おしく、さすが俺の選んだ彼女――って、おい! 由依、こんな体型してたかよ!?


「お前、誰だ!」


 夏の盛り、虫取り少年に静かな生活を脅かされた草原のバッタの如く、がばりと跳び起きた青い縦縞パンツ一丁の健太郎。

 彼の必死の呼びかけにも、体を硬直させたようにびくりとも動かない彼女。いつまで経っても、背中を見せるだけで何もしゃべらない。

 いつもと違う、激しい違和感に苛まれた健太郎は、彼女の寝姿を上から下までじっくりと眺めた。


 ぎりぎり引っかかった感じの、ピンク色のブラジャーの背中フック。ちょっとでも触ればぴちんと弾けてしまいそうだ。

 一方、ブラジャーと御揃いの色の所謂パンティーという名の下半身用の下着は、その薄い生地がもうこれ以上は伸びないぞというほど伸びきって、このひと晩のうちに腰のあたりで定住する覚悟を決めたかのように、どっしりと踏みとどまっているかのように見える。

 先程感じていた違和感が、今度は現実となって彼に襲い掛かった。


「ヨーネル……おじさん? これって、どう見てもヨーネルおじさんだよねッ!」


 目を閉じたり、開いてみたり。

 でも、状況は変わらない。

 信じる力――『信念』がきっと足らないからなのだろうと彼は考えた。


 ――夢なら醒めろ。


 今度は目を瞑りながら強く念じてみた。糊が付いたようにくっついた瞼を頻りに引っ張って、視野を広げる努力もしてみた。

 ――だがやっぱり、状況に変化はない。

 仕方なく、横たわる『彼女』に手を掛けると、「よいしょ」の掛け声一閃、ごろりと彼女を半回転させてこちら側を向かせる。


「やっぱり、ヨーネルおじさんだ……」


 死んだように固まった表情しか健太郎に見せてくれない、『由依』。

 どうやら、容易に夢は醒めてはくれないようだ。ベッドに横たわる彼女の姿は、某有名フライドチキンチェーン店の入り口に立つ看板おじさん、『ヨーネルおじさん』に他ならない。


 しかし、彼は諦めなかった。違う可能性も探ってみることにする。

 健太郎自身がまだ酔っていて、真面な判断ができていないという可能性である。口と鼻を両手で覆い自分の呼気を嗅いでみると、くらりとするほどの酷いアルコール臭がした。


 ――まだ自分は酔っている。だから夢が醒めないんだ!


 健太郎は回らない頭をフル回転させ、そう思った。もし夢でなければ、キツネかタヌキに化かされ幻を見せられているのだろう。

 だが、彼の心の中には冷静な健太郎がもう一人いたのである。


 ――どう見てもヨーネルおじさんにしか見えないこの物体は下着を着けている。もし彼女の悪戯だとしたら、彼女は下着を着けないまま何処かに行ってしまったことになる。そんなこと、アリエナイ。しかもベッドの横には、昨晩彼女が着ていた可愛らしいワンピースが脱ぎ捨てられているのだ。ならば彼女は素っ裸で何処かへ行ってしまったというのか? アリエナイ。それこそ絶対に、アリエナイ!


 健太郎が別の可能性について検討を始める。なにせ、昨晩しこたま酔っ払ったのは自分だ。こうなった理由として、自分自身が一番怪しい。

 考えられるストーリーは、こうだった。


 ――酩酊した俺は、駅からの帰り道でフライドチキン屋の店先にある等身大人形を彼女が止めるのうを振り切って盗もうとした。気が大きくなり、人形を家に持ち帰ろうとする俺に激怒した由依が、俺に三下り半を言い渡す。それに逆上した俺は、彼女の服をその場で引っ剥がし、彼女の下着をヨーネルおじさんに無理矢理着けて下品な笑いを浮かべる。その後泣き叫ぶ彼女をそこに残し、人形を抱えながら意気揚々と自宅に戻った。


 そんな想像が脳内に駆け巡った健太郎は、体をぶるぶると震わせながら首を左右に激しく振った。


 ――考えただけでも、そら恐ろしい。もしそれが本当なら、完全に犯罪だし鬼畜の所業だ。しかし、いくらぐでんぐでんに酔っていたとはいえ、万引きすらしたことのないこの俺が婦女暴行と窃盗を同時にするだろうか……? 


 由依がその後どうやって帰宅したのかを思い浮かべると、背筋が凍る。人間失格、人非人、非国民――あらゆる人格否定語が、彼の脳裏を掠めた。

 やはり、これもアリエナイ――。

 健太郎は胸のどきどきが収まらぬ状態で動かぬ『彼女』をじっと見つめながら、遂に最終判断を下した。


 ――これは由依の成れの果てである。


 彼女がどうしてこんな『成れの果て』と化したのか――それを自分に納得させるためには、それなりの論理的な証明が必要だった。しかしその前には、絶壁の如き高い壁のような困難が待ち受けているように思えた。絶望と言い換えてもいいくらいの。

 だが人間とは直面した困難が大きければ大きいほど、能力を引き出せるイキモノらしい。意外にもその閃きは、薔薇色の背景を伴ってすぐに彼の意識に訪れたのである。


 ――彼女は昨晩、人類における大事な掟を何かひとつ破ったのだ。多分それは……勢い余って耳からピザを食べたとか、鼻でチャームのピーナッツを食べたとか、はたまたバーで隣に座ったオヤジの脇の匂いを肴に酒を飲んだとか……。うん、そんなイキモノとしての禁断の技を行った彼女は、遠く空の上から見ていた神さまか魔法使いかチート勇者か、その辺りの能力者に人形に姿を変えられてしまったとしても不思議はない。


 この論理ならイケル。彼は満足の笑みとともにそう確信した。

 だが、まだ完全に警戒を解くまでには至らなかった。


 ――裸の王様的なパターンってこともあり得るぞ。彼女が人形に見えるのは、実は俺一人だけっていうヤツだ。


 だが、それら論理は健太郎の心の暴風雨を収め、荒れた感情の波を穏やかにした。なにせこの筋道なら彼は犯罪者でも極悪人でもなく、前科もつかないわけだから。

 そうと決まれば、健太郎も行動が早かった。


「や、やだなあ、由依。そんな格好だったら風邪ひくぜ。もうそろそろ起きて歯でも磨いたらどうだ? あ、そうだ、お腹空いたろ? 朝ごはん、俺が作るからちょっと待ってて」


 逃げるように、キッチンへと向かおうとした健太郎。

 だが下着姿の彼女をそのまま残すのも忍びない。ベッド横に落ちていたワンピースの生地を無理くり引っ張って、おじさんと化した彼女に着させてみる。ワンピースがきりきりと音を立て、少し破れたところもあったが、なんとか着替えを終了する。

 健太郎はほっと胸を撫で下ろし、キッチンへと向かった。


「さあ、できたよ。こっちで一緒に食べない?」


 暫くの後、スクランブルエッグとクロワッサンの載った二つの皿を部屋の真ん中に置いたローテーブルに準備した健太郎が、彼女に声を掛ける。ある程度予想はついたが、はち切れんばかりのワンピース姿で横になる彼女は何も返答せず、微動だにしなかった。


「……そうか、二日酔いで食べられないんだね。じゃあ悪いけど、俺一人でいただくよ」


 音がないことは、恐怖を増大させるものだ。

 リモコンでテレビのスイッチを入れると、たいして面白くもない芸能界のスキャンダルネタが、さも大ごとのように解説されていた。チャンネルを切り替えてみても、どこも大体同じような感じ。

 思い切ってテレビを消そうとリモコンに手を掛ける。が、また沈黙の世界に戻るのは耐えられそうにもない。ただのBGMとしてテレビを利用することに決める。


「由依、食欲ないんだ……。なら、由依の分も貰うね」


 魔法なのか呪いなのか、由依に掛かった術は意外に頑丈で、すぐに解けそうもない。

 もしゃもしゃとクロワッサンを噛み、牛乳でそれを喉の奥に押しやった健太郎が、打開策を考える。気分転換に外にでも出れば状況は変化するかも知れない――。


「じゃあ、昨日約束した公園の散策に今から行こうよ!」


 彼女からの返事は又もなかった。

 が、健太郎はそのシチュエーションに慣れてきていた。

 余裕の出てきた彼は早々に朝食を切り上げ、鼻唄混じりにボーダーシャツにスリムジーンズという格好に着替えた。そして、『彼女』の身支度を手伝うことにする。


「由依……この黒縁眼鏡はファッション的にいただけないよ……。そうだ! 確か、俺の使ってたサングラスがあるから、それを貸してあげるね。それに、その白髪……。おじいさんみたいで折角の可愛い顔も台無しだ。クローゼットに去年の会社忘年会で使ったピンク色のカツラがあるから、それを被るといい」


 ヨーネルおじさんの最大の特徴ともいえる黒縁眼鏡を取り外し、その代わりに自分のサングラスをやや幅広の顔に強引に嵌めた。次に、ボブカット調のいかにもパーティ用のピンクのカツラを彼女の頭にひょいと載せてみる。すると、可愛らしいワンピースの効果もあって、女に見えなくもない気がしてきた。


「これで、良し――。準備OKだ!」


 健太郎は『由依』を背負い投げするかのような格好で引き摺りながらアパートの玄関へと向かったが、そこで奇妙な事実に気付いた。

 玄関に彼女の靴がないのだ。ということは、ここに居る彼女は裸足でここまで歩いて来たということか?

 だがそんな素朴な疑問は、すぐに解決されたのである。


 ――なんだ。もう、靴履いてるじゃん。


 驚いたことに、日本人の『彼女』がごつい黒革靴のまま部屋に上がり込んでいたのだ。今までそれに気づかなかった健太郎も健太郎だが、それならこのまま外に連れ出せるとほっと安心の溜息を吐いた健太郎も健太郎だった。


「ダメだなぁ、由依。いくら仲が良いからって靴は玄関で脱いで部屋にあがってくれないと……。ま、いっか。二日酔いも吹き飛ぶようないい天気だし出かけるとしよう!」


 アパートの玄関ドアを颯爽と開けた健太郎は、二日酔いのせいで目の奥がじんじんと痛むほどの陽射をものともせず、近所の公園へと向かって一人と一体の行軍を始めたのだった。



  ☆



 額に噴き出した玉のような汗を感じた健太郎が、そろそろベンチで一休みしようと手頃なベンチを探し始めた矢先。

 散策路の向こう側から、腰の曲がった老婆と彼女に寄り添う形の中年女性の二人連れがやって来た。二人の行く手を遮らぬよう少し左に寄ろうとした健太郎だったが、案外律義な彼は、未だ一言も発しない『彼女』をぐいっと肩で押して散策路の端に寄せた。


「あらあら、何と微笑ましいカップルさんなんでしょう! 可愛らしいお嬢さんと、それをエスコートする素敵な男性と」


 それは、かつて理想的な主婦であっただろう、老女の言葉だった。

 両目横の深い皺に人類すべての優しさを封じこめつつ、八十余年の彼女の人生で一番の笑顔を健太郎に向けている。

 だが、不意の出来事に大いに慌てた付き添いの女性が、無理矢理の愛想笑いを浮かべたことまでは健太郎は気付いていない。


「いやあ、照れちゃうなぁ。やっぱりそう見えちゃいます?」


 意味の無い恥じらいを見せる、健太郎。

 彼女を引き摺る手にも思わず力が入る。


 ――ほら、やっぱり。由依は人間だったんだ!


 彼女が白っぽいおじさんの人形に見えているのは、思った通り、自分だけだったんだと確信した彼の気持ちは、まるで三階の高さから落下したスーパーボールのように弾みに弾んだ。止まらない額の汗を袖で拭き取りながら、にこやかに笑顔とともにおばあさんに感謝の意味を込めてお辞儀する。


「ありがとう、おばあさん。そう言っていただけるとうれしいです」


 それを聞いたおばあさんは、先程の笑顔に負けず劣らずの屈託のない笑顔を健太郎に向けた。その笑顔に含まれる、赤外線のような温かな電磁波でじんわりと心を温められた彼の心に新たな活力が生まれた。


「それじゃ、先を急ぎますので」

 足取りも軽く、再びがらがらと彼女を引き摺って立ち去った健太郎。

 健太郎の背中が小さくなるのを見届けた老婆の付き添いが、溜め息を吐く。


「もう、お母さんたらぼけちゃって……。人形を引き連れたおかしな男の人に声をかけるなんて、もうやめてよね。冷や冷やしたわよ」

「え? ワタシ、なんか言った?」

「あら、もうさっき言ったことを憶えてないの……。まあ、仕方ないわね。そろそろ、おうちに戻りましょう」

「そうだね。お腹も空いたし、お昼ご飯を食べようよ」

「まあl お昼ご飯、さっき食べたばっかりでしょ」


 老婆と付き添いの女性とでこんな会話が行われたことなど露知らず、健太郎はほくほく顔で公園の道を突き進む。


 ――間違いない。これは由依だったんだ!


 しかし、その新たな活力もやがては尽きる。

 公園を三周し終わり、会話の無いデートがどれだけ辛いものかと思い知った健太郎がついに音を上げて噴水前のベンチに腰掛ける。彼女もベンチに座って欲しいが、筋肉が強張ってしまったらしく、由依は座ることができないようだ。

 仕方なく、ベンチの背もたれ部分に前のめりの状態で立て掛けた。


「いい汗かいたし、ランチにしよう。それにしてもいい天気だね!」


 由依からの返事を待たずして、健太郎は出掛けに買ったコンビニのおにぎり二個とレタスのたっぷり入ったサンドイッチ二つ、黒いデイパックから取り出した。公園に来る途中、コンビニに寄って彼女を入り口横に立て掛けている間に買った代物だ。

 だが、事態は思ったより悪かった。

 背負い投げ状態の彼女の重みで潰れてしまったのか、それらはまるで昔のテレビアニメで出てくるような、ローラーでぺしゃんこにされペラペラになった人のような形状をしていた。

 中身が、包装フィルムの中で見るも無残に飛び出している。


「……そんなにお腹は空いてないか。だって、由依は自分の足で歩いてない訳だし……。それなら、公園の景色でも見ているとしよう」


 健太郎がそう言って、ベンチ前数メートルにある噴水を指し示す。

 だが今になって、ここのベンチが開いていた理由が彼には分かった。ベンチが噴水に対して風下に位置していて、風に乗って飛んでくる細かな水滴が彼の髪や頬、そして彼女のサングラスを濡らしていたからだった。皆、この水滴を避けていたのだ。

 ポケットから皺くちゃのハンカチを取り出し、サングラスを拭こうとしたそのときだった。彼のジーンズのポケットにあるサイレントモードのスマホが、ぶりぶりと揺れた。


 ハンカチを戻し、慌ててスマホを取り出すとそれはLINEの通知だった。

 相手は――由依。今、目の前にいる由依からのLINEだった。どう見ても手は動かしているようには見えなかったが……。


「何だよ、由依。こんなに近くにいるんだからさ、直接俺に言えばいいじゃんか」


 返事の無い由依に「もう、仕方がないなー」と言いながら、健太郎がLINEの画面を開く。

 するとそこには「写真見たら電話ちょうだい」というチャットメッセージと、どこかの大きな交差点らしき街角で黒い革ジャンと黒いサングラスに身を包んだ男女二人が、肩を寄せ合ってピースサインを得意げに掲げる自撮り写真がアップされていた。


「この二人、一体誰なんだい?」


 スマホ画面を傍でかちんと固まったままの彼女に見せながら声を掛けてみるも、やっぱり返事はない。暫くして観念した健太郎が、LINEを使って由依に電話を掛ける。

 間髪を入れず、彼女との通話が始まった。


「ああ由依か? 健太郎だけど、どうして目の前にいるのにわざわざ――」

「ああ、健ちゃん? 写真見てくれたよね。そういうことだから、よろしく」


 健太郎の返答を最後まで聞く必要はないとばかり、すぐに通話を切ろうとした由依だったが、流石にそれを健太郎は許さなかった。

 声を荒げ、画面に唾を飛ばす。


「ちょ、ちょいちょいちょい! 一体、どういう事なんだ。全然分からないんだけど」

「何よ、理解力の低い人ね……。写真、送ったでしょ。その写真に写ってるのは、アタシとイケてる新しい彼氏の『マーク』。流石にそこまで言えば、分かるわね」

「おいこらぁ! ぜんっぜん、分かんないんだけど! それに、ちょっとした呪いか魔法で白いおじさんになってしまったけど、由依は俺の横にいるぜ。お前、誰なんだよ」

「もしかして、本当に『あれ』が私だと信じたわけぇ? やっぱ、アンタ馬鹿だわ」


 スマホの向こう側から、ゲラゲラと笑う男と女の混声音が聞こえた。

 ひと通り笑い終えた由依が、掠れ気味の声で会話を続ける。


「笑い過ぎて、お腹痛い……。仕方ないわね、説明するからちゃんと聞いてよ」


 由依が、昨晩からの出来事に関して渋々説明を始める。

 要約すると、こんな出来事だったらしい。



 ――昨晩、酩酊した健太郎がほろ酔い気味の由依とともに健太郎の自宅アパートに戻ったのは、深夜一時頃の事だった。


「ちょっとぉ、アンタ酔っ払い過ぎでしょ。ほんっと、だらしないわね」


 まるで等身大の人形を担ぐかのような、そんな格好で引き摺ずるように家に連れてきた健太郎をごろりとベッドに寝かせた由依が、深い溜息を吐く。


「普通さぁ、アンタとアタシ、逆じゃない?」


 この男との付き合い方を再考する必要性について由依が検討を始めたときだった。部屋の奥で、何やら人の気配がしたのは――。

 ほろ酔いも吹き飛ぶほど血相を変えた由依。

 部屋の奥に、鋭い視線を送る。


「誰? 誰か、そこに居るの?」


 彼女に返ってきたのは黒い塊のような、ただの沈黙だった。

 だが、その沈黙を健太郎の巨大ないびきが打ち砕く。


「……ちょっと、アンタ。寝てる場合じゃないわよ」


 大口を開けて横たわる健太郎を由依が揺り起こそうとした、その直後。

 蛍光灯の明かりの届かない部屋の隅から現れたのは、黒い革ジャンに黒い革のパンツ、そして黒のサングラスに身を包んだ全身黒づくめの長身の男だった。キラリと光る刃物を右手でちらつかせ、ゆらりゆらりとまるで陽炎のような動きで由依の方に近寄って来る。


「…………」


 あまりの衝撃きで全身から力が抜けてしまった由依の口からは、声にならない声しか出てこない。彼女の細い喉元にナイフを押し当てたその男は、地獄の底から湧いて出たかのような低音で彼女に話しかけた。


「ちっ。まさか盗みに入ってる途中に帰って来るとはな……。見つかっちまったならしょうがねぇ、お前に恨みはないがあの世に行ってもらうぞ」

「ヒィッ」


 狭苦しいアパートの一室で、二人の男女の運命の扉が開いたのはそのときだ。

 最後の悪あがきとばかりに彼女がジタバタと動かした手が、盗人ぬすっとの掛けたサングラスの柄に当る。サングラスはその衝撃で数メートル向こうに弾け飛んだ。

 黒いレンズに代わって現れた、長い睫毛のキリリとした切れ長の瞳。


「あら、いい男! 背も高くてかなりのイケメンだし……タイプだわッ」


 今までの恐怖など嘘のよう。

 瞳を輝かせた由依が、見知らぬ男に抱きついた。女の豹変に、逆にあたふたとなったのは黒づくめの男だった。


「おいおい、お前大丈夫かよ。俺は、お前を殺すって言ってんだぞ……。って、よく見たらなかなかいい女だな。わかった、それなら俺はお前を連れていくことにするぞ。この家には、他に目ぼしい物がなかったしな」

「うん、そうして」

「でもよ、この馬鹿面して寝てる男はどうする? やっちまうか?」


 男が、冷たく光る刃を健太郎に向ける。


「そうね……」


 男の逞しい首に両腕を廻しながら、先ほどまで彼氏だった男を由依はちらり見遣った。

 命が狙われていることなど露も知らない健太郎は、高いびきに加えて大きな鼻提灯までぷかぷかと膨らませ始める始末。


「ふっ……。こんな馬鹿、全然気づいてないから許してやってよ」

「でもよ、お前がいなくなったら騒ぐだろうし、それも困るんだよな」

「それなら、私の代わりを置いていけばいいんじゃない?」

「お前の代わりだと……? そうか、良いこと思い付いたぜ。ちょっと待ってろ」


 そう言い残した黒づくめの男は、一旦部屋から消えた。

 これが彼女の作戦だったなら、とっとと逃げ出してしまえば良かったのだ。だが由依は、鼻提灯といびきを同時に出すという大道芸のような健太郎のパフォーマンスを楽しみながら、新しく彼氏になった男の帰りを今か今かと待っている。

 数分後、男は約束通り帰って来た。

 街で見かける、一体の等身大人形を伴って――。


「へへ、盗みは俺の得意技だから、近くの店から持ってくるのは簡単だったぜ……。この人形をお前の代わりにここに置いとけば……」

「でも、このままだったら、すぐに変だと気付いちゃうんじゃない?」

「それもそうだな……。おい、それならお前、下着を脱げよ。この人形にお前のパンツとブラジャーでも着けとけば、こいつ馬鹿だからこれがお前だと信じるに違いないぜ」

「うん、そうね。きっと信じるわ」


 すぐに服を脱ぎ出した彼女。男の目前でも、臆面もなく下着を取り外す。

 その上に元の服を着ようとする彼女に、男は背中に背負っていたデイバッグから革製のジャケットとパンツを取り出しこう言った。


「お前の服も置いとけば、効果はバッチリだろ。この革の服は何かあったときの予備だが、その服の代わりにこれを着たらいい。サングラスもあるぜ」

「やったぁ! これで私たち、お揃いね」


 喜び勇んで黒革の上下服を着込む、彼女。

 彼が手渡したお揃いのサングラスを身に着けると、健太郎から預かっていた合い鍵で部屋の鍵を掛け、出て行った。

 そこを去る由依の表情に、何の躊躇も見られない。

 こうして深夜のアパートには、ただ健太郎のいびきだけが残された――。



 事の一部始終を話し終えた彼女のお別れの言葉を最後まで聞かず、健太郎がLINEをぶち切った。暫くは、勢いよく水の吹き出る噴水をただ呆然と眺めていた。

 しかしそんな彼に同情して、近づく人物もない。

 それでなくても、変な人形を引き摺って歩く謎の人物なのだ。いつしか、噴水の周りのベンチには、彼以外には誰もいなくなっていた。


「くっそお……。泥棒のヤツ、金品じゃなくて俺の彼女を盗んでいきやがった」


 徐に立ち上がった健太郎は手荒に人形を担ぐと噴水まで運び、そのまま水の貯まった水槽へ、ぼちゃんと投げ入れた。

 一度、重みで沈んだ人形だったがすぐにぷかぷかと噴水の池に浮き上がった。それを見た健太郎が忌々しげに水に沈めようとするも、彼を馬鹿にするかの如く、白い人形はその都度浮き上がって来る。


「コノヤロウ、コノヤロウ!」


 そんなときだった。

 噴水の向こう側に、数人の男が現れたのは。


「あれ、ウチのヨーネルおじさんだよ。盗んだのはアイツだ!」


 警察がやって来て健太郎を捕らえるのに、そんなに時間は必要なかった。

 それからも人形を水に沈めることに集中した彼は、逃げなかったからだ。

 手錠を掛けられても「これは人形じゃない、由依だ」とブツブツ独り言を繰り返す彼の目は、どこか悲しみに満ちていた。



 <了>

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