地球人・クスノキマサヒコ。ヴァンパイア編

アキラシンヤ

ミナミのヴァンパイア

 晩飯も食い終わり、俺とホニャ子はちゃぶ台を囲み、バラエティ番組を見ながらゆっくりお茶を飲んでいた。


 だが、どうしても時間が気になる。ちらちらと時計に目を遣ってしまう。もう二二時を回っていた。


「今日は遅いですね」


 ホニャ子も気になっているようで、同じように時計に目を遣っていた。


「たまにいるんだけどな。ギリギリでやってくるやつ」


「私、ちょっと眠くなってきました」


 そう言ってホニャ子は一つあくびをした。座布団に正座し、口に手を当てて。古代人なのによっぽど日本人らしい所作だ。眠くなさそうに見えるが、よく見ればネコ耳っぽいくせ毛だけがうつらうつらと舟を漕いでいた。色々と謎の多いくせ毛だ。


「別に寝たっていいんだぞ? ちょっと騒がしくなるかもしれないが、すぐ片付けてくるから」


「クスノキさんより先に眠る訳にはいきません」


 そう言ってネコ耳をピンと立てた。我ながらいい彼女を持ったもんだ。


 しかしあまり遅くに来られるのも困りものだ。なぜ大学は必修科目を月曜朝イチにぶっこんで来るのだろう。数少ない友人に聞く限りどこもそうらしい。やはり教授側の都合だろうか。


 テレビの内容も頭に入らず、ただ笑い声だけが耳に届く中、待ち人はようやく現れた。ピンポーンと玄関チャイムが鳴り響いた。


「やっと来てくれましたね」


「おう。とりあえず待っててくれ。はーい!」


 インターフォンなんて機器はこの古家にはない。返事を返して、玄関に向かい扉を開けた。


「おうおうおう! わいはミナミのドラキュラや! 血ぃ吸うたろかーっ!」


 門を勝手に開け玄関の前に立っていたのは、黒いマントを羽織ったボブカットの小さな女の子だった。


「…………うるせえ」


「あ痛っ!」


 急なハイテンションとノリに思わずゲンコツを落としてしまった。ひとまず玄関を締め、門の外まで運んでいく。


「あっ、ちょい待ってや! わいはミナミのドラキュラやで!?」


「夜中に騒ぐな。ご近所様にご迷惑だろうが」


「さ、さよか。ほなちょいおとなしゅうしとくわ」 


 意外と物分かりのいいやつだ。こんな子ばかりなら助かるんだけどな。門の外にちょこんと置いて、ひとまず事情を聞いてみる。


「それで? こんな夜中に何しに来たんだ」


「は? ドラキュラやで。血ぃ吸いに来たに決まってるやん」


「それはうちじゃなくてもいいはずだ」


「なんやろなぁ。誘われとるみたいにふらふら~っとやな。せやから血ぃ吸わせてもらうで」


 なぜうちに来たのかはやはり尋ねるだけ無駄だったようだ。俺の体質というか性質のようなものがこういう子をなぜか引き寄せてしまう。日曜日に限って。


「そうか。で、血を吸われたらどうなるんだ?」


「そら眷属になってもらわなあかんな。早いハナシがわいの下僕になるっちゅーこっちゃ」


「なら断る。帰れ」


「いやいやいや! それはあかんて! もうええ加減血ぃ吸わな帰る力もあらへんねん!」


 ミナミのドラキュラは泣きそうな顔でシャツの裾を掴んできた。そうか、血を与えないと帰れないのか。今週は目的がはっきりしてて楽だ。


 というのも、俺は毎週日曜日に訪ねてくる少女達を帰るべき場所に帰さなければならない。そうしないとずっと家に居座るか、残念な結末を迎えてしまう。


 もっともホニャ子は別だ。ホニャ子は俺の傍こそ帰るべき場所だった。


「血なら何でもいいのか? 例えば献血用の冷凍血液とか」


「んー、どうなんやろ? でも病院はあかんで。十字架でいっぱいやからな」


「弱点か。そうなるとちょっと面倒だな。とりあえず上がっていけ」


「せやねん。すまんの」


「ただし俺や中にいるホニャ子の血を吸おうなんてするな。灰も残さず焼き払うぞ」


「……に、兄さんめっちゃ怖いやんけ……」




 そんな訳でミナミのドラキュラを居間に案内すると、既にホニャ子がお茶を用意して待ってくれていた。どうやら聞き耳を立てていたらしい。


「粗茶ですが」


「これはこれは。夜分にすんまへんな」


「聞いてたかもしれないが、ドラキュラらしい。一応血を吸われないように気を付けてくれ」


「ドラキュラですか。ではドラ子になるんでしょうか」


「いや、ドラ子はもういるからヴァン子だな。ヴァンパイアのヴァン」


 ずずっとお茶をすすっていたヴァン子が顔を上げた。開いた口には確かにしっかりとした犬歯があったが、むしろチャームポイントに見える。


「ちょい待ちーな。なんの話してるねん?」


「お前の呼び名だよ。ヴァンパイアだからヴァン子。異論は認めない」


 毎週訪ねてくる都合上、どうしても呼び名が必要になる。名前がある子もいればない子もいる。ちなみにドラ子はドラゴンの少女だ。


「まあええけども。ほんで? 血ぃはどこにあるねん?」


「そんなもん一般家庭にある訳ないだろ。かといって病院から血液を貰ってくるのは難しい。だから今後の方針を考えるんだよ」


「ないんかーい! 血ぃ吸うたろかー!」


 腕をぺしっと叩かれた。なんだろうこのノリ。ちょっといらっとする。


「クスノキさんの血を吸ったら宇宙の果てまで飛ばしますよ」


「ネ、ネタやん。姉さん目がガチやんか……」


 さらっと言ってのけたホニャ子にヴァン子は青ざめていた。ホニャ子には古代兵器を操る力がある。今着ているロングパーカーがそのコントローラーだ。暴力は嫌いなやつなんだが、俺に少しでも危機があるとなると手段を選ばないからな。


 脅してばかりいてもしょうがない。着実に問題解決への道筋を見つけていこう。


「ヴァン子、お前ミナミのドラキュラって言ってたよな。そのミナミってどこなんだ?」


「いやいや知らん訳あらへん。ミナミ言うたら大阪ミナミに決まってるやん」


「え、大阪? ルーマニアとかその辺じゃなくて?」


「アホ言うたあかん。ルーマニアにミナミあるんか? よう知らんけど」


 意外にもあっさりと帰るべき場所が分かった。方法にしたって特別な手段はいらない。バスか新幹線の切符を買ってやればそれで済む。しかしそれはそれで新たな疑問が生まれてしまう。


「て事は、お前は大阪のミナミで暮らしてるんだよな。ミナミで夜な夜な誰かの血を吸ってんのか?」


 尋ねるといやいや、とヴァン子は手を振った。


「わしな、そんなようさん血ぃいらんねん。一人吸うてなんもせんかったら二〇〇年は生きれるんよ。今はあれや、ここまで来るんにめっさ飛んだからえらい疲れてもうたんや」


「なんでそこまでしてここに来たんだよ。結局血がいるじゃねえか」


 ヴァン子は湯呑に目を落とし、ぼつりと呟く。


「せやかて……憧れるやん、東京……」


 どう返していいか分からない。生まれも育ちも東京の身としてはなぜこんなゴミゴミした街に憧れるのか分からない。離島よりは便利なんだろうが、今はネットで買い物もできるしな。


「私は大阪に行ってみたいです。本場のお好み焼きを食べてみたいですし、たこ焼きも食べたいですね」


「さ、さよか! カップうどんとかおでんの食べ比べも忘れたあかんで! でっかい遊園地もあるしな!」


 グッジョブだホニャ子。いい仕事した。ハイテンションなやつが落ち込んでるのは見たくない。


「帰る手段はあるとして、やっぱり問題は血だな。二〇〇年前は普通に吸ったのか?」


「兄ちゃんおもろい事言うなぁ! そない昔の事覚えてる訳あらへんで!」


 ケラケラ笑うヴァン子はやっぱりいらっとする。何もおもしろい事など言ってないはずだ。


「……まあ、二〇〇年も前なら普通に吸ってたんだろうな」


「血と同じ成分じゃだめなんでしょうか。人工血液なるものがあったようななかったような」


 そう言ってホニャ子はスマホで調べ始めた。あったところでどうやって入手するかなんだが、現代とのギャップを埋めようとしているのか、ホニャ子は何かと調べる癖がある。


「それも分からんなー。血ぃって作れるん?」


「研究は進んでいるようですが、今はないみたいですね。試しに鉄分とか食べてみませんか」


「そうそう。鉄アレイ食べて健康に! ってなんでやねーん!」


「お前、疲れてる割には楽しそうだな」


 なんだろう、俺って大阪弁が苦手なんだろうか?




 ホニャ子が台所へ行って、待つ事しばし。お盆にいい香りのする料理を載せて戻ってきた。


「お待たせしました。ニラレバ炒めです。クスノキさんもどうぞ」


「いただきます」


「わざわざすまんのー。ええ匂いしてうまそうや! いただきまーす」


 うん、うまい。ホニャ子はどんどん腕を上げてるな。精が付きそうな味付けだが、果たしてどうだろうか。


 見ればヴァン子は一口食べて固まっていた。


「……姉さん、これニンニク使てへん?」


「使ってますよ。ほんの少しですが」


「うぎゃ――――――ッ!」


「おいヴァン子! 大丈夫か!」


 ばたんと倒れてもがき始めた。これはまずい! 吸血鬼にニンニクはだめだろ!


「なんでやねんなんでやねーんっ! くっさ! ニンニクくっさーっ!」


「うん? さっきいい匂いって言ってなかったか?」


 どうも様子がおかしい。具体的にどうなるかは知らないが、吸血鬼にニンニクは禁忌のはずだ。


「ニンニク、苦手でしたか」


「当たり前やんドラキュラやで!? くっさうわくっさ! ちょ、匂い消すやつ!」


「では速攻ブレスキュアーを」


「これ飲むやつ!? 噛むやつ!?」


「噛むほうです」


 ぷちっと音がして、ニラレバの香りに少しミントの香りが混じった。


「ふはー、なんぼかマシになったわぁ。え、ドラキュラはニンニクあかんて知らんかったん?」


「すみません。古代人なもので」


「ま、まあわざとやないんやったらしゃあないな。でもこれは食えんわ。つーかもう匂いが無理やわ。すまんけど下げてもうてええ?」 


「図々しい事言うな。ヴァン子が外に出てろ、俺が全部食う」


「せ、せやな。すまんの、あとで匂い消すやつも噛んどってなー」




 二人前のニラレバを食いながら、俺はホニャ子にぼやいた。


「……めんどくさいやつだな」


「賑やかでいいじゃありませんか」


「そういう見方もあるか」


 帰るべき場所を探している子ばかりやって来る都合上、日曜日の少女達はどうしてもテンション低めの子が多い。ヴァン子の帰るべき場所は物理的に繋がっているし国をまたぐ必要もない。襲ってくる様子もないし、楽と言えば楽なタイプだ。


「ニンニク、十字架、日光が苦手なんですね。だからこんな夜遅くに」


「あの感じだと紫外線苦手ぐらいっぽいけどな。ところで血、どうする?」


「本物の血を手に入れるのは難しそうですね。いろいろ試してみましょう」




「すんすん。うん、部屋にも匂い残ってへんな。すまんの」


「そんな事よりほら、血が用意できましたよ」


 ホニャ子がちゃぶ台に置いたのは赤い液体が入ったコップ。もちろんトマトジュースだ。


「なんやなんや! あるんやったら早よ言うてーや! ほないただきまーす!」


 ごくごく飲んでいくヴァン子。さて、どんなリアクションを取るだろうか。


「ぷはーっ! やっぱこれやな! しょっぱくて酸味があってほんのり甘くて……って、これトマトジュースやないかーい!」


「完全に予想通りのリアクションだな」


「そうですね。少しがっかりです」


「いや……こんなん無茶ブリやで? 飲む前から分かるやん。どう見てもトマトジュースやん」


「すぺしーむ光線びびび!」


「ぐはっ、やられた! ってなんで? そこは拳銃バーンちゃうの?」


「よく見てください、この腕のかたち」


「腕のかたち?」


「十字架に見えませんか」


 またもヴァン子は派手にぶっ倒れた。顔を覆って畳の上をごろごろ転がりだした。


「あかん言うてるやん! 知ってたやろ、十字架はほんまにあかんねんて!」


「具体的にどうだめなんだ」


「さぶいぼが立つねん! なんか怖いんやーっ!」


 見ればヴァン子の腕が粟立っていた。やはり目が焼けるほどではないらしい。


「おいホニャ子、そろそろやめてやれ」


「とっくにやめてます」


「えっ、もうあんまいじらんといてーやぁ……! ほんまにあかんやつとボケれるやつぐらい分かってやぁー」


「と見せかけてはっ!」


「うわーっ! 両手水平に上げんなやぁ――――――ッ!」


「お前生きづら過ぎるだろ!」


「ほんま生きづらい世の中やで……」


「だんだん楽しくなってきました」


「やめてやれホニャ子。これはマジなやつだ」 


 やはり恐怖症に近いものらしい。致命的なものではないが苦手なのだろう。


 はぁはぁと荒く息を吐きながらヴァンン子は身体を起こした。


「なんやもう今日は疲れたわ、眠なってきたわ。棺桶ある?」


「血と同じぐらい一般家庭にはねえよ」


「せやろな! わしも普段は布団で寝てるしな!」


 そしてまたケラケラ笑う。こいつの人生楽しそうだな。人じゃないが。


「私達もそろそろ寝ましょうか。血の件は思い付きそうもないですし」


「そうだな。ヴァン子は二回の部屋適当に使ってくれ」


「すまんの、そうさせてもらうわ。ほなおやすみなー」




 物音に目が覚めた。ホニャ子は眠っている、という事はヴァン子か。起こさないようこっそり布団から抜け出すと、階段を下りてくる足音が聞こえる。


「むにゃむにゃ……喉渇いた……」


 寝間着に着替えたヴァン子が眠そうに目を擦りながら居間に入ってきた。なぜか枕を引きずっている。


「むにゃ、いただきまー、ふもふ」


 大口を開けて迫ってきたヴァン子に対し、枕を盾に顔を塞いだ。今騒がれたらホニャ子が起きてしまう。口に枕を押し当てたまま、肩に担いで庭へ出た。


「おい、起きろ」


「むにゃむにゃ、まだ食べれるで……?」


 激しく身体を揺すると、ヴァン子はハッと目を見開いた。俺を見て月を見上げ、あんぐり口を開けたまま再び俺を見た。


「…………何事や!?」


「お前が寝ぼけて俺に噛み付こうとしたんだ、思い出せ」


 腕を組もうとして、手にした枕に気付いたようだった。枕をじっと見つめ、次第に顔をくしゃくしゃにしていく。


「堪忍、堪忍や! 焼き払うんは勘弁してや!」


「大声を出すな。ホニャ子が起きたら宇宙の果てまで飛ばされるぞ」


 ぼろぼろ涙をこぼしながらぎゅっと口をつぐみ、こくこくこくと何度も頷いた。


「寝ぼけてたってのは信じる。たとえそれが嘘でも信じる。だからよく覚えておいてくれ。俺もホニャ子もお前を助けたいと思ってる。だがどちらかに危害を加えようとしたらそういう訳にもいかなくなる。分かるな?」


 おかっぱ頭を振り乱すほどに何度も頷き、蚊の鳴くような小さな声で囁いた。


「ほんますんまへん、ほんまに寝ぼけてたんや。でも、喉が渇いてしゃーないんや。やっぱり血が足らへんねん」


 結局はそこに行きつくのか。だがどうすればいい? 病院から血液を貰ってくるのは現実的じゃない。


「やっぱり、人間の血じゃないとだめなんだよな」


「せやねん、魚とか鶏の血ぃやとあかんねん。ほんま申し訳ないわ」


 ならどうすればいい。どうすればこの子を救ってやれる? 喉が渇いたと言っていた、つまり人間にとって水と同じぐらい必要なものが足りていない。このままでは生死に係わるが、人間の血は調達できない――


 いや。


 あるいは、もしかしたら。


「ヴァン子、教えてくれ。お前の眷属になった人間はどうなる?」


 質問の真意に気付いたようで、ヴァン子はぴたりと泣き止んだ。


「あかんて、それは。死ぬまでわしに絶対服従や。わしの命令を絶対聞かなあかんようになる」


「その命令ってのは、どれだけ離れてても従わされるものなのか」


「そらそうや、そんな甘いもんやないよ。わしが命令したらそん時から操り人形や。せやからそんなアホな事考えんといてや。そんなん……わしかてつらい」


「それでもいい」


 端的に言い切るのに、それほど覚悟はいらなかった。


「ただ、二〇〇年分も与えてやる訳にはいかない。俺が死なない程度に、俺の血を吸え。血に飢えたらまた来ればいい」


 ヴァン子は言葉を失っていた。


 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。ヴァン子は吸血鬼の性質を持っているとはいえ、そのどれもが致命的なものではなかった。伝説に語られる吸血鬼の印象で勝手に思い込んでしまっていた。


 血を吸われても死なず、ただちに自我を失う事もないのなら、初めから俺の血をくれてやればよかったんだ。


「……なんでや?」


 ごしごしと目を拭っても、ヴァン子の涙は止まる様子を見せない。


「なんでそこまでしてくれるん? わしがむちゃな命令したらどないしょうもないねんで?」


「別に大した事でもないだろ。むちゃな命令っつうか、何も命令しないと信じてる。それだけだ」


 噛みやすいように跪くと、ヴァン子はひっと嗚咽を漏らした。


「……あとで宇宙に飛ばすとか、なしやで?」


「大丈夫だ。あ、飛んで帰るなよ。今日は泊まっていけ。明日の新幹線で帰るんだぞ」


 ぐすっと鼻をすする音が聞こえた。


「……すまんなぁ」


 そう言ってヴァン子は、ゆっくりと肩に歯を食い込ませてきた。抱きついてくる必要はきっとないんだろうが、そのままにしておいた。


 こくり、こくりとヴァン子は血を吸っていく。俺はぼんやりと、どれぐらい血を失ったら危ないのか、そんな事を考えていた。少しずつ意識が薄らいでいくのを感じていた。


「ほんまにありがとう」


 ヴァン子の声で目を覚ましたような感覚があった。ほんの僅かなあいだのようでもあり、それでいてずっと眠っていたかのような心地よさがあった。


 立ち上がっても眩む事はなかった。ヴァン子の背が少し伸びたような気がするのは気のせいだろうか。まだ寝ぼけたような感覚が残っている。


「もう喉は渇いてないか?」


「うん。大丈夫や」


 唇を拭ったヴァン子がやけに大人びて見えた。


「じゃあもう戻ろう。おやすみ」


「おやすみ。ありがとうな」


 それからヴァン子は二階に上がり、俺はホニャ子の眠る布団へと入り、何よりも愛しいその寝顔にキスをして、すぐに眠りへ落ちた。




 トントントン、とまな板を叩く音が聞こえて目を覚ました。味噌汁のいい香りがする。随分と長く眠っていた気がしたが、いつも通りの時間だった。起き抜けて布団を畳み居間の隅へ置き、ちゃぶ台を庭のよく見える場所に置いた。


「クスノキさん、おはようございます」


「おはよう、ホニャ子」


 朝食の載ったお盆を受け取り、朝のキスを交わす。


「血の問題が解決してよかったですね」


「なんだ、起きてたのか」


「眠ったままだと思いましたか?」


「いいや。起きてると思ってた」


 肩に手を遣れば、噛まれた跡には絆創膏が貼られていた。


「どうしましょう。ヴァン子さん、起こしましょうか」


「いいよ、寝かせておいてやってくれ。本来は夜行性のはずなんだから。ああ、それと」


 財布から数枚の紙幣を取り出し、財布をホニャ子に預けた。


「起きたらあいつの行きたいところへ一緒に行ってやってくれないか。最後は東京駅へ連れていってやってほしい」


「憧れの東京観光ですか。随分と親切ですね。もしかして、そう命令されたんじゃありませんか?」


「そうかもな。試してみるか」


「そうですね。では、スペシーム光線びびび!」


「ぐはっ! やられたーっ!」


 二人して笑って、俺は支度をして大学へ向かった。

 今度ヴァン子が来るのはいつだろうか。

 初めはうっとうしいと感じていたノリが、今からもう待ち遠しくなっていた。

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