星語り

凪常サツキ

星になる

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 二〇二二年、人類最大の敵と言っても過言ではなかったガンの根本的治療法が米コロンビア大学の研究により発見される。またその後、体内に侵入して神経修復などの作業を行う微細装置ナノボットやナノテクノロジーが相次いで発明・実用化され、ついに二〇四二年には有機微細器技術オーガノテックが確立した。ゲノム解読に次ぐ医学・生物学的進歩ともいえるこの快挙が、ついに人間、いや人類を病魔から解き放つこととなる。

 だが、相変わらずそれだけでは対応しきれない難病が、人を蝕み続けているのも事実。家族性致死性不眠症・LDS・ラスムッセン脳炎……。その上、人類はあくまで多くの病気に対するバリアを張ったのみだ。どれだけ人類が長寿生命体となろうとも、未だに人類の死亡率は「百パーセント」のままなのである。

” ” ”



 無機質な鉄筋の張り巡らされた壁に四方を囲まれ、コンソールが床から生えるこの地。この地こそが、人類の死を先延ばしにし、またその死から解放するべく研究を重ねる施設である。

 そこに、男が一人。

 月影のようにぼんやりとした照明の中で、アラン・マクラーレンは死にゆく。「熱口」の前に立ち、体を食い散らかす粘菌、プロゴミアどもを見下ろして。

 ただし、いきなりではない。死に「ゆく」のだから、少しずつ近づいていく。部屋を一周し、雑念を大きな想いに統一する。「熱口」が見えるぎりぎりの位置に立ち、一つ呼吸をする。深い、深い呼吸だった。目を瞑って深く息を吸うと、ひりりと肺が割けた気がした。それに伴って深く息を吐くと、今度は喉がじりりと絞られていく。

 冷や汗はとっくに引いた。粘性の強い唾液が出ている。鼓動も早くなっている。

 いよいよだ。彼は体中に寄生するようにはりついた機器を全て取り外し、機械のサイボーグ側ではなくなり、正真正銘の機械を使う人オルガノーグ側――つまり生身の人間ヒューマンとなる。

 いつぶりだろうか。自分の力だけで生きているのは。

 いつぶりだろうか。尊厳なく、こうして床に横たわるのは。

 正確な数値は分からないが、長い間アシスト機器に頼っていたことは今の状態を見れば把握できる。

 動かせる筋肉は、もうほんの少ししか残っていない。あとは、脳が錆びて再起不能に陥った。必死に地を這う。自分だけの力で、最期を遂げるのだ。矜持などかなぐり捨てて、だけれども最低限の人間性だけはこうして確保して、死と向きあう。

 目の前の風景が、白と黒のモノクロームになっていた。顔面は蒼白で、勝手に枯れたと思っていた汗が、これでもかという程に吹き出す。鼓動が一つ一つ感じられる。耳の奥に鈍い痛みがある。口の中には鉄の味がじわりと広がる。

 それでも、手で床を掻き、足を力なく上下させている。

 もう少しだ。あと、少しで、苦しみが消えてなくなる。自分の肉体も、消えてなくなるのだ。あとに残るであろうものは、故人としての記憶と、ミームとしてのこれまで書き綴ってきた作品、そして、「自分自身」。

 使い物にならなくなった目からは、テレビのスノーノイズのような視覚情報しか入らない。だからもう、目的としている「熱口」がどこにあるのかが見えなくなっていた。

 大きく息を吸った。 

 ここで、やっと、彼は死にたどり着く。淵に手が付き、「熱口」に吸い込まれるようにして落ちていく。

 西暦二〇四五年二月三日午前十時十三分、アラン・マクラーレンは、世界から消えた―――――。



 ニュージーランドで生まれ育ったアランは、その故郷が映画「ロード・オブ・ザ・リング」の撮影地であることを知ってからというもの、自国の散策とファンタジーVRにのめり込むようになった。十六歳の時、通信教育を受けながら自身の物語を作り始めた彼は、その三年後には早くも世間に認められ、電子書籍を販売するまでになった。

 ネット小説家として大成功した後、アランにはいくつもの仕事が舞い降りた。ドラマの脚本、批評、大会審査員。彼がその中で選んだ道はVR原案クリエイターだった。二十世紀半ば、汎用AIが実用化され、多方面で技術の飛躍的な向上が生じた。その恩恵を最も受けたのが「METAVERSEメタバース」に代表される仮想現実サービスだった。だがいくら人工知能が優秀になったところで、人間の持つ想像性の獲得には至っていない。

 そこで、仮想世界を創るには、まずその世界の“下書き”が必要となる。彼は他のすべてをなげうって、その過程に携わることを選んだのだ。この選択は、持ち前の想像力を最大限に生かせる方に、そして自分の理想世界を限りなく正確に再現することができる道だった。

 底なしの創作意欲をネットで公開する傍ら、彼は持ち前の吸収力をいかんなく発揮し、プログラミングやVRモデリングなどの知識を出来るだけ詰め込んだ。二十三の誕生日を迎えた頃には米ビヨンドGT社に入社し、米国屈指のVR技術者を寄せ集めた「チームMpマスターピースMメーカー」を結成。そこで得た高額の給料は使っても使い切れないほどだったので、アランは投資を始めた。クラウドファンディング大会に足繁く通うようになった彼は「最も活動的な作家」と称され、知名度もそれほどにはあった。

 彼の未来は、明るかった。



「食事カプセルですか」

「はい。一食事分の栄養と満腹感を双方提供できるものは、今のところまだ発売されていません。いかがです? 他の案同様安全性はもちろん、私共の手の中には確実性までも……」

「価格はどれほどになるのです?」

「実は、現在まだ開発段階で、あまりメドが立っていないのですが、一応は一粒三十ドルまでに抑えられるかと」

「お言葉ですが、非効率的で時代遅れかと。確かにこの商品が開発されれば、特許の出願ができるほどにはなるでしょうが、構想自体を別段特別なものとは感じません。しかも、満腹感なら神経言語で操作できますし、VR上なら好きなものの飲食が可能です」


 今回も自分に見合うもの――つまり自身の資金を生かして世界そのものを変えるアイデアが無い。そう思うと胃に強い不快感を覚える。この世界とそこに生きる人間が、これ以上鈍足な技術進歩にじれったがるのを、アランはこれ以上見たくはなかった。

 だからこその外出だったのだが、家から会場までの往復の時間は馬鹿にならない。この無駄にした時間をどう埋め合わせようかとうつむいて考えていると、とある文句が耳に入った。


「……ですから、私たちの脳は仮想現実にアップロードすることでより幅広い活動をすることができるのです。加えてそこでは、現実を縛るいくつかの定理を無視することができます。となれば、人類はより優れたことを――」

「失礼。貴方の案を詳しく聞かせていただけますか?」

「もちろんですとも! ありがとうございます。エドワード・ノースと申します」

「アラン・マクラーレンです」

「ああ、かの有名な! お会いできて光栄です。よろしくお願いします」


 エドワードは持ち前の快活な性質を前面に押し出した心地よい笑顔を浮かべ、目の前の“大物”に見事好印象を刻み付けた。飾り気のない言葉遣いや愛嬌のあるしぐさが、彼を権力や名誉に媚びることのない素朴な人柄であることを物語っていたからだ。


「それで……、私たちは三人で協力し、一つの土台を築きあげました。時代を百年進歩させるプロジェクトの、です。内容を語る前に、ちょっとした質問をしましょう。マクラーレン様は、人間の意識をドライブにデータとして取り込むことができるようになれば、どんなことが可能になると思われますか?」


 その質問は、世界に何かしらの変化をもたらそうと切実に望んでいたアランの心を一瞬で鷲掴んだ。どれだけ不安感をあおる広告も、魅力的な勧誘も、比べられない程、強く。数秒目を瞑ったのち、彼は答える。


「死からの開放、というものが最も大きいかと。VRサービスに脳や意識をアップロードできれば、多くの不可能が消え去る。それは突き詰めればすべてが肉体からの開放につながるので」

「その通りです。しかし意識のデータ化というのは単に寿命から解き放たれるということだけを意味するのではありません。私たちは“親”となれるかもしれないのです」


 不可解な単語の使用にアランは眉間に皺を寄せていぶかしむが、エドワードはやはり陽気に敷衍する。


「意識を解読すれば、人間が人工的な脳を作ることだってできるはずです。それこそ、ゲノム解読によって遺伝子編集技術が確立し、ひいては近年のようにゲノムそのものの作成まで可能となったように」

「つまり、“強いAI”の誕生が実現するということですか? しかし、それには多くの反発が伴うと思われますが。半世紀前から叫ばれていた”二〇四五年問題“などがその良い例です。人間を越える汎用型AIを作成すれば、やがてそれが人間を駆逐するなどとうシナリオも……」


 シンギュラリティ思想は、およそ六十年も前から切実に叫ばれてきた。レイ・カーツワイルが提唱した“二〇四五年”という時期に切迫した今、当然シンギュラリティアンは声を大にして認知科学や神経科学分野の研究を止めるように抗議している。それに乗っかる陰謀論者や愉快犯たちもまた世間を騒がせている。

 人工知能の浸透する社会の到来を待ち遠しく思う人もいるなかで、またよく思わない人も大勢いるのだ。それが世界を変えうる鍵となるのは分かっているのだが、初めから一定数の敵を持つビジネスなど、誰だって忌避する。


「そうなるかもしれませんが、最終目標はあくまでも意識のデータ化、そしてそれを他のデータと同じく、コンピューター上で自由に操作することです」


 エドワードが言うに、彼らの目的は意識をコンピューター上に取り込むことと、それに伴う様々なコマンドの生成だという。そして、強い人工知能の開発は、副次的なものなのだ。最初からこの“副産物”は伏せておき、世間の風当たりが良いようであれば一番乗りに公表する。

 すべての解説が納得のいくものであったし、またエドワード熱意のこもった朗らかな語りは、アランの投資欲を掻き立てずにはいなかった。すぐさまポケットに小さく丸まっていたタブレット端末を開き、エドワードに投資金額を提示する。またそのアイデアが大層気に入ったため、自らが勤務するビヨンドGT社への入社も提案した。

 対するエドワードは、ようやく自分たちが認められたことに舞い上がって、嬉しさのあまり声色を一段階上げ、また顔を赤くした。仲間に出資者が決まったことを伝えた後、深い呼吸で交感神経を落ち着かせる。


「失礼しました……。少々興奮してしまったようですね。では、詳しい話に移りましょう」


 エドワードがラップトップから情報を取り出す。それをアランが装着するリストバンド型投影機に送信すると、手首から指向性のホログラムが立体図を形成する。これがプロジェクトの始まりなのだと考えると、アランの口角は自然上がっていた。




 後日、アランは会社に新たな研究班を設けた。自分が大半の資金をやりくりすること、そして全ての研究成果の発表は、会社の広報部を通すことなど、その他いくつもの条件を呑み込こみ、呑み込ませた末に勝ち取った“大躍進”の始まりである。

 研究員はエドワードとその同僚二人、会社からの派遣五人、そしてアランの計八人であった。比較的少人数ではあるが、AIの制御ができればあまり頭数を確保しなくても良い。その上会社は、研究員や施設のほかに、もう一つの賜物を用意していた。それこそが、部屋の中心で異様な存在感を放つ量子コンピューターだ。持ち込みのプロジェクトに量子コンピューターが支給されるのは、社内では初の試みだった。この事実こそが研究の優秀さを物語っているような気がして、皆鼻息を荒くした。

 彼らが最初に取り掛かるべきなのは、原型オリジナルモデルとなる人工知能の作成であった。僅か半世紀ですら開発に時間がかかったこの工程は、しかし今となっては原則に反発しなければ簡単に作れる(#もとよりこの研究において、「強い人工知能」を作成するという目的はあと回しである。これを考えても、人工知能のガイドラインからはみ出す改造作成はお呼びでない)。派遣研究員のイーハンはプロの知能原型の造型師で、それをタブレット端末のみで創り上げた。

 続いて精神造型の工程に入る。ここでは量子コンピューターを用いて、多くの原型同士を交流させることで心を作成する。

 最後に行われるのは入れ物としての脳の作成となっている。脳は原始細菌プロゴミアの固有性質によって作成される。古細菌アーキア真正細菌バクテリアのDNA操作による逆行進化で生み出された同細菌は、摂取したα‐アミノ酸とその「結合組み合わせ」一つ一つに異なる電気信号を発する。その情報をコンピューター上で復号することで、外界に出力するという仕組みだ。

 さて、ここまでにかかった期間は三ヶ月。これは会社側の想定していた最短期間よりもさらに短く、その道の権威も目を疑ったほどだった。ここから彼らはさらに準備期間を経て、頭脳の”子”が産声をあげるのを待ち望んだ。


「あとは……、いや、やるべき事は全てこなしている。さらに微調整を重ねるのみといったところか」


 来るべき時を意識して、アランはいよいよ独り言が多くなっていた。それは緊張によるものか、はたまた近いうちに沸き起こるだろう歓びの準備なのかは、会ってから事務的な接触しかしてこなかったヘレナにはさっぱりだった。


「これ、その、良ければどうぞ」


 だから、不正解だったとしても、自分で処理できる範囲の思いやりを施すことにした。

 はたして、状況は良い方向へと向かった。


「ありがとう、ヘレナ。ちょうどこれが飲みたかったんだ」


 なんの捻りもない返し文句ではあったが、アランの優しさを抱いた笑みに思わず彼女も破顔した。それはコーヒーが、その艶やかな香気を二人だけに届けていたからそこの幻術だったのかもしれない。


「よう。元気になったようだな。ブレイクおやすみは何事にも必要なんだ。ヘレナ、いい働きだった!」

「BJ、どうした。君の言う通り、僕には休みが必要だ。用がなかったら……、さて、座って」


 アランは場の均衡が崩れたことに対してヘレナが不機嫌になることを恐れたが、彼女は思いのほか笑顔でBJを迎えた。さすが、旧来の友人同士といったところか。それに気づいて彼を座らせる。


「まあ、休んでいても秀才なアランなら覚えていられるだろう。で、今のところ、IFが起動しないのにはこんな理由があげられる」


 研究員は起動させようとしている人工知能をIFイフと呼ぶ。これは何も相談して決めた訳ではない。自然発生的にそう呼ばれているのだ。誰が言い始めたのかは謎であるが、そんなことを考えているとまたもやBJの声が頭に響く。


「おいおい、もうデータの転送はとっくに済んでるぞ。あまり休みすぎるなよ」


 居眠りなんてもってのほかだ、そうつけ加えられた言葉の意味を理解しながら、アランはリストデバイスから資料を投影する。


「これ、私は三つ目の、形成途中に発生した余分な領域が怪しいと思います。一から人工的に作るならまだしも、いわば有機脳を “複製”して作り上げるなら、神経伝達の阻害要素は致命的です」

「実は俺もヘレナと同意見なんだ。人工脳を作る時にはニューラルネットワークを基本とするときもあるが、そのネットワークが数パーセントでも途絶えると、全体の効率はかなり落ちる。人間で言えば重度の認知症や伝染性海綿様脳症なんかに相当する状態だ。」

「よし、じゃあ最優先事項は“ゴミ取り”だな。誰か担当しているのか?」


 BJが、勝ち誇った顔をして、美に関心を持つ人間の大半が羨むであろう真白の歯を見せつける。


「そういうだろうと、実はもう総力をあげてクリーニングしてる。IFが起動するのも時間の問題だろう。……という訳で」


 肩を回す彼の姿を見て、アランとヘレナは両肩を上げ、微笑み合った。BJのその動作が意味するところは、ずばりこれから冗談が言われるということだからだ。


「おーいラビノ、アランは認めたぞぉ。お前の負けだな!」

「ヴィッツだ! ラビノヴィッツ! まったく、いい加減にしてくれ」


 数メートル離れたコンピューターで作業をしていたイーライは、ユダヤ人の例に漏れずジョークを好む。今回も鋭いツッコミを入れた後は相手に笑いかけたが、自分の名字をネタにされたこのジョークには、心なしかツッコミの切れがいつもより増しているような気もした。


「BJ、あなたってほんと懲りないのね」

「なぜ懲りる必要が? 俺様のジョークにゃ死人すら生き返らせる力も備わってるんだぜ?」


 ちょうどその時だった。不足の事象に怯えて喉から絞り出されたような、素っ頓狂な声が耳に入った。

 見渡すと、BJも、ヘレナも、ほかの研究員は皆等しくその発信源を突き止めようとしている。例えばもし、量子コンピューターや備え付けの設備の不調が発した音なら研究は中断されざるを得ない。だが、いくら探しても見当たらない。思えば、所内の電子機器には規定値で所定のアラートを定めていた。ならば――、

 場所はまちまちだが、皆一様にひとつの点を見る。親機として機能する中央コンピューターに繋がれたそれ、IFのスピーカーである。


「ほらな、俺のジョークには、死人を生き返らせる力があるって」

「おい」


 さすがにこの状況では、BJの性格が災いした。最年長のジオンの呼びかけと仕草によって、彼は口を閉ざす。


〈おはようございます〉


 続いて全員が、アランを向く。もちろん、このプロジェクトを統括する彼に、記念すべき第一声の対応を期待しているのだ


「おはよう。ああー……」


 そこで、彼が起動したことを褒め、言祝ごうとしたものの、そのままの言葉ではさすがに露骨すぎるということは、まだ二十代のアランでもわかる。相応しい言葉を探し、神経を酷使して、


「よく生まれてきてくれた。ここにいるのは皆君の家族だ。よろしく」


 言うが否や、拍手に包まれた。及第点には達せたということだろう。若干照れ臭くもあったのだが、アランはこの時ばかりは気を抜いていられないと直感的に形式ばる。


「私なら、真っ先に名乗っていましたね」

「俺もだ」


 また、ヘレナとBJのこの二人が、いつも通りにアランを軽く指摘すると、場が和んだ。緊張の膜が一気に破れて、笑い声と共に各々の感想が飛び交う。そのせいで、IFが「よろしくお願いいたします」という文句を発したのには、最も近くに居たイーハンしか気づくことはできなかったのだ。



 後日、アランは一足早く出勤したつもりだったのだが、躍進によって活力が甦ったのは彼だけではなかったようだ。開所時刻よりも約一時間早い今、いつもはまだ寝ているであろうジオンでさえ、半開きの瞼をさらに開いてデバイスに情報を入力している最中だった。


「エドワード、昨日は残念だった」

「おはようございます、マクラーレン様。おっしゃる通り、私があの場に居られなかったのは墓場まで忘れないでしょうね。まあでも、みんなが気を使って報告してくれたのは嬉しかったですよ」


 ちょうど会社側に進捗を説明しに行っていたエドワードは、目標達成への第一歩をその目で見ることは出来なかった。せめてテレプレゼンス機器があればと思ったアランは、そういう時のため、実際に備え付けることを検討すべきだと心に留めておいた。

 彼が来たとわかるやいなや、様々な報告がなされる。総合すれば、IFは今基本頭脳パックの導入まで完了したとのことだ。ここからは、精神造形師など、認知科学や教育学を専攻した者が実質的な主導権を得る。内訳はヘレナ、ヒューゴ、ジオン、そして神経学のスティーブン、情報処理のウィリアム・ジャクソン(BJ)だ。ただでさえエラー処理と予定企画で食事にすらまともに手が回らないのに、担当分野に入った者達はさらに激務に追われる。だからといって、アラン自ら手伝うことは出来なかった。彼の本職は物書きだ。ネットワーク構築とプログラミングの技量を少々持ったところで、皆に太刀打ちなど出来るはずもない。ありがた迷惑を生み出すくらいなら、その時間を執筆にあてようと決めたのだ。

 そんな中、彼にもうひとつの仕事が舞い降りてくるとは夢にも思わなかった。きっかけは、ジオンの依頼から。


「鑑賞文は、面白い試みだと思います。やってみしょうか」

「あんたに認めてもらえれば、会社も文句をいえまい。礼を言う」

「しかし、早くもIFが自我を表すとは、驚きとしか言いようがないですね」

「私もだ。鑑賞文を書きたいなど、今どき大学生でも言わんだろうな」


 IFが人間と何ら遜色ない「疑似人格」となるには、「食べる」や「眠る」といった生命活動を完璧に理解させる必要がある。現代の人工知能はそうした行動を間接的にしか経験できない為に、どうしても人間との感性とはかけ離れてしまう。アップロード用の人工意識は人間と近ければ近いほど良い。

 そこで、アラン達は一つの解決策を発案した。IFに小説や物語を読ませることにより数多くの定義と例を蓄積させ、またVRサービスの疑似感覚出力機能を用いてその感覚を補強する。そうした多方面からの学習により、未だかつて到達したものは無い、強いAIの完成を目指す。

 二人の会話の焦点、それは紛れもなく、IFについてだ。昨日から早速世界の名作を読み込ませていたのだが、一冊目『最後の一葉』を読了したところでこう発したという。


「自分の感覚を、文章に表したいと思います。よろしいですか」


 研究員はそれを「自我」と見なし、今アランが判断を下した。よって、その開発フェーズに直接関わりのない者も、感想文の分析により暇ではなくなったのであった。



「何だこれ⁉」


 ヘレナがコーヒーカップに手をかけ、イーハンがIFの感想文中のことわざを添削していた時。そこでアランが叫んだのは、受信された膨大な量のIFの感想文に対してであった。

 ちょうど息抜きを欲していた者達が真っ先に駆けつける。


「すまない……、けど、この感想文を見てもらえれば分かる」


 ページ数には一二四とあり、文字数にすれば十一万字にも及ぶ長文となっていた。


「かぁ〜、こりゃたまげたな。読むのにすらどれほどかかるか」

「すみません、何を読んでの感想なんです?」

「テグジュペリの『星の王子さま』だけど、一体なぜ」


 問うたエドワードも、同じく首をかしげた。誰も原因は分からず、会話は続かず、いつのも間にか大半の研究員がひとつのデスクに集まっていた。


「空腹、満腹、疲労、肉体的な快感などに対するIFの理解の低さは予測していたし、実際そうだった。文の構成要素の大半を占める。なら、今回もそうした要素が含まれていたのでは?」


 アランは電子時計の針を見る。あと数分で執筆の時間だった。


「アラン、そのデータをクラウドにアップロードしておいてくれ」


 だから、膠着状態が解消されるまではそれに首を挟まないようにした。自分の創作案を忘却の隅に置き忘れないように、またその道の専門家に集中してもらうように。



 数日間かけて書き続けた物語のさわりをようやく書きあげられると思った矢先、招集がかけられる。なんとか意欲の湧き出た今仕上げたいと感じてなかなか椅子から腰が上がらなかったのだが、あちらでも議論が十分温まっているようなので作業しながら耳を傾ける。


「スティーブンの言った通り、IFは特定の要素に強い関心を抱いていた。それがこの場合、"大人"と"子供"の優劣についてだった……」

「そういやこのまえ気になって『星の王子さま』を斜め読みしたんだが、確かに色んなところで子供を良く言ってたな。対する俺たちゃ、"数字にしか興味が無いおとな"なんだろうな」

「IFに用いた基本頭脳パック"LINGUA-hal V"は、二十歳から四十歳までの男女を国籍に縛られずに抽出し、それらをモデルとした平均から形成されたものと書いてありました。それはつまり、科学が巨大化した今の世相を反映しているということになりましょう。みな科学に解明されたものに安心感を覚えて、それを好むという思想です」

「確かに、それを愚直に受け止めたIFには、世界の理論に反する情報を延々と書き綴った書物としてこの本を捉えたのかも知れない」


 ここで、アランはとうとう小説のワンシーンを書き終えた。心にのしかかっていた重圧から解放されたようで、出所する元囚人のように軽やかな足取りで皆の方へと向かった。


「ちょっと失礼。今はIFに会えないのかな。本人に直接聞いてみれば、感想文のことも色々教えてくれるんじゃないか? たとえ考えが少しばかり流動的でも」

「それなんだが、実は今、IFは集中入力期間中だから多くの機能を一時停止させてる。一応その思考地図ならあるけど、見にくいからなあ」

「その、前々から思っていたんだけど、”IF”って名前、少し無機質すぎない? 誰が付けたの?」

「誰が名付けたも何もない。いつの間にか、誕生した次の日には皆が口にしていた。IF自身もそう認識はしている」


 それはまさに少し前、アランが疑問に疑問としていたことであり、皆が思っていたことでもあった。ヘレナの一言に対応したヒューゴも、その名付け親ではない。


「付けようか。名前を」

「やってみましょう」

「けど、IFはIFだしな。そういう印象から遠ざかるのが難しい」

「たかだか数日の間だろ」

「人工知能――いや疑似人格の名前か……」


 この提案をしたイーハンは、自国の故事「まず隗より始めよ」に倣って名前を何通りか考えるのだが、歴史上の偉人の名がどうしても先に出てきてしまう。他のものも同じ状態で、今のところ案としては「Jジョージ.Wワシントン.」しか上がっていない。

 そんな中、部屋の隅で、電子タバコで一服していたジオンが、深呼吸をするように白煙を吐き出し「STELLARステラはどうだ?」そういった。 

 青天の霹靂とは、このことを言うのだろう。口をただ広く開けるものもいたし、低く唸るものもいた。


「何だ? 不満か」


 声が掛かり、アランも自らが衝撃を受けていたことを知った。不満など、あるわけない。そこから返答には少しばかり間があったのでその言葉は既に使われてしまっていたが、何とか自分の意志も表現出来た。


「僕も、賛成だな」

「ステラ、呼びやすいわ」

「じゃ、これで決まりだな。もしかして、『星の王子さま』の"星"にもかけてるのか」

「あとは世間の注目を集める"スター"の意味も込め……、って言わせるな。小っ恥ずかしい!」


 またIFが初めて起動した日のように、研究室全体の空気が和んでいった。まだやるべきことが山積みではあるものの、こうした一つの出来事が区切りとなり、それがさらにメリハリを付ける役割をなす。そんな風潮が自然と広まるのは、どことなく自然界の社会性生体に通ずるところがある気がした。各国を代表するような頭脳の集まりも、所詮は全ての生き物と同じ命を持っているのだろう。


「上層部への報告書に、STELLARに決まったと記載するといい」


 誰かが言った。また考え事をしていたせいで、多くの情報が欠如してしまったが。


「アランさん。こういう作業は、やはり代表者が担うものですよ」


 執事のような恭しい態度でペンを渡される。陽気さが抜けたエドワードはこんなにも上品だ。いや、彼のことだから、それも周囲を和ませるための策として演じているのかもしれない。

【報告書九月十日:この度、私アラン・マクラーレン率いる本研究チームは、疑似意識IFの名称を、「STELLAR」と定めます……】

 頭ではそう書こうとしている。しかし、指が動かない。Sの一字もかけない。力を入れようとするが、ただペン先が震えただけだった。


「どうした? 綴りはS,T,E,ダブルL――」

「分かってる」


 だが、英単語の綴り以外のすべてが闇に包まれている心地がする。ひとつずつ、感覚を確かめる。目は見える。息はしている。古くさい空気が、肺より押し出されて新鮮な風が体内に吹く。だが手は動かない。この呪縛から解き放たれようと渾身の力を込めると、今度はペンが紙面を通り越して机を擦り上げた。


「……今日は調子が悪いらしい。エドワード、あとはよろしく」

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