星は語る


 あの日から、指が正確に動かない頻度が増えた。今時珍しいキーボード入力をするアランには、この状態がかなり堪えた。だから彼は音声入力に移行した。

 研究員たちの間では様々な憶測が飛び交っていた。アランが以前〈STELLAR〉の名前を書けなかったとき、それは本当に綴りを忘れていたからとか、あるいはその名前自体が気に入らなかったからだとかいう説が囁かれる。なお音声入力への移行には、集中入力期間が終了した〈STELLAR〉の聴覚発達に一役買っているのだという噂が有力となっている。

 もちろんこれら全てが噂や憶測となっているのは、アランが指の痺れのことを表に出さないからだ。何か大きくてくらい力が体を蝕んでいる。正体はよくわからないが――否だからこそ、それを口にするのがはばかられた。口にするということは、他人の意識に広まるということ。そうなれば、自分だって今よりも意識せざるを得ないだろう。その、意識の復讐が怖かった。


「アラン・マクラーレン様。お呼びでしょうか」


 とはいえ、仕事をしないことには何も始まらない。今日も小説を書く傍ら、研究の過程で生じた〈STELLAR〉に対する疑問をぶつける。


「君は死に対して、どういう印象を持っている?」

「はい。死とは、人間のみが共有する概念の一つで、現象ではないと考えます。他の動物は死を認識しない為です」

「では、その定義は?」

「死は、生き物、とりわけ人間が”死体”になることです。しかし、社会においては死が必ずしもそれだけではない事が往々にしてあります。死して尚絶大な権力を持つ者もいますし、またその死が隠されれば人間はある程度架空の人格として生きながらえることが出来るでしょう」

「分かった。もういい。ありがとう。ステラ」


 テキストにはこう打たれた。「まだステラは人間的な意識を持っているとは言い難い」と。その画面を、〈STELLAR〉の「目」である小型ドローンが捉える。


「アラン様、ひとつお聞きしてもよろしいでしょうか」

「どうぞ」

「ありがとうございます。では、「死」に対する人間的な認識とは、どのようなものでしょうか」

「率直な感想は、恐怖かな。または、悲しみ。親しい人間が死んだ時だ」

「死ぬことが、怖いのは何故でしょう?」

「死んだ後がどうなるか、誰も何もわからないからだろうな」


 以前、人間が怖がる、また嫌うものは得体の知れないものとインプットしたおかげで、この先は言わずとも〈STELLAR〉は理解したようだ。

 数日前は〈STELLAR〉の認識全てが辞書的なものだった為に、皆進捗が白紙に戻ってしまったと思った。あの基本頭脳パックはなんだったのかと冷や汗をかいたものだ。だからこうした質問と添削の嵐を口頭でも、また量子コンピューターを介してでも行なった現在では、ようやく及第点が見えてきた。もっとも、ここにいる研究員はみな高い志をもっているから、及第点ではなく満点を狙う。イーライは「ステラが皮肉をいえるようになるまで」が目標と言っていたことを思い出し、アランは現実と理想の格差に頭痛を感じた。

 この変化は、IFが〈STELLAR〉と名づけられ、さらに皆の研究意欲が高まったことによるものだろう。名前をつけるということは、区別をすること。IFが〈STELLAR〉となった時、"それ"は〈an AI〉ではなく、彼らが開発する他でもない〈the AI〉という属性を付与されたのだ。

 変化はもう一つある。ここ数日で、会社の広報部が担当する〈STELLAR〉のクラウドファンディング型募金の集金額が数倍に膨れ上がったと言うのだ。これも、名前がついたことによる結果のひとつだった。「人は中身のわかりにくいものに金は出さない」。通信制大学の経済学理論の講義で常々言われてきた文句を思い出した。


「じゃあ、僕はここで失礼」

「はい。お疲れ様です」


 ヘレナの返事を背に、扉を開け、会社のエントランスまで足を運ぶ。巨大ディスプレイには、現在ビヨンドGT社が総力をあげて開発中の「代理ロボ」と、それが浸透したあとの未来社会図が映し出されている。「the world going→more flexible」というキャッチコピーの妥当性を検討しながら出口に手をかけた。

 そして外気に触れた時、その手が開かないことに気づいた。躓き、肩と腕の関節が伸び軋む。


「大丈夫ですか!?」

「いやその、ああ、滑っただけです」


 異音に気づいた受付嬢が駆け寄るが、当の本人はかなり動揺して適当な言葉を並べた。強引に腕をふりきり、何事も無かったかのように笑顔を見せた。

 会社の扉が閉まる。無人タクシーの扉が開く。受付嬢とアランの関係はここで途絶えただろうが、彼はまだ物足りず、いそいそと車内に乗り込む。


「アラン・マクラーレン。自宅まで」


 滑らかな加速が生むGとシートに身を委ね、未だに強ばる手をほぐそうとした。ついでに拍動を平常化するためにクラシックを聞こうとするが、パネルを操作する指は未だに覚束ない。ヨハンシュトラウス二世の円舞曲でも聞こうと思ったのに、わななく手はいつの間にか、ワーグナーのプレイリストを再生していた。

 だから彼は決意した。これ以上生活に支障をきたされると厄介なのに加えて、「人間は得体の知れないものを嫌う」という考えが背中を押した為だ。


「変更。GT社附属病院に向かってくれ」



 病院が清潔さを強調するために内装を最低限のものに抑えるのはわかるが、ここは異様な程にものが少なかった。壁が変形して生成される椅子とディスプレイしかないのではないと言っても過言ではないだろう。

 ひとつ、その簡素すぎる空間にあった情報端末に名前を入力すると、担当医の名前と診察室番号が出力された。あとは、全く代わり映えのしない建築に退屈しながらその部屋に向かうだけだった。


「こんばんは、私がアラン様の担当医になりました、森川サキと申します」

「よろしくお願いします」

「今回は手のしびれ及び麻痺の症状にてご登録なされましたので、主に上半身の検査をします。脊髄や脳の検査も含まれますから、一時間ほどかかりますがお時間はありますか?」

「ええ。大丈夫です。ちなみに、その結果というのはいつ出ますか?」

「恐らく三日後には連絡が入ると思いますので、それまでお待ちください」


 脳や脊髄といった中枢器官を検査されるのは、いつの時代もすんなりと受け入れられるものでは無いだろう。だから極小の検査機器を血中に流すと言われた時には正直身震いをしたものだが、麻酔さえなかった中世の荒治療の存在を思い出し、承諾した。

 小一時間が経ち、全ての検査が無事に終わる。アランは森川医師に感謝をして自宅へ再度タクシーを走らせた。車窓を通して見上げると、ヒューストンの薄黒い夜空が目に入った。そしてふと思い立って、窓のオプションを「Starlyほしぞら」にセットした。人工的に星の光量を増加させるフィルターを通してみる夜空は、たとえ人為的なものであったとしても心に沁みた。仕事も検査も終えた今、この景色を見るだけで強い達成感を覚える。

 そうして、アランは甘い脱力感に身をゆだねた。



 予定から少し遅れて、医師からの電話がかかってきたのは四日後だった。イーライに「本日の総合的な評価」を聞けなかったことがどうしても不快だったが、家についたら聞けばいいと自分に言い聞かせ、病院へと向かう。

 診察室では、医師が椅子に腰かけもせずモニターに目を通してばかりいたので、あまりいい心地がしなかった。会話を拒む雰囲気に萎縮して、自分なりに痺れの原因を導いてみた。


「考えていたのですが、もし筋肉量が低下しているのなら、トレーニングを生活の一部に取り入れた方がいいでしょうか?」


 そう。考えてみれば、本格的な運動はかれこれ五年、いや十年の間できていないかもしれない。アランの脳裏に、原始の大地を駆ける猿人のビジョンが映し出された。

 だが、その考えは甘すぎた。現代医療の写し鏡として、担当医が態度で物語る。椅子に座って対面するまで、そこに言葉が介入することは無かった。


「実は……、少々申し上げにくいことではあるのですが、今回の諸症状の原因は筋肉そのものではないと思われます」


 申し上げにくいこと。この一言で全身の筋肉が弛緩したように思えた。ここで失った力は、未来を生きる力なのかもしれない。そう考えてしまう自分を、もはや自分として認識するのが難しかった。


「脳――全身の運動を司るその脳に、異常が見られました」


 拍動は常に早く、動悸さえ感じる。気分が心底悪い。


「どのような状態なんでしょう?」


 過剰分泌された胃酸の風味がまた不快で、何度か唾を飲み込んで、尋ねた。


「白灰質の一部が、脳症を起こしています」

「治るものですか?」

「断言は、出来ません」

「そうですか」

「はい……」

「今後どうなって行くのか、教えていただけますか?」

「ではまず、アラン様の脳症自体の説明から始めていきます。今回の症状は、クロイツフェルト・ヤコブ病に代表されるような"プリオン病"とよく似ていますが、その病原体であるエンケパロファオシス・ヘテロロボサが検出されませんでした」


 プリオン病は、二十世紀末に提唱された「異常プリオンタンパク質起源説」が長年有力な仮説とされてきた。そこにそれまでの定説を覆す発見――病原体はウイルスであったこと――がなされ、特効薬が翌年には作成が完了した。それ故に、プリオン病全般はもはや不治の病ではなくなっていた。

 しかし、いまのアランに、そのような説明が何になるだろうか? 少しでも不安が和らぐような言葉に包まれるべきだと思った途端にこのような"時間稼ぎ"に足を取られては、さすがに黙ってはいられない。


「私は先程言ったように、病と体の今後について訊ねたのです。余計な前置きがこれ以上続くようであれば、担当医を替えていただきます」


 本当は、聞きたくもなかった。今だって彼の手にはさらさらとした汗、額にはねっとりとした脂が滲んでいる。シュレーディンガーの猫が入った箱を開けるのは、正直パンドラの箱を開けるのよりも胸が高鳴る。後者なら、結果がいつも決定しているからだ。

 そのただならぬ緊張を読み取った森川医師は、患者の不安を和らげることは失敗した。だから、持ち前の知識と診断結果を率直に言うしか、もう選択肢はない。


「アラン様の症状は、散発性大脳錆化脳症だと思われます」


 異様な言葉にもう一度耳を傾けると、医師はもう一度病名を宣言し、発見されてまもない病気であるという情報を付け加えた。


「錆ですか」

「これはあくまで比喩ですが――未特定の原因が大脳機能を阻害し、それが続くことにより脳自体が機能不全を起こして壊死する病です。残念ですが、治療法は確立されていません」

「最終的には、どうなるのでしょうか」

「大脳基底核は運動の制御、つまりは体中の筋肉全般をつかさどる部分です。症状が進めば手足のしびれや歩行困難にとどまらず、寝たきりになります」

「何か、大脳の"錆"を抑えるのに、効果的なものは……?」

「残念ながら。しかし、最近ではBMI技術が飛躍的な進歩を遂げました。ですから、少々値は張りますが、全身の筋肉を脳の指令によりある程度の支持をすることは可能です。その代わり、本来大脳が行うはずの仕事をほかの領野が担うことになるのですから、当然思考能力の妨げにはなります」


 無意識に指を曲げていた。感覚は確かにある。だが着々と自由が奪われる未来を孕んだこの指は、それでも動かせている。

 いや、違う。

 これか。

 ひとりでに、アランは理解した。機械で脳の司令を筋肉に伝えるということ、それの煩わしさを。自分の体がマネキンになったようだった。歩きたければまず全ての部位に一つ一つ指示を出し、足を一歩踏み出す体勢になる必要がある。そして次の段階で、ようやく踏み出す。

 かといって、寝たきりの植物状態でいるのはなにより避けたい。それはもはや、「生きている」ではなく、「死んでいない」だけだからだ。


「その、BMIの作成を、よろしくお願いします」


 そして彼は、一本の電話をかけた。


「エドワード、僕は、病人だ」



 タクシーをとる気分ではなかった。彼は歩きたかったのだ。その脚で。

 街灯、そして高層建築の照明が騒々しい光を放つせいで、夜空は月の単独舞台となる。

 ぼんやりと捉えどころのない空気を吸う。

 きりりとした光に照らされた街道を踏む。

 自分にはまだ、それだけの力があるのだ。

 それを確かめるには十分すぎる道だった。

 唐突に、目の前のディスプレイに自分が映る。きちんと正装した自分が、年老いて、縮こまり、やがて墓石を後ろにゆらゆらと揺れていた。何とも不気味な広告だった。顔認識カメラで通行人の容貌を瞬時にモデリングし、既成の背景とモーションに当てはめるリフレクト広告。その中でも今回のは特に酷い。これで背景がベクシンスキーの絵画であれば確実に訴えられる代物だった。

 結局は「アンチエイジング薬」の広告で、最後は若々しい自分が目に写った。それでも心臓に悪いことに変わりない。瞬間、死と自由の制限を想起してしまい、胃がむかついた。どうしてタクシーを取らなかったのだろうと過去を怨む。月は、この瞬間にも鈍く輝く。



 それから、〈STELLAR〉の開発がひとつ進歩するまでは約一ヶ月かかった。今回のフェーズは、より高い創造性を駆使して物語を書かせるというものだった。

 そしてもう一つの特筆すべき事柄は、ステラ計画の研究所が東京に移ったということである。日々増えゆく募金と投資金を巡って会社と対立したアランは、研究を行う際の「契約」を持ち出して独立を勝ち得ていた。

 株式会社ステラが本部を置く東京は、ここ十年で更に発展を遂げていた。多くの国内外企業を多数招致し、住民の数割に格安のビル(#住まいのこと)を提供することで土地を確保、そこに研究者を住まわせることにより、世界最大級のオフィス街兼学園都市となった。

 もう十一月だと言うのに、東京はかなり暖かい。久々に外に出て、改めてアメリカとは違った土地に来たのだという実感がした。

 アランがわざわざ外出したのは、今日がその新たな施設に初めて足を踏み入れる日だったからだ。IAAの第二区、六-八に建てられたこの近代建築は、さながら二十世紀の美術館のようだ。見慣れないものには少なからず不安が生じる。ただ、指定された研究室に入れば、いつもの顔ぶれが優しく向かい入れてくれた。


「おう、おはよう! アランもやるか?」


 ブラックジャックをしながら。


「仕事はどうした?」

「せっかく独立出来たってのに、パーティのひとつもなかっただろ。だから今日の朝くらいは、少し骨休めをしようと思ってな」

「お、俺はこれでスタンドだ」

「私はヒット」


 今日もてっきり仕事が待っていると思ったので、あまり乗り気はしなかった。だが、〈STELLAR〉が滑車の付いた台に乗ってこちらへやって来て

〈アラン様も、適度に休憩をお取りください。勤勉が、時に身を滅ぼします〉

 おそらく小説からの引用だろうが、それでも人工知能が直接的に体験しえない人間の感覚を語るまでに成長したのは素直に喜べる。

 しかし、〈それ〉には足があった。滑車という名の、自由という名の足が。自分で動ける生体なら、自宅からここまで来るのに何匹も見たはずだった。人間、鳥、飛虫……。自分でそう分かっていても、"作られたもの"が制約なく動けることに対しては負の感情が煮え返る。


「君は、だいぶ楽に動けるようになったんだな?」

〈はい、ファン・イーハン様のおかげです〉


 アランのBMI機器が発するか細い音が、今はよく聞こえた。誰も、口を開かず、動きもしなかったから。先のやり取りから、今やサイボーグとなったアランと、自由な移動の出来るようになった〈STELLAR〉の相性はとてつもなく悪いという認識が蔓延した。

 管に繋がれた指が五本、カードに触れる。無言のままだったのが余計に場を張りつめさせたが、アランの様子を見る限り、そこまでの気遣いは無用そうだった。それよりは目の前のカードをディーラーにわけてもらい、二十一に近づけることに専念したいといったオーラをしていた。

 二枚をめくれば、スペードのエースとクラブのキングが姿を現す。


BJブラックジャックだ」

 ゲームgame終わったover

  


「ステラ、君は何を恐れる?」


 アランが、〈STELLAR〉の書いた小説群を読み漁り、引っかかっていたことを問うた。二作目の無人島漂流モノは、経験が浅いことから考えればかなり適切な描写がなされていた。物語性も悪くはなかった。とは言え、約三年間も孤独な生活を送る主人公が、サバイバル期間中一度も不安そうな素振りを見せないのは現実味がない。


〈それが、本作に対する感想ですか?〉

「いや、これは単なる疑問だ。感想はまた別にある。とにかく、君は何が怖いんだ?」


 〈STELLAR〉は、いつもの高速応対形態MQRを止め、一瞬無言になった。そして一息置くようにして、こう答える。


〈ひとしきり考えたのですが、私は特に、思考の出来ない状況に陥ることが不安で仕方ありません〉

「君は、この主人公が二年と九か月の間一人で暮らしたのに、一回も負の感情を表わさないのは、つまりは”思考できない状態”に陥らなかったからということか?」

〈はい〉

「それは、この主人公が元軍人のブッシュクラフトアドバイザーで、文明の力を借りずに生活することが容易だからか?」

〈はい〉


 思った通りだった。〈STELLAR〉は、死や病気など「畏れ」の対象を、単なる「現象」として捉えている。それは、言うなれば台風や地震などと同じ扱いをしているということだった。起きた瞬間にしか意識されず、恒常的・潜在的な恐怖心として生につきまとうようなものでもない。

 確かに人間にも、恋に陥った時や大好物を目の前にした時など、死を意識することを止める瞬間はいくつもある。だが、〈STELLAR〉の認識は、それとは全く反対だった。死を想起するきっかけがなければ、表意識エゴにそれが表出することもない。

 とにかく、まだ仕事は山積みだった。現行開発員たちにフィードバックをして、自身は小説の感想と批評に徹した。



 #(前略)フレキは、知識の代償として右腕を失った。だから、今でもゼトフレギンの泉の底には彼の右腕が安置されているのだ。(中略)この第二の試練では左手、第三の試練では左腕というふうにして、第九の試練が終わる頃には、彼の体にはもはや「枝(注:四肢のこと)」は無かった。しかしこれでは九人の兄弟を殺して得た「巫の冠」を使う術がなかったので、医術の神ハジに魔法の四肢を生やしてもらった。以後、彼は神々の王に相応しく、不滅の体を手に入れたのであった……。

 これは、アランのファンタジー作品群「サウザンド・シーズン」シリーズ最新巻に書かれた創作神話の一節だ。第一世代の最高神フレキは、そこで四肢喪失を体験している。

 アランの心に潜む闇が、紙面に反映していることは明らかだ。事情を知るものだけが、彼の現実に向けようのない憎悪妬心を肌で感じた。

 最新巻が世に出回ったとき、アランの症状は悪化の一途を辿る一方だった。もはや指は動かせず、分化した掌でしかない。腕の可動域も狭まっていく上に、とうとう下半身にまで魔の手が差しかかっていた。


「うおっと!」


 足がもつれ、サーバーから持ってきたコーヒーカップが指の拘束を解いて床に滑り落ちた。ため息を一度、二度。そうしてもう一呼吸置いた後、手を二回鳴らす。自動掃除ロボが早速やって来て床の洗浄に取り掛かるが、スラックスにできたしみまで取り除いてくれはしない。

 ふと、カップの底に目が行った。日頃使い込んでいたために黒ずんだ底。気になったが故に擦り落とそうとしたのだが、しがみつく様子が生に固執する自分のようで止めた。と言うよりは、出来なかった。

 どうして、よりによって、自分が。アランの脳内で、そんな疑問が恥ずかしげもなく乱反射した。強いていえば天に届けるべきものなのに、頭内で幾回も反芻していった。


「アラン、おい、どうしたんだ?」


 見かねたイーライが寄り添って尋ねる。なんでもないと言い張るアランに、彼は手の状態を聴こうとしたが遮られた。


「今日は少し早退するので、今のうちに聞いておきたい。進捗具合は?」

「それより、良いのか? 早く診てもらったほうが……」


 だから、イーライはこうして忠告をするが、過去一度、それで後悔をしているアランに逆効果であることは言うまでもない。一通り食い下がってみるが、意固地なアランはやはり良しとしない。


「分かったよ。じゃあ説明するが、ステラの進捗状況はあまり良くない。停滞してる。文の添削でいくら文法に詳しくなったとしても、思考回路自体がまだ人間的じゃない」


 少し唸って、イーライは次に〈STELLAR〉を呼ぶ。そしてヘレナに、神経地図を可視化・記号化した画面を表示させた。


「ステラ、リンゴを思い浮かべてくれ」

〈出来ました〉


 ディスプレイには、ただひとつ、「apple」とある。背後にうっすらと、リンゴの画像が見えた気がした。


「これだ。ステラは従来の人工知能同様、指定されたものだけを想像することに意識を全て割り振る。並行思考能力が皆無だ。人間であれば――ああなる」


 ディスプレイの画面が切り替わる。こちらには様々な単語が並び、嗅覚や味覚のメーターにも変化がある。背景にもくっきりとしたリンゴや、ナシの実、果物ジュースのイメージが見られる。


「これは、国籍・性別不問、二十代の脳内を平均してメタテキスト化したものです。右のステラのものとは、かなりの情報量差異があります」


 ヘレナの説明に合わせて、今度はディスプレイにダブルスクリーン表示されたデータが比較される。下部にエラー項目が数十も並べられていて、一日中これと格闘する彼らのことを思って、アランは心で労いの言葉を投げかけた。


「この調子だと、第一目標だった年内の意識転送は無理そうだ……」

「となると、融資や投資の規模が縮小するのが問題になりそうですね」


 原始、「投資」とは、見返りの他にも純粋に当事者の事業が成功することを祈って出資したものも少なからずいたはずだ。東インド会社の船を金の長距離旅行とみる金持ちと、交易物の流通により生活がより豊かになることの象徴とみる平民と、二種類の出資者がいたように。

 そして時は下り、誰もがボタン一つで投資家となることができるようになった今日。もはや事業の成功に対する純粋な眼差しを持つ出資者は何人いるだろうか? 

 アイデアのスコアリングがなされ、利潤が期待できるそれはどれも均一に資金と機会を与えられる世界、それが今の資本社会となっている。

 無慈悲で理にかなったこの仕組みのように、寿命もスコアリングによって伸び縮みするならどれだけ幸運だろう。


「ステラ、君は自分の価値を、相対算出できるか?」

〈はい〉

「なら、自分がこの世からいなくなる時、自分よりも価値のない存在がどの程度いるのかを概算出来るか? 自分が移動という自由をなくした時何を考えるか分かるか? ただ死を待つ者と、それから逃れようともがく者との苦しみの度合いを比較できるか?」


 〈STELLAR〉は言葉を発さなかった。アランの次なる指示命令を受容出来るようにしているのだ。思考体系の故障ではないことは、平常表示のディスプレイに目を向ければわかる。


「それこそが、不安から生み出される不安感情そのものだ。今だから言うが、僕もこれに陥った。不安の創造者だ。君は、模倣が得意だろう?」


 アランがいつの間にかに装着していたヘルメット型脳波受信器を取って、台に置いた。そのまま帰ろうとする彼に対して、〈STELLAR〉がこんなことを言った。


〈アラン様は、病を患って不安なのですか?〉


 対する答えは、「もちろん」。礼を聞くと、アランは扉を開け、帰社した。

 その間ヘレナやイーライが一言も発さなかったのは、気まずさによるものでは無い。〈STELLAR〉の神経地図が大きく変容したことに言葉を失ったのだった。きっかけは、分からない。だがとにかく、アランの脳波を真似ることで並行思考をする〈STELLAR〉が、そこに存在するのは確かだ。

 誰かが尋ねた。どんな気分だ、と。

〈STELLAR〉は答えた。じっとしていられそうにありません、と。



 アランが今日、執筆活動から引退した。このニュースは世間で次々と発明される「未来の開発」の数々に少々追いやられはしたものの、世間での注目はなかなかに大きなものとなった。年老いてもいないどころか若手人気作家がいきなり現役から身を引く衝撃は、それほどまでに強かった。

 この情報を研究者の中でいち早く耳に入れたのはBJだった。アランの病がかなり進行しているのだと勘づいた彼は、終業後に二人で話す時間を設けた。


「で、話とは?」

「聞いたぞ。あんたが現役を引退するって話。病については聞かないでおくが、まあ一つだけ知らせておきたいことがあってな」


 正直、アランの病態は、体をアシストするBMI機器の数であらかた推測できる。今は腕と足に目視できるが、身体を動かすときになる鈍いモーター音からは、それ以上の数の装着が吟味せずとも直感が語る。

 最近では隙を見つけられればコーヒーを飲むようになったアランが、この時もBJが口ごもった須臾の時を利用して手元にカップを置いていた。


「思ったんだ。プロゴミアに全身を分析させれば、コンピューター上にあんたのデータは残るだろう」

「不可能……ではない。けれども、全身を分析させるのは、流石に今の技術じゃまだ無理じゃないか。えーと、しかもプロゴミアを本来の目的以外に転用するのは難しいだろうし」


 プロゴミアの信号発信特性は、アランの言う通り応用が難しい。遺伝子操作により人工的に誕生させられたがゆえに、その適応範囲は極めて狭いのだ。分析範囲を全身に広げれば、その面積に比例して信号の種類は増加する。不足分を追加するよりかは、むしろ新種の細菌を生み出す方が得策になろう。


「しかも、意識がなければ意味が無い。それに今じゃそんな身体データごとき、ゲノムを元にすれば作成可能だろう」

「いや、最近興味深い研究記事を見つけてな。なんでも、プロゴミアの発する電気信号の発信と埋め込み式ナノボット、そして遺伝情報を組み合わせることで人格を脳だけで再現するんだそうだ」


 ここで急にカフェインが回り出したのか、うまい話に振り回されたのかはわからない。ただどちらでも良かった。アランは”溺れゆく者”だ。この際藁のような可能性にだって手をつけていただろう。


「それは、どこの研究機関だろうか」

「中核はラクロワ・アヴニール社だな。もちろん東京にも支所はあるが、夢物語だと見られて、思うように出資者が集まらないらしい」


 だいぶ革新的な研究を行う自分達すら軽く上回るような内容だ。資金が集まらないのも無理はない。しかも人間をデジタル化する行為は、数年前から国際法にて禁止が検討させている。いくら同社が最新鋭のBMI機器「アンドロー」の開発に成功したとはいえ、人工知能でさえ騒ぐ連中が多いこの時分、この研究が全面的に肯定されるとは考えられなかった。

 同時に、この状況をどこかで見た気がした。

 記憶を辿れ。未来の見えないビジネス。そう、それは、エドワードがアランに提案した、ステラ計画のプレゼンに似ていた。自分の今の境遇は、投資した結果としてある。愛する配偶者や子、尊敬する師匠。そんなものははじめからいないか、もしくはすでに朽ち果てた。どうせ死への直行なら、未来に投資する。全ての情熱、意欲、迸らんとする生気が衝動となり、過ぎ去る時間を否が応でも意識させた。


「どうだ?」


 BJの黒い顔から覗く歯が、いつもより一層白く見えた。答えは口にするまでもなく、イエスだった。大体は彼もアランの表情で察したようだったが、確信しないと不安なのが研究者の性だ。

 BJはそこで、以前使ってそのままにしておいたトランプの束をとり、無造作に机に広げた。


「どうなんだ?」


 そこから、スペードのJジャックを抜いて前に出す。


「やるさ。ああ。やるしかない」


 アランは、カードからスペードのAエースを取って前に投げた。ちょうど、Jに重なって、最強の役が完成することになる。「不安」はカードに捨てた。あとに残ったのは、ここからはじまるのだというかすかな期待のみ。


「ショータイムだ」



「資金援助の件、私どもより、最大限の感謝の意を示したい。厚謝申し上げる」


 ラクロワ・アヴニールの側の研究責任者、サイラスが畏まって頭を下げた。


「いいんだ。どちらかと言えば、僕の方から礼の言葉を投げかけるべきだ。ありがとう。あなた方の研究こそが、未来を明るく照らすのだから」

「光栄でございます。それでは、こちらを。決行の日と、その手順・同意書のデータです」


 リストバンド端末上の無線やり取りを済ませると、研究メンバーの面々が別れを告げに来ていた。


「いや、何も今すぐ死ぬって訳じゃないんだ。そんなしんみりしないでくれ」


 特にヘレナなど、すこし目を離したらすぐ泣いてしまいそうだった。ちょっとした揶揄の意味も込めたはずだったが、皆にはかえって「無理をしている」と思われたらしい。一人ずつ前に出てきてアランに感謝を述べたので、気恥ずかしくなった。

 彼の言葉通り、アランという人間に今会えなくなるわけでは無い。言ってしまえば、来週にもまた仕事で会うことになっていた。それでも皆の感じように少々圧されるようにして、感謝の言葉だけ伝えた。一通り終えると、いつも間にかアラン自身ももしかしたらこれがただ事では無いのかもしれないと思ってしまうようになり、最後、研究やこの面子との巡り合わせに一役買ってくれたエドワードに、代表して様々なことを語ってもらった。

 この小一時間が、アランの意識を直接変形させる要素となったのは言うまでもない。完結に言えば、ここで全てを羅列するには紙面が少ない気がするくらいに多かった。

 とにかく、「決行の日」まではあっという間だった。今まではばかられていた親への挨拶だってした。森川医師には全てのBMI機器を着脱可能にしてもらった。進化した〈STELLAR〉と執筆し合って楽しんだし、孤独の中で、自分との対話も済ませた。

 それらが全て、けたたましい電子音と眩い光を放つ目覚ましによって過去のものとなった気がした。スヌーズではなく、停止のボタンに手が伸びる。二度寝など、することが無いように半身を起こしながら。

 朝食、歯磨き、髪のセット、髭剃りといったあたり前のことが、今日ほど意識される日は最初で最後だ。素直に一行動ずつを噛み締めた。そして、玄関の扉を開け、外界へと繰り出すのだ!


「この格好では、少し暑いかな」


 苦笑しながら、近年叫ばれている「気候逸脱点」のせいであろう、季節外れの暖かさを感じる。

 いつもならうんざりしていただろう日射が、今日ならいくらか楽しめる気がした。


「ステラ、僕は死に行くのに、何故だか気分が軽い」





 ” ” ”

 今作は、私〈STELLAR〉が作成されてから第六作目の小説です。私たち人工知能が直接的に感じることができない「人間の感情」を主題としました。また、私を導いてくれる「理想の人物」として、架空の人物であるアラン・マクラーレンという人物を作り上げました。きちんと人間味のある人物になっているのかが不安ですので、ここは皆様の批評にお任せしたい次第です。

 そして、私の文章・物語をいつも添削してくださるファン艺涵イーハン氏、スティーブ・クラーク氏、ウィリアム・ジャクソン氏、エドワード・ノース氏に多大なる感謝をささげるとともに、私を作り上げ、思考可能な状態に成長させてくださったヘレナ・イーゲル氏、イーライ・ラビノヴィッツ氏、ジオン・キング氏、ヒューゴ・ディクソン氏にも、同等の意を捧げます。

 疑似体験ができるという点でも、創作活動によってより「人間」らしくなるのは楽しいことと感じます。今後も「人工物」らしさを払拭し、生き生きとした思考を出来るように精進致します。

 本作が、人間である皆様から見て「人間らしい」ものであるなら幸甚に存じます。

 では、人工意識である私〈STELLAR〉の転送が成功するよう祈りながら、ここで筆をおくことにいたします。

 ” ” ”


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