第14話 岩清水八幡宮
そして年が明けた。
「あれから速かったねえ、伊勢」
三事兼帯の
さすがの剛腕なんでしょうね。権限を奪う部署が新設されようものなら全力で抵抗するのがお役所のならいですのに、それを押し切るんだから……って、そういう考え自体が新たな御世にはふさわしくないのかもしれない。
「能吏集う弁官局にして、『処理すべき仕事が多すぎて、捌ききれません』と音を上げたんですって。『契券所ができたおかげで荘園問題に追われなくて済む、通常業務に戻れる』って、酒宴になったそうよ。その余暇を利して、蘭台さまはさらにお仕事に精進なさっているそうです」
弁官として、大内裏の修繕費を中心とした各種予算を捻出し。
「速いと申さば、主上の行幸です。半年の内に七つの寺社を巡られて。おかげをもちまして、私も仕事を任される機会が増えました」
蔵人としても大車輪、主上の政治日程をまとめ上げ、重要な行事を滞り無く回していらっしゃるというわけです。まさに三事兼帯の面目躍如。
それでやつれるどころかテカテカしてらっしゃるって、「江弁さまの精力、いかばかりでありましょう」……なんて、後宮では密かな噂になっている。
「そうね小姫さん、これで私も心置きなく岩清水八幡への行幸にお供することができます。紀家に譲ってくださいましたこと、母ともども感謝申し上げます」
と、言いますのも。我が家は紀氏の傍流にあたるんですけれど。本流と言いますか、紀氏のうちで有力な家は二つありまして。
そのひとつが
そういうわけで行幸を機に、ね? いろいろ頑張ったわけですよ。
主上のお好みを反映し、行幸の行列は威厳に満ちていた。
私たち官人は新たな御世への期待に胸ふくらませ……見物の庶民は、少しばかり怯えていた。
代わりにと言うわけでもないけれど。彼らの目を喜ばせるのは、後に従う女房女官のお仕事というわけです。
華やぎのの先頭にあって男装で馬を御する私たち東豎子は、ことに衆目の集まるところ。
まして母さまは従五位下、
「誰か」と問われれば見物に出た訳知りが、「あれぞ東豎子の紀朝臣」と。耳に飛び込むその声に、身を引き締めて職務に臨む。
そして舟行もまじえ内裏より
岩清水八幡宮まで主上のお供を務め、ついでにと言っては罰当たりですけれど個人的な参詣を済ませ、ささやかながら寄進もしたところで。
「
延びつつある春の日も沈もうかという頃合い、厳つい肩の上に乗っている男の頬骨が形作る陰翳は……ほとんど無かった。体ばかりが厳つくて、童顔なんだよね。気にしてるから言わないけど。
やはり上つ方の随身として参詣していた兄と会うのは一年ぶりのこと。
「河内源氏の総領君です、母上。
四位上臈・伊予守……セレブで名高い受領層のうちでも筆頭格の
「我ら
岩清水八幡宮は軍事貴族たちから信仰されているとは聞いていたけど。ここで元服されたってことは、河内源氏の氏神でもあったのね?
それにしても口の回らぬ兄さまが随分と多弁で。よっぽど興奮しているらしい。
まあねえ、伊予守さまと言えば「奥州十二年合戦(前九年の役)」の立役者、ご後嗣八幡太郎さまもその武名は高い。軍事貴族の男なら血が騒ぐのも無理ないか。
「で、その八幡太郎さまいえ前出羽守さまが、なぜ私どもなどに?」
口元に笑みを浮かべた母さま、目を細めておいでであったけれど。
これは喜びというより警戒の表情で。
私もそういうことが分かるようになってきちゃったんだなって。
「前出羽守さまは岩清水八幡宮に帰依すること篤く、このたび我が東豎子紀家が家の格をはるかに超える多額の寄進をなしたことにお心を動かされたとのこと。話を伺った岩清水八幡宮別当家が、『同じ紀氏のよしみ』とて仲介してくださったものです」
先ほどは「ささやかな寄進」と申しましたけれど。
「寄進」と申し上げるからには、ささやかなはずなど無いのでありまして。有り体に申し上げれば、上つ方と比較しての謙遜です。母さまと私、紀朝臣季成と季明が力を合わせ、貯めていたものを張り込んだと……あらいけません、神仏のお話をしているのに私ったらはしたない。
そして御簾の向こうに現れた三十男は、精悍な顔に似合わぬ丁重な物腰を見せていた。
「こうしてお目にかかる機会を得たのも、八幡神のお導きでありましょう」
言葉も姿勢も崩さない。「同じ従五位下ではありませぬか」と言い募る。
同じ従五位下でも、前出羽守さまはいわゆる受領層ですからして。財力武力政治力、どれをとっても東豎子などとは比較にならない存在で。
それでも同じ位階とあれば、むしろ張り合うために必要以上に「上から目線」で対応してくるものなんですけど。
「実は、下野守たらんと働きかけを始めたところなのです。その下野には紀氏のご一党が根付いておいでとか。多額のご寄進にも現れた八幡神への深い帰依のお志といい、これは奇縁であろうと。お力添えを願いたく、かくはご挨拶に参ったものです」
寄進に着目するあたり、軍事貴族といえどさすがは河内源氏の総領君、
だけど、ねえ。私たちの立場を思えば。
母さまと顔を見合わせざるを得ないところで。
「私どもはただの女官、天意に添えるべき力など持ち合わせてはおりませぬ。八幡さまの霊験あらたかに発願をかなえられることと存じますが、その暁には下野にある弟ともどもお祝いを申し上げる機会を賜りますよう。むしろこちらより、お願い申し上げます」
叔父さまの上司になるかもしれない方ですし。河内源氏の総領とあれば、今後、東豎子紀家に男子が生まれた場合お世話になることも多いでしょうから。
つまりご機嫌伺いしなくちゃいけないのは、私たちのほうなわけで。
しがない女官に何を頼もうとおっしゃいますことやら。
「上つ方への
たしか前出羽守さま、遙任……在京のまま地方官を勤めておいでだったって。
今は何をなさっているのか存じませんけれど、京にお住まいでは?
「一族の起こす小競り合いに駆り出され、京に腰を落ち着けていられぬのです。さきごろも美濃に出向いておりましたところ、風の噂に『お年のせいか、前関白さまがすっかり弱気になっておいでだ』とか。『弟君の関白さまもご高齢、これよりは主上のご親政が始まるのではないか』と。成功や荘園の寄進先もいろいろ考えねばならぬなどと、仲間うちではかまびすしく」
京、内裏。私たちは近いところ、内側から上つ方の様子を見ている。
外から見える景色とは、また少し違いもあるのかなって。
「藤のお家の
私たちが日頃見落としがちなところを、前出羽守さまは、河内源氏の総領君は自覚されていて。
その視線の冷たさに、返す言葉を思いつけなかった。
母さまをそっと窺えば、同じく冷えた目を御簾の外に向けておいでで。
そうね、利点を活かすべきだった。
基本的に口を動かすのは御簾の外にある男の役割。御簾の内にある女は、なんなら無言で過ごしても良い。
「行幸の列を拝見しておりましたが、見事な手綱捌き。当然、弓も嗜んでおいででしょう?」
それでも男が言葉に詰まることは無かった。
「案内してくださったご子息、某家の馬舎人でしたね。耳にしております。下野紀党の勇名も」
そしてこの男が生きる世界は、東豎子紀家が出入りしている「界隈」だから。
「本朝一の弓取りとお会いできたこと、この上なき幸いに存じます。今後ともどうぞよしなに」
まさに「断れない筋」。
母さまの声は、心無しか苦味を帯びて聞こえた。
ややあって辞去した男の挨拶はさらさらと如才無くて。
やはり弓取りともなれば、ただの
返した
貴族の随身を見慣れた東豎子の私でも、見たことの無いものだった。
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