第四章 章 (あやをなす)
第12話 復活のちょび鬚
十二月十一日、
古来より伝えられてきた印鑰(官印と鍵)が数多く失われ、作り直すことを余儀なくされ。
主上が東宮時代を過ごされた閑院が臨時の里内裏と定められ、さらに年末には
これで年に五つの里内裏、あまりにも忙しない一年。御世代わりにはいろいろあるとは聞いていたけれど。
小さなところでは……せっかく新調した
私たち
正月の踏歌に抜擢された
ギリギリの生活を強いられている彼女たち、晴れの舞台を踏める栄誉と下賜の喜びから急転直下でまさに顔面蒼白。そこは典侍さま内侍さまの持ち出しにより事無きを得たけれど。
そんなこんなで年末の忙しなさも層倍であったけれど、非番を見繕って弓で打たれた女官の見舞いに出かけた。女嬬も東豎子も住居は同じ
「もうだいぶ調子は良いのです。皆さまがおいしい物をお持ちくださるおかげで」
言葉通り、見舞い客は引きも切らぬという賑わいぶりで。
ちょっとしたお祭り騒ぎへと……高まって、いた。女官の結束力が。
「これなるは女嬬某の住まいか? 私は源権中納言さまから見舞いに遣わされた者」
ちょび鬚さま? こう言っては何だけど「たかが女官」、大怪我でもないのに?
いずれにせよ権中納言さまからのお客人とあっては、我ら女官は退出せざるを得ないけれど。
住まいを辞したところに、出がけ見かけなかった
まさかね、と。そう思いつつ脇を通り抜けようとしたところが声をかけられた。
「これより参内ならば、同乗せぬか?」
女が御簾の内に男を入れれば、それは身を許すのと同義でありますけれど。
女が男の牛車に乗り込むということも、まあその何だ、中で何をされても文句言えないというところがあるわけで。
「私の身分では、同乗をかたじけなくするわけには参りませぬ。後に付いて歩きます」
だからと言ってご機嫌を損なうわけには行きませんから、返答はこれぐらいのところかなって。
「主上の行幸にあってすら騎乗を許されている官人を、徒歩で引き連れるわけには参るまい」
いつだか宰相中将さまが、「和漢の先例を参照し、どうにか理由をひねり出す」なんておっしゃっていたけど。ちょび鬚さま、ほんと屁理屈のお上手なことで。
「ご安心なさい、紀朝臣どの。私もご一緒しておりますから」
ひそやかでありながら、遠くまで届くその声は
後ろからお邪魔したところがすぐ、牛車がごとりと動き出し。がつんと揺れが腰に来た。乗りつけてないとこれだもの。
「かの女嬬には弟、右少将が迷惑をかけたのでな。直接に見舞うわけにはいかぬが、出掛けのついでに立ち寄った」
お人が良いというか、気遣いが細やかというか。
大仕事を任されてやつれちゃうわけだわ。
「あれは気質が剛直に過ぎるゆえ。父上や私が当てこすられただけでも、『公卿を侮るとは任命した主上を、本朝を国家を侮ることと同義、許してはおけぬ』と。まあそういう男でな」
もじゃ鬚右少将さまは悪い方ではない、それは存じている。
身の危険を顧みぬ行動力は先の火災でも証明されている。理由無く暴力を振るうこともない。ただ……大雑把で無神経で無頓着なのよ、ひたすらに。
「我らが嘲られるにも理由があるのだが、そちらには目が向かぬ。何せ、なあ。父上は源氏にありながら
鬚をぽりぽり。
思えば損な性分よね、権中納言さまも。
誤解されがちな弟を弁護し、私にもそっと詫びを入れ。評判の良くないお父君の尻拭いに奔走し。
「無理もございません。前関白さまは、五十年にわたり政柄を把られておいででしたもの。各所に目配りを欠かさず、大きな災いの芽は未然に摘み取られ」
私の前――牛車の左前方だけど――に座する勾当内侍さま、扇の陰で視線をこちらに向けていた。
災い、か。政権にとっての不安要因、政敵のことよね。
「寝技ばかりに長けていらしたわけではないぞ? ここ五十年、本朝の国力は増しているのだから。考えても見よ、受領の懐が潤っているのもそれだけの富が生み出されていればこそ。宋の好況という外的要因もあるが、前関白さまの政治は決して悪くなかった……総じて申さば、な」
そのお隣――牛車の右前方――にくつろいでおいでだった権中納言さま、ひょいとこちらを一瞥されて。その拍子に思わず引きこまれ。
「総じて申さば? あ、いえ、失礼を」
誘いのひと言をかけたちょび鬚さま、当然お答えくださった。
「知らぬではなかろう、紀朝臣。増えた富の行き先」
摂関家や、その下に連なる受領の懐ですわね。
主上や朝廷には入らなかった。その下に連なる我ら女官のところにも。
だから私は、前関白さまの政治を悪いものだって。
でも、思えば。この七年、上つ方の政治が悪いとか良いとか考えたこともなくて。
付き合いのある
最近は主上の懐刀と言われる
慎み深い風を装いつつ、考えに沈み込む私。
お見通しなのだろう、ちょび髭さまは喉の奥でくつくつ笑っておいでだった。
「左衛門権佐、よくやっている。大内裏再建の資金繰りも回り始めた」
そう言えば、上司として一緒に仕事してるんだっけ。
対立派閥と言われているけど、詩文に明るいお二人は話が弾んで相性も良いとか。
みんな同じなのかな。主上のため、朝廷のために働いているって、そこのところは。なのに派閥のようなものがあって、協力したり対立したり。
なんでだろう……って、人が集まればそういうものだろうとは思うけど。
「しかし事の起こりは前関白さま。思し召し、やはり相当にきついものが?」
問いかけに勾当内侍さま、深々と頷かれていた。確信をお持ちなのだろう。
主上の感情や好悪を後宮が読み誤ることは無い、絶対に。それだけを見ているのだから。
「御年十二で東宮に立たれて以来のご不興ゆえ。閑院が検非違使に包囲された件も『忘れられぬ』と仰せであったと」
いつ東宮位を奪われるかと、その恐怖に耐え続けておいでであったと。
「得心がいった。それゆえか、弟への過大なるご褒辞」
過大ってことはないと思う。
とばっちりで殴られた人には悪いけれど、もじゃ鬚さまの処置は間違っていない。
再びこちらに一瞥をくれたちょび鬚さま、今度は視線を切らなかった。
ええ、興味津々です。もういい、隠しません。慎み深くなんて土台無理ですもの。
「勾当内侍よ、東豎子とは何者だ? 女官でありながら主上を見ていないのか?」
主上を見る?
御意のありどころを拝察する……ってことよね。
「考えてもみよ。火災に怯えた臣民が主上の元に集おうとする、庇護を得ようとする。これ主上の深き恩徳現われたるもの。そこに打擲を加えた弟を、主上は激賞されたのだぞ?」
周囲が敵に、少なくとも「良からぬもの」に見えておいでであればこそ。
主上は恩よりも威に、ご威光・権威に強いこだわりをお持ちであると?
「憚りながら、主上は英明におわします。二十三年もの間、隠忍自重されたのですから」
勾当内侍さまのそれは、口答えでもフォローでもない。むしろ不安を煽るひと言だ。
多感な時期に疎外され迫害され続けてきた方が、二十三年もの間我慢できる方が、一転して権力を握ったならば?
「この先、ご不興を買うと厳しいことになりそうだな。後宮ではいかに?」
「この先と仰せならば、まずは東宮のおきさき様でしょうか」
「失念していた。誰が外戚になるか、毎度政争の焦点ではないか。主上ばかりを見ていたのはどうやら私のほうらしい。……それにしても、東宮。東宮か」
七年間、行幸のあるたび顔を合わせていたけれど。
天を仰ぐ眼光の鋭さ、これまで見たことのないもので。
三事兼帯よりもあるいはと、そう思わせる冷えを帯びていた。
「
頭を垂れてぶつぶつと口ずさまれる先例、上奏文をしたためられるおつもりらしい。
宰相中将様が管絃で、もじゃひげさまが剛直で鳴らす方ならば。ちょび鬚権中納言さまと言えば、巧みな文藻ですものね。
「視野の狭い女官には思いもつかぬ、百年の計かと。権中納言さまの御名がまた挙がるのですね?」
老練の内侍を前にぎらついたところを、「若さ」を見せてしまった己の未熟に苦笑いをひとつ。改めてちょび鬚をぽりぽりされていたけれど。
その間抜けな姿が韜晦なのだと、今は思い知らされる。
「弟がうまくやった今、このままでは父の不敬を私の左遷で贖うことになりかねぬ。せいぜい筆を揮うとするよ」
「なにを仰せになりますことか。『雖有飲羽之号、未見首丘之実』の一節に主上は賛嘆おく能わずと、これは朝野に広く知られたところ。権中納言さまはすでに深きご信頼を勝ち取っておいでです」
……とある貴族が斎宮で白狐を射るという事件があった。
殺生に及んだものか否か、議論が紛糾したところに。
ちょび鬚さま、やおら筆を執るや「矢羽まで深く突き刺さった叫びは聞こえたようですが、『地に帰る』ところを見た者もないようですね」と。
カッコ良すぎるでしょ。そりゃモテますわ。主上が大仕事をお任せになるのも当たり前……って、そのせいでやつれちゃってんだけど。
「で、その寵臣に女官の第一人者は何を求めておいでかな?」
鼻で笑っておいでであった。
お追従など慣れているんでしょう。そのあとすぐに浮き出てくる脂ぎった欲望にも。
「もう少しお体をおいといくださいませ。おやつれに、女房女官も気をもんでおります」
目を丸くされ、やがて大笑い。
「宰相中将も申していたな。『叔父上に、権中納言にできることをなさいませ。我ら公卿の仕事とは、細々した実務ではありませぬ』とか……どちらが年上か分からぬなあ、これでは。藤の一族に源氏が押され続けているのも当然か。しかし言いたいことを言ってくれる。まあ良い、あれもまだ若いのだ。今が花と言うもの。もう数年もしたら笛だ笙だと言っていられぬほど仕事を押しつけてやる!」
拍子抜けにもほどがあったものか、涙まで流しておいでで。
日頃この方にかかっていた重圧とはどれほどのものだったんだろうって。
「まさしく。せっかく下に三事兼帯を付けられておいでなのです。仕事を押しつけ使い潰されてはいかが?」
涙を拭ったちょび鬚さま、それでも微笑を収めなかった。
「勾当内侍が東豎子に対するように、か? いや、危ういところであった。人並み優れたる女人とは恐ろしきもの、宰相中将まで籠絡済みとはな」
爽やかな笑みをお顔に貼り付けておいて、ちょび鬚さまは再び視線を切っていた。
扇を斜めにさしかけて、顔を隠された。私の目を拒んでおいでであった。
「左衛門権佐を、
腰から崩れ落ちるところだった。
ごとりと牛車が揺れてくれた、その衝撃が幸いで。
前簾からどう降りたものか、その記憶は飛んでいた。
「さ、参りますよ紀朝臣どの」
さらっと言いのける小柄な背中が恐ろしかった。
問いを、叫び声を上げずにはいられなかった。
「なぜ私などを牛車にお招きになったのです? これほどの大事をお聞かせに? 伊勢には?」
「伊勢にはもちろん通してあります。謙遜なさいますな、紀朝臣どの。その誠実、大事を任せるに足る。それとも火事場で見せた怒りは偽りと?」
そんなことはない。左少弁・藤原正家に抱いた怒りは本物で。
思い出すだけでも赤くなる私に見せていたのは、ひきかえ、柔らかで優しい微笑。
「権中納言さまもおっしゃっておいでだったでしょう? 私はあなたに仕事を任せたい。……それに」
にこにこと、満面に広がる微笑。
「仰せのごとく『人並み優れたる女人』(水準を大きく越えた美人)ゆえ、お招きいたしました」
それはちょび鬚さまの軽口でしょうに。
五十代の勾当内侍さま、失礼ながら平安女子基準では「おばあちゃん」ですし。もうひとりはがさつな大女で有名な私ですもの。
「女房女官が気をもんでいるという話、これも含めて全て事実です。『近頃、権中納言さまがあまり後宮においでにならない』と。『白拍子をご寵愛されているらしい』とか」
男女の噂は全て筒抜け、それが後宮の恐ろしいところ。
でもおよそ白拍子って、「芸事に巧みな美女」のはず。
権中納言さまがド嵌りするのも分からなくはないけど。
「何でも権中納言さま、踏まれたり打たれたりがお好みらしいと」
男女の噂は全て筒抜け、それが後宮の真に恐ろしいところ(白目)。
貴族は皆さまおよそ変態もとい、人並み外れたところをお持ちでありますし。
平安の男女はそちらには非常に大らかでありますけれども。
「白拍子、つまり男装の女性に踏まれたり打たれたり。……どなたが扉を開いてしまわれたものか。何かご存じではありませんか、紀朝臣どの?」
頬って、ほんとうに引き攣るのね。
自覚できるものとは知りませんでした。
「おかげで有意義なお話し合いができました。好みの女人を前にした男は眉を下げ鼻の下を伸ばすもの。つい口が軽くなり安請け合いをしてしまう。覚えておいて損はありませんよ?」
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