第11話 火災



 それは、不幸中の幸いであったかもしれない。


 正月の朝覲ちょうきん行幸――主上がお母さまである陽明門院さまのもとへと新年のご挨拶に向かわれることですけど――の通例として、お供する我ら東豎子あずまわらわには帛布が下賜される。

 で、その帛布を真新しいほうに仕立てるんだけど。

 自分でやっても良いところ、そこを同僚・縫殿ぬい女嬬にょじゅに頼むわけです、いくばくかのお礼を包んで。何かと物入りになる年の瀬にちょっとした副業の依頼、これぞ同僚とのお付き合いってヤツですよ。私が不器用で仕立てられないとか、そういう理由じゃあないんですからね?

 その袍ができたと連絡が入った二日後、十二月は十一日のこと。勤務終わりの昼下がり、仕上げに衣装合わせをしようと、東豎子全員が内裏に集合した。

 狭い一角に四人が揃い、真新しい袍に身を包んで、「今年もお疲れ様でした」、「また来年もよろしくお願いします」……なんてやってるところに。


 「火事です!」

 

 ほんとうに幸いだった。動きやすい男装束に着替えたところ、それも四人全員が揃っていたんだから。

 

 「宿禰すくねさまと私は主上の御元へこうじ、ご動座のお輿に随伴いたします。小姫さんは女官たちの避難を誘導、くれぐれもご無理は禁物と心得られよ! 紀朝臣は典侍さま並びに勾当内侍こうとうのないしさまをお守り参らせ!」


 さすがは筆頭かあさま、しっかりしてるわ。

 なんて、正直に尊敬の念を覚えたその直後、カッと開かれた口から怒鳴り声。


 「命に代えてもお守り参らせよ!」


 小姫さんとの扱いの差、ひどい話だと心中愚痴らずにはいられないけど。

 何も私の命より典侍さま・勾当内侍さまの命が重いってわけじゃなくて。お二人は賢所かしこどころ(三種の神器・八咫鏡やたのかがみ、またその安置所)を守護される任務をお持ちだからってことなんです。

 御剣御璽は常に主上のお側におわしますから、避難もご一緒になさいますけれど。御神鏡だけは後宮に安置されている。だから内侍司の責任者が御動座参らせなくてはいけないんです。

 まあつまり、私の命より典侍さま内侍さまの命より御神鏡のほうが重いってこと。でもそれは、女官ならば当然ですから。

 なお万全を期すならば、小姫さんと二人で任に当たっても良いところだけど。代々続く後宮の人間関係とかそういうことを思えば、ね? 誰より身軽な東豎子が四人いて、仲間を助けるのに一人も割かないってわけにもいかないのですよ。


 それにしても母さまの判断、早かった。「日ごろから危機に思いを致しなさい」って、こういうことかしら。

 「火災なら? 盗賊なら? 物怪に憑かれて暴れる者が出たならば?」、「その場に誰がいるのかいないのか」。常々想定しておくのも私たちの仕事ってわけね?


 しずしずだなんて言っていられないから考えながら走るうちにも、乾いた木の爆ぜる音が聞こえてきた。

 そのまま賢所に駆け込んだところが、腰の軽い勾当内侍さまはすでに御神鏡を胸元に抱えていて。

 

 「御神鏡の守護は内侍の務め。私にお任せください。紀朝臣どのは典侍さまを」


 その典侍さまと腹心の少納言内侍さまも、すでに避難準備を終えていた。 

 正直心配だったのよ。何せ「おきさきさま」ですもの、おっとりされているから。

 

 「これは紀朝臣、相変わらず機敏ですね」

 「及ばずながら私どもも……後宮にお勤めした功名かもしれませんわね」

 

 良かった。恐慌パニックには陥っていない。それだけが心配だったのよ。


 「火元は北です。主上おわす寝殿まで、ご案内申し上げます」

 

 ……言い終えた時点で、典侍さまは私から十歩遅れていた。

 落ち着いていらっしゃるのは大変ありがたいのですけれど。もう少し素早く脚を運んではいただけないでしょうか。何せみな考えることは同じで、南へ南へと、主上のお側へ御元へと人が流れていますので、その。

 煙はまだ回っていなかったけど、このままじゃ渋滞に巻き込まれてしまいそうで。

 

 「ご無礼!」


 お姫様だっこですわ、もう。

 とにかく送り届けたところで、勾当内侍さまがいらしていないと気がついた。


 典侍さまを阿閉宿禰さまに託し、取って返せば。

 賢所からふた部屋離れたところに、勾当内侍さまが倒れていた。


 「御神鏡……奪われて……足を挫きました」

 

 「どちらにおわします!?……いえ、まずは」


 内侍さまより先に、御神鏡の心配をした自分が少し情けなくなった。


 「『それで良いのです、私などよりご神鏡を』と申し上げるべきところですが。紀朝臣どののお顔を見たら、情け無いことに命が惜しくなりました」


 思わず噴き出しちゃった。

 急場でもいつも通り、いきってる相手の間を外しに来る。

 これだから勾当内侍さまにはかなわない。


 「御神鏡は無事です。奪ったのは官人、『老いぼれが無理をするな! 私に任せろ』と言っていました。守る気があることだけは確かなようです」

 

 御神鏡も内侍さまもご無事で良かったと、安堵の微笑を交わせれば良いのでしょうけれど。


 「歯軋りなさらずとも。まずは落ち着いて、火を避けなくては」


 告げる勾当内侍さまの目も真っ赤になっていて。

 煙に巻かれたせいじゃないってことを、私は知っている。


 「ええ、お命を繋がねばなりませんね。何としても」

  

 ようやく笑顔を交わすことができた。

 死ぬわけには行かないのだ、犯人より先に。


 「頼りにいたしますよ、紀朝臣どの」


 言っておいて勾当内侍さま、お姫様抱っこもおぶさることも拒否。

 私を松葉杖代わりに駆け出して、簀子縁の角を曲がったところが、いきなり現れた文車に激突。ぶつかられた我が親友のお顔も真っ赤。

 そりゃ袋状に結び合わせた唐衣に文箱を満載して背負いながら文車を押すってあなた、息が続くわけないでしょ! 欲張りにもほどがある! それと言わせてもらえば!


 「逆よ伊勢! あっち! 南西に逃げるの!」


 運動音痴でどんくさいことは知ってたけど、方向音痴のおまけつきとは。

 

 「だいたい、この急場に書籍なんて」


 いくら貴重でも命には代えられないでしょ? あなた自身が火に巻かれたら、読むこともできなくなっちゃうって分かってる!?


 「それで良いのです、伊勢」


 承りました、内侍さま。松葉杖の役割は伊勢に任せます。

 書物袋を背負って、文車の牽牛となればよろしいのでしょう!?

 

 肩で息しながらどうにか寝殿に到着した我が姿の間抜けなこと、傍から見れば立派に恐慌状態よね。こっちを見やる余裕のある人などいないでしょうけど。

 母さまは……すでにご挿鞋そうかいを手にしていた。主上は輿にご動座されたのね?

 離れたところにも輿の列。ひとつのお側に阿閉宿禰さまと少納言内侍さま。つまり典侍さまもご無事であると。


 そこまでは良かったんだけど。

 寝殿前のお庭は人で溢れかえっていて。そこに随身を引き連れた非番の貴族が外から陸続と駆けつけるものだから。


 そして場の人口密度が急激に増えれば、いわゆる群集心理が起こるのも当然で。

 少しずつだけど、人々が主上のお輿へと近寄り始めるその様子、遠間からだとよく見えた。 

 ……人の輪の中、胸に宝物を抱き締めている男の姿も。

  

 「はい、左少弁の藤原正家と申します。ご神鏡を守護し奉りました…………もったいなきお言葉」


 後から聞いた話では、「お前は誰か」と主上がお尋ねになり、名乗りに対して「弁官ならば我が身の近くにあるべし」と。そういうやり取りがあったって。

 ご神鏡を守ったことにも、いたくお褒めがあったと聞いたけれど。


 私たち女官は、とても心穏やかではいられなかった。


 五代八十年にわたり語り継がれた、東豎子の屈辱が思い起こされたから。

 その屈辱、内侍司ではより厳しく語り継がれているから。


 「騙され連れ出された時の主上、その前後には御剣御璽がおわしませず」と。

 「蔵人頭が時の東宮さまのもとへと、勝手に遷し奉っていた」と。


 三種神器は、常に主上とともにおわす。

 崩御や御譲位の際には、三種神器も次の主上のもとへ「自ずからご動座される」。

 それが古来の決まりごと。


 もちろん実のところは、誰かが主上のお側から東宮のお側へとお持ちするわけですけれど。

 「東宮が内裏におわす場合は、尚侍・典侍・内侍のいずれかがお持ちする」と。

 それが決まりごとなんです。

 

 それをあの夜、当時の蔵人頭が「主上をたばかってご譲位を強いたうえ、女官の職権を奪い去るかたちで神器をご動座させた」とあっては。

 これは東豎子の屈辱どころではない、女官全員にとって血涙ものの痛恨事で。


 その御剣御璽とは異なり、御神鏡は内侍司に安置されている。

 でもだからこそ、御動座があるならば必ず女官の手によらねばならぬと。三種神器を守護し奉ることは、内侍司において何より優先さるべき職務だと。

 事件以来、その思いを女官なら誰しも胸に刻みつけている。


 だから勾当内侍さまも、身の危険を顧みずご自身手ずから抱えて運ばれていた。

 相手が蔵人だろうが弁官だろうが公卿だろうが――むしろ身分高く皇位継承に影響を及ぼし得る立場であるほど――渡しては、委ねては、ならないから。


 そのご神鏡を弁官が持っていた。

 「ならばつまり、内侍司から奪われたのだ」

 勾当内侍さまの口から語られずとも、女官ならばその事実を直観せずにはいられない。


 主上のお側に避難していた女官たちが、火事場にあった私と、勾当内侍さまと同じ顔を見せていた。一斉に鬼へと変じていた。

 弁官・藤原正家の元へと詰め寄り始めた。


 ……人が群れ集う中、たとえ数人であれ一団が同じ意思を持ち同じ方向に動き出してしまったら。その帰結、想像は容易でしょう? 

 群衆の全員が、釣られてそちらへと動き出すことになる。


 主上のお輿に人が押し寄せ始めた。

 女官は弁官を目掛けていたけれど、その他の人々は鳳輦ほうれんに取りすがりだした。

 紗幕が揺れる。あさましき事態が起こりかねなかった。 


 危機はしかし、一瞬にして去った。


 鞭かと見紛わんばかりに撓り唸る何かが、鳳輦のお側から人を弾き飛ばす。無人の境を作り出す。

 その正体が長八尺に及ぶ強弓であると見定めることができたのは、七たび空を切って後ようやくに折れ、動きを止めたがゆえ。

 膂力に遠心力を乗せて振り回していたのは、もじゃ鬚右少将さまであった。


 しかつめらしい顔を崩してはいなかったけれど、鬚の隙間から僅かに覗く頬が紅潮していた。

 主上からお褒めのお言葉を賜っていたと、そのことも後で知った。


 鳳輦の周囲を、ようやく静寂が包む。

 人々が整然と列を為す。


 その中でひとつ、いやふたつだけ、動く影があった。

 背に弓の殴打を受けた女官と、彼女を引きずるように連れ出す阿閉の小姫さんと。

 同僚の哀れな姿を、甲斐甲斐しき背中を目にして、女官たちもようやく鬼から人に返った。人の顔を取り戻した。


                             (第三章 了)

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