第三章 差 (かけちがい)
第8話 三事兼帯
「お前たちは何者なのだ」
御簾の向こうで、男が怒号をあげていた。
「なぜ行幸の作法を知っている! なぜ宇治大納言さまのご子息に異を唱えることができる! 女でありながらなぜ馬を御せる! たかが女官の身にありながら、なぜかような家に住まうことができる!」
ですから。さきほどから申し上げておりますでしょう?
「
東豎子だから、です。
左京の北辺、女官たち住まう平和な一角を、場違いな高官が――女官から見ての話だが――訪れた。
先触れを帰して最初に行ったのが、室内からの弓射。
訪れた高官、蔵人さまと呼んでおくけれど。いかなるお立場でお越しやら。
この蔵人さま、
これすなわち世に三事兼帯と称される、大変な名誉を得られた人物なんです。
なお蔵人とは主上の秘書、左衛門権佐とは京の現場行政を総覧する立場、弁官とは国政中枢の事務担当。
故にただご信任厚いだけではなく、超人的な事務処理能力が要求されるお立場で。
中級貴族にしてこの地位に至った方は、将来の公卿入りがほぼ確実視されている。
だからと言って御簾の内に入れるわけには行きませんから。
「怪我はもう良いのか? 何か言いたいことなどあれば」
「私の身分では、宰相中将さまに直接お礼を申し上げるわけには参りませぬ。どうぞよしなにお伝えください」
御簾の向こうの目が鋭さを増す。
意外でしたか? 女官でもそれぐらいはわきまえています。
あの場で私を袋叩きにし額に傷を負わせたのは、「それで済ませるため」。
公卿の機嫌を損ねたならば自宅が襲撃される、そんな京の常識を免れるため。
自宅が襲撃されれば財産全てを……衣類と調度、紀家の場合は馬も、家そのものまでが持って行かれる。平安京は慢性的な建材不足、柱や梁はお宝だから。そして私たち一家は足腰立たぬほどに殴られ蹴られ、骨を砕かれていたはず。
「……こちらの女房(侍女の意)、呼び名を
瞬時に目の光を消していた。
職権により、検非違使を用いて調べたものか。
準備を怠らない。手をひとつ潰されてもすぐに次を捻り出す。三事兼帯とあれば当然のこと。
「ええ、下野紀党の出です」
言われる前に、我から告げた。
――下野の 三加母の山の 小楢のす ま麗し児らは 誰が笥か持たむ――
小楢の名を知られた時点で、それをごまかすことはできないから。
小楢は、下野にある叔父の推薦により我が家へやってきた。
その叔父は京から下向した。東豎子の家では、娘が家業を継いでゆくから。男の子が生まれたら養子に出すか、紀氏を名乗るならば独立させる他に手段は無い。
そうして家を出た子弟が頼るものとは、家業の他に無いわけで。
私たちの家業は馬に乗ること。
……その際には、必ず口取りがつく。
口取り役の代表格が、近衛の将に付く
彼らは少将や中将の私的なご家来衆だが、それ以外の誰もが内裏に私的な家来を連れ込めるはずもない。主上の行列に加わるならば、身元確かでなくてはいけない。
だからその多くは、近衛府や馬寮の下部に連なる馬の飼育調教係とも言うべき役人の縁者とならざるを得ない。つまるところ、上つ方から長年の信頼を受けた同族集団・同業集団で。
同じく一族代々馬に乗る、我ら東豎子。数百年にわたり、行幸のたび顔を合わせれば……隣接業務の間には、当然ながら交流が生まれる。
交流。そう、一族のやり取りを含めた付き合い。犬丸も小舎人童の次男坊だ。
我が家はそれでも紀氏の末裔、五位の位をいただく官人。
子弟を外に出すとしても、さすがにただの馬飼いではない。
紀氏は古代、軍事貴族であった。
律令体制の成立により本家の世襲が否定されても、末流の家風が変わることは無かった。
制度が変わっても、乗っかる上が代わっても、下で戦う男達は変わらないから。軍事に携わる人々、その上層部にはいろいろと浮き沈みもあったと思う。それでも彼ら「棟梁」の傘の下に集まる男達には、現場で軍事知識を振るう層には変化が無かった。いわば下士官、各地に派遣される中級以下の官人層として、紀氏の末裔は重宝された。
そうした「流れ」は今も続いてる。承平天慶の乱、奥州動乱。世に戦のある限り、戦を知る男には需要がある。
東豎子紀家に生まれた男子もまた、地方に下向する軍事貴族の随身となった。
そのために、幼き日より武芸を学ぶ。技芸こそが貴族の強みだから。弓馬を扱えてこそ、見込まれて随身にもなれるから。中央での出世が見込めなくなるにつれ、一族はますます芸に磨きをかけた。
娘たちも腕を技を磨いた。息子たちを育てる母となるために。ことに我が東豎子紀家は、母から娘へと当主を継がせる女系家族。父や夫のいない家では、家芸を継承するのも女になる。
そうして、子弟を他家に出す。他家から人を受け容れる。
軍事貴族――その家来衆――現場に生きる紀氏の末裔――東豎子の子弟――朝廷に仕える牧童――貴族の家の小舎人童――各地の牧で働く官人――馬商人や馬薬師、等がかたちづくる円環の中で。
公的には、役所の縦割りでは、何の関係も無い集団。しかし職業集団は、横でかなり強く繋がっている。界隈の出身だと告げれば信用が得られる。「馬のシロウトではない。世話を、乗り方を知っている」と。そうして一族の子女を互いに出し入れするうちに、関係も強まる。
やがて律令体制が壊れ、摂関家大臣家とその取巻き・受領層が地方にまで手を突っ込むようになっても。その一つ下の層……技術が関わる現場レベルは、そう簡単には崩れない。馬を飼育、調教、使役する専門家は限られているから。
地方だけではない。京のお邸の
そう、私の兄も。貴族のお邸で厩舎人を勤めている。
叔父は下野に下向して、いわゆる武士になった。
「馬を繋ぐため厩舎を借りたが。見事な馬を揃えたな」
身分にそぐわぬ財を有していることが気になりますか?
「すべて、東国から預かったものです。生計を支えるため」
馬商人・卜二と東豎子紀家は提携している。寺社への寄進や里内裏の高陽院と同じ形式で。
馬十二頭(代々かけて、少しずつ増えた)を、私の家では卜二に引き渡している。個別の馬ではなく、馬十二頭と三分の一ぶんにあたる財産を。
「馬商人はその馬を自由に使って良し、増やして良し、売って良し。ただし上がった利益の対価として、我が紀家に馬を貸し出すこと。厩には常に馬がつながれているように」と、それが約束。
田舎で健やかに育った馬。紀家の子女は京に届いたその馬で武芸の鍛錬を行う。人が多くて手狭な京に慣れさせ暴れぬように馬を調教し、長旅のやつれも回復させる。京の市で高く売るために。
馬の世話には人手が要る、そこは小舎人童から次男坊三男坊を受ければ良い。彼らの生活費……どころか、私たち一家の生活費にあたる支出まで、馬の運用益と調教や厩の貸出しに係る礼金で賄える。馬盗人への対策に人が集まれば、女所帯の用心にも良い。
私たち女官は下っ端だが、そのぶん地位に浮沈が無い。ことに二家・四人の独占業務である東豎子は安定性が売りで、そのうえ技芸を、弓馬の技を持っている。
そこに目をつけ京の拠点のひとつにするあたりが、商人の抜け目無さ。出し抜かれぬよう、私たち東豎子も常に腕を磨き続ける。
「そうか、東国は馬の産地であったな」
御簾の向こうの男は、その鋭い目を細めていた。
「武蔵、甲斐、また上野」
本題をようやく明かしていた。
「生計を支えるため、か。女官の生活について、我々にも思うところはある。国家の財政が安定すれば……」
よく分かっている。そしてまるで分かっていない。
諸大夫層も受領と同じ。上だけを見ているから。それだけ見ていれば良いから。
「何をご存じですの?」
下にある女官のことなんて、何も知らないくせに。知っていたら何か手を打っていたはず。荘園整理令を出す前でも、できることはあったはず。
女官も宮中に生きる身、自らの地位を守り上昇させるためには、上つ方には及ばなくとも経済力は必要で。
私たちはまだ良い。中途半端の宙ぶらりんでも、安定した地位を代々引き継いでいるから。
その「安定」を梃子に、同族に位置づけられた紀氏一党と、京の軍事貴族と地方の豪族と、商人と提携できる。縦に横につながり、貴族社会にしがみつくことができるけれど。
口にしたくも無い事情、言わせる気ですか?
何も無い
「主上のお側に、内裏に仕える女性です」。限りなく嘘に近いその真実を売り文句にできる副業、何だと思ってる!
地方から付け届けに来る受領の取巻き、出世を遂げて遊びに来る大名
幼き日より必死で学問に励んだ清廉潔白な方なんでしょうね。
「まさか……」
ええ、私も初めて聞いた時にはそう思った。
でも阿閉宿禰さまに言われて少し考えが変わった。
「何がいけません? 得意の男に財を運ばせる女と何が違うの? 正当な対価を
往古、女は自由に男を通わせていたのだから。
いえ、最近まで平安の男女は「そのこと」にまつわる強いこだわりを――貞操と呼ばれる倫理観を、あるいは偏狭に過ぎる潔癖感を――互いに押しつけてはこなかったのだから。
ことに東豎子は、男を自由に選び通わせることができるのだから。代々女が氏も家も職も継ぐ私達に限っては、男が特定のひとりである義務など、ないのだから。
「いえ、逆ねじでしたわね。自ら選んでそうするのと、それを強いられるのとは全く違います。それにそもそも……」
任官して間も無い小娘を、潔癖に過ぎる年頃を嗜めるためのひと言ではあった。
職場の先輩たちを軽蔑したり妙な目で見たり、そういうことをさせないためのひと言でもあった。
それでも。少女を相手にしては、過激に過ぎる物言いだから。
微笑を浮かべなおす優しさを、宿禰さまは忘れなかった。
「正直言えば、すてきな方と結ばれたい。そういう方が現れたなら他の男なんか相手しない。誰だってそういうものでしょう?」
東豎子だからこそ、そう言い切れる。特別に裕福ではないけれど、生活を支えるだけの収入があるから、男に依存しなくて済むから。
女嬬も、いえ女官はみな懸命に働いている。男だ女だって、それも大事だけどそれ以前に。仕事だけで生活が成り立たなくちゃおかしい! 違いますか?
……違っていた。
主上の懐刀と呼ばれる人の発想は、強く清く正しい人の発想は、まるで違っていた。
「ふしだらな。許せぬ。内裏より追却(追放)せねば」
信じられなかった。
三十になろうとする男が、あくまでも澄んだ目で、そんなことを言い出す。
「知らなかったからどうだというのだ。知ったからには、誤りは正すのみ」
ええ、正しいですわね。圧倒的に正しいんでしょう。だけど!
「巨悪には逆らわず、小さな過ちのみを、逆らえぬ者たちだけを指弾するのですか? 蔵人を殴り飛ばし足蹴にする公卿と同じように!」
何を言おうと、「正しき人」はまるで動じなかった。
「悪に大も小も無い。あげて許すべからざるものだ。巨悪には二度と手出しも口出しもさせぬ。もうひと息のところまで来ていること、探り出したのであろう?」
――さきの
「お前も他の官人と変わらぬ。保身を思い、言われた仕事をこなすだけ。己の手では何ひとつ為そうとせず、他人に何かしてもらうことばかりを考えている。いや、考えていた」
何も言い返せなかった。言葉が、息が詰まった。
「これからは変わる。いや、私が変える。国家の財が横領され大内裏の修繕もままならぬが如き、憎むべき事態は正すことができる。女嬬の生活を思うお前の望みもかなう。そのためには、お前にも為すべきことがある。違うか?」
追い詰めておいて、出口を結論を、男は誘導していた。
「まだ分からぬか。地位低き者であれば、愚鈍を責めはしない。ただ誠実を、
女官は一心に、主上にだけ仕えるべきだって?
分かってる、みんなそのつもりで働いてる! だけどそれができないから!
「女官ではない、お前に、東豎子に問うている! 弓馬の技を持ち、財を保ち、作法を学び覚え、歌を詠み、公卿に異を唱えるお前は、東豎子はどちらなのだ? 自ら考え、決断する貴族か? 考える代わりに愚直に業務を遂行する官人か?」
――お前たちは何者なのだ――
「わたしたちは、東豎子です」
その身は下に属している。
同時に上を……主上を、公卿を公達を見てきた。
「だからこそ分かる。あなたには託せない」
視野が狭すぎる。正邪に、名分にこだわりすぎている。
それでは回らない。回せない。
「今のあなたに託しても、無駄になる」
書類の存在を確信した男が腰を浮かせたから。
御簾の内で、弓の弦を引き絞った。
三事兼帯を謳われる教養人は、無理を嫌って背を見せた。
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