第6話 公卿と公達

 

 行幸にお供すべく、小姫さんとふたり里内裏の寝殿前に伺候して、主上のおでましを待っていたところ。


 あちこち眺めていたちょび鬚権中納言さまが、こちらに目を留めた。

 そのままとことこ寄って来て、小姫さんにお声をかけた。


 「これはかわいらしい荻の葉だ。風が吹いたらなびいてくれるものかな?」


 あまりの事態に小姫さんは顔真っ赤。それと言うのも公卿から見た女官なんて、身内はもちろん仕事仲間どころか、言ってしまえば「人」ですらないから。おおっぴらに口説くなんてありえないんです。宰相中将さまはにまにましていらっしゃるけど。

 翻って女官の身としては、普通に考えれば誉れだけど。小姫さんは数えて十三歳、おとなになったばかりで男女のふざけあいに慣れていなくて。

 いやらしいことを言われて真っ赤になるのも自然ならば、おっさん(平安女子目線)はそういう反応が大好物だってこともね、勤続七年目ともなればいい加減存じ上げているところ。

 ここは私の出番よね。仕事の失敗や至らぬところを阿閉あへ家の先輩たちにフォローされてきたんだし。


 「秋風になびく葉(飽きっぽい男になびく女)など、聞き及びませぬものを(こちらにはおりませんよ)」


 少しばかり可愛げない言葉を、まるで可愛げない女が口にする。それも頭上から。

 そして振り返る男を見下ろしつつ思う、この方こんなに小さかったかなあと。

 小柄ではあるけれどすっきり瀟洒な立ち姿、そういうお方であるはずが。なんだろう、今日はどうも冴えない、しょんぼりしている。よく見ればお顔色が悪いし、ずいぶんとやつれておいでで。


 ちょうどそこにご鈴奏、おでましの合図があったから。

 権中納言さま、ふらふらと公卿の列に戻っていかれたけど。その様子もやけに頼りなくて。

 お仕事の心労でも重なっているのかしら。大極殿の再建、よほどの大事業らしいし……なんてね。事情通を気取れるのも、例の書類について調べるうちに、上つ方の事情、政策や政局を知る必要が出てきたから。伊勢から聞き出した情報の受け売りです。 

 


 その権中納言さまが、内侍さまから御剣ぎょけんを受け取り、鳳輦ほうれんへと差し入れられた。続けて主上が渡御される。さあご挿鞋そうかいを受けて、私達にお渡しになる……はずが。

 ふわふわと、覚束ない足取りが目の前を通り過ぎてゆく。そのまま御璽ぎょじへと、璽箱じそうを捧げ持つ少納言内侍さまの元へと脚を運ばれていた。

 内侍さまが目を見張る。「どうしよう」って、目で訴えかけられましても。直接お声を掛けるか、視線で告げるかしてください!

 

 権中納言さまも、元気が無いから俯き加減。視線の合図に気づかない。

 あと二歩! 璽箱に手を差し伸べ始めちゃってる! ああもう!


 「ご挿鞋をお願い申し上げます」


 脚が止まった。小柄な背中が震え出した。

 あちこちから咳払い、あざけるような笑い声、そして水っぽい毛束の音……皆さま、しゃくの裏に筆を滑らせている。

 

 主上は常に三種神器と、御剣御璽と共におわす。前を御剣に、後を御璽に守られておわす。

 鳳輦に御剣が差し入れられたなら、次に主上の渡御。続けてご挿鞋を脱がれることで、輦の内に確かに身をお移しになられた、腰を落ち着けられたと認定される。

 だからその手続を履んではじめて、後におわすべき御璽の移動に手をつけることが許される。

 

 それは、書きとめられることすら滅多に無い細かな作法。

 だけど細かな有職故実を知っているか否かが、名流貴族とそれ以外の分かれ目で。

 だから叩き上げの蔵人さまはいつだって必死にメモを取っている。間違いをして侮られぬようにと、所詮成り上がりと辱められぬようにと。

 そう、間違えば侮られ辱められるのだ。 


 「怪しむべし」

 「前代未聞」

 「尊貴の裔、源氏にありながら」

 「何年朝廷に出仕しているのだ」


 その嘲りは、非難は、お歴々の日記に書き留められる。

 権中納言さまの小さな手違いは、末代まで語られることとなる。


 ますます俯き加減となった権中納言さま、それでも逃げずに振り向いた。後戻りしてご挿鞋を私に授けられ、改めて璽箱を鳳輦の内に差し入れられたところで。

 警蹕けいひつのお声がかかった。行幸が出立する。

 権中納言さまはそのまま退出することなく、最後まで行幸のお供を全うされた。

 青白くやつれた顔を上げ、前だけを見据えて。




 「まずいことをしてくれましたね」


 母さまが目を尖らせる。


 「おっしゃいますけれど! ご挿鞋の手続をないがしろにされても良いと仰せで!?」


 瞑目して腕を組んでいるけど、母さまも分かってはいるのだ。私の行動は間違いじゃないと。東豎子あずまわらわの職責を、職権を全うしたまでだと。

 ただ問題は……「たかが女官」が公卿に恥をかかせたと、そういうこと。

  

 「小姫さんの件でからかった直後ですしね、よほど図に乗っていると思われかねない。弟君のもじゃ鬚右少将さまがひどくご立腹だとか」



 その小姫さんのお母様、阿閉あへの宿禰すくねさまからは謝罪があった。

 

 「うちの小姫のせいで、きの朝臣あそん殿にご迷惑を。そもそも裳着を済ませ出仕しているからには、殿方の悪戯などいなせないようでどうします! 何かいやらしいことを……最後までされたと言うのでもあるまいし!」


 私達が生きる平安の世には、セクハラをとがめる法など存在しない。

 お触りぐらいは当たり前。いえ、冗談じゃない、嫌に決まっているけれど。

 嫌だと思うなら、私たちの側で対処しなくちゃいけないの。自分の身は自分で守れってね。


 だから宮中に上がる女房衆は、お歌や何かで身をかわす技術を身につけている。

 権中納言さまにしても、そこまで見越してからかっている。やり取りを楽しんでいらっしゃるのよ。

 

 判定の一線は、阿閉宿禰さまもおっしゃる通り。「最後までされる(されそう)かどうか」にある。

 嫌だと言ってるのにその危険が身に迫るようなら、女の側も本気で男をぶん殴る。それは認められている……と言いますか、そこまでされる男がカッコ悪いと、まあそんな評価に落ち着くと言いますか。女房にお殴られあそばせになられた主上もいらっしゃったと、そんな記録うわさもありますし。

 間抜けなのは男ばかりでもないけどね? 必死で抵抗した結果、何です、おならが出てしまって。それでその何です、男が「しょんぼり」しちゃったおかげで危険を免れた女がいたとか、そんな笑い話もありますし。

 ひと目に付かぬ御簾の内は何でもアリ……って、その御簾の存在意義自体、「そこまでせずとも済むようにするため」なんでしょうね。身を許すつもりなら、御簾をくぐることを許す。許しも得ずに入りこむなら、遠慮なくぶん殴る。侍女と一緒に袋叩き。最後の命綱が塗籠ぬりごめね。かぎを掛けて立て籠もり朝を待つ。御簾の内に男を招き入れるか入れないかで、平安の恋人たちは駆け引きを楽しんでいるの。

 

 でも権中納言さまについては、そんな話をする必要は無い。いやらしいことを口にはされるけど、強引なことは……最後までどころか、お触りも絶対にしない。女の側で許さぬ限り。


 それに、少しずつ分かってきたんだけど。

 権中納言さまって、困ってる女房女官にしか声をかけないのよね。

 嫌がらせとかじゃなく、緊張をほぐしてやろうって、たぶんそういうつもりなのよ。やり方が根本から間違ってるけど……いえ、そう考えることすらズレているのかもしれない。「公卿からお声をかけられちゃった!」って喜ぶ女もいるから、いえそれがむしろ自然な反応だから。


 つまりあの日の権中納言さまは、「激務にやつれるまで身を削っていながら、仕事に慣れぬ女官に気を使った」雅な宮廷びとなのよ。責めるわけにいかない。

 それを、「自分が声を掛けてもらえなかったからと嫉妬のあまり」(そういう見方になってしまうんです、悲しいかな)凹ませておいて、さらに作法の手違いを指摘することで「(小さいながらも)末代までの恥をかかせた」女ってわけ、私は。女官……まともな宮廷人とはとても言えぬ存在のくせして。



 「すべて私の不手際です。もう少しやりようがありました」

 

 私は間違っていない。絶対に。

 ただ、およそお仕事って、正しいか間違ってるかだけでは済まないものだから。


 「小姫のためにそう言っていただけるのは幸いです。が、ご遠慮はなさいますな。ことは東豎子全員に関わるところ……事あらば、痛みは共に引き受けます」


 曇っていた阿閉宿禰さまの眉が、晴れやかに開いた。口にすることで意を決せられたのだろう。

 これから起こるであろうことを予測すれば、その「痛み」はあまりにも過大だから。いえ、過大なものとなるはずだったから。

 返す言葉が思い当たらなかった。頭を下げるばかり。

 

 公卿に恥をかかせることの危険性、分かっているつもりだったけど。

 その被害を抑える方策は、とても私には思いつかなくて。

 その日以来、母さまは内裏に、内侍さま方のお部屋に詰めっぱなしだった。皆さまと密に連絡を取り合っている。

 



 秋八月も半ばを過ぎて、里内裏は東の馬場にて小さなご遊覧の催しがあった。

 堅苦しい宮中行事である駒牽を終えたところで、公卿の側から主上にお礼を申し上げようと。各家に配られた名馬から、特に選り抜きを主上のご覧に入れる次第となったのだ。

 

 そこで事件が起きるとは、正直なところ想定外だった。


 母さまとふたり寝殿前に伺候し、いつものように主上をお待ちしていたところ。

 冠を急に掴まれ、後ろにひきずり倒された。

 その冠も取り去られてしまう。恥ずかしさに動顛していたら、急に高い空が見えて。ああ青い、秋だなあって、なぜかそんなことを考えていた。


 あとは……足蹴にされたことだけは覚えている。

 急所を、命に関わるところを守るのに必死だった。


 貴族、それも公卿から見た私たちなど、人間ではない。

 蔵人ですら、南庭で、紫宸殿ししいでん清涼殿せいりょうでんの真ん中で殴られ蹴倒され、冠を奪われる。その事例を嫌と言うほど私たちは聞き伝え、目の当たりにしてきた。

 

 宮仕えに理不尽は付き物、殴られるぐらいの覚悟はしていたつもり。

 日ごろ体を鍛えてもいるし、公卿の皆さまは運動不足だと多寡をくくってもいたけれど。

 参ったなあ、もじゃ鬚右少将さまか。

 行動力で鳴らす方だし、取巻きを鍛え上げることにも熱心なんだよね。

 鳩尾に良いのをもらっちゃった。あばらも……痛いけど大丈夫か、この感じなら折れてない。


 がつっと、頭に、額に来た。

 鋭いけれどこの軽さ。良かった、蹴りじゃない。笏かしら。

 あ、宰相中将さま……の、お姿が見えない。目に何か入った。痛い!

  

 「穢れです!」


 聞き慣れた声が発する裂帛の気勢に男達の輪がほどけた。

 母さまったら、どんだけよ。いくらお年でも、少し女を捨てすぎではありません?

 

 「この者を伺候させるわけには参りません。周囲の方々については……」


 ああ、私、血を流してるのか。

 強がったけど、さすがにきついわ。ありがとう母さま。


 「『式』、また前例によれば障りにはあたらぬかと」


 少納言内侍さまったら! それだけ落ち着いて捌けるなら、先日にお願いします。

 そのお立場なら、権中納言さまの間違いを指摘してもカドは立たないんですから。

 

 「東豎子は二人で行幸に供奉する、それが慣例ならいです。ただちに非番の阿閉宿禰を呼び参らせよ」

 

 勾当内侍こうとうのないしさまは、もう少し動揺してくださってもよろしいんですのよ? 場が収まるのは正直助かりますけれど……って、どうして必要無いときに限って頭が回転するのかしら、私。



 なお続く事務処理、その喧騒を背中に聞いていたけれど。

 内容を確かめる余裕はなかった。穢れを……血をこぼさぬように必死だった。

 頭が揺れているところへもってきて、額は面倒なんだよね。大した傷にならないくせに、血ばっかりが大げさに流れるから。

 

 「はい、これ使って。傷が塞がるまでは内侍司で治療してなさい」


 布を差し出してくれたのは、勾当内侍さまのお付きを務めていた伊勢。

 本当に大丈夫なの?……なんて疑問の眼差しは、笑顔に押さえつけられた。「誰が言ってると思ってんの、反論なんてさせるもんか」って。皮肉に歪んだ頬がそう返事をしてくれていた。

 だから。ああこれは間違いない、休めると。そう思って姫松区画で思い切り伸びていたと言うのに。御簾のすぐ外まで人が駆け込んでくる。

 

 「急使を遣わしたのですが、阿閉家では昨日床下より犬の死体が発見され、『物忌みが明けるまでは親娘とも主上の前に伺候することかないませぬ』とのこと……その、傷は塞がりましたでしょうか?」


 涙が出てきた。

 捻ってくるんだから、宿禰さま! 

 少納言内侍さまが落ち着いていたのも……あらかじめ仕込んでたのね?

   

 東豎子の定員は四人。主上の行幸には二人が随う。

 二人が死穢を帯びているところに、もう一人も血の穢れを帯びたらどうします? 残った一人に仕事させれば良い?

 勾当内侍さまもおっしゃるとおり、そんな先例はありません。

 先例とは、言い換えればそれこそ有職故実でしょう? 破ってしまっては、貴族の貴族たるゆえんを自ら否定することとなる。だから誰も動けない、対処できない。


 このままでは、主上は外に出られなくなってしまう。

 

 「主上にご迷惑をかけたのは誰です? 行幸の作法を乱したのは? 女官に怪我を負わせたあなた方でしょう?」って、それが阿閉宿禰さまの返礼、抗議行動。


 でも、抵抗はここまで。

 主上の行幸を妨げるなんて、申し訳無くてとてもできない。このまま正式な先例変更――定員減や東豎子不要論――に繋がっても困る。


 だから。私は出なくては、仕事に戻らなくてはいけない。

 土に汚れた袍を着替え、切れた額に布を巻き、その布を冠の内に隠し立ち上がる。


 頭がふらつく。鳩尾が痛むから背筋を伸ばしきれない。右に体が傾くのは、あばらが軋んでいるから。ひびが入って無ければ良いけど……。

 そんな有り様でのろのろと伺候した頃には、すでに主上がお出ましになっていて。


 「遅刻である。これ以上主上をお待たせするわけにはいかぬゆえ、譴責また処分は追って下す」


 宰相中将さまのお声に、筆の動く音。

 笏の裏側、それはお歴々の備忘録にしてネタ帳。

 彼らの日記の中に、私は末代までの汚名を残すこととなった。


 そのまま母さまがご挿鞋を受け、里内裏は東のお庭……小半町も行かぬ先で、騒々しくも華々しい催しが行われた。


 諸国より牽かれ、主上が公卿の皆さまに賜った名馬が改めて並ぶ。駆けさせるは指名を受けた六衛府の馬術自慢。

 見事な手綱捌きに感嘆の声しきり、六芸を愛する貴顕の皆さまの目利きは確かで。

 主上のお声までも聞こえて来た時には、ああ仕事をして良かったと。つくづくそう思ったけれど、でも。

 身がもたない。おなかが痛い、額が熱い、目がかすむ。


 「東豎子の某、あろうことか主上の前で居眠り。怪しむべし……と、指弾すべきかな? 近衛中将、いや検非違使別当としては」


 上からかかるお声に、意識が戻った。

 遅刻の時点で私は汚名を残している。これ以上は絶対にゴメンだ。


 「痛み分けに持ち込みたければ、ここは耐えよ」


 そうか、痛み分け……。

 木っ端女官が、国政の枢要・宇治大納言家のご兄弟を、公卿・公達を相手に回して。

 そうだ、それが落とし所。私が最大限望むことを許される、幸せな結末ハッピーエンド


 「権中納言さまおじうえならば、もう少し優しいお言葉をかけることもできるのであろう。和漢の文献に先例を探り、そなたを早退させる口実を作り出し。……が、何せ今回はご当事者ゆえ、動けぬ」


 宰相中将さまのそのお言葉だけで泣きそうだけど。


 「そもそも、東豎子紀家。さように殊勝な家風ではあるまい?」


 やっぱり女扱いはされていないみたいで、少し残念。

 いえ、そうじゃなくて。公卿でありながら、東豎子なんかを見てくださってる!?

 

 「先代季成、愉快な人物だったらしいな。族兄いとこが引き継いだ日記に書かれていた」


 また高祖母さま? いえ、誰が書き残したの? 

 


 「ありがたきお言葉ながら、すでに格別のご配慮をいただいているところ」

 

 ちょっと、はっきり声が聞こえると思ったら母さま! 何まともに口きいちゃってるの! それどころか宰相中将さまと視線をまともに合わせるなんて! やめて恥ずかしい! 

 

 「過分のお気遣いはご無用にお願い申し上げます。我が娘は図体なりも大きく、頑強にできておりますゆえ」


 そう言えば、娘が殴られ蹴られしているのに、一切動揺もせず……母さま! さてはあなたが仕組んだか! は免れたけど、もう少しマシなやり方は無かったの!?

 それに図体がデカイとか頑丈とか! もう少し言い様があるでしょう!

 勘弁してよ恥ずかしい! ああもう、顔が赤くなる! ただでさえ怪我のせいで熱が出て頭がぼーっとしてるのに!


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