第二章 経 (たてにつらなり)
第4話 即位礼
七月下旬、ご即位礼の準備が始まった。
いえ、準備自体はその前から行われていましたけれど。何せ今度のご即位は異例づくめなもので、前日どころか当日に入ってもバタバタしていたんです。
本来、ご即位の儀は
でもいま
深夜
その間を
いえ、不審人物扱いするつもりはないんです。廷尉さまは
お生憎さま。我ら女官、そうそう間違いなどするものですか!
まず手始めは寝殿のお片づけ。
内裏における
その程度のズレが何だって言われればその通り。普段は問題ない。
しかしこと大事なご出御となると、寝殿は
と、言うわけで。
掃部の女嬬達、まずは昼御座に設置されているご調度を片付け始める。蔵人さまは「適宜、利便の良い場所を見繕うように」とか声をかけているけど、誰も聞いちゃいない。彼女たちは片付けと設営の
続けてその空間に会場設営。御簾をしつらえ獅子形を置き
その間、主上はお湯殿へ。ほんとうは前日に仕度しておくらしいんだけど、何せ特例尽くしのご即位礼、いろいろ時間が押してたらしい。
早朝、百官が参集した。何だか言い争っている。調度やら書類やら、日ごろのやり方で良いのかどうかとか、そういうところで。
女官はそれどころじゃないんです。
掃部女嬬は三種神器に準ずる宝物・大刀契を収めたお櫃を運び出し、行幸の際に持ち出しやすい位置に設置して。
その内侍さまがたが、
さあ、いよいよだ。
主上が南面して立たれる。
その前には東西に公卿が並ぶ。ご即位礼ゆえ、この日の朝は勢ぞろい。
関白左大臣さま、右大臣さま、内大臣さま……やや下がって、ちょび鬚の権中納言さま。末に立つのはお若い宰相中将さま。
ひとり、権大納言(宇治大納言)さまだけがいらっしゃらない。会場に先乗りしていらっしゃるとのこと。
ひそひそ話が聞こえて来た。「お年で馬に乗れないのだ」、「御装束役を狙っているのだろう。だから先行したのだ」
その宇治大納言さまと主上の仲が険悪なことは、みんな知っている。
だけど前関白さまのお血筋からは宮さまがお生まれにならず、東宮の地位は揺るがなくて。先の主上が崩御されるや、関白の地位を辞された。
前関白さまの悪口は誰も言えなかったから、そのぶん宇治大納言さまが不満や陰口、棚卸しの標的になりがちで。そこへもってきてどう申しますか、宇治大納言さまは振舞いも人柄もあくが強いものだから。みんなの嫌悪を一身に集めちゃってる。
おかげで息子のちょび鬚権中納言さまと、その弟のもじゃ鬚
今もほら、皆さんの視線を集めちゃって、ばつが悪そうにちょび鬚をぽりぽりしてる。
……ひそひそ話をしたり、ひげを掻いたり、それだけの時間が流れていたともいえるわけよ。
ともかく闈司の女嬬により、ようやく日華門が開く。
まずはご鈴奏。ここでも揉めてたけど、蔵人さまが気合で場を整えていた。
なんでも担当の少納言さまが、病をおしてお仕事なさろうと参内されたんだけど、鼻血を出しちゃったとか。やっぱり緊張されたのかしら。代わりに右近衛少将さまによるご鈴奏。
そして。
宰相中将さまが御剣(
主上が輦に御動座される。
ご
そして
主上は常に三種神器、御剣御璽と共におわす(
行幸の際も「先剣後璽」、前後を御剣と御璽に守られて移動される。
だから鳳輦にはまず剣を入れ、そして御動座があり、その後に璽箱が差し入れられる。
いつも変わらぬ一連の作法。
ご遊覧でも、ご即位礼でも。主上が行幸されるならば、必ず行われる手続。
目を光らせている蔵人さまも、ここはさらさらと書き流していた。
私たちのことなんか、書き込まれていないのでしょうね。
「宰相中将さまが御剣をお輿に入れ、主上のご動座があり、続けて璽箱が差し入れられた」
大事なことは、それで全て尽くされているから。
でも私たちは、そのことに誇りを抱いている。
書き記すまでも無い、当たり前のことに。式次第が一切の滞り無く執り行われている、そのことに。
女官は、東豎子は、そのために働いている。記録に残らぬことこそが栄誉。
カッコつけすぎました。
実を申しますとね? 私たちが記録に載るのは、「女官の某により
誰だって嫌でしょ、そんなことで歴史に名を残すなんて。まさに末代までの恥よ。それは必死に仕事をいたしますとも。
そんな理由でこの日、いつも以上に気を引き締めて儀式に臨んだ私たち東豎子。過つことなく、作業工程をひとつ終えて。
近衛大将さまによる
さあ、騎乗して日華門を出発!
里内裏・御子左第の北門を出て、三条坊門通を西へ。
すぐに神泉苑にぶつかる。右折して、大宮通を北上する。
右手に冷泉院が見えて来た。築山には女車。どなたか見物されているのでしょう。あちこちの築地塀の上にも見物人が出ているし。
ご即位礼の行列、知っていたのかしら……って、当然知ってるわよね。交通規制じゃないけれど、ずっと準備して、あらかじめ道を綺麗にしてきたんだもの。
危険が無いなら良し、って私たち現場はそう考えるんだけど。権威を気になさってるのでしょうね、前を行く蔵人さまはいちいち睨みつけていた。そのまま誰かを目で追い求めて……ああ、あれは弾正さま。命令を下そうにも位置が遠い。行列を乱すことを嫌って諦めたみたい。
大内裏の東門にあたる、待賢門に到着。
もじゃ鬚右少将さまが落馬された。珍しいな。武骨な乱暴者いえ剛直で鳴らす方だけど、そのぶん弓馬は巧みなのに。
ああもう、ここぞとばかり蔵人様が目を輝かせて筆を動かしてる。
そう言えば、おふたりは対立派閥ってことになるのかな?
ともかくそのまま、いったん内裏へと立ち寄ったところが。
あ、蔵人さまがついにキレた……さすがに主上の御気色があったんでしょうけど……泣く子も黙る荒くれ者・
そしてお昼時、全ての準備を整えて太政官庁へと向かったは良いけれど。
いつもと違う会場、やっぱり前例がないせいで、儀式は荒れ模様。
まあでも、ご挿鞋を宰相中将様にお渡しした時点で、私たちの仕事はほぼ終わり。
またご
……私たちはそれで良かったけれど、その後も小さなトラブルは続いた。
化粧が落ちちゃった公卿の噂とか。
緊張と疲労のせいでしょうね、倒れた女房が出たとか。
儀式が終わって後、さてご還御と思ったら。鳳輦を担ぐ当の
出鼻を挫かれたその帰りがまた、しんどかった。
何せ最初っから時間が押せ押せだったもので、儀式終わりも日暮れになっていて。
ご還御の行列は飛ぶが如く。ようやく帰ったと思ったら、「明かりを用意していないとは、留守番の蔵人は何をしていたのだ!」って、怒号が飛ぶありさま。
でも留守番なんて先例に無いんだもの、仕方無い……なんて言うことが許されないお立場なんでしょう、有能敏腕を売りにする蔵人の皆さまだもの。
それもこれも全て、大極殿が焼亡していたのが原因なんです。
内裏から目と鼻の先にある大極殿で儀式を行うなら、移動に時間がかかることもないし、そもそも留守番を置く必要も無いんだから。
それでも無事にご即位礼が終わり。
しばらくして、女房女官たちの間に噂が立った。
「権中納言さまが、最近あまりちょっかいを出してこない」って。
なんでも
「お通りがかりのところを
そうそう。黙って仕事してれば渋い男なのに、もったいないったら。
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