第3話 女史(おんなはかせ)



 「で、げんの博士はかせどの。ご用の向きは?」


 あいさつ口上は抜き。ぞんざいこの上ないけれど、お互いそれで通してる。

 なにせ目の前の女博士どのも任官七年目、気の置けない同期だから。位階も同じ正六位上だしね。


 この源博士、もとは采女うねめから官職の途についた。

 だけど彼女は学問ができる。だから文書作成を担当する女史じょし(俗称・女博士)に抜擢された。

 

 この采女とか女博士って、なんとも中途半端な立場なのよ。

 ここでまとめて挙げておきます。


 低い地位から抜擢、あるいは地方から選抜されて主上のお側に上がり、お身回りのお世話に任ずる女官が「采女」。その中からさらに選抜された人が「得選とくせん」。

 後宮の文書行政を支えるのが「女史」とその上にある「女蔵人にょくろうど」。内侍さまの代理として儀式や宮中行事に参加することも多い。内侍さま直属の部下ラインにあたる女官ね。

 所々ところどころ(各セクション)に長年勤務し、五位を賜った女官が「命婦みょうぶ」。内侍さまの補佐スタッフと言える存在。

 命婦と言っても、儀式に際して臨時に招かれる貴婦人じゃありません。女官の場合、役職名と並べて称される人々を指します。掃部命婦かにもりみょうぶとか、命婦博士みょうぶはかせとか。母さまの内豎命婦ないじゅのみょうぶもこれ。

 

 このあたりは内侍さまみたいな上級職員、口語で言うところの「女房」にギリギリ当たらないぐらいの地位なんだけど、女官と切って捨てるにはほんの少しだけ憚りを感じさせる階層なの。


 百数十人在籍している実働部隊・女嬬にょじゅからの視点で言い直しますと。

 「采女」は、ひとつ格上の存在。

 「命婦」は、キャリアを五十年積めばその地位に就ける(かもしれない)部門長、身内の長老。

 「女史」やわたしたち「東豎子あずまわらわ」は、違う指揮系統ラインに属する技能職・特別職ってところかな。

 

 さきほど「位階は同じ」と申しました。それは嘘じゃないんだけど、東豎子と比べて女史は明らかに格上。

 なにせ女史はさらに女蔵人――字面の雰囲気ニュアンスで分かっていただけるでしょう? 「女性秘書」とも言うべき立場です――へと昇進キャリアアップできるから。

 その女蔵人は上に欠員が出れば内侍に、三種神器を管理する後宮幹部にまで上り詰めるチャンスがある。つまり出世街道エリートコースなの。


 だから任官三年目で女史に抜擢された源博士は同期の星。七年目の今ともなれば駆け出し女嬬達にとって憧れの先輩ってわけ。

 頑固でどんくさい書物の虫なんだけどね。顔もその、残念とは言わないけど。いわゆる「男顔」の典型例だし。私もひとのこと言えないけど。

 でもそのせいで落ち着いて見えることも確かよ? 同期だから何かとつるむことも多いんだけど、並ぶと毎度母さまがため息をつくぐらいに。

 今もほら、姫松区画を訪れて話を切り出した源博士に目を細めちゃって。



 「ご即位の礼に伴う女叙位おんなじょいに備え、内侍司ないしのつかさの記録を整理しておりましたところ、古い文書が出てまいりまして。内豎命婦さまに関わるのですが、不審なところが」


 内豎命婦かあさまの眉が曇った。

 源博士が取り出した、ほんのり黄ばんだ書類に目を落として。

 記された日付は四十四年前の正月。文書の名義人は紀季成きのすえなり、つまり私の高祖母ひいひいおばあさま

 そういうことなら引き下がれない。


 「不審って何? つまびらかにしてもらえる?」


 高祖母さまは自慢のご先祖だ。

 あの時代、後宮では省庁再編リストラがあった。後宮十二司……十二の役所が、内侍司に統合されて。その頂点たる尚侍ないしのかみ典侍ないしのすけの地位を摂関家や大臣家のお姫様・奥様が独占するようになった。叩き上げの女官は尚侍典侍へと昇る道を、三位・四位へと出世する望みを完全に断たれた。

 悔しかったけど女官たちは、ご先祖や先輩は我慢したと、そう語り継がれている。五位に至る道だけは確保されたから。  

 女官の位階は官職つまり社会的地位と直結する男の位階とは違って、主上との情緒的な距離感を示すもの。往古以来「主上に接することが許される」立場を、個人的な信頼関係を意味してきた五位さえ認められれば、我慢ができた。

 仕事に対する矜持プライドも満たされた。儀式の次第や細かい慣習を知らぬおきさき様がたの傍につくという形で、尚侍や典侍の代わりに掌侍や女蔵人たちが儀礼や祭祀の実務を回したから。

 祭祀以外の日常業務、主上のお身回りのお世話にも男の蔵人が進出してきたけれど。どうにか仕事を、職場を確保して。

 東豎子の仕事って、ご挿鞋そうかい(おはきもの)の捧持なんだけど。それって、女でなくちゃできないって仕事じゃないでしょう? だから近侍する男、蔵人に職を奪われてもおかしくなかった。危ないところだったのよ。でも高祖母さまは謹直な勤務態度に、どこをどう押したものやら政治折衝を重ね、時にはけれんまで効かせてその職務を守り通したらしい。


 その高祖母さまに不審を言い立てるとは、つまり。

 我らの職場を、女官の椅子をひとつ守った先輩に文句があると? どうなのよ!


 「不審、つまびらかならざるゆえにこそ、お教え願いたいと申したまで」


 威嚇しても眉ひとつ動かしゃしない。私より若いくせに、この鉄面皮め。そんなことだから恋人もできないのよ。


 「娘の非礼をお許しください、源博士どの。しかし私は漢字まなに疎く……」  

 私も漢字は苦手、それを言われると弱い。

 はいはい分かりました、悪者はいつだって私なのよ。


 「では、読み上げます。『臣紀朝臣季成、恐惶頓首頓首……(略)……』問題はここです。『その労五十年……請うらくは……』そして返って来た文書がこちら。『紀季成、労五十年。某年正月、従五位下に叙す』」


 つまるところ。

 高祖母さまは「勤続五十年、その労によって従五位下の位を授けられた」と。

 母さまと目を見合わせる。あまりに奇妙な事態だったから。


 女叙位とは、女官に位階を授ける宮中行事のこと。私たちから見れば昇進の機会。

 二年に一度のその機会を、東豎子は水取もいとり闈司みかどと分け合うのがしきたりで。これを小輪転って言うんだけど、つまり東豎子が昇進できるのは六年に一度。

 その機会を紀家と阿閉家の親娘四人で分け合うわけだから、単純計算で二十四年に一度昇進の機会が巡ってくる。もちろん融通しあうから、厳格に決まってるわけじゃないけど。とにかく二十年、遅くとも三十年勤務してれば、間違いなく昇進できる。

 そしてもうひとつ、大輪転という十四年に一度の昇進機会も認められているのが東豎子。やっぱり四人で分け合うから、個人的には五十六年に一度。


 つまり勤続五十年なら、小輪転二度、大輪転一度。三度は昇進の機会が巡って来る。初任の時点で正六位上だから(そのこと自体、女官としては異常な優遇なんだけどね)、五位に上がるためには一度で充分だけど、その機会が三度もある。

 付け加えると母と娘の勤続年数を合算する「切杭きりくい」って制度があるから、うまく行けば勤続十年程度でも五位に上がれる(でもこれはまあ、あれね。「急な引継ぎ」が必要になった時とか。人の世は儚きもの、お分かりいただけますでしょう? そういう緊急事態で遠慮なく申請するために、平時の多用は控えたいところ)。


 なのにどうして五十年もの間、昇任できなかったのかしらと。腑に落ちない。

 普通の女官、つまり女嬬から五位に、命婦に上がるケースなら不思議は無いのよ。先例を見ても勤続五十年がひとつの目安だから。

 でも東豎子は違う。勤続二十四年がひとつの目安なのに。


 うろ覚えだけどたぶんこの時、高祖母さまは六十五歳? 女官は主上に一生お仕えするのが建前だから齢に不審はないけれど、いくらなんでも昇進が遅すぎる。「仕事熱心で有名な名物女官だった」って、当時を知る老練ベテランが口々に称えるほどなのに。



 「やはりご不審のご様子。ご先代から、何かお伺いではありませんか?」


 源博士もその異常さに気づいたから、こうして尋ねに来たというわけ。


 「私どものほうでも米寿の祖母に尋ねてみます。しかし我ら東豎子、また申文と源博士どの。なにやらご縁がありますわね。ゆかしきことと存じます」


 赤くなった。そうよ、昔はこの子も素直だったのに。

 いや、そうでもないか。あの申文の頃から仕事にはかなり頑固だったもの。

 


 


 あれは四年前の冬、私たちが任官して三年目のこと。

 采女でありながら、当時すでに「見習い女博士」と言って良い立場にあった源博士――当時の呼び名は「伊勢」だった――の執務区画に、当時から私はよく上がり込んでいたのだけれど。

 彼女は初めて任された大仕事、申文もうしぶみの文案作成に没頭していて。


 「申文には定型がある、それぐらいは知ってるでしょう? あなた達は出世が早いんだから、覚えておいても損はないよ?」


 仕事を続けてさえいれば、確実に五位を得られる東豎子。女官したっぱとしては破格の待遇で。

 その手続に関わるのが、彼女が広げている「申文」、すなわち位階の申請書。

 その申文、彼女の文案がいかなる経緯で必要になるか申し上げますと。


 一、女官であっても、五位ですもの。主上から直接に位階を賜る形式わけで。

 二、それすなわち、中務省を通じて文書をやりとりすることを示すわけで。

 三、中務省へ持って行く文書・申文を作成するのは、少納言局の文書作成担当官である外記げきなわけで。

 四、女博士はその外記に、「今年の女叙位では、こちらの女官が位階を申請します。これまでの勤務実績は以下の通り」なる資料を送るわけで。


 いかがかしら? 面倒……もとい、厳格にして荘重なる手続にございましょう?

 これぞうるわしき我が日本の伝統芸、文書行政おやくしょしごとにございます。


 でも外記と言えば叩き上げ男性官僚の登竜門。その勤務実態は激務と言うも愚か。

 だから女博士の段階で、ほぼ完成した文案を持ち上げることになっている。もちろん「作りましたので、ご査収ください」なんて可愛げ無いことは言わないけどね? 損ですもの。「こちら叩き台となっております。形と成していただけますよう、お願い申し上げます」とか何とか、愛想笑いのひとつも添えて。

   

 「女官の位階申請、その文書を作成するのは女博士」とはこの実態を指して言う。

 だから女博士とこじれると、女官は出世が捗らない。意地悪されて微妙な申文を作られたり――そう、たとえば勤続年数の記入をされたりとか?――しちゃうと、中務省あたりで「この者はまだ働きが足りない。申請却下!」なんてことが無きにしも非ず。

 つまり「覚えておいても損は無い」ってのは、伊勢の好意。何かあった時に脇から覗き込んで文句クレームをつけられるよう、最低限の漢字は読めるようになっておけって言ってくれてたのよね。

 

 でも、それってさ?


 「私のために申文を作ってくれる気は無いってわけね?」

 

 私が従五位下を申請するころには、女博士から女蔵人に出世済みって言ってるんでしょう? そこまで積極的だったかしら、この子。

 

 まあ伊勢なら女蔵人までは確実。その上も目指せる。皆言ってるし私もそう思う。

 結構なことよ、叩き上げの幹部職員は多ければ多いほど助かるから。

 私も上を目指すんなら、漢字も多少は分かってないと。せっかくだから勉強しますかね。昇進キャリアアップのための自分磨きは欠かしちゃならねって、高祖母さまばっちゃも言ってたし。

 

 「やる気になった? じゃあこれを見て。恐惶頓首頓首……とか、前後にあるのが定型文。その間に、非定型文を入れて訴求アピールするの」


 細かい字でびっしり埋まった紙に目を凝らせば、見慣れた伊勢の手蹟。 

 先人が作成した申文から該当箇所を引き写したものらしい。

 紙を節約しつつ全部書き写そうってあたりが、いかにも優等生なのよね。

 で、肝腎の内容はと。

 


 「就中掌侍者是激務無双何況労積年積乎」

 (ことに掌侍の激務ぶりは並ぶものが無いほどです。ましてその労が長年に及ぶとあれば)


 他にも、「ことにこの者は出仕してから欠勤懈怠など皆無でした」とか。

 「陛下のご恩を及ぼしても、根拠が無いなどと(彼女を)非難する者はないでしょう」とか。

 何だかガチガチ。でも行政文書ってそういうものか。 


 「こういうのもあるよ」


 苦学寒夜、紅涙霑襟。除目後朝、蒼天在眼。


 「紅涙霑襟」……「お化粧の移った紅色の涙が、えりを濡らす」って意味になるらしい。ずいぶん色っぽいなあ。

 

 「『白氏文集』からの引用だと思う。高く評価されてるんだけどさあ……『紅涙』だけならまだしも『霑襟』に続いたら、『血涙』の意味に読ませるのは筋悪、いえ無理ね。閨怨詩けいえんしの用語としか解釈できないんだ」

 

 閨怨詩。お渡りの無い女が男を怨む、そのさまを詠う詩だそうな。

 どこでも変わらないのねえ、男女の織り成す景色ってのは。とはいえ。


 「むこうの女性は、漢字を書けるんだ。すごいねえ……」

 

 言いさして、自分のマヌケに気がついた。

 漢字って、からの国の言葉でしょ? 母国語なら書けて当たり前じゃない。


 「何か妙な納得したみたいだけど、からの国でも字の読み書きができる女性は少ないらしいよ? だいたい白氏文集って言ったじゃない。作者は白楽天、男です。閨怨詩ってのは、『女が作った体』で『男がものす』詩だからね?」

 

 よくわかった。

 つまり唐の国も本朝も、男はしおらしい女が好きであると。そして都合の良い理想の女を文学にじげんに託す。

 ええ、どこでも男は変わらないってね!


 「『ふみは文集、文選……はかせの申文』なんて言うでしょう? 文章博士が書けば、行政文書にも自ずから現れるものがある。私だって見習いだけど女史、『はかせ』だもの。書いていけないことはない。とは言え……」


 みなまで言う必要は無い、我が同期ともよ。


 「そうね。閨怨、ただ泣き暮らすなんて文言を使うのは、女の矜持が許さない」

 

 大見得切ったけど。いやまあ、その。矜持プライド以前の問題だ。

 女官が閨怨詩を引用するって、行政文書に「お渡り待ってます」って。

 それ、意味が変わってくるでしょうが!


 「そういうこと。だからここはひとつぶち上げようってわけ」

 

 いいぞやったれ私が許す。

 と、そうしてできた文書(非定型部分)がこれ。


 夫身在卑陋而得達者千載一遇、今施之以聖徳鴻恩安不尽恵班孟光之忠乎…… 

 (身分の低い者が陛下のお耳に達する機会自体滅多にないことです。さらに陛下の大いなるご恩を及ぼせば、班昭や孟光のような誠実ぶりを発揮することは間違いありません)


 まだ勉強の日が浅い私には善し悪しがいまひとつ分からなかったけど。毎度忙しい年の暮れを過ごし新年を迎え、女叙位も無事に過ぎてすぐ、噂は聞こえて来た。


 「『なかなかやるではないか』ですって」


 文章生もんじょうせいからの叩き上げ、その学識は当代随一と評される公卿最長老(御年八十歳)、従三位の非参議ひさんぎさまがそう評されたと。


 やっぱり伊勢はできる女だった。

 文は男だけのものじゃない。女房だけのものでもない。下に見られがちな女官だって一流の仕事ができるのよ分かったか!


 「お褒めがあったそうですよ、担当の外記に対して」


 それは違うだろ。

 正直に言いなさいよ。「これは女官が、伊勢が持ち上げてきた文書をそのまま提出したものです」って。

 恥ずかしくないの!? かりにも文書作成を生業……どころか公務にしている役人が、子供の頃から学問に励んでその道で立とうって人間が! 他人の文章パクって、それで評価されて喜べるの? 胸が痛くならないの? 主上への誠意はどこへ行った! 誇りプライドは無いのか!

 

 なんて、小娘が周りに噛み付いたところで簡単にいなされてしまう。

 返って来たのは呆れたような眼差しとひきつった笑顔ばかり。


 「仕事とはそういうものでしょう? 部下の手柄は上司に盗まれるもの、上司の失敗は部下に押し付けられるもの。私たち女嬬はとうに諦めております」

 「良いではありませぬか、女史や東豎子の皆さまはいずれ必ず五位をいただけるのですから」

 

 部下の手柄を盗むなんてどぐされ上司のやることじゃない。だいたいそもそも女博士は、いえ采女だって、外記の部下ではありません!

 でも。二十年三十年の職歴キャリアを重ねた母親世代の「部下」――とは言わないまでも、それに近い存在の人々――から、「恵まれたあなた方と違う私に言われても」なんて匂わされては。任官三年目の小娘は黙らざるを得ない。

 

 憤懣収まらぬまま当の本人である源博士に、いえ伊勢に聞いたところが。

   

 「仕事の目的は達成できた。申文の名義人、闈司みかどの女嬬さま、あのやさしいおばあちゃまが首尾よく従五位下をいただけたんだから。勾当内侍こうとうのないしさまからは『装飾過多。やりすぎです』って注意されたけど、逆に言えばやれるところは見せられた。初仕事だったんだし、まだまだこれからもいくらだって挽回の機会は……」


 長々つぶやいて。それで自分を納得させることができまして?

 挽回は失敗した者がすることでしょう? 実績を上げたあなたがなすべきことじゃない。

 頭は良いくせに、いえ頭が良いから? 聞き分けが良すぎるのよ伊勢は。


 「もう良いでしょ? まだ仕事が残ってるの。二月きさらぎは祭事が多くて日程管理が大変なんだから!」


 遠慮会釈無く背を向ける。それを無礼だなんて思わないのが私と伊勢の仲だけど。

 日ごろ真っ直ぐに伸びているその背中が、やけに丸く小さくなっていたから。言葉を続けられなくなって。


 姫松区画に戻るべく簀子をぐるりと回るうち、何か頭が冷えてきた。物理的に。

 一年でいちばん冷える時期ですものね。当然よ、仕方無い。お庭を眺めれば、雪がちらほら舞っていて。寒い、寒いなあ。さっさと御簾のうちに帰って、私も丸くなれば、きっと。

 手足も妙に震えてきた。だめね、だめみたい。

 

 許せん。だめなのよ、こういうのがまかり通っては。


 何の仕事もしてない……いえ、公平を期しますか。大した仕事をしてない……いえ、「見栄えの良い仕事しかしていない、やろうとしない」女房衆がコネによって、おきさきさまがたの取巻きだってだけで、立后と同時に出世する。見栄えの良い役職を、官位を、俸給をいただく。

 先輩の女嬬に言われなくても分かっています。貴族って、内裏って、仕事が社会がそういうものだってことは。私だって紀家に生まれたおかげで地位を得ているし。


 でも、さ。

 

 まっとうに仕事をしている女官はいつだって蚊帳の外御簾の外、ひと目に触れず誰に記録されることもなく。

 「穢れ」に直に触れざるを得ない掃除かにもりの女嬬、この寒さの中、あかぎれだらけで水桶を運んでくる水取もいとりの女嬬。重い御格子みごうしを朝な夕なに持ち上げては下ろす闈司みかどの女嬬。

 彼女たちは少初位や従七位から、一から地位キャリアを積み上げる。いえ、もう何十年とその位階すら頂けない状況が続いてる。職は官人にありながら無位のまま、勤続五十年六十年。それでも足りず上に欠員が出て初めて中間管理職の「命婦」に、五位に上がることができるのが実情で。

 内裏でまともな「人」扱いされるまで、それだけの年月を働き続け、いえ、生き抜かなくちゃいけないのよ? 激務に流行病はやりやまいに身を脅かされ、命懸けのお産に子育てをしながら!


 女房や男の官人と比較して扱いが悪いとか、そういうことを言いたいんじゃない。

 女官なりの扱いでいいから、評価すべきは評価してくださいってことです。それが管理職の、上に立つ人の仕事じゃないの。貴族なんだから。国を朝廷を主上を支えているんだから。

 上が腐ってちゃ下が腐らずいられるわけない。こんなことが続いたら、誰もマジメに仕事しなくなっちゃう!

 

 外記の過ちを正すべきは誰? その上に立っている人は!

 弁官? 弾正? 公卿? だったら私じゃ何もできない!

 

 「勾当内侍さまに申し入れだ」


 「伊勢が作ったんです」って、男に公卿に主張できる、すべきお立場のはず。

 震える腕に力が入るのが自分でも分かった。その力を脇息に叩きつけ跳ね起きた。


 「職場で何を騒ぐつもりです?」


 母さまに張り倒された。

 いたいけな少女だった私はまだ敵わなかった。いえ、不意を打たれたのが厳しかった。それこそ職場で、いきなり手を上げるか? 


 「騒がなければよろしいのでしょう?」


 再び飛んできた平手は優雅にすかさせていただきます。

 あら母上様、すっ転んで地響きなど立てるのはいかがなものかと。はしたのうございます。高祖母さま以来の教えにしたがい、「主上の身を守護し奉るはただ伝承なるのみにあらず」と。この身に叩き込んでくださったことをお忘れで?

 

 思えば母さまに逆らったのは、いえ逆らうことに成功したのはこれが初めてだったのよね。

 この時は冴えてた。自分で何かをやってやる、何かができるって、初めてそう実感していたからだと思う。私も伊勢も、勤め始めて少し回りが見えはじめる、そういう時期だった。

  


 

 「そうのお琴を習いたい? 何だってまた急に。だいたい今、残業中……」


 「いいから弾いてよ。こういうのはあれよ、かすかに聞こえるのが雅なんでしょ?」


 引きずるようにして、勾当内侍さまのお部屋……はさすがに後が怖いので、そのギリギリまで連れて行く。

 教えを受ける我が身は下座へ、御簾のすぐ側に琴を設置する。


 聞くのは初めてだったけど、いま思い返しても見事な演奏だった。

 勾当内侍さまの養女として育った伊勢は、学問だけでなく女性の教養をひとわたり身につけている。お歌も琴も大の得意。伝手さえあれば女房、おきさき様のお側仕えして気楽に、もとい、立派にやっていける才の持ち主なの。

 ただ褒めるんじゃ悔しいから付け加えると、その代わりに極端な運動音痴で馬の背すら怖がるほどの高所恐怖症。女官は体力勝負だし、女蔵人ともなれば行事で馬に乗ることも多いってのに。

 その点では何の問題も無い私は学問と、何より愛嬌が皆無。

 お互いうまくいかないというのか、うまく回っているというのか。


 曲もたけなわ、伊勢の頬にも赤みがさしていた。気が紛れたみたい。

 後はこれで……。

 

 「つれなき人をひきやとめける」

 (それで男をひきとめられるものですか?)

 

 ほら来た想定どおり! 暇してる公卿が誰か絶対ひっかかると思ってたのよ!

 

 「つまびくおとの……」 


 おっと伊勢さま、返歌などさせませんわよ?

 

 膝元に据えた筝、その絃に桧扇を叩き付ける。

 びいいんと金属音、続けてばつりと嫌な音。

 御簾の外に立つ人影が揺らめいた。


 「はて、あまりにも興醒めな振舞い」


 渋い声。いや、しわがれた声だった。しかもやけに大きい。耳が遠い証。


 「だが他人のことは言えぬのー。わしも盗み聞き、覗き見に来たのじゃし」


 なにを恥ずることも恐れることも無いその態度に言葉づかい。


 「ふむ、ふむ。琴を知る身にあってなお、かようなる振舞いに出る。ことさらになしたるものか。何が言いたい」


 この年八十四になった曾祖母さまを見ていて、年寄りに独り言が多いことは知っていたけど、これはまた強烈だった。この水準にまで達している老人は公卿多しと言えども(多いとは言ってない)ひとりしかいらっしゃらない。非参議さまだ。

 あまりにも老人老人してるから、聞かせて大丈夫かちょっと不安になったけど。でもひとり合点で私の意図にたどりついてるんだし……えい、ままよ。


 「妙なる調べはお耳に達し難きものと聞き及んでおります。声ばかり大きな雑言に遮られがちであるとか」


 「いちおう分かるつもりだが、構わんよ。誤解の無いようあからさまに言いなさい。相手が男なら飾り慎む必要もあろうが、役立たずの年寄り相手に慎みなんぞ不要じゃて」 


 話をしやすいよう配慮してくださっているのだろう。物慣れた方みたい。

 しかし役立たずっておい。自虐しつつも息するようにいやらしいこと言うんだから、貴族の男ってのはもう!

  

 「非参議さまが激賞された女叙位の申文ですが。外記ではなく伊勢と呼ばれる采女が作成したものです」


 采女は大盤所だいばんどころに詰めて主上のお食事お着替えのお世話をするから、公卿ならその姿をしょっちゅう目にしている。「伊勢」とだけ伝えておけば紛れることなく通ずるはず。

 そうよ、伊勢は采女の仕事のかたわら、女博士見習いの仕事にまで精励してた。それできっちり結果まで出したんだから、評価されなくちゃいけない。ご褒美とかそういう実利がなくても、伊勢の仕事なんだって、みんなに知ってもらいたい。


 「なんと。勾当内侍殿のご養女が? それはそれは。ふぉふぉ、いや、ふぁふぁふぁ。これはめでたい」


 やっぱり伊勢を知っていた。さすが文章生からの叩き上げ、歯は抜けてても頭脳と記憶に抜けは無い。

 

 「それにその、まさに断琴の交わりとはまた。いやいや、ふぁふぁふぁふぁ。めでたい、めでたい」


 おじいちゃん、いえ非参議さまは大きな声で笑いながら去って行った。後で伊勢に聞いたら「断琴の交わり」とは「親友」の意味だと、照れ臭そうに下を向きながら。やめてよこっちまで恥ずかしくなるじゃない。

 事実、その後すぐに伊勢は女史に任命され、源博士と呼ばれる身に。

 まさにめでたしめでたし……って、でもそんな話じゃなかったのよねえ。 


 思えば私も若かった。ひとりで空回りしていたってわけ。

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