第2話 女房 その2


 颯爽と背を翻そうとしたところ。

 几帳のむこうからもうおひとかた、ひょっこりと。

 こちらを上目で伺いつつも、少納言内侍しょうなごんないしさまの陰に隠れるようにして、ごしょごしょもぞもぞ耳打ちを。


 ことさらこちらを無視するにしては、開き直りが足りてない。ごまかすにしては笑顔が無い。総じて言えば余裕が無い。と、そのあたりいろんな意味で「若すぎる」。女童めのわらわから女房になったばかりかしらね。

 唐衣からころもの縁取りを眺めるに、やはりけっこうなお家柄のご出身でしょうけど。

 

 ともかく、目の前の私を差し置いて内侍さまと内輪話をしたいなら、その体をはっきり作ってほしい。中途半端な状況を作られちゃうと、こちらもよそ見するなり扇で顔を覆うなり、聞こえてません会話に参加してませんって体をとれないんだから。


 「物忌ものいみはいかがすべきか、内裏のならいを伺いたいとのこと」

 

 少納言内侍さまも仕方ないから私に話題を振ったけど、困ったようなその微笑。後のお説教はほどほどにしてあげてくださいませ。

 しかし妙ね。そこまで気の回る子が、間の悪さで内侍さまを困惑させるか?

 って、その几帳の揺れ。さては女房連中、誰も知らないと見た。それで一番若い子が、「あなたなら知らなくても、聞きに行っても恥にならないから」って。無言の圧力で几帳の陰から弾き出されたのね?

 まあしかたないか。典侍さまが内裏に上がってからまだ三ヶ月経ってない。ここんとこ里内裏もあっち行ったりこっち行ったりで落ち着かないから、いろいろ混乱してるのかも。


 なんて、それで済ませてはいけないんですけどね。

 平安の世を生きる私たちにとっては無視できない問題なんだから。

 死に出会ったら穢れを払わなくてはいけない。具体的には一定期間身を慎むことが求められる。これがいわゆる物忌、めんどうな規範よね。


 その物忌にも軽い重いがありまして。

 例えば、京ではまれによくあることなんだけど。野良犬あたりが人の死骸をくわえて引きずって、それが自宅の床下から出てきたりすれば、三十日の物忌。白骨化してたら物忌不要って本当かしら?

 牛車や徒歩での道すがら、その犬を代表とする六畜(牛馬鶏犬羊豚)の死骸にかち合ったなら物忌五日の決まりだし。

 

 では今回のようにネズミの死骸に出くわしたなら、物忌何日にあたるのかと。

 六畜ではない以上、規定によれば慎む必要は無い。それは女房の皆さまご存じのはずだけど、何せ(里)内裏ですから。お作法お約束ローカルルールの有無を気にしているんだと思う。


 小さな話だけど、バカにしたものでもないんだこれが。

 ネズミの死骸に出会ったとして。もし「六畜に準じて物忌み五日」が内裏でのお作法とされていたらどうします? 勝手に物忌み不要と解釈して死穢を帯びたまま行事に参加したら、女房どころか典侍さままで譴責もの。政治情勢によっては失脚(女御宣下の見送り、典侍解任)の一因にすらなりかねない。


 意地悪するつもりも無いし、内裏に仕える仲間ですもの。知るところをお答えいたします。


 「猫を参じまするに、慎むのであればきょう一日でよろしいかと存じますけれど……内侍司ないしのつかさではこれまで『式』に従ってまいりました」


 「猫の死骸にかち合ったら、その日は物忌みあるいは方違えしておこう」とおっしゃる方は折々見かける。猫より小さなネズミなら、固く踏んで一日物忌しとけば間違い無いってわけ。

 でも内侍司では貞観式や延喜式を厳格に適用している。「六畜でない以上は穢れに当たらない」って解釈ね。

 たかがネズミで内侍司の機能が一日麻痺するんじゃたまらないからって、そこまで現世利益な理由ではないと思うけど。まあその何だ、「猫の死骸にぶつかったから物忌」っておっしゃる雅な殿方よりはがさつであると。そこは言い訳できませんわね。


 人の気配が大きくなった。様子見していた女房衆、几帳の近くまで身を寄せてきたわね? うっすら影が映っている。こちらを窺う目の光が語りかけてくる。


 「なんで私たちも知らないことを知ってるのよ」

 「よく見ればその唐衣。高級とはとても言えないけど、女官の財力で入手できるものかしら」

 「こいつ背えデカイな」


 口にせずとも伝わるもの、そうでしょう?

 皆さま財に飽かせて、いえ、やめておきますか。ともかく、内裏に出仕してくる女房衆はお金もあれば身分も高い。教養深く学がある。だから私たち女官を何かと見下している。分からなくはないんだけどね? 私だって、雑々しき者たちの教養無き振る舞いに目をひそめたりするし。

 でもおよそ蔑まれる側って、視線の意味を知っているもの。

 「値踏み」の目つきも、ね? それは認識を改めた時に初めて生まれるものだってことまで含めて。

 煩わしいけど、その視線は弾いておく必要がある。なめられっぱなしじゃ仕事にならないから。私たちの何たるかは伝えておかないと。

 

 「東豎子あずまわらわは代々お仕えしておりますので」


 式がどうこう言ったけど知識があるわけじゃない。陰陽道に詳しいわけもでない。

 職務経験を引き継いでいるがゆえの「知恵袋」案件だと、それだけのことです。


 ただし、女官なら誰でも答えられるってわけでもない。

 例えばさっきの掃部かにもり女嬬にょじゅ。彼女のお母さんが、娘が掃部とは限らないから。女嬬はあくまで一般採用、割り振りは後から決まるもの。掃除担当の娘が闈司みかど(戸締り)担当になるってこともある。

 もうひとつ、女官なるものが生まれた奈良飛鳥の御世から京に都が移ってきて、四百年が経っている。そのうちには、お家の断絶だってあるでしょう? だから知識の完全な継承はできないんです。

 近年ではまた別の問題があるんだけど……やめときますか、あまり言いたくもないところだし。

 

 その点、東豎子は違う。きの家と阿閉あへ家が何百年と、断絶せずに同じ職務を延々継いで来た。

 だから日常のささいな疑問とか、そういうとこには強いのよ。儀式や政治に関わらない慣習、男が大貴族が記録しようと思わない話なら私達にお任せってね。

 


 断言したのが良かったんでしょうね。

 黙り込んでそわそわしてた女房衆の雰囲気が、一気に落ち着いた。安心したみたい。間違いを言えば無教養だって仲間内で恥をかくどころか、責任問題になるもの。


 責任を負いきれない、その気持ちは分かる。仕事してれば誰しもぶつかる問題よ。

 でも「事なかれ主義」を上にいただくのは腹が立つ。感情論じゃなくて、仕事がやりにくくてしかたない。

 水回り(衛生)、火気、戸締り……。女官の仕事は内裏の安全安心に直結してるんだから。箍が緩んで無責任体制がはびこったら目も当てられない。


 律令体制が崩れて幾星霜、後宮の行政組織体系がぐずぐずになりおおせたいま、女官を管理統率するのは誰なんです?

 世間では女房を女官の上位者と見ている。女房たちもその気でいる。

 なら、それだけの仕事をしてよ。あなたたちが見下している私たちを納得させてみろ!

 

 納得できなかったから、私たち東豎子の紀家は、上昇を目指している。

 置かれた環境・足元を見直して、自分たちはもう少し責任を負うことができる、働けるって気づいたから。

 言うて綺麗ごとだけどね。地位がほしいお給料がほしい、まあそういうこと。

 いえ、もう少し切実かしら。これも皆さんご存じのところでしょう? 京では絶えず貴族の寡占化、家業の専門化が進んでいる。かつて朝廷に籍を置いていた多様な氏族は影もなく、藤から始まる方々が居並ぶばかり。昔は大臣を輩出していたお家がいまや私たちと変わらぬ境遇、四位五位が頭打ちの諸大夫階層に。このまま進んだらどうなっちゃうの?

 それを下から見てきたからこそ。「沈みたくない」って、その一念で。私たち東豎子はもがいてる。

 

 阿閉家の小姫さんにも……まあ良いか、追々で。新社会人なんだし、まずはお仕事に、里内裏に慣れてもらうところから。ネズミ騒動なんて、笑い話にしちゃうのがいちばん。


 「聞いてくださる? 小姫さん」


 意気揚々と、姫松区画の御簾を撥ね上げたところが。

 

 「何たる事です、はしたない!」


 想定よりも四寸高いところから、可愛げのかけらもない声。心臓に悪い。

 恐る恐る目を上げれば、きりりと伸びた背筋、額に青筋。

 忘れてた。お昼時は輪番交替のタイミングだってことを。

 午後からは従五位下・紀朝臣季成おかあさまとのお時間でした。


 遅まきと知りつつ身構えたけど、扇の一撃も平手も飛んでこなかったのは予想外。

 代わりにお声が飛んできた。


 「母娘水入らずでお仕事中のところをお邪魔しております、紀朝臣きのあそんどの」


 お客人がいらっしゃいましたか。

 大柄な母さまの向こうに隠れていらしたとはお人の悪い。

 よりにもよって勾当内侍こうとうのないしさまとは間の悪い。



 ふたりめの内侍ないしさまが出てきたこともあるし、女房とか女官について少しばかり。


 後宮にはあまた女性もあるけれど。皇后・中宮・女御・更衣と来て御息所みやすどころ御匣殿みくしげどのといったおきさき様(いったい何人おはしますやら……いまの主上おかみの御元にはあまり多くはいらっしゃらないようだけど)は別として、女官と呼ばれる人々、その多くは内侍司ないしのつかさに勤めている。

 いろいろと呼び名もあるし、当事者の私たちも使い分けに苦労しているけど。便宜上、公文書準拠ということにさせてほしい。

 つまり内侍司に所属し、尚侍ないしのかみ典侍ないしのすけ掌侍ないしのじょう以下、実働を担当するいわば公務員が「女官」。おきさき様方の私的な補佐役スタッフが「女房」ということで。彼女たちも官位官職を受けたりするからもうわけわかんないんだけど、さ。


 そしていま挙げた方々、尚侍・典侍・掌侍は幹部職員というわけ。

 

 中でも尚侍は別格。陛下のご寵愛を受ける存在で、ほんとうに家柄の良いお方。お姫様に生まれておきさき様になるおっとりした方だから、こまごました事務仕事に携わることはあまりない。女官の私達も顔を合わせることは少なくて、私的な補佐役である女房がお世話をしている。

 いわゆる摂関期からの話らしいけどね。当時の世相を反映している『源氏物語』によれば、「一般論としては尚侍には事務処理能力の高い年寄り、いえ老練なる者が望ましい」とか書かれてる。だけど登場してくる尚侍は朧月夜おぼろづきよ玉鬘たまかずらでしょう? 若くてキレイなお姫様。まさに世の移り変わり、その潮目だったんでしょうね。

 でも摂関家のお姫さまの現実はそんなもんじゃありませんのよ奥様、実はね……って、期待した? ごめんなさいね、そもそも私ら下っ端女官は尚侍さまと接する機会がありませんの。

 だいたい現任の尚侍さま、先々代の主上のおきさき様だった方ですけど。長らくご自宅で病気療養中ですし。

 次席の典侍さまもほぼ同じです。ご寵愛を受ける方や、主上の幼少時に御乳母おんめのとを務めた方が任命される役職ってのが相場。

 要するにここまでは主上の「お身内」なのよ。実働担当の私たち女官とは接点が薄いんです。


 だから「上司」って実感があるのは、権官含めて六人の掌侍ないしのじょうさま。内侍ないしとも言うわね。この方々が事務を切り回している。内侍司(内侍の役所)って、結果論だけど名が体をあらわしてる。


 内侍さまの(他の役所は割愛します)指揮監督下にあって、後宮に勤務している女性が公文書では「女官」と呼ばれている。

 それに対して「女房」は、口語です。房(専門のお部屋)をもらえる上級職員に対する敬称。

 でもね? 尚侍、典侍、掌侍。このあたりまでを女房の皆さまは「上の女房」なんて呼ぶ。私的な補佐役である自分たちは「宮の女房」なんだって。

 お分かりいただけるかしら? 謙遜しているようでも、同じ「女房」に自分たちを分類カテゴライズすることで、「自分たちも上流階級だ」と主張してるってわけ。口の達者な、もとい、言語感覚の鋭い方々ならではよ。

 でも実際、そういう風潮はすでに定着しきってしまった。宮の女房にはおきさきさまの「ご学友」、大臣家のお姫様がたも多いから仕方ない。


 結果、由緒ある公称だった「女官」の名は貶められた。貴族や女房の日記にも、滅多に記述されない。書く価値無し、眼中に無し、「一緒にしないでくださいます?」ってわけよ。皆さま上昇志向が強いと言いますか、何と言いますか。



 ともかく、目の前の勾当内侍さまだけど。

 この呼び名は、「掌侍の筆頭」を意味しています。実務上は女官の頂点と言って良い存在。

 いえ、それ以上ね。内侍は尚侍・典侍を含めたおきさきや御乳母、つまり主上のお身内になれる「ほんとうにひとにぎりのお姫様」を除く、全平安女子の頂点に立つ存在です。

 その位階、権力、お給料……だけじゃなく、主上や公卿との個人的な距離、俗だけど華やかさセレブ感まで含めての話です。牛車にも乗れるし。加えて、ただ身分が高いってだけじゃなく事務を切り回すから、「できる女」感もハンパない。

 女房の皆さん、受領層おおがねもち北の方おくさまですら憧れてやまぬ立場。かの清少納言も「推薦しようか?」って言われて臆面も無く舞い上がっちゃったぐらい。自らに期するところある女性だったってことがしのばれるわね。嫌いじゃ無いな、そういうとこ。

 

 ともかくそういう地位だから、上つ方からの落下傘、押し込みが多いのよ。「清少納言推薦」の例が、いえそれどころか先ほどまで会話していた少納言内侍さまの存在がそれを物語っているでしょう? 典侍さまの補佐として上から押し込みがあって今の地位。


 でも実務を一手に担うその職掌柄、有職故実と後宮事情に精通していなくては、とても勤まらない。だから叩き上げも必ず一定数は配置されている。

 現任の勾当内侍さまがまさにそのお立場、采女うねめからの叩き上げ。

 ちなみにお母さまとは任官同期で同い年、位階も同じ従五位下。

 もちろん「女房」の内侍さまと東豎子とでは天地の差ですけれども。

 采女も含め、私たちみたいに宙ぶらりんな女官については、これまた追々申し上げます。



 その輝ける第一人者・勾当内侍さまが、姫松区画にわざわざ脚を運ばれるなんて。

 何かやらかしたかしらと小さくなる私をひと睨みしておいて、目を細められる。


 「内豎ないじゅさまにも劣らぬ立派なご後継、末頼もしく思われます」


 内豎ないじゅの命婦みょうぶ、それがお母様への敬称。「命婦」にもいろいろな意味があるけれど、女官同士の会話なら「五位を得ている人」の意味でほぼ間違いない。

 

 「お恥ずかしき限り。今しがたの無作法といい、ご迷惑ばかりをおかけします」


 母さまだって人がいなけりゃガバッと御簾を撥ね上げてるじゃないのと。

 そんな内心の愚痴お見通しよね。くすくす笑っていらっしゃるもの勾当内侍さま。


 「いえ、騒動を収め女官の苦境を転じたお手際、なかなかのもの」


 ちょうど出先から内侍司にお戻りになっていた勾当内侍さまと典侍さまの局に伺候した私とは、入れ違いの形であったらしい。

 大騒ぎを避けて同期の友人おかあさまのお部屋に立ち寄り、様子を全て窺っていたと。

 

 「たいへんに良くしてくださいました、朝臣どの」


 お褒めの言葉!?

 

 「が、いま少し手心を加えてはいただけぬものかと」


 お言葉を返すようですが勾当内侍さま。

 そもそも女房衆が私たち女官衆に侮辱を加えたことが発端でしょう!?

 これは仕事に対する誇りの問題なんです。お掃除だって大事な公務、三種の神器を管理する内侍司を清浄に保つことの意義は勾当内侍さまこそご存じのはず。下に見られて良い道理はありません。

 それに私どもとて主上に仕える貴族の端くれ(繰り返すけど母さまは五位ですから!)、位階を受けた内侍所の官人です。ならば女官への侮辱は主上への、朝廷へのあなどりに通じます。見過ごすわけには参りません!

 ……なんて、言えないんだけどさ。褒められた直後でもあるし。

 母さまみたいな暴れ馬と三十年以上付き合ってきただけあって、気を逸らす達人なのよね勾当内侍さま。


 無言で頭を下げるばかり。

 「申し訳ありませんでした」とか言わなくちゃいけないんだけど。口が動かない。

 しくじったなら素直に反省、それぐらいのことはできるつもり。理不尽を飲み込んできたことだってある。これで勤続七年ですもの。

 でもその七年、自分なりに仕事をしてきたからこそ。あそこは曲げちゃいけないところだろうって。だから並居る小姑を、上司の内侍さま典侍さまを向こうに回して、なけなしの勇気で突っ張ったのに。

 悔しいなあ、こういうの。


 「お若い方は……いえ、だから良いのかもしれませんわね内豎さま。私どもも励まされます」


 眩しげに目を細められていた。

 御簾を透かして庭先へ、白く反射する陽光へと視線を送られたのはその後のこと。


 「私からよく言って聞かせます」


 そのひと言に頷くや、ひょいと立ち上がる。

 小柄で細身ということもあるけれど、勾当内侍さまはとにかく腰が軽い。

 お母さまの前では特に。

 

 衣が起こす爽やかな風と共にその背が去るや、雷が。風神雷神?


 「ひとの言葉はきちんと聞くものです。『手心を加えなさい』との仰せですよ?」


 いや手心って。あっちのほうが「強い」のに?

 最前から申し上げておりますが。女房衆と言えば、まずはおきさきさまの「ご学友」、典侍さまの元にはいらっしゃらないけれど大臣家のお嬢様だってこともある。

 そしてどれほど身分が低くても大金持ちの受領の妻子ですよ? かりに位階こそ同じでも、私たちみたいな零細貴族とは違う奥様お嬢様がた。恵まれた環境のもと天与の資質を磨き上げた才媛として、男を相手に堂々と渡り合う人々。


 「分かっていないみたいですね」


 ええ、分かりません。分からせようってなら説明してください!

 なんて、口にせずとも目で分かる。母娘おやこですもの。昔だったら平手が飛んで散々に叱られた。最近だったら取っ組み合いになるところ。

 だけどここは宮中・内侍司。おとなふたり、勤務中に見苦しい姿をさらすわけにもいかなくて。


 似ていると言われる私たち母娘。母さまの面差し、利かぬ気が強いと言われる自分をそのまま見ているみたいで腹が立つ。狭い一角に、背の高いふたりが詰め込まれているのも息苦しくて。


 お互い黙り込んだまま、時だけが過ぎてゆく。

 昼は陽射しが強くてイライラさせられたけど。日が傾いたと思ったら風まで凪いできた。じめじめして! 嫌になる!

  

 灯ともし頃、典侍さまが主上のおんもとへお渡りになった。

 先年までのおきさき様がたの中には、これ見よがしに耀きわたるって方もいらしたけれど。典侍さまは大ぶりな扇に顔をお隠しになっておいでで。

 陰から覗く首筋がほのかな紅に染まっていた。なぜか私の耳まで熱くなる。

 物忌をお勧めしなくて良かったと思う。


 衣擦れの音が去り、吐息をひとつ。

 お局の方から伝わってきた笑い声にため息をひとつ。

 辛うじて舌打ちしなかったのは、典侍さまのお姿が目に焼きついていたおかげ。


 詰めている女房衆、主がいないと一気にだれるのよね。

 勾当内侍さまがいらっしゃらない時の私たちも似たようなものだけどさ。


 人の気配に背を向ければ、御簾の外から湿気の上がる濃い匂い。

 ああ、この様子なら火事は無いと。小さな安堵にまどろんだ。


 その夜のこと。案の定、急な夕立があった。

 雷鳴と雨足の切れ目切れ目に、寝殿より聞こえる鳴弦の音。

 人の立ち働く気配に、体が眠りから徐々に呼び覚まされて。


 鋭い悲鳴に身を起こす。

 まーた恐慌パニックになったヤツが出たらしい。それともかよわい女子を主張アピールしてるのか? 男のいない職場だってのによくやるわ。


 「そうですね、そろそろあなたにも分かるでしょう。参りますよ」  


 お説教以来の第一声は、妙に穏やかだった。

 そう言えば小姫さんが任官するまでは、悲鳴に対応するのは私を除いた老練ベテランの三人で。

 七年目の初仕事に、小さく弾む胸を押さえながら母さまの後ろで歩みを進め。

 そして訪れた典侍さまのお局は深刻な状況だった。



 「波が、波が! 小君さん!」

 「許して近江、許してください!」


 狂乱するふたりの女性を前に、何もできず立ち竦んだ。


 背後の闇から、勾当内侍さまの低いお声。


 「前讃岐国司の北の方、讃岐さま。二艘の船に分乗して京に帰るところ、嵐に遭って。五つになる末の男の子が乗った船、波に飲まれたそうです。……若いほうは元越前国司の姫君、小式部さま。帰京する山越えの際、側仕えの女房がご一緒していた輿から降りて歩いたとか。そこで急な雨に降られ、足を滑らせて。生きていたそうです。でも救助の人を遣わしてはもらえなかった。『たかが女房ではないか。除目じもくも近いのだ、時をこそ惜しめ』、それがお父君の言葉であったと」


 暗闇の中から、困り果てたような声がまたひとつ。

 昼に聞いた声音、少納言内侍さまだった。


 「典侍さまの御許おんもとに出仕するほどの才媛、気も利きますし肚も据わっています。しかし昼に不安な思いをし、物忌にあたらぬとはいえ怯みを覚えながら身を慎んでいるところに突然の嵐で……」


 女房の皆さん、震えていた。

 耳を塞ぎ、床に伏せていた。


 「京に生まれ育ち、一生を姫松として過ごす私たちには分かりようもありません。だからこそ」


 大股で近づいた母さまが、讃岐さまの頬をひっぱたいた。


 「ここは主上のおわす内裏です! そのご威光はあまねく、物怪もののけなど近寄れるはずもない!」


 肩越しに顎をしゃくっていた。小式部さまに一瞥をくれながら。

 反射的に動いてしまう。私はそういう教育を受けてきた。

 

 小式部さまの胸元を掴み、引き寄せていた。

 暴れもがく脚を刈り倒していた。 


 「鳴弦が聞こえぬか! 天兵の衛りぞ!」

 

 母さまは次々と、主上と朝廷の権威を近衛兵衛の頼もしさを口にしていたけれど。

 初めての私には、それ以上は言葉が出てこなくて。

 だから力づくで、後ろから抱え込むしかなかった。自らの髪を毟ったり顔を引っかいたりせぬよう小式部さまの腕を抱え込み、「どうぞお心安く、何も怖いことはありませぬ」と。そればかりを繰り返して。 

 

 夜半、雨が止んだ。

 仄かな月明かりが御簾のうちに注ぐ中、力比べに困憊した小式部さまがようやく寝息を立て始めた。


 強張る二の腕を伸ばしほぐししているところに、いつの間にやら傍らにおいでであった勾当内侍さまの声はやけに硬くて、かすれていた。


 「受領の家に生まれた女性にょしょうはみやこに、後宮に憧れを抱くもの。言葉も通じぬ鄙、狼藉者が跋扈する僻地にあって、友とする人も無く。心細い思いを抱えながら他日を夢見てお歌に管絃に励み」


 ふたりの寝顔を窺い笑顔を浮かべた少納言内侍さまの声は、むしろ穏やかで。


 「そうですわね。女房として典侍さまに仕え、対等にお話のできる知己に巡り合った時の目の耀き。華ある公達と言葉を交わして染まる頬。眺めるたび、他人よそ事ながら嬉しく思われたものです。『ああ、やはり京よ。ようやくたどりついた、これぞ我があるべきところ』……その心の声に、この方ならば典侍さまに背を向けることはあるまいと」



 私達にとって、後宮は日常。

 毎日毎日、身を削って仕事する場所。でも彼女たち女房、特に受領層にとっては。


 「憧れの宮中。みすぼらしきもの、卑しきものが許せない?」


 私のつぶやきに、小さく頷く影がふたつ。


 そう、認めたくなかったんだね。

 猫が獲ってきたネズミを、それをいそいそと片付ける小物臭い自分を。

 きらびやかに輝く、王朝絵巻のひとこまに参加しているのだから。

 身に余る栄華。いえ、身の丈に合った栄光、努力と苦労の末に掴んだ報酬だもの。その身いっぱいに受け止めたいよね。

 つらい思いを埋め合わせるために。犠牲の尊さを証明するために。


 私たちは恵まれている、のかな。


 「朝廷とは、尊卑みなが仰ぐところ。官人は主上のご威光をあまねく知らしめなくては」


 そうね母さま。

 傾きつつある女官の権威。東豎子の誉れ。

 上つ方から見ればちっぽけでも、私たちが守り支え、勝ち取っていかなくちゃ。


 ただでさえ大きな母さまの背中、聳え立つかのように見えた。

 嬉しい話じゃないだろうから言わなかったけど。



 翌朝。

 以前から決まっていた行幸に供奉すべく、内侍司の姫松区画から男装してしずしずと歩み出たところ。


 「えせものの所得る折(くだらん連中が活躍する機会)」


 私たちはその続きを、よーく存じておりますのよ? 「行幸みゆきの折の姫松君ひめまうちぎみ」でしょう? 清少納言のヤツ、ロクなこと言わない!


 女房の皆さまも皆さまよ。

 昨晩あれだけだらしない所を見せておいて、良くまあしれっと嫌味のひとつも叩けるもんよね。


 でも考えてみれば、あの方々が我が身を省みるほどしおらしいはずも無い。

 受領の務めとは「倒るるところに土をつかめ」、有名なところでしょう?

 じゃあその妻は何なのかって話だけど。地方にあってはそれこそまで奪われる民の不満を丸め込み批判を逸らし、京にあってはダンナがせっせと運んできた財産を放り込んだ塗籠ぬりごめの前に居座って溜め込み守り抜くのが仕事だもの。

 受領の妻、女房衆ってのは文雅に生きる才媛である以上に鉄面皮の辣腕経営者だってことを忘れてた。同情して損した! やっぱりあいつらは嫌いだ!



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