エピローグ

 九月一日、始業式を終えて帰ってきた〈浅永朔〉はほとんど泣き顔だった。初めて会うクラスメイトたちの好奇に満ちた視線に参ってしまったのだろう。自室に飛び込んでクローゼットを全開にすると、衣類で埋まったハンガーラックを突き抜けて僕のところに倒れ込んできた。

「もう無理……無理だよ、サク。みんな絶対怪しんでるって」

「心配いらない。高校生はひと夏でかなり成長する生き物なんだ」

「四十センチはちょっと度が過ぎるよ。みんなの名前を知らないのも変だって言われたし、もうおしまいだ」

 弱音を吐く朔を引きずって、僕は隠れ家にしているクローゼットを出た。

「人として生きていきたいんだろう?」

「う、うん」

「君はどこに出しても恥ずかしくない正真正銘の人間だ。六年間眠ってたくらいで浅永朔の名前を捨てちゃいけない。いいね?」

 すると朔は口元を引き締めて、少しだけ精悍な表情になった。

「うん……わかった。やってみる」

 朔は僕に足りないものを持っている。生死をかけた脱出劇と過酷な作戦の中で培われたものかもしれないし、カオリと行動しているうちに感化されたのかもしれない。

 それを言葉で表すなら、生に対して真摯であること。

 仄香は恐ろしいほど生と死に執着していたから、生きることに不真面目な僕を見限った。〈沼の人〉になったことをあっさり受け入れ、身体の変化にはしゃいでいた僕は腹立たしい存在だった。

 でもたぶん、人間でなくなることを恐れなかった理由は他にあるのだ。

 ローテーブルに向かうと数学の教科書を開いた。隣に座った朔は筆記具を取り出す。

「じゃあ、昨日の続きから――」

 貴司も言っていたけれど自分自身というのは最高の教師だ。朔の理解できないポイントを効率的に教えられるおかげで、この一ヶ月、彼は水を得るようにみるみる知識を獲得していた。受験に間に合うかどうかはまだ未知数だったけれど。


 数学をみっちり一時間教えたところでインターホンが鳴った。

 満は今夜のシティ・フェスに向けて早くからリハーサルに出かけている。両親とお手伝いさんも出払っているので、朔に応対させた。階段の陰から相手の顔を確かめようとしていると、出し抜けに明るい声がした。

「朔、大丈夫だった? ――そりゃみんな驚くよね。あははっ」

 どたどたと転がり落ちるようにして階段を下りた。玄関に立っている制服姿の〈五十川仄香〉と目が合う。

「どうしたの、そんなに慌てて」

「ここには当分近づくなって言ってたじゃないか。僕とそいつが入れ替わってまだ微妙な時期なんだ。『小さな高校生』と会ってるのを親とかお手伝いさんに見られたら、変な疑いを持たれる」

 変な疑いってそりゃ何だ、と訊かれたら説明に困るけれど、文句を言わずにはいられなかった。案の定、仄香はひらりと身をかわす。

「疑われたって関係ないでしょ。わたし、朔とは旧知の仲なんだから家に遊びに来るくらい自然だよ」

 そう言われては返す言葉がない。

 僕は自室からキャップと鞄を取ってくると、親しげに喋りながら階段を上がる二人の横をすり抜けて玄関に向かった。すれ違いざま、仄香は意味ありげな目配せをした。

 嫉妬する? ――そう訊かれたような気がして、僕は首を振った。


 そっと家を出て、キャップを目深に被ってうつむきがちに道を歩いた。いまだに力強い太陽がアスファルトの上にくっきりと僕の影を描く。

 最近は雨が降らなかったせいか、川は半ば干上がって、川底のぬかるんだ泥に葦が密生している。横目で川底を眺めながら橋を渡っていると、僕の影を踏む足があった。

 顔を上げると、死んだ男が片手を上げて笑顔を見せた。

「よお、浅永」

「違うよ、サクだ」

 そういやそうだったな、と頭を掻く剣崎は、つい一ヶ月前に昏睡状態から覚めたとは思えないくらい溌溂としている。

「剣崎くんは学校帰り?」

「ああ。これから祝のとこに行くんだ。借りてたCDも返したいし」

 剣崎は消えてしまった四年間を取り戻そうと通信制高校に通っている。中一以降の義務教育を受けていないので大変らしいが、ゆくゆくは大学に行くために頑張っているそうだ。見覚えのない手術痕が残っているので、少なくともひとつは臓器を抜かれているはずなのに、学校通いをするのに支障はないほど健康だという。

 それにしても、剣崎が倫明と親しく付き合うようになるとは予想外だった。倫明が身を挺してトラックを止めたという話を聞いて、命を助けられた恩義を感じているのだろうか。

「倫明のこと恨んだりしてないの?」

 わははっ、と剣崎は豪快に笑った。

「恨むわけないだろ。むしろ俺が謝りたいくらいだ。俺はいつ死んでもおかしくないくらい馬鹿だったし、面白半分で祝に喧嘩吹っかけたのはこっちだからな。かえっていい勉強になった。いっぺん死ぬってのはマジで半端ない体験だよ」

 と、懐かしそうな目で干上がった川を見ている。

 仄香といい剣崎といい、臨死体験を経ると人は変貌するらしい。


〈沼〉から引き揚げられた十六人の少年には、これまでの経緯をかいつまんで説明した後、厳重に口止めして親元に返した。少年たちの家は日本中に散らばっていたが、万由里がバイクで送り届けるのを手伝ってくれたので助かった。誘拐された子供たちが続々と戻ってきたことは一時期メディアを賑わせたものの、子供たちは何も覚えていないと律儀に繰り返すばかりだったので、世間の関心はすぐに逸れた。僕たちまで報道の手が届かなかったのは目下の幸いだ。


 あ、そうだ、と剣崎は思い出したように言った。

「おまえ、今夜のシティ・フェス行くのか? 俺は倫明から誘われてるんだけど」

「僕はいいよ、用事があるし」

「そうか」

 剣崎はどこか腑に落ちない表情をしていた。


 剣崎と別れた後、例の倉庫へ向かった。

 ゲートは鍵が壊され、普通に押し開けられるようになっている。倉庫のドアを叩くと、しばらくして内側から鍵が開き、ネイが現れた。

 髪は濃いブラウンに染め、団子にしてニット帽に隠している。黒いパーカーにジーンズのボーイッシュな装いをしているのは、少年のふりをしたほうが色々と都合がいいからだという。瞳の色を隠すためにサングラスをかけると、もうニューヨークの裏路地にたむろする不良少年にしか見えない。

「今日は金曜日ですが」

「毎週きっかり土曜日にやる必要もないじゃないか」

「つまり、暇なのですね。あるいはどなたかに家を追い出されたか」

 ストリートボーイのネイは真顔でそんなことを言う。敬語はあと百年くらい抜けそうにないけれど、良くも悪くもネイは僕たちとの生活に慣れつつある。

 八月の初め、倫明の母親が戻ってきたのでネイは彼の家を出た。それ以降、この倉庫を棲み処にして「看守」を務めている。

 ネイに先導されて倉庫の中へ入った。一番奥にダンボール箱を高く積み上げてカモフラージュした一角がある。その壁の切れ目から中に入ると、僕は懐中電灯をつけた。

 スチールの棚にずらりと並んだガラス瓶。

 番号を振られた瓶の中では、赤灰色をしたものがリズミカルに身をよじっている。

 どっくん、どっくん――

 鼓動の音は微かでも、こうして一ヶ所に集められると心音は増幅されて、大きな音のうねりに変わる。調和を失ったグロテスクな音楽。

「ディスコーダンス、か」

 作業台の上にあったノートを開いた。ページの上部に日付を書き入れ、ストップウォッチを手にとる。

 さっきの呟きを聞きつけたのか、背後からネイが声をかけてきた。

「ディスコとは踊る場所ですね」

「違うよ。ディスコーダンスは不協和音って意味の英語で――」

〈沼の人〉の鼓動のペースは変化しないから、絶対に足並みは揃わないんだよ。そんなことを説明しながら作業を続ける。

 一番と書かれた瓶を棚から取って、心拍数をノートに記録する。予想していた通り、先週と変化がない。〈沼〉化の兆候がないかと表面を観察したが何も見つからず、二番以降も同じだった。四十二番目まで計測したあとは自分の胸に手を当てる。毎分七十三回――一ヶ月前と同じ数値をノートの最後に記す。

 なんとなく徒労感を覚える。

 ここに隠してあるのは、紗寧子がさらった四十二人の子供たちから生成された〈沼の人〉の心臓だ。これだけの数の〈沼の人〉を解放したところで統制がとれるはずもない。分母が大きくなればなるほど秘密は洩れやすくなるし、オリジナルが存命だった場合、「自分を勝ち取るための闘い」があちこちで発生する恐れもあった。

 そこで僕たちは、四十二人の解放を百年ほど遅らせることにした。どんなに生命科学が発達したところで、百年経てばオリジナルもその知り合いも死に絶えているだろう。オリジナルの人生を守るため、彼らにはしばらく我慢してもらわないといけない。

 そして、先延ばしにした理由はもうひとつある。

「何か見つかりましたか?」

 蝋燭の明かりで本を読んでいたネイが訊いてきた。

「今のところゼロ。ここ一ヶ月は変化がない。ネイだって三年はこの姿だったのに復活できたんだから、〈沼〉化っていうのはものすごく緩やかな変化なんだと思う」

「鼓動の早さは〈沼〉化と関係しているのですか?」

「わからないけど――でも僕は、〈沼の人〉の心臓は〈沼〉になるといきなり止まるんじゃなくて、〈沼〉化につれてだんだんゆっくりになると考えたんだ。今やってるのはそれを証明する実験。これで〈沼〉化に至るまでの期間や条件を突き止められるかもしれない」

「社会に認めてもらうために、ですね」

「社会から消し去るためでもある。どうにもならなくなったら、そのときは僕たちの手で終わらせるんだ」


 一ヵ月前の会議で決められたプランはふたつあった。

 ひとつは〈沼の人〉を社会的に認知させた上で四十二人を解放し、その上で僕たちが社会の表舞台に出ること。公共事業を通して政府と深いコネクションのあるASAホールディングスの、いずれはトップになる朔の権力をもってすれば、〈沼の人〉を社会が受け入れるための法整備を進められる。すぐには難しくても、百年くらい粘ればチャンスは来るはずだ。そのとき〈沼の人〉の細かいデータは交渉に役立つだろう。

 もうひとつのプランが実行されるのは、タイムリミットが来ても社会が〈沼の人〉を受け入れなかったとき。これまで研究してきた成果を総動員して、危険な不良債権を処分する。処分するのは〈要石〉で足止めしている〈沼〉と、四十三人の〈沼の人〉だ。

 さらわれた四十二人と、五十川仄香。

 僕は反対したけれど、二人の意見は覆せなかった。僕たちのあいだに見えないくらい細く、しかし深い溝が刻まれたのはあの会議からだったと思う。ネイを仲介人にして協定を結んだあの日から一ヶ月、二人にはほとんど会っていない。


「仄香さんをなぜ封印したのですか」

 ネイがそんなことを訊いてきた。質問の意図がわからなくて戸惑う。

「それを訊くの? 仄香が修也を殺したからだよ。仄香を罰したのは僕たちの総意だ」

「許すことができない、ということですか?」

「今のところは」

 わたしにはわかりません、とネイは本を閉じて両膝の上に置いた。

「あなたが仄香さんを許せないという、その理由が。サクさんは本当に彼女を憎んでいるのですか? そうだとしたら、なぜ封印したときから仄香さんを復活させる算段を考えていて、今もこうして彼女の〈沼〉化を食い止める研究に熱中しているのですか?」


 僕はたぶん、逃げ続けているのだ。

 大人になって重すぎる責任を負いたくない。何かを選択したくない。いったん決めてしまったが最後、二度と取り消せなくなってしまう選択の数々を、永遠に保留しておきたい。いつまでも無知な子供でいたい。そんな願望がこの運命を呼び寄せたのかもしれない。身体の変化を自覚したときも僕は恐れなかった。目の前にあるのは希望だと知っていたから。

 永遠のモラトリアムにある僕たちは、それぞれの方法で現実から逃避した。

 倫明は他者への暴力によって。

 貴司は利他心とすりかえた利己心によって。

 仄香は断罪と称した殺人によって。

 そして僕は――未熟であり続けることによって。

 僕たちが心から信じ合える日は二度と来ない。互いに生きているスピードが違うと知ってしまったから。醜い不協和音を奏でていることに気づいてしまったから。

 そんな動かしがたい事実すら受け入れたくなくて、目を背けてきた。


「ただ、臆病なんだ」

 自虐的に笑ってみせたけれど、ネイはどんな反応も示さずに作業台のノートをちらりと見た。

「毎分七十三回」といきなり僕の心拍数を口にする。「合っていましたか?」

「……うん、相変わらず変化はなかったよ」

 するとネイは壁の通路から外に出ていき、しばらくして戻ってきた。麻布に包まれた何かを大事そうに抱えている。

 麻袋から取り出されたガラス瓶の内側に、蠢く物体が透けて見えた。

 どっくん、どっくん――

 収縮し、膨張して、存在しない血を懸命に送り出している塊。

「これを計測してみてください」

「誰の心臓?」

「……それを訊くのですか」

 ネイはちょっと呆れたような顔をして作業台に瓶を載せた。中身の動きに目を凝らしながら、僕はストップウォッチを握る。

 一、二、三――

 計測を終えると、ノートの最後に数字を書き込んだ――何度も書いた、その数字を。

「いつから気づいてたの?」

「最初からです。計測のお手伝いをするのは、悪いことですか?」

「いや――本当にありがとう、ネイ」


 そのとき、遠くから規則的なエンジン音と、タイヤが砂利を踏みしだく音が近づいてきた。紗寧子のトラックが時空を超えて戻ってきたような錯覚に陥る。

 足早に倉庫から出ると、正面に一台の軽自動車が停まっていた。運転席の窓が降りて、顔を出したのは万由里だった。

「あ、見つけた。大当たりね、剣崎」

 助手席に乗っているのが剣崎だと気づいてぞっとした。

「世渡さん、さすがに車はまずいよ。しかも人間を乗せるなんて」

「何言ってんの。あんた、自動車免許が何歳から取得できるか知ってるの?」

「十八だと思うけど」

 わかってるじゃない、と万由里は親指で後部座席を示した。

「いいから乗って。あたしはこいつらに頼まれただけなんだから」

 高校二年生は基本的に十七歳だと反論する気も失せて、窓が下りていく後部座席に視線を移すと、倫明と貴司が顔を覗かせた。驚きに身体がこわばる。

「朔、フェスに行こうぜ。悪逆ヒドゥンが出るんだろ?」

 倫明は「サク」ではなく「朔」と呼んだ。

「何で……」

「何でって、ファンだからに決まってるだろ。ここにいる全員な。それともおまえはファンじゃないのか?」

 意図していた疑問への返事ではなかったけれど、それでも胸は温かくなった。僕たちが集まるのに理由なんて要らないのだ。

 ふと思いついたことがあって、彼に向けて手のひらをかざした。

「ちょっと待ってて。荷物を取ってくる」


 数分後、僕は重みのある紙袋を提げてドアから出ようとした。すると、半歩後ろにいたネイが僕のTシャツを無言で引っ張る。ネイは紙袋を指さした。

「解放するのは止めてください」

「わかってるよ。協定を破ったりはしない」

「それなら、何のために持ち出すのですか?」

「何のためでもないよ」

 紙袋の紐を通して微かな振動が伝わってくる。僕と同期するその拍動が、前を向く力をくれた。遠い雨の日に聞いた声が鮮やかによみがえる。


 ――行こう、朔。


 同じスピードで生きる僕たちは、倉庫から一歩踏み出した。

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消滅ディスコーダンス 松明 @torchlight

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