決着

 状況がつかめないのか、カオリは鼻をすすりながらぼんやりした顔で倫明のナイフを見つめている。

 信じられない思いで僕は訊いた。

「カオリを仄香の代わりに?」

「簡単な話だろ。こっちの仄香は修也を殺した。あっちは殺してない。おまえならどっちを許せる」

 とっさに返事ができなかった。確かに、仄香は人を殺しすぎていた。


〈浅永朔〉がわざわざ捕らえた仄香を蘇らせてしまったのは、カオリと離れて不安だったからだろう。もうカオリは戻ってこないかもしれないと怯え、孤独から逃れるために「カオリの代替品」を求めた――それが〈朔〉の最大の失敗だった。見た目に反して精神年齢の高い仄香にとって、馬鹿な小学五年生を操ることなど朝飯前だったのだ。

 まず仄香は、貴司が〈チョーカー〉を嵌められていることを〈朔〉から聞き出し、これをうまく利用できないかと考えた。

 そこで実行したのが、貴司の消滅だった。

 貴司を封印して密室を作ったのは、〈朔〉を超越者に見せかけ、修也を謎の力で死に追いやったと僕たちに納得させるためだ。自分の身の潔白を証明し、たとえ貴司の気が変わって真相を暴露しても、僕たちが「修也を殺したのは謎の男だ」と信じ続けるように。

 

 その後、僕とネイが紗寧子と会ったとき、仄香と〈朔〉は森の中から僕たちの様子を窺っていた。トラックとバイクが去ったあと、倉庫の中で半死半生の裏稼業ペアを見て、仄香はこう囁いたという。


 ――いつか朔もこんなふうに殺されるんだよ。思いっきり苦しめてから、殺される。


 倉庫二階で手に入れたカッターナイフで、仄香は二人の首を切り裂いた。


 ――こうやって、苦しむ前に死んじゃったほうが幸せなのに。


 爆発音と目の前の死体に震えあがっていた〈朔〉に対し、仄香はこう命じた――わたしの心臓を刺して袋にしまったあと、さっき使ったカッターナイフで自殺しなさい。やつらがやってくる前に、と。

 仄香の目的は、修也殺しの罪を謎の男――〈朔〉に着せることだった。自分を封印させたのは、仄香が純粋な被害者であることを印象づけるため。しかし、〈朔〉が自殺できなかったことでその目論見は失敗に終わった。紗寧子と雀部を殺したのは、二人に自分の姿を見られたからかもしれないし、〈朔〉がためらいなく人を殺すことを強調する狙いがあったのかもしれない。

 自分の母親、修也、紗寧子、雀部、そして自殺教唆を受けた〈朔〉――

 人間を何人も死に追いやった仄香に対し、カオリが手にかけたのは〈沼の人〉だけだ。〈沼〉の人間全員を抹殺しようとしたのは事実だが、これは完全に失敗している。

 とはいうものの、カオリがまったくの無罪というわけではない。


「カオリが僕たちを消そうとしてた件は不問? 倫明もずいぶん丸くなったね」

「消去法だ。『仄香』がいなくなったら俺たち全員が困るし、ぶっちゃけ俺、貴司に刺されたって知っても怒りが湧いてこねえんだ。どうせいつか生き返るってわかってるからな。俺たちの命なんて薄っぺらで無価値だ。短い人生を必死に生きてる人間様には及ばない。そういう意味なら仄香の考え方には賛成できる。人間様を殺すようなやつは許せない、って」

 仄香は気づいていたのだろうか。それとも、自分の物差しを信奉するあまり忘れていたのだろうか。彼女自身が憎むべき人殺しとなっていることに。


 ――わたしたちが死なないのにはわけがあるんだよ。きっと、人が死ぬのにも理由があるし、死なないのにも理由がある。それを探さなくちゃ。


 仄香がやっとのことで見つけた「理由」は、人殺しを裁くこと。

 僕にはその答えが間違っていると決めつける権利はない。二人で葬儀を抜け出したあの日から、僕は約束を破り続けていたから。安穏とした日々にかまけて、「理由」を探すことなんてすっかり忘れていたから。仄香を失望させたのがすべての発端だとしたら、責任の一端は僕にある。

 床にあおむけになった仄香はもう冷たい仮面を外していて、素顔を剥き出しにしていた。それは「殺される前」の彼女――死の恐怖に直面して心が歪んでしまう前の五十川仄香。

「やめて……お願い……」

 仄香が瞬きすると、光る涙が目尻からゆっくりと流れていくのが見えた。小さな水滴は頬にたどり着く前に煙となって、また彼女の身体に戻っていく。エッシャーの無限に循環する滝のように。

「こんなところで終わるなんて嫌だよ……朔」

「また会えるよ、いつか」

「本当に?」

「僕が――僕たちが、君を許せる日が来たら」

 その日はいずれやってくるだろう。永遠に憎むことは永遠に生きることより難しい。

 倫明は刃渡り十五センチのナイフを一気に仄香の胸へ沈めた。肉を断ち切る無残な音。

「ありがとう」

 誰に向けられたものなのか、そんな感謝の言葉を残して仄香は消滅した。


 ナイフの刺さった心臓を無造作にビニール袋に放り込み、倫明は呟いた。

「おまえはやっぱり甘いな。いろんな意味で」

「そうかな……」

 確かに罪人にかける言葉としては優しすぎたかもしれない。でも、どうしても厳しい言葉を投げることはできなかった。僕はカオリをナイフで刺すことに何度も失敗している。倫明が代わりにやってくれなければ、またナイフを手放していたことだろう。いつでも迷いなく行動してくれる倫明に感謝しなくてはいけない。

 深呼吸をした。〈沼の人〉にとっては何の意味もない行為だけれど、そうしなければ何か熱いものに溺れてしまうような気がして、思い切り吸って、吐き出した。

 それから、カオリに向き直って宣言する。

「そういうわけで、今日から君が『五十川仄香』だ」

「そんなのって――いいの?」

 カオリはこれが悪質な冗談ではないかと疑っている様子だった。有罪判決を受けて長いあいだ幽閉されていたらいきなり釈放されて、しかも長年の悲願だった代物をただでくれると言われたら、確かに怪しむだろう。

「いいも悪いも、君に拒否権はないんだ。五十川仄香を演じて生きていく義務がある。それが釈放の条件」

「……わかった」

「できる?」

「もちろん。こう言っちゃうと身も蓋もないけど、願ったり叶ったり」

 その表現がおかしくて僕はちょっと笑う。そして、改めて思う。

 目の前の彼女は、僕の知る五十川仄香じゃないんだ、と。


 その後、倫明の手でカオリの心臓から針金が取り除かれた。腹の穴に手を突っ込んでペンチをぱちん、ぱちんと鳴らす倫明は、さながら熟練の外科医のようだった。

 処置が終わると、まだ温もりの残る仄香の服を着せた。長袖のシャツに膝下まであるロングスカート。本人なので当然だが、違和感なく似合っていた。

「これで、終わりか」

 貴司がおずおずと言い出すと、倫明が軽口を叩く。

「どうした、やっぱり俺も罰を受けたいって?」

「ば、馬鹿言うな。俺は〈沼〉の行方が気になっただけだ。……朔、〈沼〉を封じ込める手段があるって言ってたよな。具体的にどうするんだ?」

 封じ込めの手段を知りたいというのは建前で、貴司はとにかくオリジナルを回収したいのだろう。

「携帯だよ。〈沼〉が逃げ出したとき、スマートフォンをあの中に投げ入れたんだ。位置情報検索サービスを使えばインターネットで居場所を調べられる」

「なるほど、そういうことができるのか」

「うん。実際、見つかったからね」

 ほ、と貴司は口を半開きにした。

「本当かそれ。どこで見つけた」

「結構遠かったから大変だったけど、山奥の洞窟の中にいたよ。〈沼〉は洞窟の一番奥で心臓入りの瓶を呑み込んでた」

「それってまさか、紗寧子の心臓置き場か?」

「みたいだね。ざっと数十個はあったし。ひょっとしたら、〈沼の人〉がたくさん集まってることを察知して、〈沼〉は洞窟にやってきたのかもしれない」

「俺たちのほうじゃなくて、洞窟を目指したのはそれが理由か。だが、何で〈沼の人〉が多いほうにやってくるのかはわからないな。心臓を呑み込んでたってのも妙な話だ」

〈沼〉は完璧な人間を作りたいのだと紗寧子は考えていたが、そんな高度な自我を備えているにしては〈沼〉の行動は単純だ。人間を呑み込んでコピーを作る。それだけを観察すれば原始的な生物に思える。

「単なる想像だけど、〈沼〉が〈沼の人〉を作り出すのは植物と同じ理由だと思う。〈沼の人〉は〈沼〉の作り出した移動性に優れた種子だ。そして、いつか芽が出て〈沼〉になる。そうやってあれは繁殖してる」

「それじゃ俺たち、寿命があるってことか?」

「そうとも限らない。〈沼〉の状態っていうのはかなり不利な形質だ。目がないし手足もない。それよりは人間の姿のほうが生き延びやすい。動けなくなったり、原状回復の見込みがなくなったりしたとき、仕方なく〈沼〉に変化するんだと思う。死なない以上、増殖を焦る必要はないからね」

「わかるような、わからないような説明だな」

「〈沼の人〉は五感を使っていないとだんだん衰える。目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったり――それって半分〈沼〉化してるんじゃないかな。外部からの刺激がないのは、まともな状況にないから。地面に埋まったり心臓に杭が刺さったりしてるからだって身体が判断するんだ」

 ネイが〈沼〉化していなかったのは幸運だった。金庫から出たときは視覚と発声に衰えが見られたが、その他の機能は正常。〈沼〉化にどのくらいの年月を要するのかは不明だが、地震が来て心臓の杭がずれていなかったら危なかったかもしれない。

「〈沼の人〉は〈沼〉の繁殖のために必要な子供。たくさんの子供たちが一ヶ所に囚われているのを察知して、助けに行ったんだ。手足がないなりに彼らを救い出そうとして瓶を呑み込んだ」

「で、どうだったんだ、中の人間は」

「見たところ、みんな怪我はないみたいだった」

 貴司はあからさまにほっとした表情を浮かべた。

「そりゃよかった」

「全員引き揚げて家に帰すのは一人じゃ大変だから、みんなの力を借りたいんだけど」

「もちろんオーケーだ」

「あと……ごめん、最初に言っとくべきだったけど、貴司と倫明のオリジナルはいなかった。もう移植に使われたんだと思う」

 貴司の満足げな顔は一瞬で凍りついた。

「朔、何で謝るんだ?」倫明は皮肉な笑みを浮かべた。「オリジナルなんていないほうが都合がいいってのに。それにしても、おまえのオリジナルはよく六年も殺されなかったな。気に入られてたのか?」

〈朔〉の身体には縫合の痕はなかった。臓器を切り取られてもいなかったのだ。

 紗寧子は冷酷なまでに合理的な人物だった。そんな彼女が限りある〈沼〉のスペースを割いて子供一人を延々と――ドナーとして活用せずに生かし続けるわけがない。

 縫合の痕がない代わりに、〈朔〉の腕には無数の「注射痕」があった。

「僕のオリジナルは『血液農場』だったんだと思う。僕の血液型はかなり珍しい型で、血液センターにもほとんどストックがないんだ。僕の身体は臓器より血液のほうが商品価値が高い。臓器を抜いて殺してしまうより、何十年も稀血を採集できる農場として生かしておいたほうが得だと考えたんじゃないかな」

「なるほど、こいつは運がよかったんだな」と倫明は〈浅永朔〉を見上げる。「で、こいつをどうするんだ。また血液農場にするのか?」

「紗寧子の真似事はしないよ」

 胸のどこかにちくりとした痛みを感じた。覚悟はとっくに決めたはずなのに。

 今、声に出さなければ機会を逃してしまう――決断を下すチャンスを。

 自分が自分でいられるのはこの瞬間だけなのだから。

「決めたことがあるんだ――」

 ようやくたどり着いた「理由」を、僕は話し始めた。

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